AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

Taxi Driver

老人との共生は社会を変質させる

 人間が長生きになるとともに、人口が減少してくると、当然、人口全体に占める老人の割合が相対的に増える。もちろん、老人がいつまでも若々しければ、そこには何の問題もない。(いや、老人が元気すぎることに何の問題もないわけではないが、それはまた別の話である。)しかし、人間は、年齢を重ねるとともに、気力、体力ともに少しずつ衰えることを避けられない。そして、そのせいで、社会は、さまざまな問題を抱えることになる。

 以前、次のような記事を書いた。


老人の行動は一切制限してはならないのか 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

私の自宅から最寄り駅までは、1キロ強の距離がある。私は、電車通学を始めた中学生のときから、今の家に住んでいるあいだはずっと、最寄り駅に行くのにバスを使うのを習慣としていた。しかし、最近は、バスにはできるかぎり乗らず、駅まで歩くようにしている。健康のためで


 この記事で書いたのは、ある程度以上老人の数が増えると、社会全体のシステムが老人の行動に最適化されてしまうこと、したがって、老人専用の空間というものには、下の年齢の者たちを寄せつけない独特の雰囲気があること、高齢者による自動車事故が多発することで、公道の秩序が老人に最適化されるおそれがあることなどであった。

 老人に最適化されているのは、物理的な空間の秩序ばかりではない。老人が公共の空間に氾濫し、既存の秩序を動物的な仕方で変質させて行くよりもはるか以前に、政治的な意思決定の秩序は、老人によって完全に乗っ取られている。これは、一昨年(2015年)5月に行われたいわゆる「大阪都構想」をめぐる住民投票の結果によって誰の目にも明らかになったことであろう。老人の投票行動が政治的な意思決定に強い影響を与えるというよりも、むしろ、「老人的なもの」が政治を飲み込み、変質させてしまったと考えるべきである。

シルバー民主主義|新書|中央公論新社

「心身の衰弱」という暴君が人間的な社会を破壊する

 単なる既得権益、単なるイデオロギーが問題であるなら、これを克服する道はいくらでもある。モラル、道理、常識に訴えて社会から不公正を排除することもできるであろう。あるいは、法の力によってこれをねじ伏せてもよい。しかし、「老人的なもの」を斥けることは容易ではない。なぜなら、社会における老人に固有の行動や意思決定は、主に心身の衰弱という物理的、生理的な事情を原因とするものだからである。心身の衰弱は、すべての老人に共通の現象であるけれども、老人の「せいで」発生するものではないことは確かである。そして、心身の衰弱が老人の責任ではない以上、老人を説得したり、特定の行動を法律によって禁止したりしても、心身の衰弱がこれによって解消されるわけではない。(そもそも、心身の衰弱は、民主主義の基盤となる責任ある主体そのものを溶解し動物化し、政治というものを単なる調教の実践にすぎぬものに変えてしまう。)

 心身の衰弱が動機であり根拠であり理由であるかぎり、その行動に異議を唱えることはもはや誰にもできない。空間の秩序と政治の秩序が老人的なものによって侵蝕され、すべてのものが「心身の衰弱」という――あらゆる責任を免れた――一切の交渉を許さぬ暴君に屈服して行くとともに、社会における本当に人間的な領域、民主主義のための領域もまた縮小せざるをえないのであり、私たちの社会は、誰も責任をとることができない物理的、生理的な事情によってその秩序が歪められる危険にさらされているのである。この危険は、民主主義社会にとって重大なリスク、しかも、人類の歴史において民主主義が初めて抱えるリスクであると言うことができる。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

The worn ballet shoes

他人の模倣には重要な意味がある

 私たちは一人ひとり、かけがえのない存在である。この世に生れてきたからには、誰もが、自分にしか成し遂げることのできない何らかの課題を背負っていると考えることは自然であり、楽しくもある。

 しかし、私がこの世でなすべきことが何であるのか、さしあたり、私にはわからない。というよりも、自分の進むべき道が生まれながらに分かっている人間などいるはずがない。自分が何をなすべきであるのか、自分がどちらへ歩みを進めればよいのか、生まれたときから分かっていた、などと豪語する人間がいるとしたら、そのような人間は、他人に対して嘘をついているか、自分の嘘を自分で信じ込んでしまったかのいずれかである。

 そもそも、自分自身を発見するためには、これを何らかの仕方で表現することができなければならないが、生まれた瞬間に自分自身の内面を表現する語彙――言葉とは限らない――を持っている人間などいない。つまり、自分の課題や使命は、アモルフな状態で各人のうちに眠っているのであり、このアモルフな内面を表現する語彙は、外から調達しなければならない。つまり、他人の模倣が絶対に必要である。何らかの事柄に興味を持ち、これを習得することによって、みずからの内面に表現を与える語彙を獲得し、そして、これを表現することができるようになって行くのである。

 たとえば舞踊の場合、練習を積み重ねることにより、身体の動かし方の文法を身につけ、自分の身体をどのように動かすべきか、一々考えなくても身体が自然に動くようになり、その結果、見る者に次の瞬間の姿を予想させるような滑らかな曲線的な動きが可能となる。絵画でも、音楽でも、詩でも、書道でも、事情は同じである。すなわち、模範となるものを繰り返し模倣することにより、自分を表現するための言葉や技術が身につくのであり、このプロセスを徹底させ、場合によっては、自分が模範とするものになりきることができるようにならないかぎり、自分自身を表現することなど不可能である。

模倣しているという自覚がなくなったとき、本当にオリジナルなものが生まれる

 しかし、表現のための語彙を身につけ、模範とすべきものを巧みに模倣することができるようになるとともに、私たちは、模倣しているという自覚を少しずつ失い、いつのまにか自分の内面を自由に表現することができるようになる。模範とすべきであったものから無理に身を解き放ち、オリジナルなものを追求するというよりも、模範とするものが完全に消化され、これとは異なる新しいものが産み出されるのである。自分のなすべきこと、自分の課題、自分のかけがえのなさ、自分の使命……、しかし、逆説的なことに、自分のオリジナリティを表現する手段は、つねに他人から手に入れなければならないことになる。

 しかし、自分のオリジナリティが模範の完全な消化によってしか表現されえぬものであるからこそ、このオリジナリティは、理解可能なものとなり、共有可能なものとなる。言い換えるなら、それは、歴史的なものとなり、社会的なものとなるのである。私たち一人ひとりの本当の意味でのかけがえのなさというのは、「何とも似ていない」ことを意味するのではない。むしろ、それは、「模範となったものを想起させるが、決してその模範と同じではない」点、いや、正確に言うなら、「模範となったものの新しい解釈」あるいは「模範となったものの評価を不可逆的な仕方で変容させるものである」点に見出されねばならない。

 もちろん、世の中には、「何とも似ていない」がゆえにオリジナルであると評価されるものがないわけではない。しかし、そのようなものが産み出されるのは、大抵の場合、1回かぎりであり、偶然の産物であり、したがって、これを産み出した人間に認められるはずの「かけがえのなさ」とは何の関係もないと考えるべきである。そして、自分にしかなしとげることのできない何ものかとは無縁の、しかし、ある意味ではオリジナルなものを産み出した者は、自分の内面を正しく表現する語彙を手に入れる機会を奪われているのであり、このかぎりにおいて、不幸な存在であると言うことができる。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

日の丸

右翼の変質か

 今朝、次のような記事を読んだ。

日本第一党がアパホテルで結党大会 きょう26日午後(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

 また、これに関連して、次のような記事を見つけた。

日本第一党のアパホテルでの結党大会を紹介した神奈川新聞の記事に「目の敵にしてる感凄い」の声 | BuzzNews.JP

 私は、個別の政治的な問題について論評することはあまり好きではないが、これについては、簡単に書いておきたい。最近、「右翼界隈」で気になるニュースが多いからである。

 時間の順序を無視して気になった方から並べると、

    • 第1に「ニュース女子」の問題、
    • 第2にアパホテルの客室の本の問題、
    • 第3に森友学園の問題、そして、
    • 第4に、上の記事が取り上げた問題が特に目を惹く。

 これらのうち、第3の問題は、大手のメディアですでに報道されていることがすべて事実であるなら、正確には、右翼の問題というよりも、自称右翼による詐欺事件であり、政治とはさしあたり関係がない。

 また、第2の問題は、基本的には外国の問題であり、わが国とは関係がない。南京大虐殺に関し中国の主張するところが基本的にすべて虚偽であることは、今さら誰かに教えられなくても、日本人ならみな知っていることであるし、また、「ユダヤ人の陰謀」云々に真剣に言及している(と報道されている)「歴史書」など、最低限のリテラシーを具えた人間なら決して手をのばさないはずである。

 しかし、その他は、現在の社会の深刻な状況を反映するものと見なされるべきであるように思われる。

これは愛国者の団体なのか

 政治的な問題について発言する資格が自分にあるかどうか、簡単に確認する方法がある。すなわち、「私は愛国者です」と自分に向かって宣言することができる人は、政治的な問題について考えたり発言したりする資格がある。この場合、「愛国者」の定義は問題ではない。自国を大切に思う気持ちを持つ者、自国への愛情や敬意を動機として行動することができる者はすべて「愛国者」を名乗る資格があると私は考えている。

 そもそも、政治が決めなければならないことはただ1つ、「わが国をどうするか」ということに尽きる。したがって、日本に愛着がない人間は政治を語ってはならない。「私は日本を愛している」と胸を張って言えないような人間が政治に口出ししても、日本を好ましい方向へと変化させることは期待することができるはずがない。これは、誰にでも明らかなことであろう。カレーの嫌いな人間が経営するカレー専門店で美味いカレーに出会う可能性が低いのと同じことである。(「共産党」という政党がアメリカで非合法化されているのは、共産主義が国家という枠組を認めないからであり、現在の中国やかつてのソ連が典型的に示すように、本質的に帝国主義的、独裁的、権威主義的、反民主主義的だからである。)

 しかし、少なくとも私の見るところ、「在特会」の行動は、いかなる意味でも愛国的ではなかった。いや、それ以前に、政治的ですらなかった。政治とは、意見を異にする者たちとのあいだのオープンな議論によって、全員が受け容れられるような合意を時間をかけて形成して行くことがだからである。在日韓国・朝鮮人を街頭で動物的に誹謗中傷することは、本来の意味における政治に対する敵意の表現でしかない。

 在特会は、右翼でも保守でもなく、ルサンチマンと憎悪を古典的かつ安直な手段で煽るだけの狂信者の団体であり、彼らの主張することが事実に合致しているかどうかには関係なく、この意味においてすでに社会の脅威であった。この認識は、社会の広い範囲において共有されていると私は思う。だから、上に掲げた「神奈川新聞」の記事が反映する危機感は、ごく自然なものであり、多くの読者によって違和感なく受け容れられたはずである。

政治空間の溶解

 私は、自分が基本的には保守派であり、この意味では政治的に右寄りであると考えている。現在の自民党政権が進める政策を――細部については疑問や批判があるけれども――全体としては肯定的に評価している。憲法改正には賛成であるし、自衛隊は、当然、軍隊に格上げされねばならない。短期的なエネルギーの需要を考えるなら、原子力発電所を再稼働させないなど、考えられない。また、少なくとも義務教育の段階では、愛国心の涵養は大切な課題であろう。さらに、韓国、中国、アメリカなどへの対応も、おおむね支持しうるものである。(なお、私の同業者のあいだでは、現政権を基本的に支持する者は少数であり、これをあからさまに表明すると、珍獣扱いされかねないが、国民全体では、現政権の支持者は多数派であるに違いない。)

 それでも、在日外国人に対する憎悪を煽る団体が、決して国民の多数から支持されることはないとしても、弱火で燃え続けるコンロの火のように、いつまでも社会の片隅でくすぶり続けていることに、私はある種の気味悪さを覚える。(これは、一部の外国政府の支援を受けて活動する極左の各種団体の気味悪さに似ている。両者の表面的な主張のあいだには何の接点も認められないけれども、無責任に国民を煽って支持者を集めること、場合によっては暴力に訴えることなど、そのパターンには共通点するところが少なくない。両者は、イカとタコのような間柄だと考えることができる。)

 選挙によって作り出される勢力図を見るかぎり、今のところ、国民の大多数は、自民党よりも「さらに右」を望んではいないようであるけれども、将来はどうなるか、私にはよくわからない。「さらに右」の支持が国民のあいだに広がるとき、社会は、健全な議論のための政治空間をすべて失い、本当の危機に陥るに違いない。だから、私たちは一人ひとり、どれほど「きれいごと」であると言われようとも、中庸と節度を大切にして、公論の形成という旗を掲げ続けなければならないのだと思う。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

The Book Club Weekly Meeting

カスタマーレビューの罪

 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。

 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、ある危険を避けることができない。というのも、アマゾンの個別の商品のページには、「カスタマーレビュー」を書き込むことができるからであり、このレビューをウッカリ読んでしまうことがあるからである。私は、カスタマーレビューは、できるかぎり読まないことにしている。(同じ理由によって、ブクログや読書メーターに掲載されている書評も読まない。)何と言っても、少なくとも私の場合、ある本を手にとって読むときに必要なのは、その本が私のためだけに書かれたものであり、私が読むのを待っていると信じ込むことができることだからである。

 「この本は私のためにここにある。」「私が読まなくて誰がこの本を読むのだ。」「この本の本当のメッセージがわかるのは私だけ。」齢のせいなのかどうかわからないが、最近は、このように思い込むことができなければ、書物、特に新刊書を最後まで読み通すことができなくなっている。そして、(同じ本が何万分も印刷されているという事実を忘れ、)このような妄想を身にまとうことが読書の不可欠の前提であるかぎり、アマゾンのカスタマーレビューなど、邪魔者以外の何ものでもない。おおぜいの他人によってすでに読まれた本など、買う気にすらならないことが多い。

 当然、私は、他人から読むようにすすめられた本は、原則として読まない。私に本をすすめてくれる人は、その本が、誰にとっても読むに値する者であると信じているのであろうが、それはやはり、ある観点から価値を認められた本にすぎず、この観点は、私自身のものと完全に一致するはずはない。

 どれほど有名な古典的な作品であっても、私は、原則としてひとりで読む。読むに値するかどうかは、私がひとりで判断する。有名だから、古典だから、よく読まれてきたから……、このような事実をすべて忘れるとき、私は初めて自分が作った読書空間の王となり、著者が私に向かって一対一で語りかけてくれるように思われるのである。

 このようにして獲得された読書の経験は、自己形成の手段であり、このようにして形作られた経験は、私の心を皮膚のように覆うことで私自身を形作る。それは、ながい年月をかけて、少しずつ形成されてきたかけがえのない皮膚なのである。

ソーシャル・リーディングの怪

 この観点から眺めると、読書会、あるいは、サイバースペースを活用した読書会としての「ソーシャル・リーディング」というのは、私にとっては謎でしかない。というのも、これは、自分の皮膚を他人と共有するようなものだからである。

 たしかに、私が読んだ本について、別の読み方が可能であることを知ることは、それ自体としては有益である場合がないわけではない。しかし、読書会によって明らかになるのが他人の意見にすぎないことは事実である。

 むしろ、読書会は、読書の経験のかけがえのなさを剥奪し、私のことを幾重にも覆っていた皮膚を剥ぎ取り、そして、私自身の弱弱しい存在を多くの人の目にさらすことにしかならない。読書の目指すところが本来の私へと向かう自己形成であるなら、読書会の目指すところは、自分を何者でもない存在、退屈な「匿名の読者」へと作り上げることに他ならないように思われるのである。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

classroom-2093744_1920

待遇を考えるべきなのは「専業非常勤講師」

 何日か前、次のような記事を見つけた。

非常勤講師が雇用確認申し立て 東京芸大は「業務委託」:朝日新聞デジタル

 大学の非常勤講師の身分をめぐる問題は、何年も前から、繰り返し報道されてきた。私の好い加減な記憶に間違いがなければ、「高学歴ワーキングプア」の問題、5年未満での雇い止めの問題、そして、今回の問題が特に大きく取り上げられていたように思う。もちろん、新聞には載らないような小さな出来事は無数にある。詳細は、上の記事で言及されていた首都圏大学非常勤講師組合のホームページで公表されている。

首都圏大学非常勤講師組合

 非常勤講師の給与が低く抑えられたり、コマ数を減らされたり、雇用――原則として1年契約――が更新されなかったりすることには、大学や学術研究をめぐる社会的状況に関する複雑な事情や思惑があり、これを簡単に説明したり解決したりすることはできない。しかし、このような措置が非常勤講師の生活に直に影響を与える可能性が高いことは事実である。そこで、この点に関し最低限の事実を整理し、その上で、私が問題と考えるところを簡単に記したい。

 もともと、非常勤講師というのは、自分の大学の専任教員ではカバーすることのできない分野の専門家を外部から招聘し、専門分野を講義してもらうために設けられた身分である。したがって、非常勤講師として想定されていたのは、すでにどこかの大学の専任教員――つまり「本務校」がある――研究者であった。だから、同じ非常勤講師が何年にもわたって同じ大学で授業を続けて担当すること、まして、非常勤講師の給与で生計を立てることなど予想されてはいなかったのである。

 ところが、現在、大学で非常勤講師の身分にある者のうち、かなりの部分が本務校を持たず、非常勤講師の給与に生計を頼っている。また、大学の方も、このような非常勤講師を、授業を担当する単なる労働力と見なしている。本務校を持たないこのような非常勤講師は、一般に「専業非常勤講師」と呼ばれている。上の記事の後半でコメントが紹介されている北村紗衣氏は、形式的には、本来の意味における非常勤講師であるが、同じ記事の冒頭で取り上げられている川嶋均氏は――私の認識に間違いがなければ――専業非常勤講師である。そして、大学の非常勤講師に光が当たるたびに問題となるのは、専業非常勤講師の方である。

 すでに何十年も前から、非常勤講師のシステムは、現実の要求から乖離し、変則的に運用されてきたと言うことができる。大学の教育、特に、その基礎的な部分――専業非常勤講師の大半は外国語の授業の担当者である――が不安定な生活を強いられた教師によって担われているという現状は、日本の高等教育の将来にとり、決して望ましいことではない。(東京の私立大学の場合、1人の学生が入学してから卒業するまでに履修した語学の授業の担当者がすべて非常勤講師であったということは決して珍しくない。)これは、何らかの仕方で改善されねばならない事態であるに違いない。

「研究者番号」を付与する対象を拡大すれば、「貧すれば鈍する」はある程度まで避けられる

 非常勤講師は、給与が低く抑えられ、身分が不安定であるばかりではない。大学の専任教員には与えられているのに、非常勤講師には与えられていないものは少なくない。非常勤講師には研究費が支給されず、教授会に出席する権利もなく、また、ほとんどの大学では、大学が発行する学術雑誌等の刊行物に執筆する権利もない。さらに、たとえば上で紹介されている東京大学のように、電子ジャーナルや図書館へのアクセスが制限される場合もある。

 とはいえ、専業非常勤講師の状況をさらに深刻にしているのは、次の点である。すなわち、特に文系の場合、大学院生のときにはほぼ無制限にアクセスできていた大学のリソースから切り離されてしまうことにより、(本業であるはずの)研究活動が停滞し、そのため、専業非常勤講師の地位から抜け出すことが困難になるという点である。これは一種の悪循環であり、専業非常勤講師になってからの年月が長くなるほど、(研究歴の長さに反比例して)大学の専任教員になる可能性が低くなるのである。(理系の場合は、そもそも、大学に所属していなければ、研究の遂行自体が不可能である。)大学の専任教員なら、給与とは別に黙っていても与えられる最低限の研究資金すら、専業非常勤講師は、少ない給与の中から捻出しなければならないのであるから、「貧すれば鈍する」ようになるとしても、無理のないことであろう。

 さらによくないことに、大学の専任教員と非常勤講師とのあいだのこのような境遇の違いは、文部科学省によって追認、固定されているように見える。

 日本学術振興会(と文部科学省)は、「科学研究費補助金」(いわゆる科研費)を交付することにより、学術研究を支援している。その総額は、下のページに記されているように、年間二千億円を超えている。これは、「競争的研究資金」と呼ばれるものの大半を占めており、この数字を表面的に見るなら、政府は、高等教育や科学技術振興に十分な資金を投入していると言うことができないわけではない。

科研費データ | 科学研究費助成事業|日本学術振興会

 しかし、このように潤沢に用意されているはずの科研費を申請し、他の研究者と競い合って研究費を獲得することができるためには、1つの条件がある。それは、文部科学省から「研究者番号」を付与されていること、そして、「所属機関」を持っていることである。研究者番号は、原則として、高等教育機関(大学、短期大学、高等専門学校等)に研究のために雇用されている者にしか付与されないから、所属機関があることと研究者番号を持っていることはほぼ同じである。(とはいえ、研究者番号は「一生もの」であるから、所属機関を離れても失われるわけではない。)

 科研費の申請書類には、必ず研究者番号を記入し、所属機関を通じて書類を提出しなければならない。(2017年2月現在では、)研究者番号を持たず、所属機関を持たない者には、科研費を申請する権利がない。当然、専業非常勤講師は、大抵の場合、研究者番号を持たない。(どこかの大学を定年退職したあと、非常勤だけを続けている者は除く。)研究者番号を持たなければ、競争的研究資金を獲得することはできず、研究業績を挙げることが困難となり、専任のポストに就く可能性も低くなり、非常勤講師としての給与で生計を立てなければならず、さらに研究が滞る……。これは、明らかな悪循環であろう。

 そして、この悪循環を解消するには、一定の条件を満たした者には、専業非常勤講師であっても、研究者番号を一律に付与し、非常勤で授業を担当している大学を所属機関と見なし、ここを通じて科研費を申請できるよう仕組みを作り替えるのが捷径であるように思われる。

 かつては、獲得する科研費が少額の場合、所属機関には何の得もなかった。交付される資金は全額が研究者に交付される「直接経費」だったからである。しかし、10年くらい前から、交付される額が少ない場合にも、大学が研究環境を整備するために使用することができる「間接経費」が大学に交付されるようになり、この「餌」につられて、最近は、どの大学も科研費の申請に力を入れるようになった。専業非常勤講師にも科研費を獲得する機会が与えられるようになれば、(研究資金を管理するために大学が新たに負うはずのコストを考慮しても、)非常勤講師を雇用する新たなメリットが大学に生まれるはずであり、非常勤講師の待遇がこれによって改善される可能性は決して小さくないように思われるのである。

 下の記事にあるように、非常勤講師に研究者番号を付与し始めた大学も少数ながらあるようであるが――学内に研究プロジェクトを作り、非常勤講師を客員「研究員」として登録しているのであろうか?――これは、あくまでも、各大学の個別の工夫(あるいは裏技)によるものである。ただ、そもそも、東京大学を始めとするいくつかの国立大学のように、最初から大学が非常勤講師を雇用していないのなら、このような措置は最初から不可能であるに違いない。

大学非常勤教員の科研費取得について

関連する記事


大学の専任教員と専業非常勤講師 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

勉強を続けていれば、誰もが大学の専任教員になることができるわけではない 大学の専任教員になってから18回目の春が来た。 毎年、新年度のこの時期は、新しい時間割や新しい雑用に慣れず、多少疲れている。だから、ゴールデンウィークまでの日数をカウントダウンしながら

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ