AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

And a time to share

 何か新しいものが私の思惑とは無関係に身の回りに出現すると、恐怖を感じることがある。これは、老化の徴候であると一般に考えられている。人間は、年齢とともに、新しいものにすぐには適応することができなくなって行くものだからである。だから、なじみのある環境を構成している無数の要素のうち、何か1つでも変化すると、平静を失うことすらある。

 しばらく前、年長の、しかも、長年にわたる知り合いの一人が引っ越しをしたらしい。正月に届いた年賀状の片隅に、引っ越した理由と新しい住所が小さく印刷されていた。私が覚えているかぎり、その知り合いが引っ越したことは一度もない。それどころか、私が聞き及んでいる範囲では、私が知り合いになる前から、この人物は何十年も同じところで暮らしていたのである。だから、私の生活環境を形作る無数の情報のうち、この知り合いの住所は――「三越が日本橋にある」というのと同じくらい――変化とは無縁の固定的な事実であり、この知り合いの住所を書くのに、住所録を見る必要はなかった。

 ところが、この固定的な事実、決して変化することがないと信じていたものが、ある日、事実ではなくなり、そして、私は、この変化に少し慌てた。「1人の知り合いが引っ越したくらいで、何を慌てているのだ」といぶかる人がいたら、その人の精神はとても若々しいと言ってよい。あるいは、それは、「人生とはそういうものだ」という達観をすでに獲得した人である。残念ながら、私は、これら2つのいずれでもない。だから、新しい要素が生活の中に意のままにならない仕方で出現するたびに、これがどれほどつまらないように見えるものであっても、みっともない仕方で小さく慌てる。さらに、新しい要素に完全には慣れないうちに、さらなる新しい要素が日々の暮らしに闖入するかも知れない……。私にはまだよくわからないけれども、このようなことが積み重ねられて行くうちに、私にとり、世界は少しずつよそよそしいものになり、現実の変化への対応がさらに難しくなって行くのであろう。

 以前、次のような記事を投稿した。


老いのきざし : アド・ホックな倫理学

どれほど頑張っても、若者には老人のものの見方を理解することができない 髪が薄くなったり、疲れやすくなったり、食欲がなくなったりすると、齢をとったなと感じる。また、若いころにはなかったようなタイプの身体の不調を覚えるときにも、年齢を感じることがある。 しか

 上の記事で、私は、老人というものが時間をかけて作られるものであり、疑似体験セットのような装置によって老いを先取りすることが不可能であることを書いた。もちろん、齢をとることは、決して悪いことばかりではない。この点は、次の記事に書いたとおりである。

年齢を重ねてよかったと思えること 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

現代は、若さが異常に高く評価される時代である。若くないことに積極的な価値が認められることはなく、年齢を重ねることは、単なる若さの喪失であり、「老化」にすぎぬものと捉えられることが少なくない。「アンチエイジング」なるものに狂奔する女性が多いのは、そのせい


 人間を動物の一種と見なすかぎり、新しいものへの不適応は好ましくないことであり、一種の不幸であるには違いない。しかし、おそらく、年齢をしかるべき仕方で重ねるなら、老人は、この動物的な不幸を乗り越え、むしろ、環境を自分にとって都合のよい仕方で解釈し再編成し、環境への不適応すら飲み込んでこれを知的生産への刺戟に変えてしまう強力な「造形力」を獲得し発揮することが可能であり、このかぎりにおいて、若いときよりも幸福になることができるように思われる。実際、ゲーテやカントのように当時としては驚異的に長生きであった天才たちの知的生産性は、晩年になってから衰えることはなく、彼らが老年の不幸をしきりに嘆いたという話を聞いたこともない。ことによると、彼らは、例外的少数であるのかも知れないが、それでも、このような例外的少数を模範として努力することは決して無駄ではないに違いない。

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ひどい目にあった経験は誰にでもある

 これまでの人生を振り返るとき、誰の過去にも、特定可能な他人に関し、「ひどい目にあった」「あいつにひどい目にあわされた」と感じた瞬間があるに違いない。私なら、このような瞬間を1ダースくらいすぐに挙げることができる。(もし誰かからひどい目にあわされた記憶がない人がいるなら、それは、特別に幸せな人である。)

 もちろん、誰かにひどい目にあわされたことをいつまでも覚えていることは、「執念深さ」の現われであると普通には考えられている。だから、「このような経験は決して忘れない」などと他人に告げると、好ましくない印象を与えることになるかも知れない。

 しかし、誰かをひどい目に合わせた方がこれをすぐに忘れてしまうことは、学校でも社会でも同じであるが、ひどい目にあわされた方は、時間が経過してもこれを忘れることはない。さらに、ひどい目にあったという記憶を抱え、そして、返報しないままこれを放置し、しかも、記憶を保持したまま、何ら苦痛を覚えないのは、よほど強力な精神の持ち主だけである。普通は、ひどい目に会った痕跡が見える形では何も遺されてはいないとしても、他人から被った厄災に返報するか、つらい記憶にさいなまれるかのいずれかの道しかないはずである。

返報として意味があるのは、損害に直接に対応するものだけ

 とはいえ、大抵の場合、自分が損害を被っても、すぐには返報することができない。返報したくてもできなかったり、どのように返報すればよいかわからなかったりするからである。そこで、大抵の場合、ひどい目にあった側は、『金色夜叉』の貫一の行動が典型的に示すように、時間を措いてから、自分が被った損害とは直接には対応しない形で何かを成し遂げ、これをもって「返報」が遂行されたと勝手に決めるわけである。「金持ちになって見返してやる」「出世して見返してやる」などというのは、このようなタイプの復讐である。

 しかし、残念ながら、あなたが金持ちになっても、出世しても、これは返報にならない。なぜなら、あなたが被ったのと同等の損害を相手が被るわけではないからである。返報において決定的に重要なことは、あなたが被ったのと同じような損害を相手に与えることであり、相手に同じような損害を与えたことをあなたが自分で確認しないかぎり、返報は成立しない。誰かに殴られたら、殴り返すか、あるいは、何らかの仕方で物理的なダメージを与えなければ、ひどい目にあったつらい記憶が消えることはないのである。

返報ではなく脱出が最善の解決策

 たとえば学校で「いじめ」にあった記憶が精神衛生に深刻な影響を与え、場合によっては、この影響が一生続くと考えられているのは、相手に同等の損害を与えること、つまり、返報することができなかったからであると言えないことはない。特に、学校における「いじめ」は、時間が経過してからこれに返報することが難しいものであり、この意味でも、「いじめ」の記憶は、大人の社会で経験するハラスメントとくらべ、トラウマになりやすいのかも知れない。

 とはいえ、あなたが被ったのと同等の損害を与えて相手を罰すること、いや、それどころか、あなたに対し決して損害を与えることができないよう相手を徹底的に懲らしめることは、たしかにあなたに満足を与えることになるかも知れないとしても、それは、けれども、それは、相手と同じレベルに自分を引き下げることでもある。

 自分に損害を与えた相手と運命共同体を作る覚悟があるのなら、相手に罰を与えることには大切な意味がある。だから、誰かから損害を被ったとき、最初になすべきことは、自分の状況を冷静に振り返り、返報しなければならないと考えるほどの損害、返報しなかった場合にトラウマになるほどの損害を被り続ける必然的な理由があるのかどうか、自分に問いかけることであろう。そして、その場にとどまらなければならない理由があなた自身に認められないのなら、外的な事情がどのようなものであるとしても、その場にとどまって返報を試みるのではなく、学校でも職場でも、自分がこれ以上深い傷を負う前に、可能なかぎり早く「とにかく逃げ出す」ことが問題の最善の解決策になるはずである。

Hippy

SNSと狂信の深化

 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制約があった。空間のへだたりを超えて「同志」が結びつくことは稀であり、このかぎりにおいて、現在と比較するなら、狂信は散発的、局所的であったと言うことができる。

 しかし、このような制約はSNSによって取り除かれ、今や、狂信者は、ネット上で同志と結びつき、みずからの狂信を強く、そして深いものにしている。狂信者はますます狂信的になり、独善的になって、自分が真実と信じるものにしがみつくようになっているのである。狂信というものの本来の姿が見えるようになったということなのかも知れない。

 狂信は、宗教の専売特許などではない。私たちは、健康情報から政治まで、社会のあらゆるところで狂信に出会う。ただ、あらゆる種類の狂信者は、自分の意見を絶対に変えないことにより、言論空間の「デッドスペース」となることを避けられない。狂信者たちというのは本質的に全体主義的だからであり、意見の多様性というものを少しも認めないからである。だから、立場をいくらか異にする狂信者たちのあいだで話題になりうることがあるとするなら、それはただ1つ、「どちらが『正統』であるのか」という非生産的な問題だけである。

 狂信者を周囲から隔てるのは、「友ではない者はすべて敵」という原則である。「自分の主張は完全に正しい、だから、自分と違う意見の持ち主はすべて悪であり敵である」、このように主張する者の周囲には、同じ意見の持ち主ばかりが集まり、外部に対し暴力的かつ威嚇的な態度をとることが少なくない。また、このような態度は、周囲とのあいだの壁を高く厚くすることになる。たしかに、あなたが「友ではない者はすべて敵」と公言したら、あなたがどのような意見の持ち主であっても、あなたの周囲にいる人間の大半はあなたから離れ、敵陣へと駆け込むはずである。

思いやりの遮断

 もちろん、自分に同意しない者がいるという事実を謙虚に受け止め、自分の意見が完全に正しいわけではないかも知れないということに思いいたるなら、そして、みずからの立場を冷静に吟味することができるなら、狂信に陥ることは簡単に避けられる。そして、幼稚な思い込みから抜け出し、複雑で多面的な現実へと分け入ってこれを承認することが、本当の意味における人間的な成長なのである。それは、「敵ではない者はすべて友」という原則を引き受けることに他ならない。

 この意味において、狂信というのは、想像力の欠落の裏面であると言うことができる。たしかに、想像力や他人への思いやりをあえて捨て、幼稚な状態にあえてとどまることで、目の前に広がる複雑な世界を単純かつ粗雑に二色に塗り分けることが可能となる。SNSは、同志ばかりを周辺に集めることにより、想像力を動員して複雑な現実とほどよい距離をとる労苦から狂信者を解放することになったのである。SNSが社会にもたらしたのは、一種の野蛮であったと言うことができる。

 公共の空間において表明された言論の価値は、この言論において、どの程度まで反対意見が考慮され、反対意見の持ち主を説得する努力が認められるかによって決まる。合意形成を目標として公表されたものだけが、価値ある言論である。完全に正しい意見など、この世にあるはずがない以上、自分の意見が絶対に正しいことを前提として、信じたいものだけを信じ、意見を異にする他人を非難するだけの言論は、単なるノイズとして斥けられるべきであると私は考えている。「偽ニュース」というのは、信じたいものだけを信じる狂信者が産み出し、流通させているものである。したがって、「偽ニュース」を駆除するもっとも効果的な方法は、事実をチェックすることではなく、むしろ、言論空間のノイズを断固として排除し、狂信者の言葉に耳を貸さないことであるように思われるのである。

Concerned

 私たちは誰でも、他人とのコミュニケーションを避けることができない。また、職業や社会的な立場によって割合に多少の違いはあるであろうが、普段の生活の中で出会われる他人のかなりの部分について、私たちは、「あらかじめ完全に知っている」とは自信をもって言うことができないはずである。初対面であるとか、親しいわけではないとか、このような相手と向き合うときには、相手にどのような態度を示すのが適切であるのか、決められないことが少なくない。

 もちろん、たとえば、ツイッター上で独善的な態度で誰かに罵声を浴びせることが目的であるなら、相手の適切な遇し方に関し悩むことはないであろう。ネット上の私刑にコミットする者は、対人関係ではなく娯楽を求めているにすぎないからであり、これは、動物虐待と基本的には同じことだからである。あるいは、セールスを目的とする電話や戸別訪問を試みる場合にも、応対に出た者によって言葉遣いを変えるようなことはないはずである。自分が向き合っている相手が誰であるかに関係なく、同じセリフを機械のように口から繰り返し吐き出し続けることがセールスにおいて重要である――本当は違うと思うが――と一般に考えられているらしいからである。

 しかし、このような特殊な状況を除けば、対人関係において、定型的で機械的な「処理」が通用することは多くはない。たしかに、普段から顔を合わせている他人が相手であるなら、そして、これまで繰り返し身を置いてきたような状況のもとにおいてであるなら、相手との接し方に悩むことはないであろう。相手とのコミュニケーションの文脈があらかじめ設定されており、相手との向き合い方は、この文脈が自然な仕方で決めてくれるからである。

 しかし、初対面であっても、あるいは、昔からの知り合いであっても、具体的な状況のもとで、相手への態度を個別に決めなければならないことがある。どのような敬意を相手に示せばよいのか、自分が相手に示しているつもりの敬意が相手に正しく伝わっているのかどうか、頭を悩ませることがあるはずである。

 このような相手は、あなたにとって、何らかの意味において大切な存在であり、大切な存在であるからこそ、あなたは、相手に対し何らかの敬意を抱いていると考えることができる。しかし、上司であれ、家族であれ、恋人であれ、あなたにとって相手が大切であれば、それだけ、あなたは慎重な態度をとらざるをえない。場合によっては、取り返しのつかないことになる可能性があるとあなたが考えているからである。

 あなたは、敬意をめぐる緊張と不安をあなたに強いるような相手、雑な言い方をすれば「気を遣う」相手が大切な存在であると信じている。あなたは、相手が気を遣うに値する存在であると判断しているのである。しかし、このような他人があなたにとって本当に大切な存在であるのかどうか、相手と距離を置き、冷静に考えてみることは、決して無駄ではないように思われる。

 一回かぎりの人間関係であるなら、どのような仕方で敬意を示せばよいのかわからず、悩むことがあってもかまわないであろう。しかし、両親や配偶者や上司のような、普段の生活において、長時間、長期間にわたって空間を共有する他人の場合、相手への敬意の表し方についてたえず悩み続けることがあるとするなら、それは、多くの人にとって苦痛であるに違いない。このような息苦しさを覚えるとしても、もちろん、その原因は、大抵の場合、あなたにあるわけではないし、相手にあるわけでもない。

 この場合、あなたが相手に対して抱いているのは、敬意ではなく、むしろ、恐怖であるかも知れない。他人に対して抱く感情のうち、敬意と恐怖は、「相手があなたに対して何をするのか完全には予想できない」という認識を基礎とする点において一致しており、この意味で、兄弟の関係にある感情である。また、特に恐怖については、あなたが相手に何かを期待しているときに発生する感情であると言うことができる。だから、あなたが敬意をめぐる緊張と不安を強いられるとしても――相手があなたを操ろうとしているサイコパスでないかぎり――原因は、相手ではなくあなたにあると考えるのが自然である。

 だから、あなたの身の回りに、非常に気を遣わなければならないとあなたが考える他人がいるなら、あなたがその他人に対して抱いている感情が敬意であるのか、それとも恐怖であるのか、冷静に考えてみることは無駄ではない。相手に何かを期待して気を遣っているのなら、あなたが相手に対して抱いている感情は、敬意ではなく恐怖であり、その場合には、あなたが相手に期待しているものの正体を確認し、その正体の価値を批判的に吟味すべきである。また、それが、相手に期待するのが適切な何ものかであるのかどうか、みずからに問うことも必要であろう。

 世の中には、あなたが何一つ期待してはないが、それでも、自然な仕方で敬意を抱くことができるような他人というものがいるはずである。また、そのような相手の前では、敬意が適切であるかどうか、などという悩みがあなたの心に生まれることはないに違いない。私たちにとって理想的な対人関係にふさわしいのは、あなたに気を遣わせ、敬意をめぐる緊張を不安をあなたに強いるような相手ではなく、むしろ、あなたが自然な仕方でふるまうことを許すような相手であるに違いない。

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忘却は責任ある主体の地位を脅かす

 人類は、その誕生から現在まで、つねに社会を作ってきた。たとえ実際には社会から離れ、孤立して生活している者がいるとしても、その生活は、つねに完全に社会的であり、他人に対する何らかの態度を表現するものとならざるをえない。

 すべての人間は、社会的な存在であるかぎりにおいて、何らかの責任を負い、その責任に対応する自由を与えられている。つまり、社会というのは、私たち一人ひとりがある程度以上の責任を負う主体であることを前提として初めて成り立つものなのである。罪を犯すと罰せられ、罪の責任を引き受けなければならないのは、「罪を犯さない自由」なるものが私たちに認められているかぎりにおいてであり、「罪を犯さない自由」が与えられていない場合、自分の罪に対し責任を負うことが不可能である。たしかに、「自由はないが、責任はとらされる」あるいは「責任はとらなくてもかまわないが、自由は認められている」などという事態が出現したら、それは、誰の目にも不正常と映るに違いない。

 社会が自由を享受し責任を負う主体からなるものであるという理解を前提とするかぎり、「責任」(responsibility) を負う状態にあることこそ、社会を構成する主体にとってもっとも重要であることになる。つまり、周囲からの呼びかけや問いかけに対しつねに正しい仕方で「応答」(response) する「能力」(ability) こそ、社会における主体の主体である所以なのである。

 したがって、社会が維持されるためには、私たち一人ひとりに課せられた応答の遂行は、外的な事情が原因で起こるあらゆる障害や干渉から守られねばならないものとなる。応答の遂行が何らかの事情により妨げられることにより、当の人間の主体としての地位が脅かされるからである。そして、このような障害や干渉のうち、特に怖れられているものの1つが「忘却」である。今日の予定を忘れる、部下の名前を忘れる、妻との約束を忘れる、自宅の電話番号を忘れる、あるいは、自分がどこで何をしたかを忘れる……、記憶の欠損が好ましくないものと受け止められるのは、これが社会生活を現実に混乱させるからであるというよりも、むしろ、本質的には、責任を負う主体の地位を脅かすものだからであると考えねばならない。社会的な存在としての人間にとり、忘却は最大の敵なのである。

記憶は、応答の必要に迫られて作り出されるもの

 とはいえ、忘却は、誰のもとにも訪れる平凡な出来事である。それどころか、現実には、私たちは、何らかの必要に迫られて覚えているものを除き、すべてを忘れてしまう。いや、正確に言うなら、私たちの記憶に残るのは、社会的な「応答」に必要なものだけである。記憶とは、「応答」のため、応答の文脈の内部においてその都度形作られるものであると言うことができる。記憶は、社会的な意味や文脈の内部においてのみ記憶であり、社会的な意味や文脈にふさわしく忘れることができる能力と一体のものなのである。

 忘れてしまうというのは、人間の精神衛生に不可欠の機構であり、「何もかも記憶している」「何も忘れない」などということは不可能である。目に映ったものを文字通り「すべてを覚えている」人間がいるとするなら、それは、事実上、何も覚えていないのと同じことである。というのも、このような人間には、自分の視覚や聴覚が捉えた映像に意味を与え、輪廓のある具体的な「情報」や「記憶」へと分節することができないはずだからであり、五感に対する無差別の刺戟がノイズの洪水となって意識を浸しているだけであるに違いないからである。自分の体験に意味を与え、社会的な存在としてのみずからのあり方――つまり、社会的な存在にふさわしい行動――へとこれを結びつけるには、取捨選択し、忘れることが必要となる。この意味では、私たち一人ひとりが社会の内部において負っている責任と社会から与えられている自由は、ともに、記憶された情報量に依存するものではなく、むしろ、記憶を作り出す力としての忘却の能力を前提とするのである。

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