AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

the KKK rally (circa early 70's)

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性

 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相手ならばともかく、完全な見ず知らずの相手とのネット上でのコミュニケーションは、大きな不確実性を含んでいるからである。見ず知らずの相手との意思疎通の困難については、以前に2回、別の観点から書いたことがある。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : アド・ホックな倫理学

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお

 SNSにおけるコミュニケーションの不確実性というのは、一言で表現するなら、相手が何者なのかよくわからないことに由来する不確実性である。私が何かを発信する場合、私の言葉を相手がどのように受け止めるのかまったく見当がつかない。同じように、相手から私に向けて差し出された言葉を正確に理解するためには、言葉の背後にある暗黙の了解や文脈を共有しなければならないけれども、見ず知らずの相手の場合、このような点については、乏しいサインを手がかりにただ想像するほかはない。少なくとも、私の乏しい経験の範囲では、SNSで不意打のように成立する見ず知らずの相手とのコミュニケーションについて、上手く行ったという手応えが得られることは滅多にない。

 そもそも、SNS、特にツイッター上で、わずか140文字で見ず知らずの他人が言おうとしていることを正しく把握するなど、ほぼ不可能である。「正常な」コミュニケーションをツイッターで実現するためには、140文字を丹念に読み、前後のツイートを読み、誰をフォローし、誰にフォローされているかを確認することで、相手がどのような人間であるのかをあれこれと想像することが必須である。また、私が使う言葉は、慎重に選ばれなければならない。このような作業には、多くの時間と体力が必要となる。ツイッターは、スマートフォンで気軽に使うことができるようなものではない。しかし、ここまで用心しても、地雷を踏んでしまう危険がなくなるわけではない。

池に落ちた犬を叩く者たち

 自分の何気ない投稿に対して、見ず知らずの人間から意味不明な言いがかりをつけられ、この言いがかりが周囲に拡散して面倒なことになった経験がある人がいるかも知れない。もちろん、直接に対面しているのなら、あるいは、ブログやウェブサイト上での長文でのコミュニケーションなら、相手の誤解を解く余地、あるいは、落としどころを見つける余地が多少は遺されていると考えてよい。何と言っても、あなたがブログやウェブサイトに投稿した記事が問題であるなら、言いがかりをつける方もまた、あなたの立場を背景を含めて理解するために、それなりに時間をかけてあなたの言葉を読んでいるわけであるから、あなたは、言いがかりをつけてきた相手に対し、あなたの説明を聴き、あなたの言いたいことを理解する努力をいくらか期待することが許される。

 ところが、ツイッターの場合、誰かに言いがかりをつけられた瞬間にはすでに、さらなるコミュニケーションの可能性は閉ざされている。相手は、一種の狂信者であり、自分と違う考え方、自分と違うあり方を一切認めない。彼らは、何かに対し居丈高に怒り、何かに対し聞くに堪えない罵声を浴びせ、何かを吊し上げたいだけであり、このような人間にとって、あなたの言葉をあなたの身になって正しく理解したり、あなたの発言の背後にある前提や文脈を想像するなど、最初から関心の外にあると言ってよい。あなたは、マッチに点火するのに必要なマッチ箱の側面のようなものにすぎないのである。

 あなたに対する言いがかりが周囲に拡散するとしたら、それもまた、いかなる意味でもコミュニケーションではなく、ただ、あなたを晒し者にする一種の祭りに参加し、刹那的な偽りの一体感を体験したいだけであり、そこには、人間としてのあなたの尊厳への気遣いなど何もない。騒ぎがある程度以上大規模になるとき、これが「ネット私刑」などと呼ばれる理由である。

 現実の世界でも、サイバースペースでも、コミュニケーションの基本は、「相手の身になること」である。相手の身になり、相手のことを理解する努力が(たとえコミュニケーションが敵対的なものであっても)意思疎通の前提である。ただ、残念なことに、人間には、「相手の身にならないこと」「意志疎通の努力を放棄すること」がつねに可能である。実際、ネット上の見ず知らずの者たちの「交流」では、「誹謗中傷をこれ以上続けたら、相手は社会的に葬られてしまうのではないか」「これだけ大量の憎悪表現を寄ってたかって浴びせ続けたら、相手は立ち直れないのではないか」などの気遣いは、必ずしも前提とはならない。実際、ツイッターには、自分が罵声を浴びせる相手が精神を病もうと、自殺しようと、社会から抹殺されようと、そのようなことには一切頓着しない者たちが跋扈する一種の無法地帯としての側面がある。なぜ人間がそこまで思いやりを忘れることができるのか、これは人間の存在をめぐる1つの謎である。

Second-hand Reader.

書店の数と売り場面積は都市の文化程度の指標

 世界には、「文化の中心」と呼ぶことのできるような都市がいくつかある。代表的なのは、パリとニューヨークである。パリやニューヨークが本当に文化的であるかどうかはよくわからないが、最近100年に期間を限定するなら、これら2つの都市が広い意味での「人文系」の諸活動の世界的な中心であり、文化の集積がもっとも進んだ都市であることは確かである。ニューヨークは、「20世紀の首都」(capital of the 20th century)――「20世紀の資本」ではない――と呼ばれることが多いけれども、少なくとも外国人の私には、文化的な生産に関するかぎり、この表現は適切であるように見える。

 とはいえ、そもそも、1つの都市が文化的であるかどうかを決めるのは何であろうか?もちろん、たとえば、公園の面積、劇場の数、コンサートが催される頻度、歴史的建造物の数、博物館や美術館の数……、このようなものを指標として使うことは不可能ではない。しかし、いくら公園が多く、博物館や美術館が充実し、歴史的建造物が充満していても、たとえば現在のローマやフィレンツェについて、私は、文化的な都市という印象を持たない。というのも、ローマやフィレンツェにおいて充実しているのは、文化遺産であり、文化の活発な生産を現在進行形で目撃することができることはあまり期待できないからである。

 むしろ、ある都市が文化的であるという印象を与えるもっとも確実な要素は、大きな書店の数、特に、(日本の場合には、)洋書を取り扱っている書店の数であり、大きな図書館の数である。書店の数が多く、売り場面積が広く、取り扱う書籍が多様であるというのは、その都市の文化の程度を示しているように思われる。(文化とは、本来的には言語を用いた文化的生産であり、音楽や美術などがどれほど集積しても、それだけでは、文化的な雰囲気を産み出すのには十分ではないように思われる。)

 この指標を用いるなら、日本でもっとも文化的な都市は断然東京であり、東京は、パリやニューヨークと比べて決して劣ってはいないはずである。東京では、ターミナル駅の近くには、必ず大規模な書店がある。また、神保町、早稲田、本郷などには、古書店が集まるエリアが形作られている。これは、東京に固有の光景であるに違いない。

東京における書店の衰退

 本が読まれなくなったせいなのであろうか、最近は、書店がなくなったり、売り場面積が小さくなったりすることが少なくない。昨年(2016年)の夏、紀伊国屋書店の新宿南店が閉店したのは、私にとっては特に大きな出来事であった。数年前、ジュンク堂書店が新宿から撤退したときにもショックを受けたけれども、紀伊国屋の閉店は、さらに悲しいニュースであった。新宿という街の文化程度が大きく引き下げられてしまったように感じられてならない。

 もちろん、大規模な書店が新しく生まれないわけではない。もう10年以上前になるけれども、東京駅の丸の内口に丸善が開店した。売り場面積はかなり広く、東京で上位5番以内に入るはずである。しかし、一度でも訪れたことのある人ならわかるように、丸善の売り場は、他の大規模な書店と比較すると、やや特殊である。おそらく立地への配慮なのであろう、近所で働く会社員が手に取りそうな本が目立って多いのである。(大規模書店ならではの専門的な本の在庫は少なく、むしろ、店頭に並ぶ本を見るかぎり、実態は「売り場面積が途方もなく広い小規模書店」である。)また、売り場のかなりの部分が文房具と雑貨によって占領されているのも独特である。

 たしかに、東京駅の丸の内側は、以前から、書店も図書館も文化施設もないエリアであり、「文化の砂漠」であった。今でも、丸の内側にある書店は丸善だけであり、他に立ち寄るべき場所が付近に何もない。在庫が多いとわかっていても、、丸善で本を探すためにわざわざ東京駅まで電車で行く客は少ないであろう。店頭に並ぶ本の傾向が、東京駅を通過する客が立ち寄ることを想定した売り場になっているのは仕方がないことなのかも知れない。それでも、本格的な大規模書店が東京から少しずつ姿を消すと、それとともに、東京の文化水準もまた、少しずつ落ちて行くことは確かである。私は、文化的な都市としての東京の将来について、ある危惧を抱いている。

Happily Entertained

人間が人間であるかぎり「不死」ということはありえない

 以前、次のような記事を書いた。


脳の老化と「寿命」の再定義 : アド・ホックな倫理学

「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かのあいだに身体の寿命がのびたのは、それ以前に生命を奪ってきた病気の多くについて、完全に撲滅されたり、完治を可能にするような治療法が見

 医学の進歩によって、身体の寿命は大幅にのびた。しかし、脳の方の寿命は、身体ほどにはのびていない。つまり、脳は身体とくらべて短命なのである。しかし、この不均衡を是正しないかぎり、いくら寿命がのびても、社会に活力が与えられることはないであろう……、上の記事には、このようなことを書いた。

 ところで、現在の医学の範囲では、すでに次のようなことが明らかになっている。すなわち、人間の寿命には遺伝子上の明確な限界があり、死なない人間というものはありえないことが確認されているのである。この知識に間違いがないとするなら、人間は必ず死ぬ。また、人間が死ぬ以上、そこには必ず何らかの原因があることになる。

 21世紀前半の現在、日本人の死因は、全世代の合計では、ガンが第1位であり、心疾患が第2位である。ガンが第1位を占めているのは、かつて上位を占めていた疾患が克服され、死に直結する病気ではなくなったからであり、それによって、寿命が延びたからである。(つまり、以前ならガンに罹る前に別の病気で死亡していたような人間が、現在では、相当な年齢まで長生きし、ガンに罹るようになったということである。)寿命がのびるととともに、高齢者が罹りやすい病気の患者数が増えるのは、当然のことである。

 しかしながら、今から100年後には、ガンや心疾患の完全な治療法が見つかり、死因の上位から姿を消しているかも知れない。それでは、100年後、何が死因の第1位を占めているのであろうか。

100年後の死因第1位は医学とは関係ないかも知れない

 たとえば、100年後の死因において第1位を占めるのは、「交通事故」であるかも知れない。交通事故で即死するくらいでないと、人間はなかなか死ななくなっているかも知れないからである。あるいは、「自殺」が第1位になっているかも知れない。あるいは、核兵器を用いた大量殺戮でおびただしい人命が失われれば、それが死因の第1位になる可能性もある。

 そして、交通事故、自殺、戦災などで一瞬のうちに生命を奪われるという事態が死亡の原因として上位を占めるようになると、社会と医学との関係もまた、おのずから変化するに違いない。

 人類が始まってから現在まで、死因の第1位がつねに同じであったわけではない。ただ、死因の上位に何が来るとしても、それらのすべてに共通する点が1つだけあった。それは、死亡の原因となるような何ものかは、つねに治療の対象であり、医学が克服すべき課題であったという点である。死因の第1であったものは、治療法が見つかるとともに病として治療され、克服され、そして、死因の上位から姿を消す。時間の経過による死因の交替は、病気に対する医学の勝利と寿命の延長の結果であり、天然痘、結核、コレラなどは、医学のおかげで私たちにとって縁遠い病気となったのである。

 しかし、交通事故が死因の第1になるとき、医学にはもはや出番がない。交通事故は病気ではないから、交通事故を「治療」するわけには行かない。死者を蘇らせることが不可能である以上、死因第1位に関して医療にできるのは、一命をとりとめた瀕死の負傷者に施す救命医療くらいであろう。

 多くの人の生命を奪うものが医学の範囲の外にあるとき、死因の第1にあるものをその座から追い落とす役割を担うのは、さしあたり、医学ではなく政治となる。いや、100年後の医学は、その範囲を政治へと広げ、「政治=医学」「行政=医学」「経済=医学」のような、人命を危険から守るための社会科学のような研究分野が作り上げられているかも知れない。

 もちろん、死因の1位を交替させることばかりが医学の使命ではないから、狭い意味における医学が停滞するということは決してないはずであるけれども、それでも、万人に死をもたらす可能性のある事柄が治療の対象ではなくなるなら、医療と私たちの関係は、おのずから変化するはずである。

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 最近、人口の減少のせいなのか、人手不足に関連するニュースをよく見かける。コンビニエンスストアやファミリーレストランが24時間営業をやめることが、しばらく前に大きな話題になっていた。私も、しばらく前、この話について、ブログに記事を投稿した。


テレビがまず24時間放送をやめたらよい : アド・ホックな倫理学

昨日、NHKで次のような番組を観た。続ける?やめる? "24時間型社会"ニッポン - 放送内容まるわかり! - NHK 週刊 ニュース深読み 最近、24時間営業をやめるコンビニエンス・ストア、ファストフード店、ファミリーレストランなどが増えてきたというニュースが取り上げら

 たしかに、企業にとっては、特に、非正規雇用の従業員に労働力を依存している業界にとっては、人手不足は、深刻な問題ではあるに違いない。しかし、このような業界の人々には申し訳ないけれども、私自身は、非正規雇用の従業員を低賃金で使ってきた業界が人手不足に悩むのを見ても、同情したり、経営者の身になったりする気にはどうしてもなれない。むしろ、「ああ、バカだな」という感想がどうしても心に浮かんでしまう。

 1980年代末から1990年代初めのバブル景気の時代は、私が大学生であった時代と正確に重なる。大学に入学してまもなく、景気の拡大が始まって物価が上昇し、社会全体に成金が溢れ、一種の狂乱状態が出現した。そして、大学を卒業してからしばらくして、景気が急激に後退し始めた。そこにもまた、狂乱状態はあった。それは、ケチと安売りに狂奔する者たちが作り出す狂乱状態であった。

 1980年代も90年代も、私のような職業の人間には、決して楽しい時代ではなかった。それでも、本を読みながら、視界の隅で社会の大きな変転をリアルタイムで観察し続けたせいか、その後、いくら景気の変動があっても、まったく驚かなくなった。これは、実に貴重な経験であったと思う。景気の変動に翻弄される人間の愚かさや悲哀は、1980年代末から90年代初めにすべて見てしまったような感じがするのである。だから、人手不足の話を聴いたとき、私は、既視感に襲われた。

 現在、人手不足に悩んでいるということは、日本の企業経営者が、バブルとその崩壊から何も学ばなかったことを意味する。たとえ人口が減少しないとしても、景気が拡大することがあるとするなら、労働力は必ず不足し、アルバイトに代表される非正規雇用の従業員の賃金は上昇する。実際、バブルのころ、多くの企業はこれに苦しめられたはずである。そして、(みっともないことに、)人件費の上昇を抑えるため、正社員を必死になってかき集めていたはずである。

 これが、「フリーター」という言葉が生まれ、フリーターという「職業」が成り立った時代背景である。当時は、時給に換算すると、アルバイトとして働く方が正社員になるよりも多くの賃金を得ることが可能であった。「正社員など、なろうと思えばいつでもなれる」ことを前提に、あえてフルタイムの仕事には就かず、好きなことを積極的に追求する者が、もともとは「フリーター」と呼ばれたのである。「フリーター」が「正規の職に就くことができない貧乏人」を意味するようになったのは、バブル崩壊後のことである。

 それにもかかわらず、バブル崩壊後、外食や小売の業界では、多くの企業が人件費を抑制し、短期的な利益を上げるため、非正規雇用の従業員の労働力に依存するようになった。私などにくらべれば、はるかに現実感覚のあるはずの企業の経営者たちには、景気がふたたび拡大するとき、アルバイトの賃金が急激に上昇し、経営が成り立たなくなることが予想できなかったはずはないのであるが、実際には、彼らの考えは、バブルが過熱していたころの苦い経験を忘れないという単純なことにすら及ばなかったようである。

Mirror Time

 『断捨離』という表題の本を私が初めて目にしたのは、2010年の初めのことである。


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 その年の終わりごろには、『人生がときめく片づけの魔法』という――発音することにいくらか気恥ずかしさを覚えるような――タイトルの本の広告を電車で見かけるようになった。


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 よく知られているように、『断捨離』も『人生がときめく……』も、片づけの方法を案内する本であり、自己啓発書でもある。内容はたがいにいくらか異なっているけれども、自分自身にとって必要なモノを手もとに残してあとは処分し、少数の必要なモノを適切な仕方で自分の周囲に配置することを求める点、そして、片づけによって人生を好ましい方向へと変えることができることを主張する点では、両方とも同じである。違うのは、捨てるかどうかを決めるにあたり基準とすべきものの名前だけである。

 これら2冊ばかりではなく、片づけによって人生を変えることができることを主張する自己啓発書は、私の知るかぎりではすべて、自分の身の回りにあるものを処分するかどうかを決める基準が一人ひとりのうちにあることを自明の前提とする。すなわち、これらの本によれば、私が手もとに残してよいのは、自分の人生に必要なもの、「心がときめく」ものだけであり、この条件を満たさないものは、合理的かつ機械的な手順に従って処分しなければならず、処分することにより、人生が好ましい方向へと変化して行くことになる。片づけというのは、目づまりを起こした排水管を高圧洗浄できれいにするようなものと見なされていることになる。

 たしかに、私たち一人ひとりには、かけがえのない個性がある。たがいにどれほど似ているとしても、私には、あなたになることはできないし、あなたもまた、私になることは不可能である。当然、私が身の回りに置きたいと思うものと、あなたが身の回りに置きたいと思うものが完全に同じであるはずはない。

 私たちは、普段の生活において、他人と共存しなければならず、そのために、自分と他人の小さな区別をあえて見過ごし、自分に対して小さな不誠実を重ねながら生きている。しかし、自分の生活空間を快適な仕方で組織する――つまり「片づける」――ことを望むのなら、自分のあり方を反省し、自分自身に対して徹底的に誠実になることが必要であるに違いない。このかぎりにおいて、片づけは、自分自身に立ち返ること、本来の自分になることである。

 しかしながら、片づけに関するかぎり、事柄はそれほど単純ではない。というのも、ここには、次のような問題が認められるからである。

 以前に別の記事で少し述べたように、


片づけの社会性 「モノをなくさないこと」と「整理整頓」のあいだ : アド・ホックな倫理学

モノをなくさないための3つの方法 なくしたモノを自宅や職場で探すために、私たちは、膨大な時間を使っている。数日前に読んだある記事によれば、すべての人間を平均すると、人生全体の6ヶ月は、なくしたモノを探すために使われているらしい。なくしたモノが気になって眠れ

自分自身に対して完全に誠実になったからと言って、部屋がきれいに片づくとはかぎらない。というのも、私たちが「きれいに片づいた部屋」(「何もない部屋」ではない)と見なすものは、自分自身に対する誠実の帰結であるとはかぎらず、むしろ、それは、他人に見せたときに「きれい」として受け容れられるはずの状態を目指して試みられた整理整頓の結果にすぎないのが普通である。私の私らしさは、それ自体としてすでに社会的なものであるから、片づけというのは、つねに、そこにおいて本来なら表現されるべき「私自身」なるものを多少なりとも裏切るかたちでしか実現されえないものであり、このかぎりにおいて、一種の不誠実を避けられないのである。

 ほぼすべての人間にとり、本当の自分自身というのは、たしかにかぎりなく個性的ではあるけれども、同時に、それは、直視に堪えない弱弱しい存在であり、自分の身の回りにあるものを処分するかどうか、適切に決める力もなく、必要なモノを見の回りに適切に配置するための秩序をみずから産み出す力もない。私たちは、自分自身に立ち返り、自分らしい生活を実現するために片づけを実行する。それにもかかわらず、「きれい」に関しすでに社会において通用している支配的な標準に寄生しなければ、片づけを完結させることができない。片づけを進めるとともに、私たちは、社会によって固有性を剥奪された自分自身、他人のまなざしを借りることなしには身の回りの整理すらできない自分自身を見出すことになるのである。

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