AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

346/365: A drunken cigarette

モノをなくさないための3つの方法

 なくしたモノを自宅や職場で探すために、私たちは、膨大な時間を使っている。数日前に読んだある記事によれば、すべての人間を平均すると、人生全体の6ヶ月は、なくしたモノを探すために使われているらしい。なくしたモノが気になって眠れない夜のようなものを含めるなら、さらに多くの時間が人生から奪われているかも知れない。

We Spend Six Months Over the Course of Our Lives Searching for Lost Things

 ところで、形式的に考えるなら、なくしたモノを探すために費やす時間を減らすには、3つしか方法がない。

 (1)1つは、(当然のことながら!)モノを最初から何も持たないこと、(2)もう1つは、すべてのモノの「在り処」をすべて記憶していること、(3)最後の1つは、整理整頓である。この場合の整理整頓とは、一つひとつのモノの「在り処」を記憶にとどめる代わりに、三次元空間におけるモノの配置に秩序を与えることである。何らかの秩序に従ってモノが配置されているかぎり、ものの「ありそうな場所」はおのずから限定され、探すのに必要な手間も減ることになる。(もちろん、記憶の負担も減る。)そして、(1)が不可能であり、(2)にはおのずから限界がある以上、私たちの多くは、モノをなくさない工夫として、第3の方法を採用しているはずである。

モノを減らせば、モノを探す時間は短縮できるが、快適な空間が生まれるとはかぎらない

 とはいえ、モノの配置に秩序を与えるのが重要であることは分かっていても、これを実行することは容易ではない。どのような秩序を空間に与えればよいのか、見当がつかないことが多いからである。片づけを苦手とする人の多くは、モノを整理する秩序を決めることができない人である。

 そこで、「片づけのプロ」を自称する専門家たちは、例外なく、モノを減らし、何をどのような秩序で配置すればよいのか、見通しをよくする作業から片づけを始めることを推奨している。実際に使用する可能性のないモノを目の前から消すことにより、何を整理整頓すればよいのか明らかになるというのが彼らの見解であり、この見解は、広く受け容れられているように見える。

 ただ、どれほどモノが少なくなっても、それだけで、何を、どこに、どのように配置するか、おのずと決まるわけではない。実際、モノを徹底的に減らしても、身の回りが相変わらず雑然とした状態であることは可能である。

 たしかに、モノを処分すれば、上の(2)の状態に近づく。だから、整理整頓がまったく行われていなくても、なくしたモノを探す時間は大幅に短縮される。けれども、整理整頓はなされていないがモノが少ない空間には、秩序というものが欠けているから、このような状態の空間に身を置いても、私たちは、これを快適な空間とは認めないはずである。

「マイ秩序」という言い訳

 このようにして考えてみると、必要なモノに必要なときにすぐにアクセスすることができる状態にすることは、視覚的に快適(で美的)な空間を作ることから区別されねばならないことがわかる。写真、財布、鍵、チケット、メガネ、携帯電話、……、私たちがなくしそうなモノがすべて床の上に散乱し、床を一瞥するだけで何がどこにあるかわかるとするなら、探しものに必要な時間はゼロであろう。しかし、これが整理整頓された、秩序のある、快適な空間であるかと問われれば、多くの人は否定的に回答するであろう。

 しかしながら、この点に関し、次のように主張する人がいるに違いない。他人の目に雑然とした空間と映るとしても、モノと空間を実際に使う自分にとって不都合がなければ、それは、秩序ある快適な空間である、このように主張する人がいるはずである。つまり、自分専用のスペースがどれほど雑然としているように見えても、それは、自分にしかわからない秩序、いわば「マイ秩序」によって支配されているのだから、何ら問題はないということである。 

 たしかに、自分の身の回りのモノの配置に関し、自分の内部から明瞭で包括的な秩序を産み出し、これを外部に的確に投影し、そして、モノをこれに従わせることがまったく不可能であるとは思わない。しかし、現実には、このような人間はいないであろう。というのも、生活空間を組織する秩序というのは、文法のようなものだからであり、生活空間を完全な「マイ秩序」で組織するというのは、文法と語彙を具えた「マイ言語」を自力で作り出すのと同じような力業だからである。大抵の場合、整理整頓とは、社会において広く通用している既存の片づけの文法――つまり、生活空間に認められるべきであると普通に考えられている秩序――に寄生して進められるものであり、整理整頓がモノに与える秩序は、他人と共有しているものである。つまり、片づけが実現することを目指す秩序は、本質的に社会的なものであると言うことができる。私の生活空間を片づけ、モノに秩序を与えて整理整頓する作業には、つねに他人のまなざしが介在している。片づけるのが私専用のスペースであるとしても、片づけという作業、整理整頓という作業が目指す秩序からは、私の存在のかけがえなのなさ、私の空間のかけがえのなさがその都度あらかじめ幾分か剥奪されているのである。

Organic Farm Kenya

 ケーブルテレビの番組を見ていると、化粧品や健康食品のCMによく出会う。そして、「自然素材」であるから「安全」であり、したがって「安心」して使うことができる、という意味のフレーズをよく耳にする。しかし、このようなフレーズを耳にするたびに、私は、強烈な違和感に襲われる。「この商品は自然素材から作られている」「したがって、安全である」「だから、安心して使うことができる」などという主張は、視聴者を愚弄するものなのではないか、このような主張を真に受けて商品を購入する客などいるわけがない、と私は信じていたのだが、私のこの見込みは、事実には反しているらしく、「自然由来の成分」などという文句には、それなりの集客効果があるようである。

 もちろん、自然素材なら何でも安全であるというわけではない。むしろ、事実は反対なのではないかと私は考えている。

自然素材については、成分や機序が完全には解明されていない

 自然由来の成分と言われているもののうち、何十年、いや、何百年ものあいだ、ある用途で使われ続け、その結果、特定の場面で使われるかぎり危険はないことが証明されているものがある。一部の化粧水に使われているキュウリやヘチマがこれに当たる。これらはいずれも、何百年ものあいだ使われ続け――効果はともかく――少なくとも、皮膚に触れても害がないことがわかっているのである。これらは、(なぜ害がないのか、機序はよくわからない場合もあるが、少なくとも、)長期にわたる人体実験によって安全が確認されている素材である。

 この観点から化粧品の安全を評価するなら、発売から相当な時間が経過している化粧品の方が新商品よりも好ましいことになる。古くからあり、今でも販売されている化粧品というのは、長期間にわたり大量に使用され、しかし、目立った問題が報告されていないから、まだ店頭に並んでいるのである。化粧品に安全を求めるなら、成分が自然由来であるかどうかよりも、昔から使われていたかどうかに注意すべきであろう。

 そもそも、化粧品の素材として新しく使われるようになった物質が「自然由来」や「天然」である場合、その化学的な組成は必ずしも100%明らかではないし、まして、皮膚につけたときにどのような影響を与えるのか、その作用機序が確認されていない場合も少なくない。化粧品の場合、発売前に、メーカーが安全を確認するために長期間にわたりモニターを使って影響を追跡するなど普通にはありえぬことであり、したがって、何年ものあいだ、毎日使っても大丈夫であるのかどうか、有害な作用はないのか、完全には分かっていないと考えるのが自然である。自分が実験台になる覚悟があるのなら、自然由来の成分を含む新商品を使ってもかまわない。しかし、安全や安心を買うのなら、「自然素材」の「新商品」というのは、優先的に避けるべきものであるに違いない。

 むしろ、この点に関しては、人工的な素材の方がはるかにすぐれていると言うことができる。というのも、人工的に合成された素材の場合、成分は完全に解明されており、また、作用機序についても、天然由来のものよりもおおむね単純であるから、ある程度はわかっているのが普通である。

 たとえば、化粧品に防腐剤として添加されることの多いパラベンは、相対的に安全――100%安全などということは、いかなる物質についてもありえない――が証明されている人工的な素材の1つである。少なくとも、パラベンを用いないことが原因で化粧品が腐敗して発生する害よりも、パラベンを添加することによる害の方が明らかに小さいことは、すでにいろいろな観点から確認されているはずである。

ゴキブリだって自然素材

 化粧品の場合、素材が自然由来であろうと人工的なものであろうと、人間の皮膚にとって「異物」であることに違いはない。だから、どのような化粧品であっても、何らかの意味において皮膚にとって有害である。100年前、200年前に使われていた化粧品とくらべ、現在の化粧品の方が身体に及ぶ悪影響が格段に小さくなっていることは確かであるけども、完全に無害ということはない。

 そもそも、自然素材と言っても、いろいろなものがある。動物を素材とするものもあれば、植物を素材とするもの、あるいは、正体不明の昆虫や微生物を素材とするものもある。「自然由来」「天然由来」「自然素材」などの言葉を目にしただけで飛びつくのは――婉曲な表現を使うとしても――「軽率」であると言わざるをえない。というのも、ゴキブリも自然素材だからである。

 ゴキブリが自然素材であるというのは、まぎれもない事実である。「自然素材」が好きな人は、ゴキブリ由来の成分が配合された化粧品が発売されるとき、「天然由来」であるという理由でこれを使ってみる気になるかどうか、胸に手を当ててよく考えてみるべきであろう。たしかにゴキブリ由来の天然成分を化粧品メーカーが使用する可能性は、かぎりなくゼロに近い。少なくとも、CMで「ゴキブリから抽出した天然成分が配合されています」「驚異の生命力の源が皮膚を若返らせる」などと宣言するはずはない。

 ただ、実際に化粧品に使われている天然成分なるものが何から取り出されているのか、CMで素姓を知り、その上で、想像力を働かせてみると、私など、どうも気持ちのよくないものを感じることが少なくない。むしろ、成分も機序も明らかな人工的な成分から合成された化粧品を使う方が、安全であり、安心であるような気がするのだが……。しかし、私は女性ではないから、この問題については、あまり自信がない。

THE FIGHTER - red carpet, in Hollywood, California

 今日、次の記事を読んだ。

ベッキーさん、九州玄関口の"顔"に JR博多シティのCMキャラに起用、福岡限定CMにも出演

 私は、普段、民放の番組を見る機会があまりない。当然、誰の人気があるのか、誰のことは知っていないければならないのか……、このようなことはまったくわからない。また、芸能関係のニュースを几帳面に追いかけているわけでもないから、スキャンダルの類にも不案内である。だから、芸能人の具体的な言動についてあれこれと批評する資格は私にはないように思う。(「ベッキーが好きなのか?」と尋ねられたら、私は、「特に好きではないが、私にとっては、名前と顔が一致する数少ない芸能人の1人ではある」と答える。私でも知っているくらいだから、よほど有名なのであろう。)

 ただ、最近10年か15年くらいのあいだ、芸能人の「ありがたみ」がずいぶん薄れてきたことは確かであるように思われる。芸能人らしさの一部が芸能人から失われているように見えるのである。

 平均的な日本人の多くは、芸能人の姿をテレビを通して眺めている。しかし、芸能人というのは、テレビに出演し、何らかの役割を演じているだけの存在であるわけではない。

 民放がテレビドラマを作るとき、名の通った俳優やタレントやアイドル――たがいにどう違うのかわからないが――を使う代わりに、出演者のすべてを無名の役者や完全な素人から選ぶことは不可能ではないし、ドラマの質だけを考慮するなら、その方がすぐれた作品が出来上がるかも知れない。しかし、顔を見たこともない、名前を聞いたこともない出演者ばかりが画面に登場するドラマなど、民放の番組の普通の視聴者は興味を示さないであろう。視聴者が見たいのは、ドラマではなく有名な芸能人だからである。

 そして、芸能人に人々が注目するのは、露出の機会が多いからだけではなく、むしろ、本質的には、平均的な日本人の生活から何らかの仕方で乖離した生活を送っているように見えるかぎりにおいてである。だから、芸能人の私生活は、よくわからないままであるか、あるいは、いくらか風変りであるのが望ましいことになる。芸能人の生活を覗き見た普通の視聴者が、自分の生活と大して変わらないという感想を抱くことがないようにすることは、芸能人にとって必須である。ある芸能人がごく平均的な生活を送っているとしても、自分のごく平均的な生活をあるがままに暴露したら、その芸能人は、自分の評判を少なからず傷つけることになるはずである。

 だから、芸能人の言動は、それが本当の意味における犯罪に当たるものでないかぎり、これを世間の普通の尺度で評価してはならない。世間の常識をよくわきまえ、小市民的な生活を送っていることを公言する芸能人というのは、どのような状況のもとでも決して魅力的ではないけれども、特に世間が不況に苦しんでいるときには、魅力に乏しいばかりではなく、有害ですらあるように思われる。このような芸能人の生活を垣間見ても、模範的な家庭生活の退屈な見本を見せられるだけだからである。

 むしろ、芸能人に社会的な使命があるとしても、それは、模範的な生活を人々に示すことではない、謎に満ちた生活、微妙にいかがわしい生活、普通の人間には真似ができないような派手な生活、あるいは、極端に禁欲的な生活など、標準からはずれた暮らしを人々の前で演じることにより、人々がくすんだ日常を忘れたり、励まされたりする点にある。だから、テレビ番組や映画に出演するだけではなく、画面の外部においてもまた、芸能人は、普通の市民ではなく、芸能人としてふるまうことが望ましい。ウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」(1985年)は、1930年代のハリウッドのスターが社会に対しこのような役割を担っていたことを教えてくれる。


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 実際、当時のハリウッドを代表するスターの一人ジョーン・クローフォードは、大恐慌の時代、人々が不況に苦しみ、社会的な不安の中で節約に努めているとき、あえて派手な生活を演じ、非日常を人々に見せることがスターの社会的な使命であるという自覚のもと、次のように語ったと伝えられている。(微妙に異なるバージョンがあるようであるが、ここでは最大公約数的なものを記す。)

私はジョーン・クローフォードです。私はドルを信用しています。私は、稼いだものは全部使います。

I am Joan Crawford.  I believe in the dollar.  Everything I earn, I spend.

 平均的な日本人の中に溶け込み、「等身大」の「普通」の存在になることは、芸能人の社会的な使命の放棄以外の何ものでもないと私は考えている。(「会いに行けるアイドル」など、もってのほかである。)

 むしろ、芸能人が、良心の欠如が疑われるような仕方で派手な不倫を経験したり嘘をついたりしても、小市民的な(善悪でしかものを評価することのできない狭量な)道徳的尺度をこれに適用してはならず、むしろ、それもまた一種のドラマとして楽しむべきであるように思われるのである。

pinocchio

「事実に反している」だけでは偽ニュースにはならない

 以前、偽ニュースについて、次のような記事を書いた。


虚偽の拡散と心理戦 : アド・ホックな倫理学

11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。偽ニュース、小児性愛、ヒラリー


 言うまでもないことであるかも知れないが、「偽ニュース」というのは、普通には、虚言の一種と見なされている。もちろん、ある文が虚言であるためには、それが事実に反しているだけでは十分ではない。実際、事実に反する情報というのは、身の回りにいくらでもあり、私たちは、これと共存している。

 たとえば、一般に「時代小説」と呼ばれているものの内容は、事実に反する情報ばかりであるかも知れない。そこでは、架空の登場人物の言動が、あたかも実際に見てきたような仕方で語られる。これは、明らかな虚言である。また、実在の人物が作品に登場する場合でも、この人物の語る言葉が事実のとおりであったはずはない。池波正太郎は、江戸時代に生きていたわけではない。当然、彼の作品に登場する田沼意次が語る言葉は、池波自身がその場に立ち会って耳にしたことの再現であるはずはない。また、時代小説を読むとき、読者は、その都度あらかじめこのような事情を承知している。すなわち、読者は、第1に、現実の田沼が何を語ったかを知らなくても、池波が語っていることが事実のとおりではないことを理解し、それとともに、第2に、事実に反する情報が含まれているからという理由によって『剣客商売』を虚言のかたまりとして斥けることはないのである。これが、事実に反する情報との共存である。

虚言が罪かどうかは、相手が「真実を聴く権利」を持つかどうかによる

 アウグスティヌス以来、ある文が虚言と見なされるには、2つの条件が必要であると考えられてきた。すなわち、事実に反していることと、他人を欺く意図にもとづいて発せられていること、この2つの条件を同時に満たすとき、虚言は虚言となり悪となるとアウグスティヌスは理解する。つまり、他人を欺く意図の有無が虚偽と真実を分けると考えられてきたことになる。(誠実であることは、神に対しても人に対してもひとしく義務であるという了解が前提となっている。)

 文学作品の場合、そこに含まれる情報が事実に反するものであるとしても、虚言とはならないのは、他人を欺く意図が見出されないからである。つまり、事実に反する情報と同時に、この情報が事実ではないことを読者に知らせる何らかのサインがどこかで示されているのである。事実に反する情報を事実に反する情報として提示するかぎり、これは、虚言とはならない。

 このかぎりにおいて、他人を欺く意図というのは、明瞭な標識であるように見える。とはいえ、ここには、ある重大な問題がある。たとえば、不治の病に侵されている患者を励ますため、「大丈夫ですよ、きっと治りますよ」と言うのは、厳密に考えるなら、嘘をついていることになる。しかし、この嘘は悪であるのか。あるいは、誘拐犯を逮捕するため、身代金を渡すと偽って犯人を呼び出すのも、犯人に本当のことを隠しているという意味では、虚言に当たる。

 これは、アウグスティヌスが虚言を定義したのと同時に提起した問題である。つまり、2つの条件によって虚言を規定することにより、善意ないし必要によって嘘をつくことは悪であるのか、という問題が惹き起こされるのである。

 近代以降、この問題を取り上げた人々のあいだで正統的とされてきた解決策は、次のようなものである。すなわち、私たちは誰でも、「真実を言う義務」を負っているが、この義務を果たさなければならないのは、「真実を聴く権利」を持つ者に対してだけである、これが、善意ないし必要にもとづく嘘について受け容れられてきた枠組みである。この考え方に従うかぎり、犯罪者、敵国、幼児、精神疾患を患っている者などには、「真実を聴く権利」がないから、嘘をついてもかまわないことになる。

偽ニュースは「真実に耐える力」を試練にかける

 事実に反することを欺く意図をもって述べると虚言になり、このかぎりにおいて、虚言はさしあたり悪であるが、「真実を言う義務」は、「真実を聴く権利」に対応するものであるから、「真実を聴く権利」を持たない者には、嘘をついてかまわない。しかし、これが虚言に関する基本的な枠組みであるなら、偽ニュースを流布させることは、それ自体としては罪には当たらないかも知れない。

 たしかに、偽ニュースが誤って(虚偽から区別された)真実として受け取られ、偽ニュースにもとづいて何らかの行動が惹き起こされるということがないわけではない。そして、これは、「真実を聴く権利」の侵害に当たるから、このとき、偽ニュースは、斥けられるべき虚言となる。

 しかし、偽ニュースは、虚言からは根本的に区別されねばならない。一般に、虚言は、真実として通用するかぎりにおいて虚言である、という根本的な特徴がある。言い換えるなら、虚言が虚言であることが露呈するとともに、虚言はその力を失い、「破綻した虚言」あるいは「虚言の残骸」となる。虚言は、みずからの正体を偽ることにおいてのみ虚言なのである。「真実を聴く権利」なるものが意味を持つのは、そのためである。

 ところが、偽ニュースの場合、これが事実に反するものであることが具体的な証拠によって明らかにされても、偽ニュースとしての力を失うことはない。虚言が「真実として」伝えられて行くときにのみ虚言でありうるのに反し、偽ニュースは、偽ニュースとしての素姓が明らかになっても通用し続ける。偽ニュースというのは、事実に反しているといくら指摘されても消滅しないのであり、この意味において、抗生物質が効かない多剤耐性菌のようなものである。

 したがって、問題は、偽ニュースを作る者にあるのではなく、これを受け容れ、伝播させ、流布させる者の側にある。虚言が罪に当たるかどうかを判定する場合、もっとも重要であったのは、「真実を聴く権利」であり、「真実を聴く権利」を持つ者に嘘をつくことは罪に当たる。しかし、偽ニュースは、真実を聴く「権利」ではなく、むしろ、「真実に耐える力」を試練にかけ、人間にみずからの弱さを自覚させることにより、「真実に耐える力」が、「真実を聴く権利」や「真実を言う義務」よりもさらに根源的な仕方で人間の人間らしい生存を支えるものであることを教えているように思われるのである。

subway, Tokyo

ロングシートはなぜか両端から埋まって行く

 電車に乗ると、固定された座席があるのが普通である。(何年か前、通勤時間帯だけ座席が畳まれ、誰も着席できないようになる車両が東京のJRのいくつかの路線に導入されたけれども、これは、廃止されるようである。)座席が空いていれば、ここに坐るのもまた、ごく普通の行動であろう。

 それでは、座席が空いているとき、どこに坐るのか。しかし、これが問題になるのは、車内に設置されている座席が「ロングシート」のみの場合である。ロングシートとは、車両の長辺の壁に沿って、窓を背にして坐るような形で固定された長い座席のことである。首都圏の電車の座席は、JRも私鉄も、一部の特急やグリーン車を除き、ほぼすべてロングシートである。なお、ロングシートではない座席、つまり、新幹線のような配列の座席はクロスシートと呼ばれているらしい。首都圏の路線でも、郊外に出て行く路線を走る車両には、このクロスシートとロングシートの混合型(セミクロスシート)が導入されている。調べたわけではないが、大都市圏以外を走る日本の電車の座席の大半がセミクロスシートなのではないかと思う。

 ロングシートの場合、1つの座席に6人から7人が着席可能である。もちろん、空いているスペースが1つなら、着席する場所に選択の余地はないけれども、6人分あるいは7人分のすべてが空いているとき、つまり、誰も坐っていない座席に私が最初に坐るとき、一列に並ぶ6人分ないし7人分の座席のどこに坐るべきかというのは、真面目に考えるに値する問題であるかも知れない。というのも、この場合、どこに坐るかは、私の自由な決定に完全に委ねられているからであり、そこには「無差別の自由」(liberum arbitrium indifferentiae) が与えられているように見えるからである。

 とはいえ、私の観察の範囲では、不思議なことに、誰も着席していないロングシート、つまり、6人分から7人分がすべて空いているロングシートを前にするとき、大半の乗客は、左右いずれかの端に坐る。なぜ端に坐るのか、私にはよくわからないけれども、そこにあるのは、「無差別の自由」ではなく、むしろ、何らかの優先順位が乗客一人ひとりのうちにあらかじめ形作られているのであろう。実際、これも私の観察の範囲ではあるが、端から2番目の座席に坐っている客は、端の席が空くと、なぜか空いた端の方に移動することが多い。

よどみとしての端

 ロングシートの両端から埋まって行くのが全世界に共通の傾向であるのか、それとも、特殊日本的なものであるのか、私は知らない。とはいえ、完全に空いているロングシートを前にして端に着席する者は、車内の空間を別の何かに不知不識になぞらえているように思われる。

 電車の車内の空間の形状は、大雑把に言うなら、長方形である。そして、モノ、乗客、空気などは、基本的にはすべて、長辺に沿って、車両の進行方向または反対方向へと流れて行く。これらは、前後に連結されている別の車輌へと流れて行くこともある。反対に、進行方向を横切る形でモノや乗客や空気が2つの壁のあいだを移動することは稀である。

 このような方向の軸を強く自覚するとき、ロングシートの端にはある役割が与えられる。つまり、ロングシートの端は、車両の中で、2方向が区切られた唯一のスペースであり、河川になぞられるなら、そこは、流れが停滞する「淵」や「よどみ」に当たる部分なのである。ロングシートの端には、車両の前後方向へのモノや乗客や空気の奔流から身を守る「隠れ場」ないし「居場所」としての役割が期待されていると言うことが可能である。

 クロスシートのみの車輌の場合、車両の長辺と直交する背もたれによって進行方向の軸が断ち切られている。クロスシートでは、窓際の席が「淵」や「よどみ」に当たるけれども、私の個人的な観察の範囲では、クロスシートにおける窓際の選好順位は、ロングシートにおける両端の選好順位ほどには高くないように思われる。

あえて中央に坐ってもよい

 なお、私自身は、おそらく圧倒的な少数派なのであろう、誰も着席していないロングシートに坐るときには、原則として中央に坐る。私の体格は、私の同世代の中では平均サイズであろうと思う。それでも、左右に誰もいない方がラクであるし、見晴らしもよい。(また、非常に実際的な話になるけれども、7人がけのロングシートの中央に最初に坐ると、私の左右は、選好順位のもっとも低い座席になり、最後まで埋まらなくなる。中央にすでに誰かが坐っているロングシートを見て、2番目の客が先客の隣の席を選ぶことはまずないからである。

 なお、私は、カフェテリア方式の食堂に長いテーブルに坐るときにも、全部が空いていれば、中央の席を選ぶことが多い。

 たしかに、混雑した電車でロングシートの中央に坐っていると、相当な圧迫感に襲われる。電車から降りるのに時間が少しかかることも事実である。ただ、両端に身を置いても、事情はあまり違わないはずである。


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