AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

Japanese sweet / Hydrangea 1

 1週間に1日か2日、平日の午前中で仕事が終わりになることがある。そのようなときは、天気がよければ、職場から自宅まで歩いて帰る。鉄道の駅にすると5個――「5区間」と言うべきか――分だから、大した距離ではない。私は、必ずしも足が速くはないが、それでも、1時間弱で自宅に辿りつく。ただし、それは、まったく寄り道しなければ、の話である。

 職場から自宅まで歩いて帰る場合、その途中に、小さな駅の周辺に広がる小さな商店街がいくつかある。このような商店街にある飲食店で昼食をとったり、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりしていると、相当な時間がかかってしまう。自宅の近所は、幹線道路に近いせいか、スーパーマーケットが1軒あるだけで、まともな商店街はない。だから、このような商店街を通り抜けるとき、洒落たパン屋、洒落た喫茶店などを見かけると、どうしても立ち止まってしまうのである。

東京の和菓子屋は減り続けている

 特に、歩いて帰るときに必ず立ち寄って買いものすることにしているのが、ある商店街に店を出している個人経営の和菓子屋である。私は、酒を飲まない分、甘いものをよく食べる。特に、和菓子は大好物である。

 信頼できる統計はないようであるけれども、東京では、和菓子屋、特に、個人が経営する路面店の和菓子屋は、この20年くらいのあいだに、その数をずいぶん減らしたように見える。都心やターミナル駅の周辺なら話は別なのであろうが、私が暮らしている杉並区などでは、個人経営の和菓子屋は、もはや数えるほどしか残っていない。

 私が小学生のころ、自宅の最寄り駅の近くには和菓子屋が4軒あり、自宅の近くにも2軒あったのだが、今は、駅前に1軒が残るだけである。同じように、あんみつや汁粉、ぜんざいなどを出す甘味処も、なぜか決して多くはない。(私の知るかぎり、甘味処の店内は「年寄りばかり」であることが多く、そのせいで忌避されているのかも知れない。)

 これに対し、京都には和菓子屋が非常に多い。下のデータによれば、都道府県別では、和菓子屋が全国でもっとも多いのは、やはり京都府のようである。

第57回【全国ランキング】

 京都には、全国的に名を知られる有名店が少なくないけれども、そればかりではなく、街を歩いていると、個人経営の和菓子屋をよく見かける。人口当たりの和菓子屋の数は、東京の10倍くらいあるような気がする。京都には、それだけ和菓子の需要があるということなのであろう。和菓子の好きな私のような者にとっては、うらやましい状況である。

 なお、京都の和菓子屋の新作を写真で紹介する下のようなブログもある。私は、毎日、これを眺めてよだれをたらしている。

きょうの『和菓子の玉手箱』

和菓子は非日常の食べものになりつつあるのか

 しかし、和菓子屋の数が需要と供給の関係を反映するものであるなら、東京から和菓子屋が消えて行くのは、和菓子の需要が少ないからであると考えねばならない。また、事実はそのとおりなのであろう。

 たしかに、新宿、渋谷、銀座などの繁華街、特にデパ地下には、相当な数の和菓子屋が出店している。しかし、このような場所に出店しているのは、多くは京都に本店があり、全国にいくつもの支店を持つ有名店であり、販売されているのは、(私の勝手な思い込みでないとするなら、)手土産として訪問先に持参するためのものか、あるいは、自宅に来た客に出すためのものか、あるいは、茶会で出すためのものかのいずれかである。つまり、日常生活において和菓子を自分で購い、自分で消費するなどということは、最初から想定されていないように見えるのである。

 どら焼き、羊羹、最中、まんじゅう、たい焼きなどばかりではなく、いわゆる「上生菓子」に分類されるようなものを含め、和菓子は、決して非日常の特殊な食べものではなかったはずである。少なくとも、私自身のこれまでの食生活において、和菓子について、これを非日常的なものと受け止めたことはなかった。また、和菓子が本質的に非日常的なものであるなら、上生菓子を製造、販売する和菓子屋が地域にあれほどたくさんあったはずはないように思われるのである。

 このような点を考慮するなら、個人経営の和菓子屋が地域から姿を消したのは、和菓子全体の需要が減少したというよりも、なぜかよくわからない理由によって和菓子が非日常に属する小道具と見なされるようになったからであると考えるのが自然である。和菓子というのは、日本の食文化の繊細な側面を代表する食品であり、日常において消費されることで、日本らしい繊細な「味わい」を学ぶよすがとなるものであり、このかぎりにおいて、日本の食文化の不可欠の構成要素である。和菓子が日常から姿を消しつつあるとするなら、それは、日本人の食生活の野蛮化と幼稚化を、そして、日本の食文化の堕落を意味しているように私には思われるのである。


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 何日か前、次のような記事を書いた。


JASRACが横暴であるかどうかは、音楽教室が「教育機関」であるかどうかによる : アド・ホックな倫理学

音楽教室に使用料の支払いを求めるのは横暴か 昨日、次のようなニュースを見た。音楽教室から使用料徴収へ JASRACが方針決定 | NHKニュース JASRAC(日本音楽著作権協会)は、音楽教室等での楽曲や楽譜の使用について使用料を徴収することを決め、これに対し、音楽教


 上の記事で書いたのは、次のようなことである。すなわち、

    1. 著作権法第35条第1項により、教育目的での楽曲の使用に関しては、著作権者への許諾申請も使用料の支払いも不要であるが、それは、あくまでも、いわゆる「一条校」の、しかも正課および試験での使用に限定されていること、
    2. 音楽以外の著作物の使用については、学習塾や予備校など、「一条校」以外の学校は、「営利目的」の教育機関と見なされたため、著作権法第35条第1項の適用を受けず、著作物の使用料を支払ってきたこと、
    3. したがって、いわゆる「音楽教室」での楽曲の使用に関し使用料を徴収するというJASRACの意向は、常識にいちじるしく反しているように見えるが、著作権法上は、決して突飛なものではないこと、
    4. むしろ、「音楽教室」での楽曲の使用を無料にすべきであるという主張の方が、音楽以外の著作物に関する著作権法上の慣行とのバランスを考慮するなら、そのままでは無理があること、

このようなことを書いた。

「著作権者が望まない仕方で作品が使用されること」を阻止する権利を著作権者に認めているのが著作権法

 たしかに、著作権法第35条第1項のこれまでの運用の実態や過去の判例を突き合わせるなら、「音楽教室」側がみずからの見解をJASRACに認めさせるのは、現状では困難であろう。

 「音楽教室」にできることがあるなら、それは、音楽が他の著作物とは決定的に異なる特殊な性格を具えていることを主張するか、あるいは、著作権法第35条第1項を「一条校」以外にも適用すべきであると主張し、音楽以外の著作物の著作権を含め制度の根本的な見直しを求めるか、いずれかに限られるように思われる。

 ただ、この問題について態度を決めるにあたり、1つ確認しなければならないことがある。それは、法律によって著作権が保護されている理由である。つまり、「著作権」が「保護」されているとはどのような状態を指すのか、この点に立ち戻ることにより、「音楽教室」とJASRACのあいだの対立がどのようなものであるのか、中立的な観点から眺められるようになるかも知れない。

 著作権の保護について、これが「作品が使用されることによって得られる利益を著作権者が確実に手に入れることができるようにするための制度」であると普通には信じられているようである。たしかに、ある作品が複製され流通することによって多くの利益が発生しているのに、その利益が作品の著作権者にまったく還元されないというのは、決して好ましいことではない。また、著作権法のおかげで、著作権が保護され、作品の使用料が著作権者に対して支払われるシステムが機能していることも事実である。

 しかし、著作権の保護は、カネためだけにあるのではない。著作権法は、著作権者に無断で著作物を複製したり配布したりすることを原則的に禁じることにより、(カネの問題を含め)「著作権者が望まない仕方で作品が使用されること」全般を阻止する権利を著作権者に認めているのであり、これが著作権なるものの基本的な考え方である。

 たとえば、何らかの理由で高校野球嫌いを公言しているミュージシャンが、甲子園で行われる高校野球大会(正式には「全国高等学校野球選手権大会」と言うらしい)の入場行進曲に自分の作品を使いたいという申し出を受けた場合、このミュージシャンには、この申し出を拒絶する権利が与えられている。自分のブランドが傷つくおそれがあるからである。同じ理由によって、アダルトゲームのBGMとして自分の楽曲を無断で使用されたミュージシャンには、ゲームの回収、販売中止、賠償を求める権利が認められるであろう。(カネさえ払えば何にでも使えるわけではない。)

 法律によって保護される著作権の実質は、公衆に対する自分の作品の露出をコントロールする権利なのである。

条文の機械的な適用ではなく、著作権の趣旨に戻って使用料の徴収の是非を考えるべき

 とはいえ、これは、著作権の行使のきわめて原始的な形態であり、ある程度――どの程度かは私にはよくわからないが――以上名の通ったミュージシャンの場合、著作物の使用の許諾申請は、膨大な数になるから、これを一々自分で決裁している余裕などないはずである。そこで、ミュージシャンは、著作権管理を請け負う団体と契約して窓口になってもらい、みずからは使用料だけを受け取ることになる。JASRACは、このような団体を代表する存在である。

 JASRACは、無断で楽曲が使用されていないか、つねに監視しているようであるけれども、もちろん、その本来の趣旨は、著作権者に対し利益を確実に還元することであり、自分では楽曲の使用状況を監視することができない著作権者へのサービスである。(本当に利益が還元されているかどうかについては、私は知らない。たとえ利益が還元されていないとしても、それは、JASRACという団体のガバナンスの問題であり、法律や制度の問題ではない。)

 なお、音楽の著作権の管理については、JASRACによる事実上の独占状態になっているけれども、音楽以外の普通の著作物には、このような大きな管理団体はない。文学に代表されるクリエイティヴな言語作品の場合、著作権を管理する団体としてもっとも大きいのは日本文藝家協会であり、著作物の使用料は、この日本文藝家協会の提示する基準を目安にして支払われることが多い。ただ、日本文藝家協会は、著作権の管理について独占的な地位を占めてはいない。むしろ、著作権を自分で管理し、使用許諾申請を一々自分で決裁している著述家の方が、数としては圧倒的に多い。

 JASRACは、著作権の管理を委ねられているだけであり、JASRAC自身が著作権を持っているわけではない。JASRACがどれほど独占的な地位を占めていても、いや、その地位が独占的なものであるだけに、JASRACには、好むと好まざるとにかかわらず、公共の福祉に対しいくらかの責任があると考えるのが自然である。

 この観点から事柄を眺めるなら、最初に、そして、つねに立ち戻らなければならないのは、上で述べたような著作権の趣旨であるに違いない。すなわち、著作権の管理は、楽曲の好ましい使用を促進し、そして、好ましくない使用を阻止するような仕方で行われるべきものなのである。

 音楽文化の発展や音楽産業の振興にとり、「音楽教室」が肯定的な役割を担っていると見なすことができるのなら、楽曲の使用料を徴収しないことは可能であろうし――実際、これまで支払いは猶予されてきた――反対に、JASRACから見て、音楽文化や音楽産業に対する「音楽教室」の影響が否定的、破壊的なものであるなら、使用料を徴収するのではなく、むしろ、JASRACの責任において、著作権で保護されたあらゆる楽曲の使用自体を差し止めるべきであろう。

 たしかに、JASRACの規模が大きいだけに、このような判断には、つねに重い責任がともなう。音楽をめぐる状況全体に歪みを与えてしまう危険があるからである。しかし、著作権者から著作権を預かり、これを武器として社会に影響を与えうる立場にある以上、JASRACはこのような重大な判断から決して逃げてはならないと思う。もっともよくないのは、楽曲の使用状況をめぐる評価をすべて素通りし、「使うならカネを払え/カネを払わないなら使うな」という単純な要求へと逃げ込むことであろう。これは、野蛮な思考停止と責任回避以外の何ものでもないように私には思われるのである。


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 わが国は、一応、民主主義国家であり、また、法治国家でもある。さらに、国民は、ほぼ完全な言論と表現の自由を与えられ、政治的な発言が取り締まりの対象になることは原則としてない。

 しかし、日本の現状は、世界的に見るなら、例外に属する。世界では、民主主義も法治主義も言論の自由もない国の方が多数である。つまり、私たちが社会生活の当然の条件と見なしていることのかなりの部分は、世界の多くの国では通用しない。ただ、念のために言っておくなら、私は、ここで、「だから、日本はすばらしい」と主張したいわけではない。

 日本人は、このような状況のもとで、ある自由を与えられている。それは、広い意味における精神の自由、内面の自由である。それは、たとえば次のようなことである。

 私たちは、直接税や間接税の形で、さまざまな税金(や社会保険料)を国や自治体に納める。(厳密に言うと、社会保険料は税金ではないが、支払う側にとっては、同じようなものである。)たしかに、これは、法律で定められた義務である。とはいえ、私たちは、納付期限までにただ税金を払えばよいのであり、「よろこんで、まっさきに納税する」ことを要求されているわけではない。

 同じように、法律に従うことが必要である場合にも、求められているのは法律に従うこと、あるいは、法律に違反しないことであり、「法律によろこんで従う」ことは必要ではない。自動車を走らせていて交差点で信号が赤になったとき、要求されているのは、ただ「停止すること」であり、「よろこんで停止すること」ではない。これは、誰が考えても明らかであろう。

 官僚や政治家に陳情するとき、相手の神経を深刻な仕方で逆撫でしたら、あなたは話を聴いてもらえないかも知れない。そして、本来なら得られたはずの利益を逸する可能性がある。それでも、相手を脅迫したり侮辱したりするようなことがないかぎり、あなたが逮捕されることはない。(せいぜい、役所から追い出される程度である。)わが国では、法律に忠実であればよいのであり、権限を越える範囲において官僚や政治家に忠実である必要はないからである。

 あなたが何かの理由でわが国の総理大臣に面会し、その席で、総理大臣があなたに何か冗談を言い、しかし、その冗談が面白くなかったため、あなたが即座に「その冗談は面白くない」と総理大臣に直に言ったとする。もちろん、総理大臣は、大いに気を悪くするであろうが、だからと言って、あなたが逮捕されたり射殺されたりする危険はない。なぜなら、総理大臣に与えられている権利や権限はすべて、法律で定められており、下らない冗談にあなたが同調しなかったからと言って、あなたを逮捕したり射殺したりするなど、法律が許さないからである。あなたは、総理大臣を前にして緊張することはあっても、相手が総理大臣としてふるまっているかぎり、あなたと対等の存在であり、したがって、総理大臣に恐怖を覚えることはないはずである。法を逸脱した形であなたに危害が及ぶ可能性がないからである。

 しかし、独裁者あるいは独裁国家においては、事情は異なる。独裁国家の法律は「よろこんで」従うべきものである。また、独裁者には「よころんで」従わなければならない。だから、ある独裁者が口にした冗談がどれほど下らないものであっても、これに同調しなければ、その場で逮捕されたり射殺されたりする惧れがある。(いや、反対に、独裁者の下手な冗談に同調したことが理由になって逮捕されたり射殺されたりすることもありうる。)だから、わが国の総理大臣とは異なり、独裁者は、あなたの心に恐怖を惹き起こすはずである。

 独裁国家においてもっとも優先的に知るべきことは、誰が権力を持っているのかということであり、もっとも重要なのは、権力を持つ者の機嫌を取ること、あるいは、少なくとも、相手を怒らせないことである。独裁者(たち)が「何をするかわからない」以上、そこには、対等な関係は成り立たないのである。(だから、体制に対する忠誠を言動によって示すよう「自発的に」「駆り立てられる」ことになる。)

 しかし、独裁者(たち)の側から見ると、この「何をするかわからない」自由を手に入れ、民衆がこれに恐怖を抱くこと、そして、自分のことを怒らせないようにしたり、機嫌を取ったりするために努力することが、独裁の魅力となる。この魅力は、麻薬のようなものであり、この麻薬が、権力の上層から下層に向かって浸透し、社会を腐敗させてゆくのである。

 日本でも、「ミニ独裁者」は、社会のいたるところにいる。ただ、幸いなことに、明治以降、社会全体が長期間にわたり独裁的な体制のもとにあったことはなく、また、現在のことろ、わが国が独裁国家になる兆候はない。(北朝鮮や、最近のアメリカを見るにつけ、)これは、わが国にとり、とても幸運なことであるように思われる。


Waste separation wall in Cologne/Germany

ゴミの分別は大雑把な方がラクである

 私は、東京都杉並区に住んでいる。杉並区では、ゴミの収集は、「可燃」「不燃」「古紙・ペットボトル」「びん・缶・プラスチック製容器包装」の4種類に分けて収集される。可燃ゴミが週に2回、不燃ゴミが月に2回、あとはそれぞれ週に1回である。ただし、杉並区の場合、これらとは別に、資源としてリサイクルされるような金属等を含む製品については、区内の指定された回収場所に自分で持って行かなければならない。

 以前に何年か住んでいたことのある西日本の某政令指定都市では、分別の指定がもっと細かく、非常に苦労した。東京は、全国の中では、分別が大雑把な方であるのかも知れない。次の本によれば、ゴミを34種類に分別することを住民に求めている自治体もあるようである。(無精な私は、この本を読んだとき、このような自治体の住民ではないことの幸運を実感した。)

ゴミ分別の異常な世界 リサイクル社会の幻想

 狭いアパートに独り暮らしの場合、ゴミの分別の指定が細かいというのは、あまりありがたくない。ゴミとして出す予定のものを分別し、部屋の中に置いておかなければならず、これがかなりの場所を占領するからである。ゴミ袋に入れて集積所に出すのではなく、ヨーロッパの一部の国のように、ゴミの種類ごとに分かれた大きなダストボックスが集積所に常時設置されていれば、ゴミを家の中で管理する必要がない分、分別がもっと楽になるのに、といつも思っていた。(安全面や衛生面で予想される問題があるのであろう。)

分別の徹底と「開封調査」がまず惹き起こすのは「コスト」の問題

 実際、誰が考えてもわかるように、ゴミの分別の指定が細かくなれば、それだけ、ゴミの分別のために住民一人ひとりが負担しなければならないコストは増大する。

 この場合の「コスト」が意味するのは、カネばかりではない。むしろ、ゴミの分別には、体力、手間、時間、そして、収集日を待つゴミが住居の内部で占有するスペースが必要であり、これらがゴミの分別にとって避けることのできないコストとなる。

 もちろん、暇とエネルギーを持て余した「意識が高い」分別マニアにとっては、ゴミの分別は、いかなる意味でも「コスト」ではないかも知れないが、他にもなすべきことがたくさんあり、しかも、ゴミの分別の生活における優先順位が決して高くはない人間、つまり普通の人間にとっては、ゴミの細かい分別はコスト以外の何ものでもないように思われる。

 多くの自治体は、住民に対し、ゴミの分別を徹底するよう平然と要求するし、さらに、いくつかの自治体では、ゴミの分別が正しく行われているかどうか、「開封調査」なるものが行われているようである。(ゴミの分別は、それ自体としては法的な義務ではないから、自治体は、開封調査を実施し、分別に協力しない者を「晒し者」にすることで、分別を徹底させようとしているわけである。)

 また、「開封調査」を行うと公表してはいなくても、ゴミを回収したあと、最終的に処分する前に、全部のビニール袋を開けて中身を目視で点検し、分別し直す自治体は少なくないようである。私が住んでいたことのある西日本の某政令指定都市が発行するパンフレットには、回収したゴミ袋をすべて開封し、内容物をベルトコンベアーで移動させながら、防護服のようなものを身につけた職員が手作業でゴミを分別し直している写真が掲載されており、私は、この写真を見て、背筋が凍る思いがした。

 たしかに、他人事として考えるなら、ゴミの分別が好ましくないはずはない。ただ、分別の意義は、無条件の絶対のものであるはずはなく、あくまでも「分別のコスト」との関係で決まるはずである。ゴミの分別を徹底するよう住民に要求することは、分別のコストを負担するよう住民に要求するのと同じことである。

 自治体は、分別の徹底を求めるのなら、分別のメリットを住民に明示すべきであろう。それは、当然、「環境にやさしい」とか「資源のリサイクルになる」などといった抽象的なものであってはならない。資源のリサイクルへの貢献を名目として家庭から排出するゴミを自主的に分別することは、住民にとっては何のメリットもない単なる「勤労奉仕」だからである。

 ゴミの分別を徹底させよることを望むのなら、目に見える形の費用対効果(住民税が安くなるとか、開封調査に自発的に応じるたびに100円分の金券がもらえるとか、首長が表彰するとか)――つまり「餌」――を提示することは、自治体の義務である。そして、この義務を前提として、ゴミの厳密な分別のコストを住民に対し公然と要求する権利が初めて発生すると考えるべきである。

 ゴミの分別の徹底と「開封調査」について、憲法違反や違法の疑いを投げかける人がいる。私は、このような人々の声が間違いであるとは思わない。(というよりも、この点に関し、今は判断を控える。)

 たしかに、上に述べたように、「開封調査」は、違反者を「晒し者」にすることで住民を威嚇し、自治体の意向に従わせようとするものであるから、このような措置に何らかの問題を指摘することはいくらでも可能であるには違いない。ただ、ある自治体に住み、その地域の暮らしの当事者であるかぎり、憲法で認められた権利の一部を自発的に放棄したり制限したりすることはつねにありうる。だから、ゴミの分別と「開封調査」に関するかぎり、法律上の問題があるとしても、それは、ゴミの分別を要求したり、「開封調査」を実施したりすることの意義をただちに損なうわけではない。むしろ、根本的なのは、ゴミの分別が住民に強いるコストの問題である。ゴミの分別のコストばかりを要求され、それに対する見返りが何もないから、ゴミの分別が徹底されないのである。分別のコストを自発的に負いたくなるような「餌」が提示されないかぎり、ゴミの分別が徹底されることはないに違いない。


Aulas com Henrique Bergamo, Sesc da Esquina

音楽教室に使用料の支払いを求めるのは横暴か

 昨日、次のようなニュースを見た。

音楽教室から使用料徴収へ JASRACが方針決定 | NHKニュース

 JASRAC(日本音楽著作権協会)は、音楽教室等での楽曲や楽譜の使用について使用料を徴収することを決め、これに対し、音楽教室は反発しているようである。

 JASRACの今回の決定は、当事者には不当に見えるかも知れないし、作品が実際に使用される状況を考慮するなら、非常に違和感のあるものであるけれども、残念ながら、著作権法上は、何ら問題ないように思われる。むしろ、これから述べるような理由によって、私自身は、これまで使用料が徴収されてこなかったという事実の方に軽い驚きを覚えている。

 JASRACの決定を評価するに当たって、誰もが思いつく基準は、上のニュースで専門家が語っているように、音楽教室での楽曲の使用が「公衆に聞かせるための演奏」に当たるかどうか、という点であろう。ただ、音楽教室で、たとえば楽器を使った演奏の技術を教えるために楽曲が使用されるかぎり、これが「公衆に聞かせるための演奏」に該当しないことは明らかであり、この観点から眺めるなら、JASRACの決定は不当であるようにも見える。

 しかし、「公衆に聞かせるための演奏」であるかどうかに関係なく、JASRACは、音楽教室から使用料を徴収する権利を主張するであろう。それは、音楽以外の著作物の著作権については、不特定多数への配布を前提としているかどうかに関係なく、著作物の使用料が支払われているからである。

学校での教育目的の使用には、使用料を支払わなくてよいことになっている

 著作物を複製しても、使用料を支払う必要がない場合がある。それは、教育機関において教育目的で使用される場合である。これは、著作権法第35条で認められている適用の除外例である。

 著作権法第35条第1項には、「学校その他教育機関(営利を目的として設置されているものを除く)」で教育を目的に使われる場合には自由に複製してかまわないと定められている。だから、学校の授業で新聞や雑誌の記事、本の一部をコピーして教室で児童、生徒、学生に配布する場合、事前の許諾は必要ないし、使用料の支払いも不要である。入学試験(国語や小論文)で誰かの著作物を使用するときも、事情は同じである。

 実際、JSARACも、著作権法第35条に該当する場合には事前の許諾を求めていないし、使用料も徴収していない。

ジャスラの音楽著作権レポート(JASRAC PARK)

 ただ、このような話をうけ、私たちは誰でも、次のような疑問を抱くはずである。すなわち、今回問題になっている「音楽教室」というのは、一応「教育機関」なのではないか、という疑問が心に浮かぶに違いない。

 この点に関し、著作権法には、「教育機関」について、「営利を目的として設置されているものを除く」という但し書きが付されている。JASRACの理解では、いわゆる「音楽教室」は、教育機関であっても、「営利を目的として設置されているもの」に分類されるのであり、だから、使用料の支払いは当然であるということになるのであろう。

「一条校」以外の学校は使用料を支払ってきた

 それでは、「営利を目的として設置されているものを除く」「教育機関」とは何であるのか。この点について明確な基準があるわけではないようであるが、法律のこれまでの運用と過去の判例を見るかぎり、著作権法の条文にある「学校その他教育機関(営利を目的として設置されているものを除く)」というのは、事実上、学校教育法第1条に定められたいわゆる「一条校」(「幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校」)である。したがって、著作権法第35条第1項は、「一条校の授業や入学試験で使用される場合にかぎり、許諾申請も使用料の支払いも不要である」という意味に理解しなければならないことになる。

 実際、小学校、中学校、高等学校、大学の授業、入学試験、定期試験等では、(新聞、雑誌、書籍の抜粋など)は自由に複製されており、いつ、誰が、何を、どのくらい複製しようと、著作権者に許可を求める必要はない。しかし、以前から、学習塾や予備校が作成する教材や試験(国語や小論文)で著作物が使用されるときには、原則として事前の許諾申請、および、事後の使用料の支払いが義務づけられている。これは、学習塾や予備校が「一条校」ではなく、「営利を目的とする」教育機関と見なされ、著作権法が適用されるからである。(予備校が自分のウェブサイトで高校や大学の入試問題の解答を速報の形で掲載することがあるが、国語の問題文は掲載されていないのが普通である。それは、著作物の使用許諾申請が間に合わないからであるか、あるいは、使用料を支払うつもりがないからである。)

 (学校法人が運営するものであっても)学習塾や予備校は、著作物の使用料の支払いを免除されていない。この事実を考慮するなら、残念ながら、たとえ教育機関であっても、「音楽教室」が使用料の徴収を免れるのは困難であろう。法律の運用そのものが不当な差別に当たると主張することは不可能ではないが、「音楽教室」か使用料を支払わなくてもかまわないということになると、今度は、音楽以外の著作物とのバランスをいちじるしく損ねることになる可能性もある。

 使用料の設定は、著作権者に委ねられている。音楽の場合、著作権者に代わり著作権を管理するJASRACが使用料を決めることになる。使用料を徴収するというJASRACの決定は、現行の法律や過去の判例を前提とするかぎり、当然のことであるけれども、実際にどの程度の額を徴収するかについては、慎重に判断することが必要であるように思われる。

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