AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年02月

ティンダハナタ

 しばらく前、NHKで次のような番組を見た。

「南西諸島防衛 自衛隊配備に揺れる国境の島」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

 南西諸島の防衛を目的とした自衛隊の部隊の配備計画によって地元の住民のあいだに対立が生れていることが取り上げられ、(国政を担う)政治家は、安全保障とともに、地域の安定にも目を向けるべきであるという意味のことが語られていた。

 しかし、私は、外部の人間が、地元の住民のあいだの対立や分断の解消のために努力することにはあまり意味がないと考えている。つまり、対立や分断は、さしあたり放置する他はないように思われるのである。

 いわゆる「ネット右翼」は、プロ市民、外部から来た活動家、外国政府のせいで分断が起っていると主張するかも知れないが、意見の対立が解消されないのは、プロ市民や活動家や外国政府が暗躍しているからではない。(もちろん、何者かが暗躍している可能性はつねにあるけれども、たとえ誰も暗躍していないとしても、)そもそも、何か新しいことが発生すれば、この新しいことをめぐり意見が分かれるのは当然だからであり、安全保障の問題に関するかぎり、「自衛隊を配備するか、それとも配備しないか」の二者択一しかなく、万人が同意するような「落としどころ」など見出すことができようはずはないからである。沖縄の歴史を辿るなら、安全保障をめぐり、このような意見の対立や分断が500年以上にわたり飽きるほど繰り返されてきたことがわかる。だから、私は、上のような番組を見たとき、デジャヴュの感覚に襲われた。このようなことを報道するのは、もう終わりにした方がよいような気もする。

 残念ながら、これまでの歴史の範囲では、沖縄が主体性を発揮して安全保障上の問題を自力で解決したことは一度もない。沖縄には、主体性を発揮するための力の前提となるような人口も面積も産業もない。沖縄が外部の勢力と交渉しようにも、取引材料が何もなく、対等な相手と見なされないのだから、自力では何も解決できないのは――沖縄が無能だからではなく――離島の寄せ集めという沖縄の性格上、また、中国という覇権主義的で帝国主義的な独裁国家がすぐ隣にある以上、仕方のないことである。(この意味において、今の政府は、沖縄県の声によく耳を傾けていると私は考えている。)

 だから、与那国町、宮古市、石垣市などにおいて市民のあいだに意見の深刻な対立があるとしても、これは必然であり、放置するしかない。やがて、時間の経過とともに、自衛隊が地元にいることが事実として承認されるようになれば、分断は自然に解消されて行くはずである。安全保障の問題は、市町村や都道府県の問題ではなく、政府の問題であり、基礎自治体には、大きな枠組みを自分で変更する力がない。地元の住民にとって考える意味があるのは、「受け容れるか/受け容れないか」ではなく、受け容れた場合、その損害――があるとしてーーをどのようにしたら最小限に抑えることができるのかという技術的な問題だけであろう。

 上の番組では、次のようなことが語られていた。

元防衛官僚で官房副長官補を務めた柳沢協二氏は、先月、石垣市で講演し、「最前線に地対艦ミサイルのようなパワーがあれば、相手を拒否する力にはなる。ただ、相手側に本当に戦争をする意思があれば、最初にここが攻撃されるだろう。その覚悟があるのか」と語っていました。

 「その覚悟があるのか」などという脅迫するような表現が使われていることから、この人物がミサイルの配備に反対なのだということはよくわかる。(そもそも、「覚悟がない」としても、だからと言って、何もしないで済ませることが許されるとでもいうのであろうか。)けれども、現実には、覚悟の有無というのは、どうでもよい話である。なぜなら、万人にとって何よりも必要なのは、次のような事実を認識することだからである。

 すなわち、地元の住民に覚悟があってもなくても、また、自衛隊の部隊がいるかどうかにも関係なく、さらに、自衛隊の配備が中国を「刺激」するかどうかにすら関係なく、石垣市、宮古市、与那国町などは、最初から中国に狙われているという事実、その上で、自衛隊なりミサイルなりの配備が、中国が侵略を実際の行動に移す確率を抑えるのに間違いなく効果があるという事実を認識することであるように思われるのである。


Off street

吉祥寺駅周辺は、遊びに行くところであって、住むところではない

 今日、次のような記事を見つけた。

賃貸で住みたい駅、赤羽が急浮上 吉祥寺は魅力低下か:朝日新聞デジタル

 朝日新聞のこの記事では、賃貸住宅で暮らす場合の街――というよりも駅周辺――の魅力に関するアンケートの結果が取り上げられている。これによると、この数年、吉祥寺の魅力が低下し、反対に、赤羽や目黒に対する評価が上ったようである。私自身は、赤羽をよく知らないのだが、この記事によれば、赤羽の順位が急激に上がったのには、漫画やドラマの影響が少なくないらしい。

 23区の西の方の中央線沿線の住民にとっては、吉祥寺は、住宅街というよりも、なじみのある繁華街である。私など、平日、休日あわせて平均すると週に1度は吉祥寺に出かける。近所で間に合わない買いものがあるときには、まず吉祥寺で探すことになるからである。吉祥寺に住んでみたいかと言われれば、新宿にも吉祥寺にも30分で行ける今の自宅を引き払ってまで、何の縁もない吉祥寺に移りたいとは思わないけれども、それでも、吉祥寺が便利な街であることは間違いない。

 ところで、上の記事に掲げられていた駅がランクの上位にあるのは、赤羽が典型的に示しているように、「遠目の印象」によるところが大きいように思われる。東京で、都心にアクセスしやすく、物件が安い場所は他にもたくさんあるはずであり、何もわざわざ赤羽や恵比寿や目黒に住まなくても、という気がしないわけではない。

 私は、別に「武蔵小杉」に恨みがあるわけではないけれども――そもそも、行ったことがない――「武蔵小杉」のどこに魅力があるのか、正直なところ、私にはよくわからない。東京に昔から住んでいる人間には、武蔵小杉について、もともと何もなかったところに工場が急に作られ、その後、跡地が住宅に転用されて高層マンションが林立するようになった街、土地柄も由緒もない街、という以上の印象がないはずである。そもそも、厳密に言うなら、武蔵小杉は東京都ですらない。

隅田川の東側でランクされているのは北千住だけ

 とはいえ、土地柄や由緒が売りものになるわけではないのかも知れない。というのも、隅田川の東側にある駅で上位に入っているのは北千住だけだからである。

 都市としての歴史にのみ注目するなら、隅田川の東側には、江戸時代以来の圧倒的な厚みがあり、東京の西の方など、最初から勝負にならない。新宿、渋谷、池袋、あるいは、これらの駅を基点とする私鉄やJRの沿線は、田園調布や常盤台などの特殊な地域を除き、戦後になって街らしい街になったところである。

 また、21世紀になってから再開発が大規模に進行しているのも隅田川の東側であり、西の方、特に新宿より西は、どちらかと言うと、東京全体の変化の流れからやや取り残されているように見える。それは、ランクで上位にある恵比寿や目黒についても言えることである。(特に、多摩地域は、この「取り残され感」が顕著であると思う。)

 ただ、以前に書いたように、私自身は、多くの人間によって使い古された結果、少し淀み、少し綻び、少し古ぼけたような感じを都市の魅力と考えている。たしかに、東京のうち、ダイナミックな変化が起こっているのは東の方であり、これもまた、下の記事に書いたとおり、これを根拠として、東京の未来は東の方にあることを主張する人がいるけれども、私はこれには同意しない。東京の場合、このような魅力のある街は、やはり東京の西の方に集中しており、隅田川の向こう側――私は西側の住人なので――にはまだそのような味はない。これは、関東大震災と太平洋戦争ですべてが失われてしまったせいなのであろう。(また、隅田川の東の方では、千葉県との一体化が進行しており、これもまた、東京の西の方の住民には入り込めない雰囲気の原因になっているのかも知れない。)


無計画都市 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

東京のうち、隅田川よりも東に住んでいる人々には実感がないかも知れないが、東京23区の西の端で生れ、今も東京23区の西の端で暮らす私などにとっては、隅田川の向こうは一種の「異界」である。隅田川を向こうに渡ると、「ああ、東京の東だなあ」という(地元の人々にはお




「都市の成熟」ということ 中途半端に古ぼけた街を讃える : アド・ホックな倫理学

最近、都市としての東京の現状について、西よりも東の方が発展しており、東京の未来を映すのは東京の東の方、特に隅田川よりも東であるというような見解をときどき見かける。たとえば、私は、次の本でこれを見た。東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書) : 速水健



  何年か、あるいは何十年かあと、隅田川の東の方にある駅、たとえば錦糸町や森下や亀戸などが「賃貸で住みたい駅」(?)として上位を独占するようになるかも知れない。そして、そのとき、隅田川の向こうの方にも、都市としての味が出てきたということになるのであろう。


At The Edge of Nowhere

深夜や早朝には買いものができないことを前提に生活を組み立てるのは意外に大変である

 最近、人手不足が原因で24時間営業をやめる店、あるいは、休業日を増やしたり設定したりする店が多くなっているようである。そして、サービスの質が向上するという理由によって、世間では、この措置がおおむね歓迎されているようである。

 たしかに、人口が減少し、労働力も客も少なくなっているのに、365日24時間店を開けておくのは無駄であるように思われる。また、いくら店のあいだで競争があるからと言っても、従業員の待遇を改善しないまま消耗戦を続ければ、いずれ経営が立ち行かなくなることもまた明らかであろう。

 私自身、たとえ24時間営業している店であっても、深夜や早朝に買いものすることは滅多にない。やはり、陽の出ているときに活動し、夜は休息するのが生物としての人間の基本的なリズムである。あえて偉そうなことを言うなら、このリズムに忠実であるかぎり、午前2時にコンビニで買いものすることができる必要などないのである。

 とはいえ、24時間営業を取りやめることができるためには、社会全体がその意義を理解し、対策を講じなければならない。たとえば、仕事の都合で24時間営業のスーパーマーケットで夜遅く買いものすることを習慣としている人がいるとする。しかし、スーパーマーケットが深夜の営業をやめれば、この人は、習慣を変えなければならない。そして、習慣を変えることは、生活全体に影響を与える。たとえば、週に2日は残業せず、早く帰宅して買いものする、宅配サービスを使う、誰かに頼んで買いものしておいてもらう、買いものを代わってくれそうな誰かと同居するなど、深夜や早朝には買いものができないことを前提に、働き方や住む場所まで含めて、生活全体を組み立てなおさなければならない。しかし、これは、決して容易なことではない。だから、24時間営業の縮小は、まだらに進行し、さしあたり小規模にとどまるのではないかと私は勝手に予想している。

深夜と早朝だけ営業する店があってもよいと思う

 深夜や早朝の営業に需要がまったくないわけではない。私のような呑気な生活を送っている人間でも、何年かに1度は、薬局やコンビニエンスストアを真夜中に訪ねることがある。もちろん、これは、何が何でも緊急に手に入れなければならないものがある場合である。

 ただ、このような需要は、意外に多いはずである。(子どもや老人の急病は、昼よりも夜の方が多いような気がする。)だから、同じ1つの店が24時間開いていることは必要ないとしても、夜だけ、たとえば午後9時から午前5時まで限定的に開いているスーパーマーケットや薬局があるのは、決して悪いことではない。もちろん、人件費は割高になるであろうが、業種によっては、人件費に見合う需要があるはずである。

 何かが欲しいと思ったら、本当に今すぐ必要なのか、翌日まで、あるいは週末まで待つことができないかどうか、胸に手を当て、深呼吸しながら、5秒くらい考えてみる習慣をまず身につけるべきであろう。(勤務時間中に職場を勝手に抜け出してでも買いに行くか、と自分に尋ねてみてもよいかも知れない。)そして、しばらく考えてみて、それでもなお欲求に変化がなければ、深夜であっても早朝であっても、いや、昼間であっても、それは、手に入れるためにすぐに行動するに値するものなのである。


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