これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが……
最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。
もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも、PV(ページビュー)という観点から眺めるなら、「読まれている」とは言えないことは確かである。
あるブロガーによれば、1日あたりのPV(ページビュー)が50以下のブログを書いているのは「ビギナー」であり、PVが50を超えると「脱ビギナー」に昇格するらしい。私のブログの1日あたりのPVは50を下回っているばかりではなく、過去30日間の平均は5にすら届かないから、この基準を機械的に適用するなら、私は「ビギナーの中のビギナー」となるであろう。
PV数でわかるブロガー番付|あなたのブログはどのレベル? | ブログ部
私には、何が原因でこれほどPVが少ないのか、よくわからない――というよりも、アクセスアップのためのSEOなど、面倒だから考えないようにしている――けれども、アフィリエイトを目的としてブログに記事を投稿し続け、かつ、7ヶ月以上が経過し、200件以上の記事が投稿された時点で1日のPVが5を下回っていたら、続ける意欲が完全に失せているに違いない。
私の場合、いくらか苦痛だったのは、開始から昨日まで218日、1日1件ずつ投稿を続け、合計218件を投稿したけれども――この記事が219件目に当たる――投稿した記事の7割近くは、投稿されてから今日までのPVがゼロ、つまり、私と検索エンジンのクローラー以外の誰にも読まれていない点である。「誰かに読んでもらう」ことあるいは「稼ぐ」ことが第一の動機であるなら、全体の3分の2が誰の目にも触れることなくどこかに格納されたまま、しかも、この状態に耐えてブログを書き続けるなど、正気の沙汰ではないと思うかも知れない。
なお、これまでのところ、PVが完全にゼロの期間の最長記録は12日間であった。このときには、Google Analyticsに次のようなアラートが表示された。
ヒットがありません。プロパティ「adhocmoralist」でヒットが発生していません。
プロパティ「adhocmoralist」はヒットを受信していません。サイトでまったくセッションが発生していないか、サイトが正しくタグ設定されていない可能性があります。
何かの設定のミスでアクセスが記録されていないとGoogle Analyticsは判断したらしいのである。さすがに、これには少し傷ついた。(この期間、ライブドアの方のアクセス解析でもゼロが続いていたから、これは決して設定のミスではない。本当に「セッションが発生していな」かったのである。)
「自分語り」の可能性をつきつめる実験
今後も休まず投稿を続けるかどうかはよくわからない。それでも、「PVがどれほど少なくても、ゼロを下回ることはあるまい」などと自分に言い聞かせながら記事を書き続けてきたのには、明確な理由がある。
あとで述べるように、読まれることが少ないことは、それなりに苦痛である。それでも、強力な動機を見つけることができるなら、続けることは可能であり、私の場合、少なくともこれまでのところ、ブログに記事を投稿し続ける十分な動機があったことは確かである。
そもそも、このブログは、自分自身の「知的な棚卸し」のために始められたものである。
これまでの人生で出会った楽しいことや辛いこと、成功したことや失敗したこと、得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなこと、興味を抱いたことや忌避したこと、さらに、日々の生活の中で出会い、私の心を動かしたことを取り上げ、自分の性格や価値観を形作っているものを白日のもとに並べてみること、ブログにはこのような目標があった。だから、ブログの記事はすべて、私の心が何かによって動かされたとき、この心の動きを丹念に吟味する試みであり、私が何者であるかを知るための手がかりであり、このかぎりにおいて、本質的に「自分語り」である。
当然、自分が何者であるかを知り、本来の自分へと立ち戻るために、この「自分語り」は、何としてでも完結させられねばならないものである。私はこのように考え、読んでくれる人がとても少なくても、あえて記事を書き続けてきたのである。
読まれないよりは読まれた方がよいに決まってはいる
もちろん、「そういうバカなことを言っているから読まれるブログにならないんだよ」と言う人はいるであろう。たしかに、
- 日記ではなくブログとして万人に公開しているものである以上、誰かに読まれた方がよいに決まっている。また、
- 他人の目があると思うからこそ、誰が読んでも理解することができるよう表現を心がける習慣が生まれ、さらに、
- 誰が読んでも理解することができるような表現を工夫する努力のおかげで、思考に秩序が与えられることにもなった。
だから、いくら「自分語り」であるとは言っても、誰かに読まれることはつねに想定されていたわけであり、それにもかかわらず実際には読まれないことが、それなりに苦痛であることは事実である。
しかし、「自分語り」の可能性をつきつめること、自己省察を徹底させること、このような作業の涯に姿を現すのは、まったく個人的、私的で、他人には理解不能なおしゃべりではなく、むしろ、何らかの意味において普遍的な意義を持つ「語り」なのではないか、そして、私が何者であるかが明らかになるばかりではなく、この世界をあるがままに眺める視力を獲得することができるのではないか、私はこのように期待している。