AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年03月

Si puedes tú con Dios hablar...

これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが……

 最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。

 もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも、PV(ページビュー)という観点から眺めるなら、「読まれている」とは言えないことは確かである。

 あるブロガーによれば、1日あたりのPV(ページビュー)が50以下のブログを書いているのは「ビギナー」であり、PVが50を超えると「脱ビギナー」に昇格するらしい。私のブログの1日あたりのPVは50を下回っているばかりではなく、過去30日間の平均は5にすら届かないから、この基準を機械的に適用するなら、私は「ビギナーの中のビギナー」となるであろう。

PV数でわかるブロガー番付|あなたのブログはどのレベル? | ブログ部

 私には、何が原因でこれほどPVが少ないのか、よくわからない――というよりも、アクセスアップのためのSEOなど、面倒だから考えないようにしている――けれども、アフィリエイトを目的としてブログに記事を投稿し続け、かつ、7ヶ月以上が経過し、200件以上の記事が投稿された時点で1日のPVが5を下回っていたら、続ける意欲が完全に失せているに違いない。

 私の場合、いくらか苦痛だったのは、開始から昨日まで218日、1日1件ずつ投稿を続け、合計218件を投稿したけれども――この記事が219件目に当たる――投稿した記事の7割近くは、投稿されてから今日までのPVがゼロ、つまり、私と検索エンジンのクローラー以外の誰にも読まれていない点である。「誰かに読んでもらう」ことあるいは「稼ぐ」ことが第一の動機であるなら、全体の3分の2が誰の目にも触れることなくどこかに格納されたまま、しかも、この状態に耐えてブログを書き続けるなど、正気の沙汰ではないと思うかも知れない。

 なお、これまでのところ、PVが完全にゼロの期間の最長記録は12日間であった。このときには、Google Analyticsに次のようなアラートが表示された。

ヒットがありません。プロパティ「adhocmoralist」でヒットが発生していません。

プロパティ「adhocmoralist」はヒットを受信していません。サイトでまったくセッションが発生していないか、サイトが正しくタグ設定されていない可能性があります。

 何かの設定のミスでアクセスが記録されていないとGoogle Analyticsは判断したらしいのである。さすがに、これには少し傷ついた。(この期間、ライブドアの方のアクセス解析でもゼロが続いていたから、これは決して設定のミスではない。本当に「セッションが発生していな」かったのである。)

「自分語り」の可能性をつきつめる実験

 今後も休まず投稿を続けるかどうかはよくわからない。それでも、「PVがどれほど少なくても、ゼロを下回ることはあるまい」などと自分に言い聞かせながら記事を書き続けてきたのには、明確な理由がある。

 あとで述べるように、読まれることが少ないことは、それなりに苦痛である。それでも、強力な動機を見つけることができるなら、続けることは可能であり、私の場合、少なくともこれまでのところ、ブログに記事を投稿し続ける十分な動機があったことは確かである。

 そもそも、このブログは、自分自身の「知的な棚卸し」のために始められたものである。

 これまでの人生で出会った楽しいことや辛いこと、成功したことや失敗したこと、得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなこと、興味を抱いたことや忌避したこと、さらに、日々の生活の中で出会い、私の心を動かしたことを取り上げ、自分の性格や価値観を形作っているものを白日のもとに並べてみること、ブログにはこのような目標があった。だから、ブログの記事はすべて、私の心が何かによって動かされたとき、この心の動きを丹念に吟味する試みであり、私が何者であるかを知るための手がかりであり、このかぎりにおいて、本質的に「自分語り」である。

 当然、自分が何者であるかを知り、本来の自分へと立ち戻るために、この「自分語り」は、何としてでも完結させられねばならないものである。私はこのように考え、読んでくれる人がとても少なくても、あえて記事を書き続けてきたのである。

読まれないよりは読まれた方がよいに決まってはいる

 もちろん、「そういうバカなことを言っているから読まれるブログにならないんだよ」と言う人はいるであろう。たしかに、

    1. 日記ではなくブログとして万人に公開しているものである以上、誰かに読まれた方がよいに決まっている。また、
    2. 他人の目があると思うからこそ、誰が読んでも理解することができるよう表現を心がける習慣が生まれ、さらに、
    3. 誰が読んでも理解することができるような表現を工夫する努力のおかげで、思考に秩序が与えられることにもなった。

 だから、いくら「自分語り」であるとは言っても、誰かに読まれることはつねに想定されていたわけであり、それにもかかわらず実際には読まれないことが、それなりに苦痛であることは事実である。

 しかし、「自分語り」の可能性をつきつめること、自己省察を徹底させること、このような作業の涯に姿を現すのは、まったく個人的、私的で、他人には理解不能なおしゃべりではなく、むしろ、何らかの意味において普遍的な意義を持つ「語り」なのではないか、そして、私が何者であるかが明らかになるばかりではなく、この世界をあるがままに眺める視力を獲得することができるのではないか、私はこのように期待している。

The table is ready

この言葉の新しい用法

 私が、「半径5メートル」という言葉を初めて耳にしたのは、遅くとも2009年以前のどこかであったと思う。(2009年の春に執筆していた文章で、私自身が「半径5メートル」という言葉を使っているから、流通し始めたのは、さらに前であろう。)すでに私の耳に届いたころには、この表現は、当然、それなりに広い範囲で使われていたはずである。

 そして、それ以来しばらくのあいだ、誰かと喋っているときに「最近の若者」が話題になると、そのたびに、私は、「半径5メートル」という表現を繰り返し使った。もちろん、その後有名になった「はあちゅう」氏の次の本で同じ表現に積極的な意義が与えられているのとは反対に、当時、この表現が使われる際に一般に想定されていたのは、関心の幅の極端な狭さであり、「野望」ないし「野心」の極端なつつましさが、関心の幅のこの極端な狭さの必然的な帰結と見なされていた。(下の本をきっかけにして、「半径5メートル」という言葉の意味が決定的に変化したのである。)ただ、私自身は、今でも、「半径5メートル」という言葉をこの古い意味で使っている。

『半径5メートルの野望 完全版』(はあちゅう):講談社文庫] 製品詳細 講談社BOOK倶楽部

 上の本では、冒頭に次のような記述がある。

 ……自身を含めた多くの同世代が、自分の身の回りの「半径5メートル」圏内の日常にしか興味がないこと、そうだとしても、自ら小さな世界を充実させていくことこそが大事だと思う……

 さらに、次のような言葉も見出すことができる。

 ……個人で世界を見据えた大きな視点を持てる人は一握りだと思います。けれど、自分の日常の半径5メートルに意識を集中することなら、そんなに難しくないはず。そしてSNSが広がった今の時代だからこそ、隣の人の半径5メートルと自分の半径5メートルを融合させていくことで、自分の行動範囲・興味分野、つまり自分の「世界」をどんどん広げていくことができるのです。

 しかし、「半径5メートル」という表現の古い用法に従うなら、このようなものの見方は、まったく「半径5メートル」的ではない。きっかけとなるものが何であったとしても、また、手段がどのようなものであるとしても、半径5メートルの現状に安住せず、自分自身の存在可能性をつねに模索することが「半径5メートルの野望」の意味するところであるかぎり、その正体は、「なりたい自分になる努力への意志」であり、きわめてまっとうな人間的な「野望」――と言うほどのことでもないと思うが――である。

この言葉のもともとの用法

 とはいえ、「半径5メートル」がもともと担っていたのは、これとはまったく別の意味であった。すなわち、自分を中心として半径5メートルよりも遠くの事柄を自分のあり方との関係において把握することができないとき、「半径5メートルよりも向こうには関心がない」と言われたのである。

 半径5メートルに関心が局限された大学生や若い会社員が積極的な関心の対象となるのは、自分の日常生活において否応なく出会われる事柄だけである。このような世代の場合、社会に影響を与えるような活動に従事しているわけではないから、彼ら/彼女らの注意を惹くのは、生理現象、ファッション、テレビ、サークル活動、成績、アルバイトなどであり、このようなものに関する話題が刹那的な仕方で表現を与えられ、SNS上で無秩序に氾濫しつつあった。今でも、事情は基本的に同じであろう。

 だから、どの程度のカネが自由になるかによって多少は異なるとしても、彼ら/彼女らは、今朝の化粧のノリや(もちろん地上波で放送される)テレビドラマの結末、タレントのスキャンダルなどについては生き生きとした興味を示し、自分の利益を少しでも損ねることには非常に敏感に反応――というよりも反射――するが、自分に対し動物的、末梢的な刺戟を与えない事柄――政治、経済、社会、文化などに関し広く共有されるべき諸問題――については、恐ろしいほど無知であり無関心である。現職の総理大臣の名前を答えられない、(携帯電話代を自分で支払っていない場合には)1ヶ月の携帯電話の維持費がわからない、大政奉還が何年の出来事だったのか知らない(あるいは、忘れた)……、私自身は、知識と関心の深刻な欠落に何度も出会い、そのたびに、気味悪さを覚えてきた。

 このような傾向は、現在でも変化してはいないと思う。それは、たとえば次のような大学生の就職先として人気のある企業のランキングを眺めることにより、ただちに確認することができるであろう。

日本経済新聞連動特集 就職企業ランキング - 就活支援 - マイナビ2017

 上のランキングを見ると、「文系/理系」「男子/女子」のすべての区分の1位から10位までに挙げられているのがすべて、末端消費者を相手にしている企業であり、さらに、その多くが、テレビでCMを放送している企業であることがわかる。

 本来、就職先は、「社会に対しどのように貢献したいか」という観点から選択されるべきものである。しかし、実際には、現在の平均的な大学生には、「テレビのCMでよく知っている会社」「コンビニで見かける商品を作っている会社」などにしか関心がなく、また、知識を広げる意欲もなく、その結果、街で名前をよく見かける会社がランキングの上位を占めることになるのであろう。就職活動する大学生は、「お花が好きだからお花屋さんになりたい」「お菓子が好きだからお菓子屋さんになりたい」と語る小学生と大差ないことになる。日本の経済にとってきわめて重要な役割を担っているはずの総合商社、あるいは物流関係の企業が上位に姿を現さないという事実は、このような残念な事情を雄弁に物語っているように思われる。

 数年前から、「丁寧な暮らし」という言葉を目にする機会が多くなった。「丁寧な暮らし」とは、健康や環境に配慮し、家事を中心とする日常生活に時間とカネと手間を費やすことを意味するらしい。主な担い手となるのは、当然、専業主婦である。

 「半径5メートル」の内側にしか興味のない若者――特に女性――が年齢を重ね、「元若者」となるとき、(言葉のもともとの意味における)「半径5メートル」の「野望」は、「はあちゅう」氏が語るようなSNSを用いた広い視野の獲得には向かわず、むしろ、みずからの「半径5メートル」に固執する道を選ぶことになるに違いない。そして、このような「元若者」たちは、「丁寧な暮らし」の名のもとに食品、日用品、雑貨などを売りつけられ、消費社会の単なる養分になることを避けられないように私には思われるのである。

Professor Kicia

メガネは道具かアクセサリーか

 今日、メガネを買った。「買った」とは言っても、代金を支払ったのは10日以上前のことであり、今日は、レンズが入ったメガネを店で受け取ってきたのである。

 代金を払ってから実際に手にするまでに――いや、「顔にするまでに」と言うべきか――10日以上かかったことから明らかなように、私がメガネを手に入れたのは、量販店や核安メガネ店ではなく、どちらかと言うとお洒落なフレームを扱っている「普通の」メガネ店である。

 「何をメガネくらいで」と思うかも知れないが、私にとって、今回のメガネを買うのには、一大決心を必要とした。

 私は、中学生のときにメガネとの縁ができてから、現在まで、複数のメガネを同時に使うことはなかった。使っているのはいつでもどこでも同じ1つ、そして、この1つが壊れると、代わりになるものを新たに買うことを繰り返してきた。(ツルが折れて使えなくなるのが普通であるが、以前、一度だけ、着用して外を歩ているときに、両方のヒンジのネジが同時に外れてメガネが解体して落下したことがある。目の前から急にメガネがなくなり、驚いたのを今でも覚えている。)

 今日まで使ってきたメガネは、今から7年くらい前に買ったものであり、私にとっては5代目に当たる。幸いなことに、このメガネは、少し傷んではいるが、今のところ壊れる気配はない。だから、今回、私は、使用不可能になったメガネに代わるものを手に入れたわけではない。

まったく違う型のメガネを初めてつけるのは冒険ではあるが……

 実は、しばらく前から、メガネの形が顔に合っていないのではないかという疑念が心に浮かび、そのために、私は、何となく落ち着かない日々を送っていた。気のせいかも知れないが――気のせいであることを願う――街を歩いていると、向こうから歩いて来る人がみな私を見て驚いたような顔をしているように感じられることもあった。そこで、今の私のメガネが年齢や顔つきにふさわしいものなのかどうか、先入見なしに検討してみることにした。

 私は、今まで合計5つのメガネを使ってきたが、これらはすべて、金属製のフレームの「ウェリントン型」のメガネである。メガネを変えるたびに、フレームやレンズのメーカーが変わり、フレームの色が金、銀、あるいは微妙なチタン色(?)などに変化することはあっても、基本的な輪廓はつねに同じであった。私自身、根本的に違うものを試すなど、考えてみたこともなかった。30年以上もメガネと付き合ってきたにもかかわらず、メガネは、私にとっては、万年筆やパソコンと同じ仕事の道具であり、デザインの観点からメガネを「選ぶ」など、思いもよらないことであった。

 しかし、今回、私は、眼鏡店で相談し、ウェリントン型のものを選ばなかった。新しく手に入れたメガネは、いわゆる「ボストン型」である。ボストン型のメガネでは、メガネをかけた顔を正面から見たとき、メガネによって覆われる面積がウェリントン型の場合よりも小さくなる。フレームの形もまた、ウェリントン型とは異なり、基本的にマルである。(もっとも、ジョン・レノンのメガネのような完全なマルではない。あれは「ラウンド型」と呼ばれているようである。)私の知り合いが新しいメガネをつけている私を見れば、真っ先に、メガネがいつものものと違うことに気づくはずである。メガネを換えることにより、周囲が私について抱く印象もまた変わる可能性があり、すでにこれだけでも、メガネの形がずっと同じだった私のような者には、まったく新しいメガネは大きな冒険となる。

 それでも、年齢(あるいは社会的な立場)にふさわしいメガネを使うことは、身につける他のものと同じように、大切なことであるように思われる。20代や30代なら、安物のメガネであってもかまわないが、ある程度以上の年齢になり、ある程度以上の収入があり、ある程度以上の地位を占めているのなら、メガネもまた、自分の属性にふさわしいものにすべきではないのか……、このように考え、私は、あえて冒険することにした。新しいメガネを使っているうちに、メガネに合わせて表情や身振りにも何らかの変化が認められるに違いない。しかし、新しいメガネによって何かが変化するなら、これもまた楽しみたいと思う。

そのメガネは年齢と地位にふさわしいか

 何年か前のある日、年長の同僚と一緒に入学試験の監督をしたことがある。私は、この同僚について、身だしなみに気を遣っているという印象を持っていた。実際、その日も、この同僚は、それなりの身だしなみを整えていた。

 ところが、試験時間中、この同僚がメガネを外したとき、フレームのツルの部分に、安売り店のロゴがチラッと見えた。60歳を超え、私よりも多くの給与を得ているはずのこの同僚が、しかし、メガネだけは信じられないほどの安物を使っていることに、私はいくらか驚いた。そして、これからは、安売り店でメガネを手に入れることはせず、自分に合ったものを自由に捜す手間を惜しまないようにしようと自分に誓った。今回の新しいメガネは、この決意の延長上に位置を占めるものである。

 自分の年齢、所得、外見、地位などにふさわしいものを手間をかけて捜し、これを身につけることは、周囲からは気づかれぬもの、目立たぬものであるとしても、社会生活における義務に属するのではないか、いや、それ以前に、自尊心(=自分に対する尊敬)の条件の1つなのではないか、私はこのように考えている。

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長浜

やはり、私には東京が一番である

 「住めば都」という表現がある。どのような場所でも、やがては住み慣れ、居心地よくなるという意味である。しかし、私自身は、この表現の意味するところには同意しない。「住めば都」は、少なくとも私自身の経験には適合しないからである。

 地方を軽蔑しているわけではないけれども、東京で生まれ、東京で育った私にとっては、やはり、東京以上に居心地のよいところはない。今後の人生において、心境に何らかの変化があるかも知れないとしても、少なくとも現在のところは、私の都は東京以外ではありえないように思われる。

 東京生まれ、東京育ちで、東京以外に故郷と呼ぶことができる場所がない私は、東京以外の地域について否定的なことを口にしないよう、普段からできるかぎり心がけている。というのも、私のような「江戸っ子」が内心ではつねに田舎を見下していると、なぜかかたく信じている人が地方には多く、このような人々の神経を逆撫でしないよう注意を怠らないことは、地方に住む人々との間のコミュニケーションにおいて必須であるように思われるからである。

地方のあり方を東京との差異において規定すべきではない

 地方の人々が「東京の人間は田舎を見下している」と思うのは、彼ら/彼女らが自分の内面を勝手に相手に投影しているせいなのではないか、地方に住む人々自身、「住めば都」などと口では言いながら、本当は自分の言葉を信じていないのではないか、自分たちの住むところを東京との関係において「田舎」と規定し、両者を対立するものと捉えて勝手にひがんでいるのは、むしろ地方に住む人たちの方なのではないか……、地方に行くと、このように疑いたくなることが少なくない。

 以前、次のような記事を投稿した。


「田舎風」という隠語 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

田舎とは郊外である 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を

 作られたモノの完成度の低さを「田舎風」と表現することは、成長や進歩の可能性を閉ざし、「おざなり」において居直ることを意味する。それは、洗練と完成の欠落という仕方でみずからを規定することを他ならない。これが上の記事の内容である。

「田舎者」とは、地方に住む者ではなく、内面的な鈍感において人目を惹く者である

 同じことは、モノだけではなく、人間についても言うことができる。すなわち、精神的な意味における洗練と完成への努力を放棄し、現状に居直ることにより、「田舎風」の人間となり、「田舎者」と呼ぶのがふさわしい存在となる。だから、「田舎者」は、礼儀知らずであり、道理をわきまえていないばかりではなく、場合によっては、「素朴」の仮面をかぶった「狡猾」を本質とする存在として「江戸っ子」の前に姿を現す。

 当然のことながら、人間やモノが空間としての地方に位置を占めているからと言って、それが必然的に「田舎風」であるわけではない。実際、地方に住む人々のすべてが田舎者であるわけではないし、同じように、東京には、田舎者はおおぜい暮らしている。「地方」は「田舎」から明確に区別されねばならないと私は考えている。

 人間が人間であるかぎり、完成への努力を放棄し、あるがままの状態における居直りが決して許されないことは確かである。つねに現状を克服し、未来の可能性へとみずからの身を委ねることが人間の人間らしさである。地方で暮らすことのうちに「おざなり」や「安直」へと人間を誘う何ものかがあるとするのなら、地方にとどまることは、万人に対し、このような誘惑に逆らい、自己超克への覚悟をを要求するはずである。

good luck ladies

自分の長所を答えるのは難しいが、紋切型で逃げてはいけない

 最新の事情はよくわからないけれども、就職活動中の大学生は、面接において、「自分をアピールしてください」「自己PRをしてください」などと求められたり、「あなたの強みは何だと思いますか」という問いに答えるよう求められたりする場合が少なくないはずである。しかし、普通の大学生に自分の長所や強みを正確に把握することなどできるはずはなく、大抵の場合、彼ら/彼女らは、「粘り強い」「コミュニケーション能力がある」「几帳面」などという紋切型――つまり嘘――を面接者に投げつけることにより、この問題と向き合うことを避けようとするはずである。

 私は「就活マニュアル」に分類されるような本を読んだことは一度もないけれども、聞くところによると、このような本の著者には、面接での質問に対しできるかぎり紋切型で答えることを推奨する者が少なくないらしい。自分なりに考えて答えを用意し、この答えを適切な言葉で表現しようとすると「目立つ」ことになるが、面接では、何であれ「目立つ」ことは避けるべきであると「就活マニュアル」の著者たちは考えているようである。

 たしかに、口からなめらかに流れ出す紋切型とは異なり、自分なりに考えて得られた答えの場合、抵抗も違和感もなく他人に伝わるとはかぎらない。言いよどんだり、つっかえたり、言葉遣いが不正確だったりするせいで、面接のときに目立つ可能性があることは事実である。しかし、質問に対し自分で考えて答えを出しているのか、あるいは、あらかじめ用意された紋切型を投げつけているだけであるのか、面接者にはすぐにわかる。そして、紋切型――つまり嘘――を面接者に投げつけるたびに、受験者は、面接者に不快感を与え、悪い意味において「目立つ」。そして、面接者の信用を失って行く。紋切型の回答は、面接者が「問い」を用いて受検者とのあいだに設定しようとするコミュニケーションの場を破壊するものなのである。

 常識的に考えるなら、面接において要求されているのは、「平均的で目立たない嘘」でその場を切り抜けることではなく、「目の前にいる相手に合わせて考えた結果」を自分なりに表現する能力であろう。(誰が目の前にいるかには関係なく、同じ質問に同じ答えを返す能力の有無を確認するなら、面接よりもペーパーテストの方がはるかに効率的であり正確である。だから、企業がこのような能力――紋切型をなめらかに語る能力――を受験者に求めているのなら、面接など最初から行われず、採用は、とうの昔にペーパーテストのみになっているはずである。企業が面接を採用の手段としているということは、紋切型を使って質問に当たり障りなく答える能力など、受験者には求められていないということなのである。)

自分の長所は、みずから努力して成し遂げてきたもののうちにある

 ただ、自分の長所を問われても、平均的な若者には、これに答えることは事実上不可能である。というのも、長所を問われるとき、その答えは、自分の経験から抽出される他はないものであるが、若者には、経験の「量」が決定的に不足しているからである。だから、自分の長所を問われた大学生は、大抵の場合、(偶然に由来するかも知れない)自分の1回か2回の「成功『体験』」を強引かつ大胆に一般化し、自分の好ましい性格を描き出すことにならざるをえない。このかぎりにおいて、自分の長所に関し、若者が紋切型に逃れるのは、ある意味においてやむをえないことであり、「自分をアピールしてください」などという質問に答えるよう求める方が悪いと言うこともできる。

 経験にもとづいて自己了解を獲得し、自分の長所を語ることができるようになるためには、ある程度ながく生きていることがどうしても必要となるに違いない。

 とはいえ、物理的な生存期間がながく、多量の「データ」が記憶として蓄積されているとしても、このデータの量は、それ自体としては、自分の長所を語ることを容易にするわけではない。というのも、ここには1つの循環が認められるからである。

 すなわち、一方において、自分の「長所」や「強み」とは、完成へと近づける努力に値する何らかの性質である。しかし、他方において、完成への努力の目標としての長所や強みというのは、何かを完成へと近づける努力の中でおのずから輪廓を獲得して行くものである。言い換えるなら、何かを継続して――あるいは、繰り返し――成し遂げてきたという事実にもとづいてのみ、経験にもとづいて、本当の意味における長所や強みを語ることができるが、それとともに、長所や強みを語ることが可能となるためには、ともかくも努力し、あらかじめ何かを繰り返し成し遂げていなければならない。何かに向かって努力しないと、長所や強みは得られないが、それとともに、長所や強みが漠然とした仕方でわかっていなと、努力のしようがないことになる。

 したがって、長所や強みを語ることが可能となり、「自分をアピールしてください」と求められても途方に暮れないためには、何らかの意味における完成を目指してつねに努力していることが必要となる。もちろん、努力の目標は不変のものではなく、努力を続けるうちに新たな展望が開かれ、「本当の目標」が遠望されるようになることは珍しくない。

 これらの努力はすべて、「人間としての完成」を終極の目標とする努力の一部をなすものであるに違いない。そして、この「人間としての完成」へと向かうはずのこのような努力に身を委ねることがなければ、何十年間、いや、何百年間生きようとも、自分の長所や強みを語ることはできず、「自分をアピールしてください」という要求の前でうろたえ続けることになるであろう。(動物には、自分の長所や強みを説明することができない。動物が言葉を操らないからであるというよりも、むしろ、動物は、この意味における努力に与る可能性がないからである。)

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