AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年03月

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「おすすめの本を教えて」という漠然とした求めには応じない

 職業柄、「どのような本を読めばよいのか」「おすすめの本を教えてください」などという質問や要求に出会うことが少なくない。

 「○○の分野に興味があるから、適当な文献を紹介してほしい」とか「△△関係で××を読んでみたがよくわからなかったから、もっとわかりやすい入門書を」とか、このような具体的な話には応えることにしているけれども、ただ漫然と「面白そうな本」や「おすすめの本」を挙げるよう求められても、これには基本的に応じないことにしている。

 そもそも、以前に投稿した次の記事で述べたように、私は、読書というのが基本的に私的なもの、密室でひそかに営まれるべきものであると考えている。自分が好きな本をむやみに公開するのは、自分が身につけている下着を繁華街の路上で披露するのとあまり変わらないことであるように思われるのである。(私は、露出狂ではない(つもりだ)から、当然、そのようなことはしない。)


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、

面白い本は試行錯誤しながら自分で見つけるものであって、誰かに教えてもらうものではない

 しかし、それ以上に重要なのは、次のような理由である。

 そもそも、面白い本というのは、試行錯誤によってみずから見つけ出すべきものである。これは、ある程度以上の読書経験がある者にとっては自明の真理であるに違いない。あるいは、この自明の真理を感得することが、「読書経験」の証であると言うことも可能である。

 さらに、それなりにたくさんの本を読んできた人なら誰でもわかるように、万人にとって面白い本などというものはない。本を手に取るときに読み手が背負っている人生経験に応じて、一冊の本は、異なる面白さ(あるいは、つまらなさ)を読み手に示す。当然、同じ一冊の本から得られる面白さは、読み手が位置を占める人生行路の地点が異なれば、これに応じて変化することになる。

 たとえば、私が太宰治の『人間失格』を初めて読んだのは、小学校6年生のときであった。私は、これを、ある意味において「面白い」作品として受け止めた。私が次に『人間失格』を手に取ったのは、大学院生のころである。このときにも、私は、この作品に面白さを認めた。しかし、当然、その面白さは、小学生の私にとっての面白さとは性質を異にするものであった。さらに、一昨年、私は、『人間失格』をもう一度読んだ。もちろん、私は、これを面白いと感じたけれども、それは、さらに新しいレベルの面白さであった。読書とは、このようなものであると私は考えている。

 したがって、ただ漫然と「面白い本を挙げろ」と言われても、それは、そもそも無理な相談なのである。

本をすすめることが相手にとって害になることもある

 もちろん、「おすすめの本を教えてください」という要求に出会うとき、私が挙げることを求められているのは、万人にとって面白い本ではなく、「おすすめの本を教えてください」と私に語りかけている当の誰かが「今、ここ」で読んで面白いと思えるような本であるのかも知れないが、相手の経験をそのまま引き受けることができない以上、この求めに応じるのが不可能であることもまた明らかであろう。

 それどころか、私は、このような要求に応えることが決して相手のためにならない場合が少なくないと考えている。そもそも、「おすすめの本を教えてください」などと私に無邪気に求めるような人間は、読書経験がまったくないか、あるいは、ゼロに限りなく近く、そのため、「つまらない本」に対する「耐性」がないからである。

 本を読むことにある程度以上の経験があるなら、つまらない本に出会っても、これに懲りることなく、気持ちを切り替え、次の1冊に手をのばすことが可能である。本の面白さについて自分なりの基準があり、また、この基準を満たす本に過去に実際に出会った経験があるからである。

 これに対し、本を読むことに慣れていない者の場合、つまらない本に遭遇すると、本を読むこと自体への意欲が失われてしまう可能性がある。つまり、次の1冊を試そうとはせず、そのまま読書に背を向けてしまう危険があるのである。私がすすめる本が相手にとって面白いという確信があるなら、話は別であろうが、このような確信がないかぎり――実際、あるはずはない――本をすすめることは、相手を不幸にするおそれがある。人間に許された物理的な経験の量は、時間的、空間的に非常に狭い範囲にとどまる。読書は、経験を他人から買い、みずからの経験を拡張する作業であり、したがって、人間に固有の、人間にふさわしい経験を形作る作業であると言うことができる。しかし、それだけに、私がすすめた本が原因で読書に背を向ける者が現われるようなことは、当人のためにならないばかりではなく、人類にとってもまた損失であるように思われるのである。

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スーパーマーケットには(当然のことながら)個性がある

 私の自宅から半径1キロの圏内には4軒のスーパーマーケットがある。当然、すべて異なる会社のスーパーマーケットである。普段、私は、この4軒のうち、自宅からもっとも近いところにある1軒で買いものしている。自宅の玄関を出てから店に辿りつくまでの所要時間がわずか3分であり、他と比べて断然近いからである。このスーパーマーケットが近所に開店して以来、日常的な食料品を調達するために他のスーパーマーケットに出かける機会はまずない。

 とはいえ、近所を散歩しているとき、いつもは使わないスーパーマーケットの前を通りかかり、店に入ってみることがある。そして、これは、いつも決まった店でしか買いものしない私のような無精な人間にとっては、非常に新鮮な体験である。

 私は、スーパーマーケット評論家ではないから、包括的な知識を持っているわけではないけれども、スーパーマーケットというのは、たがいに似ているようでありながら、細部に関してはたがいにかなり異なる。出入口、棚の位置や高さ、棚のあいだの通路の幅、価格の表示の方法、レジの仕組み、付帯的なサービスなど……。1つのスーパーマーケットに慣れていると、なじみのない店に初めて入ったとき、上手く適応できないことがあるに違いない。

買いものリストはどう作られているか

 ところで、よく知っているスーパーマーケットに出かけるとき、多くの人は、買うべきもののリストを用意し、これを参照しながら買いするはずである。何のリストも持たずに店に行き、食料品を買うことができるためには、すでに自宅の冷蔵庫などにあるものを正確に把握し、これを目の前に並ぶ食品と突き合わせながら――少なくとも1日分の――献立とその調理のプロセスを一挙に想起することができなければならない。

 しかし、私など、もう20年近く、ほぼ毎日自炊しているけれども、このような芸当ができるレベルには到達していない。何を買うかは、冷蔵庫の内容を確認しながら事前に決め、必ずあらかじめメモを作って出かける。なお、買うべきもののリストを作ってくれる多種多様なアプリがあるようであるが、私は、文明の利器は使わず、A6版のメモ用紙で済ませることにしている。買いものが終わったら捨てられるからである。

 なじみのあるスーパーマーケットの場合、誰でも、店内を回遊するルートがほぼ決まっているに違いない。つまり、いつも必要とする商品を無駄なくピックアップできるような最短の「順路」が心の中で何となく出来上がっているはずである。

 したがって、リストを作るときには、この「順路」と、「順路」を実際に歩いたときに前を通過するはずの棚とそこに並ぶ商品を心に浮かべながら、ピックアップする順番に商品の名前と数量を書き出して行く。(買いものリストを作りながら、心の中で買いものをシミュレーションするわけである。)献立ごとにアイテムがグルーピングされたリストやアイウエオ順のリストが作られることはまずないように思われる。

 だから、一度に買うべきものの種類がよほど多くないかぎり、店を歩いているときにメモを参照することはなく、むしろ、メモを見るとするなら、レジで精算する前に、買い忘れたものがないか確認するためであるのが普通ではないかと思う。買いものリストは、店の棚の高さや通路の幅、天井の高さや照明を含む三次元空間全体に密着した形で作られるものであり、買いものに出かける店に慣れていることは、日常的な買いものにとって無視することのできない条件であることになる。

なじみのないスーパーマーケットで買いものが滞る理由

 理想の買い物リストというものが、なじみの店の空間との重ね合わせにおいて作られるものであるなら、なじみのないスーパーマーケットでの買いものが上手く行かない原因は、もはや明らかであろう。すなわち、なじみのない店の場合、買いものリストが上手く機能しないのである。

 スーパーマーケットのどの棚のどの高さにどのような商品が置かれているのか、初めて入る店ではわからない。だから、私たちは、店じゅうを右往左往しながら商品をピックアップすることを余儀なくされる。また、あるスーパーマーケットでは定番になっているものが、別のスーパーマーケットの棚には見当たらないことも珍しくはない。

 もうずいぶん前のことになるが、西日本のある街に住んでいたとき、引っ越してすぐ、近所にあるスーパーマーケットに出かけた。私が入ったのは、売り場面積の途方もなく広い店であり、商品の配置もまた、私が知っているのとはかなり違っていた。それは、東京出身の私にとっては、初めて入るイオンの系列の店であった。

 おそらくそのせいなのであろう、買いものリストに商品を適切に排列することができないばかりではなく、買うべき商品の記載漏れも少なくなかった。実際に店に足を運んでも、店の端から端まで歩くのに3分くらいかかるから、買うべきものを忘れたことにレジの前で気づいても、これを取りに戻るのが面倒になってしまう。結局、商品のピックアップの手順を心の中でシミュレーションすることができるようにはならないまま、このスーパーマーケットでの買いものを諦め、別の、もっと小さな店を使うことにしたのを今でも覚えている。

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「煮る」手間を極限まで省いてくれるのが圧力鍋

 私は、圧力鍋を持っている。持っているだけではなく、最低でも週に1度は使う。毎日使うこともある。これは、私がもっとも好む調理器具である。一般的に言って、自炊を習慣とするひとり暮らしの男性にとり、これ以上に便利なものは他にないような気がする。(私の場合、電子レンジよりも使用頻度が高い。)

 圧力鍋というのは、小回りの利く調理器具ではない。作ることのできるメニューはすべて、基本的には「煮込み料理」か「蒸し料理」である。(だから、「煮るだけ」あるいは「蒸すだけ」では完成せず、さらにいくつもの手間がかかる料理の場合、圧力鍋の恩恵はいくらか目減りする。)

 とはいえ、「煮る」というのは、素材に含まれる(加熱によって損なわれないかぎりの)栄養をすべて摂取することが可能な調理法であるから、生命と健康の維持が第一の目標であるかぎり、これ以上に効果的な調理法はない。そして、圧力鍋は、この「煮る」作業に必要な時間を短縮し、ガス代(あるいは電気代)を節約するのに役に立つ道具であると言うことができる。

圧力鍋で肉を「蒸す」ことで脂が落ちる

 ただ、私の場合、真冬を除くと、圧力鍋は「蒸す」ために使うことが多い。

 食べるもののカロリーは減らしたいが、タンパク質を減らすわけには行かない――ダイエット中にタンパク質の摂取量を減らすと、筋肉量が減少してかえって痩せにくくなる――ときには、圧力鍋を使って大量の野菜と適量の肉を一緒に蒸して食べることにしている。

 圧力鍋で蒸し料理を作るためのカゴ(あるいは網)――大抵の場合、鍋に最初から附属しているが、別に買うこともできる――を鍋に入れ、その上に、鍋いっぱいの野菜を載せても、その嵩は、加熱によって劇的に減ってしまう。大量の野菜を短時間で調理し、そして、摂取するのに、圧力鍋による加熱以上に簡単な方法はないに違いない。

 なすべき具体的な作業は、素材をカゴ(または網)に積み上げたあと、コップ1杯程度の水を入れ、蓋を閉じて加熱し、水が沸騰したのちに短時間加圧することだけである。3分も加圧すれば、ニンジンのような堅い根菜もクタクタになる。(一口大に切ったブロッコリーやカボチャを他の素材と一緒に3分加圧すると、柔らかくなるのを通り越して粉砕されてしまい、蓋を開けたときに繊維しか残っていないことがある。)

 肉の場合、蒸すことにより、脂がカゴ(または網)の下に落ち、カロリーが小さくなる。(このようにして蒸し上がったものにノンオイルのドレッシングをかけて食べるわけである。)

圧力鍋で蒸す野菜は、神経質に洗わなくてもかまわない

 ところで、野菜の中には、調理に先立って下準備に時間がかかるものが少なくない。普通の葉物野菜に範囲を限るなら、下準備がもっとも面倒なのは、ホウレンソウであろう。

 ホウレンソウを食べるためには、根元の泥を落とした上で全体をよく洗い、その後、1分か2分茹でて冷水にとり、きつく絞ってアクを抜く作業を省略することはできない。「おひたし」であれ「ソテー」であれ「カレー」であれ、ホウレンソウを素材とするかぎり、このプロセスはどうしても必要である。

 しかし、圧力鍋を使って野菜を蒸す場合、この下準備を省略することが可能である。軽く洗って泥を落とし、生のまま適当な大きさに切ってしまえば、加熱しているあいだに汚れとアクはほとんど落ちてしまう。ホウレンソウを含む野菜や肉を蒸したあとに鍋の底に溜まった水分を見ると、肉の脂やアクとともに、ホウレンソウから出たアクの色がついており、蒸しているうちにアクが抜けたことがわかる。ただ、ホウレンソウの仕上がりの色はあまり美しくならない。

※注意:ホウレンソウのアクが問題なのは、「シュウ酸」が含まれているからである。シュウ酸は、カルシウムと結合するため、骨粗鬆症や結石を惹きこす危険がある。したがって、すでに骨粗鬆症や結石が確認されている場合、あるいは、こうした病気のおそれが高い場合、ホウレンソウを生のまま圧力鍋に放り込むのはやめて、普通の鍋で丁寧に茹でたあと、水にさらして徹底的に絞るという通常の手順に従う方が望ましい。


 下準備が面倒であるという理由で野菜を食べないのなら、圧力鍋で蒸すことにより、面倒のかなりの部分から解放されるはずである。

Breakup

「みんないなくなっちゃった」

 「会者定離」という言葉がある。仏典に由来する表現である。これは、知り合いになった者とは別れるのが必然であることを意味する。

 たしかに、どれほど愛着のある相手でも、いつかは別れなくてはならない。生に死が内在しているのと同じように、「知り合う」ことのうちには「別れ」が内在しているのである。このかぎりにおいて、「知り合うとは別れることである」と言うことが可能である。

 不思議なことに、誰かと知り合いになるとき、私たちは、新たな「つながり」や「絆」を寿ぐばかりであり、別れは必ずやって来るのに、この相手との別れを最初から心に浮かべることは滅多にない。

 しかし、別れという観点から人生を冷静に振り返るなら、私たちは、知り合いになった他人のほぼすべてと別れていることがわかる。今のところ身の回りにいる他人はすべて、まだ別れていない相手であるにすぎないのであり、やはり、別れを避けることはできないのである。

 子どもや若者の場合は事情が違うかも知れないが、すでに私くらいの年齢になると、祖父母を見送り、両親を見送り、叔父や叔母を見送り、師を見送り、同僚を見送り、飼っていた犬や猫を見送ってきたのが普通である。また、同じくらいたくさんの人々と喧嘩別れし、さらに、その何倍もの人々が私の視界から勝手に姿を消した。

 私の場合、私が生まれた時点で存命だった親族は、もはや一人もこの世にはいない。だから、私の現在の対人関係を形作っている人々は誰も、私の生まれたときのことを知らない。それどころか、私の周囲にいる人々の大半は、この10年くらいのあいだの新しい知り合いである。

 私はときどき、昔のことを思い出し、そして、次のようにつぶやく。「ああ、みんないなくなっちゃった」。これは、20年くらい前、親しい知り合いの葬儀の席である親類がつぶやいた言葉であるが、最近、私の口からも同じセリフが口から出てくるようになった。

他人とともにあるとは、別れとともにあること

 人間はつねに他人とともにあることによって本当の意味における人間となる。あるいは、完全に孤立して生きることは不可能である。これは、古代から現代まで、人間的な存在の意味を問う哲学者たちが繰り返し語ってきたことである。

 人間的な生存には他人が必要である。そして、他人との付き合いには、必ず明瞭な端緒があり、端緒があるかぎり、その付き合いには必ず終わりが来る。つまり、人間は、人間であるかぎり、別れを避けることができないのである。

 これは、人間が人間であるかぎり死を避けることができないという以上に重要な真理であるように思われる。(もちろん、死の規定によるけれども、)死は、生に内在しているかぎりにおいて、人間に固有のものではない。これに反し、他人との付き合いが人間を動物から区別する標識であるなら、別れから逃れることができない点、いわば「別れへの存在」である点に人間の人間である所以を求めることは不可能でもなく不自然でもないことになる。

 そして、他人とともにあることによって人間が人間であるなら、人間は、別れとともにあること、他人との別れに対して何らかの態度をとることによって初めて人間であると言うことができる。

 たしかに、別れには、私のあり方の喪失という意味がある。特に、親しい他人、付き合いの長い他人との死別は、共有するものが大きいだけに、残された者にとってつねに大きな傷となる。けれども、別れによって負うかも知れぬ傷を、私たちは決して避けてはならず、むしろ、これを静かに受け止め、そして、後ろを決して振り返ることなく、力強く先に進むべきであり、また、先に進まざるをえないのであろう。

Wine, beard, hat and newspaper. That's all!

なぜマスコミは「マスゴミ」と言われてしまうのか

 発行部数の多い全国紙やNHKなどのマスコミのことを貶める表現に「マスゴミ」がある。この言葉を使う人は、「コ」に濁点を加えることにより、マスコミがゴミのように無価値であること、あるいはゴミとして斥けられるべきものであることを言いたいのであろう。

 私自身、現在のマスコミのあり方に何の問題もないとは思わない。実際、朝日新聞による慰安婦に関する捏造記事を例に挙げるまでもなく、新聞やテレビの報道には大小の誤報、虚報が多く含まれているばかりではなく、ニュースとして取り上げる出来事の選択、論評や評価の観点に違和感を覚えることも少なくない。

 しかしながら、このような点に注目し、これをマスコミの犯罪と見なして「マスゴミ」などという汚い言葉を使う前に、3つの事実に注意する必要があると私は考えている。

1. 統計は、平均的な日本人がマスコミに対し最低限の信頼を寄せていることを示す

 第1に、マスコミに認められるこのような問題にもかかわらず、次の記事が示すように、平均的な日本人は、マスコミに対しておおむね信頼を寄せている。

新聞一番テレビが二番...メディアへの信頼度、テレビと新聞の高さ継続(2016年)(最新) - ガベージニュース

 なぜ伝統的なメディアである新聞やテレビがこれほど高い信頼を獲得しているのか、この点については、いろいろな解釈が可能であるけれども、少なくとも、次の2つの点は間違いないように思われる。

1.1. マスコミは「事実とされていること」の標準を示す役割を担っている

 まず、マスコミを信頼するとは、その報道姿勢を全面的に肯定し盲信することを意味しない。むしろ、マスコミに対する信頼とは、報道が、国の将来や国民の生活にかかわる重大な出来事に関し一人ひとりがみずからの意見を獲得するための最初の手がかりであること、つまり、雑に言うなら、「世間では一応正しいされていること」「議論の前提になる情報」が新聞やテレビにあるという意味であると考えるのが自然である。

 実際、ネット上の言論、特に右寄りの言論は、「マスゴミ」などという表現を使ってマスコミを貶めているけれども、現実には、みずからが「マスゴミ」と呼ぶ全国紙やテレビの報道に全面的に寄生している。「マスゴミ」が姿を消してしまったら、ネット上の言論は、偽ニュースと噂話の無秩序な堆積、つまり、みずからが文字通りの「マスゴミ」になってしまうに違いない。

1.2. 中立公正は、媒体の1つひとつが目指すものではなく、マスコミが全体として目指すもの

 また、マスメディアは、全体として「事実とされるもの」の輪廓を公衆に提示すればよいのであり、たとえば産経新聞や朝日新聞などの具体的な媒体の1つひとつが中立公正であることは必要ではない。実際、このようなことは不可能であろう。

 大切なことは、ある媒体がある方向へと偏った報道を試みるとき、このような媒体とともに、これを批判し是正する役割を担う媒体が言論空間に併存しうることである。言論空間の内部で働く引力や斥力が全体として報道を中立公正へと向かわせるものであるかぎり、マスコミは全体として十分に信頼に値するものであると言うことができる。

 もちろん、報道の中立公正が引力と斥力のバランスの結果として目指されるべきものであるとするなら、この意味における中立公正には、言論の自由と多様性が絶対に必要となる。ジョン=スチュアート・ミルは、『自由論』において、言論の自由が保証され、多様な言論が許されているかぎり、正しい報道とすぐれた意見だけが選択されるはずであることを主張している。私は、言論の自由の力をここまで無邪気に信じる気にはなれないけれども、それでも、慰安婦に関する朝日新聞の捏造報道が典型的に示すように、偽ニュースは――時間はかかるとしても――やがてその正体を露呈することを免れられないに違いない。そして、このかぎりにおいて、日本のマスメディアの相対的な健全性に信頼を寄せて差し支えないと私は考えている。

2. マスコミについて国民が感じる「偏向」は、言論の自由が認められた社会に共通のもの

 第2に、報道に対する基本的な信頼は、日本にのみ認められるものではなく、たとえばアメリカでも同じである。たしかに、去年の大統領選挙においてドナルド・トランプに投票した有権者の多くは、メディアの報道に偏向を感じとっていた。この点は、日本と同じであるかも知れない。実際、マスメディアの報道を信頼する国民の割合は、アメリカでは32パーセントしかいない。表面的には、これは日本に比べていちじるしく低い数値である。

Americans' Trust in Mass Media Sinks to New Low

 それでも、アメリカでは、(どれほど偏向しているように感じられるとしても、)公共の利益にかかわる重大な出来事に関するメディアの発信が根本的に虚偽である――つまり、偽ニュースである――とまで考える者は少数派にとどまる。国民がマスコミに認める問題というのは、日本に固有のものではなく、言論の自由が基本的に認められているすべての社会に共通するものであると考えるべきである。

3. 「マスゴミ」という言葉を使う者にかぎってメディア・リテラシーが欠けている

 そして、第3に、「マスゴミ」という言葉を使う者たちのメディア・リテラシーの問題がある。マスコミについて、「信用できない」「マスゴミである」などと公言する者のすべてを知っているわけではないが、少なくとも、私が直接あるいは間接に知る範囲では、このような仕方でマスコミに対する不信感を表明する者のメディア・リテラシーはかなりお粗末なのが普通である。

 そもそも、彼ら/彼女らは、記事を1本書くために記者が何をどのように取材するのか、あるいは、取材した記者が書いたものがどのようなプロセスを経て記事として完成し、紙面に組み込まれて私たちの目に触れるのか、このような点について何も知らないまま、偏向を批判したり、「外国政府がマスメディアを操っている」などという憶測を口にしたりしているように見える。私自身、報道の現場で働いたことは一度もないけれども、また、報道機関がニュースに認める価値と事実としての重要度が決して一致しないことは何となくわかるけれども、それでも、報道機関がみずからの公的性格を完全に忘れ、ただ「反日」を煽り視聴率を狙うなどありえないことくらいは、私にもわかる。

 おそらく、ネット上で右寄りの言論にコミットしている者たちのうち、少なくはない部分は、自分のカネで新聞を購読してはいないであろう。以前、新聞の購読料について、次のような記事を書いた。


新聞の購読料は公論の形成のための献金である : AD HOC MORALIST

「ニューズウィーク」でアムウェイの記事広告を見つける 昨日、ニューズウィーク日本版のウェブサイトを見ていたら、次のようなページが目にとまった。人々に選ばれる製品を生む「アムウェイ」の哲学 ツイッターを見ると、このページを見た人の多くが、これを「ニューズウ

 新聞の購読料は、情報の代金なのではない。それは、公論を形成するために国民がなすべき献金なのである。

 新聞の報道姿勢について納得することができない――そのような偉そうなことを言えるほどのメディア・リテラシーを具えた日本人は全部で千人もいないであろうが――としても、複数の全国紙や地方紙、週刊誌や月刊誌などを実際にある期間購読し、比較しながら吟味したことがない者には、メディアについて何か意味のある(とみずから信じる)ことを語る資格などないと考えるべきである。朝日新聞から産経新聞まで、あるいは、赤旗から世界日報まで、多種多様な新聞を読んだ経験がなければ、「マスゴミ」への批判は、浅薄な偏向批判や陰謀論となり、公共の言論空間をノイズで満たすことになるばかりであろう。

 当然、NHKの受信料の支払いを公然と拒絶する「愛国無罪」など、許されるわけがない。


NHKに文句があるなら、まず受信料を支払うべき 「愛国無罪」など通用しない : AD HOC MORALIST

受信料を支払わない者に文句を言う資格はない NHKに受信料を支払わず、これを滞納し続けたり、あるいは、確信犯的に支払いを拒否したりする者がいる。しかし、このような行動は、私にはまったく理解することができない。 20年以上前、まだNHKが受信料を集金していたころ、

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