AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年04月

千本通 京都

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

かつての「朱雀大路」

 京都を歩いていて、初めて千本通り(せんぼんどおり)に出たとき、よそ者の私にとって、千本通りは、京都の中心部を南北に走るいくつもの通りの1つでしかなかった。しかも、堀川通りや烏丸通りのような車線も交通量も多い大通りとは異なり、千本通りについては、何の印象もなかった。京都をよく訪れる人なら、千本通りに1度は出たことがあるはずであるが、大抵の場合、何も記憶に残っていないはずである。

京都観光Navi:千本通

 しかし、この印象は、千本通りが平安京のメインストリートである「朱雀大路」であることを知るとともに、完全に覆った。もとの朱雀大路よりもはるかに狭い小さな通りになってはいるけれども、これは、京都でもっとも古い道であり、真面目に歩いてみる価値はあるように思われた。

通り沿いに「流行の観光スポット」がほぼ何もない「パッとしない京都」のメインストリート

 とはいえ、私は、千本通りを隅々まで歩いたわけではないし、千本通りに歴史的な意義があるかどうかについても、よくわからない。

 ただ、確かなことが1つある。千本通り沿いには、流行の観光スポットがほぼ何もないのである。

 名所旧跡の類が少ないだけではない。京都の「名店」と呼ばれるもので、千本通り沿いに本店を構えているところは、決して多くはないはずである。上の写真に映っているのは千本五辻交差点であり、右側の建物は、有名な五辻の昆布の本店であるけれども、これは、全体の中では例外に属するように思われる。

 実際、過剰に開発された印象を与えるJRの二条駅周辺を除けば、むしろ、東京の人間に、千本通り沿いの眺めは、時代から取り残された感じを与える。

 観光客風の歩行者の姿はほとんどなく、日本のどこにでもある全国チェーンの店とともに、地元の客だけを相手にしているような、開いているのか閉じているのかよそ者にはわからないような商店がところどころにあり、通りから奥にのびる路地の両側には、中途半端に古い――つまり観光客向けにリノベーションされていない――微妙な木造建築が目立つ。(千本通りに面したところにある建物も、よそ者が京都について抱く印象を裏切る「おざなりな」デザインのものが少なくない。)

 千本通りを歩くと、寺町や新京極のような「安っぽく装われた観光地」、あるいは、祇園のような「作り込まれた京都」とは対照的な「パッとしない京都」を見ることができるのであり、東京の人間の目には、この微妙な「パッとしなさ」が新鮮に映るのである。

光悦寺

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

借景がすばらしい

 光悦寺は、京都の北部、鷹峯にあり、書や陶芸で知られる本阿弥光悦の旧宅を光悦の死後に改装して生まれた寺である。

京都観光Navi:光悦寺

 だから、光悦寺は、名刹、古刹が多い京都の寺としては新しい方に属する。(しかも、現存する建物はすべて、明治以降のものである。)実際、ここを寺院として訪れる人は決して多くはないに違いない。

 むしろ、東京の人間にとり、この寺の最大の魅力は庭園である。庭園に借景として取り込まれている鷹峯三山がすばらしい(←非常に月並みな感想)。私が訪れたときには、平日の午前中で、他に誰もいなかったため、「大虚庵」の縁側に腰を下ろし、しばらくのあいだボンヤリとあたりを眺めていた。

最適の時期は桜が散ってから梅雨入りまでのあいだ

 光悦寺をのんびり訪れるのなら、最適の時期は新緑のころであると思う。借景となっている山の緑、そして、境内の緑が美しいからである。反対に、秋に光悦寺に行くことはすすめない。ここは紅葉の名所であるけれども、人出が多く落ち着かないはずである。

 なお、光悦寺を出て左方向に歩いて行くと、林の中を抜ける急な下り坂の入口に辿りつき、この坂を下りて行くと、鏡石通りに出る。これは、大文字山の麓を走る通りであり、ここもまた、独特の風情がある。

 だた、地図を見るとわかるように、この通り――ゆるい下り坂――を歩いても、すぐにはどこにも出られない。散歩を短時間で切り上げるには、鏡石通りに面した複合商業施設の「しょうざん」――ここの庭園は、手入れが行き届いてそれなりに美しい――に裏口から入って千本通りへと出るのが近道であるが、そもそも、「しょうざん」の施設を利用せず、ただ敷地を無断で通り抜けることになるわけであり、私の感覚では、これは決して好ましくないように思われる。

大沢池

 江戸っ子には「京都好き」が多い。私も京都は大好きである。

 京都のものなら何でも好き、というわけではないが、それでも、好きなものはいろいろある。

 ただ、東京生まれ東京育ちの人間から見た京都は、他の背景を持つ人々の目に映る京都とはいくらか異なる。

 日本人の多くにとって、京都は、自分が住む街よりも大きな都会であろう。これに対し、江戸っ子から見た京都は、少なくとも規模の点では、自分の住む街の10分の1しかない地方都市である。江戸っ子の注意を惹く京都には、おのずからある意味における「偏り」が生まれることになるはずである。

 そこで、私自身が「京都」と聞いてすぐに思い浮かべるものをいくつか挙げてみることにする。

嵯峨野の大沢池は桜と月の名所ということになっている

 個人的に最初に連想するのは、嵐山の大沢池(おおさわのいけ)である。

京都観光Navi:名勝 大沢池

 大沢池は、嵯峨天皇の時代に造られた人工的な池――だから水深はごく浅い――であり、大覚寺に隣接している。この池は、一応、大覚寺の所有になっているようであるが、入口は大覚寺とは独立である。表向きは、春の桜と秋の月が有名であるということになっている。(また、池のほとりには、「名古曽滝跡」なるものがあるが、正直なところ、文字どおり「名前だけ」であり、「どこがどう『滝』なのかよくわからない」史跡ではある。)

時代劇のロケ地であり、京都にあるにもかかわらず、「江戸」を感じさせる

 しかし、京都と聞いて大沢池が想起される最大の理由は、この池が太秦にある撮影所に近く、そのせいで、時代劇のロケに頻繁に使われてきたからであろう。池を一周すると、「暴れん坊将軍」「剣客商売」「鬼平犯科帳」などで、時間やアングルを変え、「大川」や「不忍池」など、「水辺」として数えきれないほど使われる場所がすぐに見つかる。(それぞの番組の最後のクレジットに「大覚寺」が必ず登場するのはそのためである。)

 つまり、大沢池は、嵯峨野というもっとも京都らしい場所に位置を占めるにもかかわらず、「江戸」を演出する舞台装置にもなる。私がこの池――水は決してきれいではないが――に惹きつけられるのは、時代劇の中にある「江戸らしさ」が感じられるからであると言えないことはない。

kaci-baum-110713

 しばらく前、次のような出来事があった。

「誰もあんな扱いを受けるべきじゃない」ユナイテッドCEO - BBCニュース

 上の記事は、アメリカのシカゴで、ベトナム系アメリカ人の乗客が意に反する形でユナイテッド航空の満席の旅客機から暴力的に引きずり降ろされた事件である。このようなことは、誰の身にも起こってはならないことであろうが、残念ながら、この出来事は、万人により同じ切実さをともなって受け止められたわけではないように思われる。

立ち入られたくない私だけの空間の価値

 私たちには誰でも、私的な、自分の意に反して誰のことを迎え入れることも望まないスペースがある。このスペースは、入られたくない他人により、それぞれ異なる。

 たとえば、私がある知り合いについて、自宅に入られたくないと思っているのとするなら、この場合は、自宅の内部が私的なスペースになる。

 しかし、もちろん、自宅に入られてもかまわない知り合いもいるであろう。このような他人との関係では、たとえば自室が私的なスペースとなる。

 さらに、自室に入ることを許すような親しい友人がいるとするなら、この友人に対応するものとして、たとえば自室の机の引き出しが私的なスペースとして私の意識に上るに違いない。

私的なスペースのミニマムは身体

 そして、他人との関係で設定される私的なスペースのうち、もっとも小さなもの、つまり、そこに立ち入ることのできる他人がもっとも少ないものは、みずからの身体である。

 見ず知らずの他人に身体を触られるのは、誰にとっても忌避されるべきことであろうし、もっとも親密な男女の関係における女性の態度が「体を許す」と表現されるのもまた、同じ理由による。

「いじめ」や性犯罪について真面目に考えるには、被害者としての実体験が重要

 私たちは誰でも、自分の意に反して他人が私的なスペースに侵入してくることに抵抗する。この点が直観的にわからない人はいないはずである。

 けれども、それとともに、現代の日本に生きる者の大多数、特に男性には、自分の私的なスペースが他人によって実際に暴力的に蹂躙された経験がないに違いない。そして、この事実は、わが国が平和であることの証拠であると言えないことはない。

 だた、私的なスペース、特に身体の自由を奪われたり、身体を傷つけられたりしたことがない者には、このような体験を持つ者の苦しみが分かりにくいこともまた確かであり、日本が平和であり、暴力に出会う可能性が低いせいで、逆説的なことに、たとえば「いじめ」や性犯罪の被害者に対する共感が社会に乏しいように思われる。

 意に反して身体の自由を奪われることは、途方もない恐怖を惹き起こす。この恐怖は、ことによると、生命を奪われることへの恐怖よりも深刻であり、ものの見方を決定的な仕方で変えてしまうことにより、忘れられないものとなるはずである。

 しかし、この恐怖を一度も体験したことがない者には、これを直観的には理解することができないから、他人の私的なスペースへの侵入に対する態度は、鈍いままにとどまらざるをえない。男性がこのタイプの暴力に鈍感である場合が少なくないとするなら、それは、女性の方が高度な共感能力を具えているからではなく、身体の自由を奪われる恐怖を体験した男性の絶対数が少ないからであるにすぎない。


応援し支援する あるいは「いじめ」の自家中毒的な仕組みについて : AD HOC MORALIST

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。い


 被害者としての実体験の有無は、「いじめ」や性犯罪の理解を左右する。以前に上の記事で書いたように、特に「いじめ」には、被害者自身が声を上げることを妨げる構造がある。しかし、説明の努力を諦めることは、鎖につながれ、脱出することを諦めた奴隷になるようなものである。被害者にしかわからないことは、苦痛であるとしても、被害者が自分で説明し、みずから道を切り拓く以外にないのである。

skeleton_goose

内面も見た目もともに重要

 あらかじめ言っておくなら、以下の記事において、私は「内面などどちらでもよい」ことを主張するつもりはない。むしろ、内面はつねに大切にされるべきものであるとかたく信じている。

 ただ、内面が大切にされるべきであるとしても、それは、「内面の方が見た目よりも大切である」ことを必ずしも意味しない。

 内面と見た目は、ともに同じくらい重要である。

 いや、内面と見た目をあえて比べるなら、見た目の方にはるかに大切であり、単なる内面には何ものでもないと私は考えている。

人間の内面は、見た目で評価するしかない

 そもそも、「内面」と「見た目」の区別は可能であろうか。

 たしかに、容姿の点で劣る者に対し、慰めないし励ましの意味で「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」などと言われることが少なくない。

 すなわち、この場合の「見た目」とは容姿であり、容姿に対比される「内面」とは、性格や「教養」(?)や「知性」(?)を意味することになる。

 けれども、厳密に考えるなら、好ましい性格を形作ったり、教養や知性を身につけたりすることが「内面を磨く」ことを意味するとしても、これらは――容姿と比較されているという事実が示すように――純粋な内面には該当しない。

 そもそも、これらの内面が他人から評価されるためには、「見た目」に反映されていることが絶対に必要である。他人の内面に直接に到達するなど不可能であり、内面というのは、つねに見た目を媒介としてのみ他人に知られうるものだからである。

 したがって、ニーチェの指摘を俟つまでもなく、外からはうかがい知ることのできない内面、「見た目」には反映されない好ましい内面などというものはないのであり、性格や教養や知性が高く評価されるのは、それが「見た目」を変えるかぎりにおいてなのである。

容姿の点ですぐれた者を見返すために内面を磨く努力には、まがまがしさが付きまとう

 「人間の価値は見た目ではなく内面にある、だから、内面を磨くよう努力しましょう」という文は、「好ましい性格や教養や知性を努力によって身につけることで、生まれながらに与えられた容姿で得をしている人間を見返してやりましょう」という文に置き換えることが可能である。

 しかし、このような動機にもとづいて「好ましい性格」や「教養」や「知性」を身につけることは、本質的には復讐であり、このかぎりにおいて、道徳的にいかがわしいふるまいである。

 すぐれた性格や教養や知性を最初から具えており、これが「見た目」へと自然に反映されるのなら話は別であろうが、復讐を動機として磨かれた「内面」というものは、いかなる意味においても好ましいものではなく、むしろ、偽善と押しつけがましさに満ちたまがまがしい空気を否応なく醸し出すことになるように思われる。

 少なくとも、私は、このような内面を評価しない。

↑このページのトップヘ