AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年04月

muybridge

SNS上のコミュニケーションは文字から動画へと移りつつある

 最近、次のような記事を見つけた。


 インターネットの使用が拡大し始めたころには、ネット上でのコミュニケーションの大半は、文字を主な手段とするものであった。

 それは、今から振り返るなら、一度に転送することのできる情報量に限界があり、画像を用いることに制約があったからであるのかも知れない。

 このかぎりにおいて、通信速度が向上するにつれて、文字を手段とするコミュニケーションの質が低下し、誹謗中傷や罵詈雑言に代表される文字の破綻した使用が目立つようになったのは、そして、InstagramやPinterestに代表される静止画や動画を主な手段とするコミュニケーションへとSNSの重心が移って行ったのは、特に驚くべきことではないと言うことができる。

 実際、最近では、動画よりもさらに簡単なGIFによるアニメーションがネット上のコミュニケーションの中心になりつつあるという意見もある。


文字では表現することができるが、動画では伝えられないものがある

 しかしながら、文字によって表現することができるものと、動画や音声によって伝えることができるものとのあいだには、大きな隔たりがある。

 たとえば、上の場合のように、殺人を記録して投稿するなど、文字では到底不可能である。リアルな仕方で何かを一度に提示する点において、文字が動画に及ばないことは確かである。何かの「作り方」全般には、動画による表現の方が向いていることになる。

 しかしながら、反対に、文字では表現することができるが、動画では伝えることができないものがある。たとえば、このブログに投稿された記事の大半は、動画にすることが不可能である。というのも、私がブログで記事を公開するのは、事実の紹介のためではなく、問題の解決法を提示するためではなく、何かの作り方を教えるためでもないからであり、むしろ、どちらかと言うと見過ごされがちな、しかし、重要な問題を指摘し、考えることを促すためだからである。

 文字によって構成された記事の場合、読者は、文字とのあいだにある程度の距離を設定し、間接的な仕方でこれを受け止める。記事の内容を受け容れるかどうかを決める前に、自分自身の考え方の枠組みを再確認し熟慮する時間が――数秒かも知れぬとしても――与えられるのである。

 しかし、同じ記事の内容が動画で伝えられるとき、「視聴者」と動画のメッセージのあいだに距離がなく、「視聴者」は、自分の態度を決めるための数秒の熟慮の時間を奪われて内容とのあいだに距離を奪われ、承認するか拒絶するか、即座に反応することを強いられる。そして、動画の内容に同意しない視聴者にとり、動画は、押しつけがましく不快なものとならざるをえない。(実際、このブログの記事のいくつかを動画に「翻訳」してみたが、出来上がった動画は、作った私自身が見ても、押しつけがましいものになった。)複雑な事柄を伝えるのに動画が向いていない理由である。

サイバースペースの荒廃

 とはいえ、ネット上、特にSNS上において、時間の経過とともに読まれる文字数が次第に減少することは必然であり、ネット上のニュースやブログは、文字が中心であるかぎり、次第に読まれなくなって行かざるをえない。遠くない将来、SNS上には画像や動画や音声が氾濫し、わずかに残る文字情報は、嘘、噂、偽ニュース、誹謗中傷ばかりになるはずである。サイバースペースにとり、荒廃した知性の廃墟になるのが運命であるのかどうか、これはよくわからない。ただ、少なくとも私は、動画や画像を用いた刹那的、脊髄反射的な承認/拒絶から距離をとり、文章を読みながら考える「公衆」の存在を想定して、文字による伝達の可能性をしばらくは追求したいと考えている。

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作品を鑑賞するのに必要な時間は数秒

 美術館で開催される展覧会というのは、私がもっとも苦手とする空間である。というのも、展覧会の会場で何をすればよいのか、よくわからないからである。

 絵画でも、彫刻でも、書でもよい。目の前に何らかの作品が展示されており、私は、作品へと近づき、これを眺める。しかし、大抵の場合、私は、このような状況に困惑する。作品と向き合っていると、次第にいたたまれない気持ちになる。

 そもそも、絵画の場合、何秒か向き合っていれば、作品の鑑賞にとっては十分であり、いつまでも作品の前に立っていても、退屈なだけである。作品を前にして深い感動らしきものを身振りによって示したり、「ほお」とか「まあ」とかつぶやいている人をときどき見かけるけれども、私自身には、絵画、彫刻、書、あるいは、その他の工芸品を見て感動した経験がなく、これらのオリジナルがどのような仕方で人間を感動させるということが理解できないのである。

 何年か前、京都を旅したとき、京都市美術館で開催中の展覧会に行ったことがある。フェルメールの「青衣の女」が日本で初めて公開された展覧会であったらしく、私が美術館を訪れた日は、平日であったにもかかわらず、大変な人出であったことを覚えている。



青衣の女
By ヨハネス・フェルメール - 不明, パブリック・ドメイン, Link

 ラッシュアワーの時間の新宿駅のような混雑の中の1人となって行列を作り、私は、フェルメールのこの作品の前を通り過ぎた。作品が私の視界の内部にあった時間は、かなり長かったけれども、作品の前で立ち止まることは許されなかったから、私が作品を適切な距離から眺めた時間は、10秒にもならなかったはずである。

美術の素人が展覧会でオリジナルを前にして「ほお」「まあ」などと言っているのは不自然

 しかし、私にとっては、これで十分であった。

 私の鑑賞能力がどのレベルであるのか、これはよくわからない。西洋文化に関連することを研究対象としているから、ヨーロッパの絵画や彫刻が嫌いというわけではないけれども、作品を見て楽しいかという問いに対する答えは曖昧である。いずれにしても、素人の水準を超えていないことは間違いないように思われる。

 そして、オリジナルが見る者に与える何かがあるとしても、それは、私のレベルの素人にはまったくわからない。私にとり、展覧会に足を運んでオリジナルを鑑賞するのは、球場で野球の試合を見物したり、マラソンを沿道で見物したりするのと同じようなものである。だから、展覧会で作品の前に佇み、「ほお」「まあ」などと言っている人を見かけると、私は、そこに何か不自然なもの、わざとらしいもの――オリジナルに心を打たれる自分を演じているような――を感じてしまうのである。

 正直に言うなら、私の目には、オリジナルよりもむしろ、画集に収められた複製の方がよほどすばらしいものと映る。画集で複製を見るのは、テレビ中継でスポーツを観戦するのと同じであり、このような手引きなしに藝術作品を享受することは、素人には無理であると私はひそかに信じている。

Postkarte Kleider machen Leute

身体に合わない服を着ると行動や姿勢に悪影響を与える

 昨日は、スーツを着て出勤した。私は、夏の暑い時期を除けば、講義や会議があるときにはスーツを着ることにしている。だから、スーツを着ること自体は、普通である。しかし、昨日のスーツには、小さな問題があった。サイズが少し大きいのである。

 私が昨日着たスーツは、10年近く前に購入したもので、当時の体型からすると、少し小さく、最初は、ジャケットの前のボタンがかろうじてかかるような状態であった。

 しかし、その後、体重がかなり減ったため、今度は、私の体型が、このスーツにちょうどよいサイズよりも細くなり、スーツが大きく感じられるようになったのである。昨日、しばらくぶりに身につけて、このことに気づいたが、着替える時間の余裕がなく、そのまま出かけることにした。

 現在の紳士服の流行では、ジャケットの袖からシャツの袖が少し見えるのがよいと言われている。ところが、身体が細くなったせいで、ジャケットの袖が実質的にその分長くなってしまった。同じ理由により、裾の位置も少し下がった。

 身体に合わない服を身につけていると、気になって仕方がない。もちろん、自分の体型よりも1サイズ大きな(ゆったりとした)スーツを身につけている男性は多いから、スーツが少しゆるいからと言って、気にするほどのことはないのかも知れないが、やはり、道を歩いているとき、ガラスに自分の姿が映ると、思わず振り向いて姿を確認してしまう。

 このようなことを繰り返すうち、次第に気が滅入ってきた。夕方、自宅に戻るために街を歩いていて、ガラスに映った自分の姿を見たら、やや前かがみになり、うつむき気味になり、足を引きずっていることに気づき、服装が姿勢やふるまいに与える影響を実感した。

 私がこれほど身体に合わない服装の影響を実感したのは、この数年、身体にちょうどよいサイズ、しかも、やや細身に見えるスーツをイージーオーダーで作り、これを身につけるようにしているからである。

 もちろん、値段は、量販店の既製のスーツの5倍くらいするけれども、それでも、毎回同じ店に出向き、前回から体型に変更がないかどうか確認するために採寸してもらい、生地、全体のデザイン、ポケットの位置や形状、ボタンの色や材質などの細部を決めて自宅に届けてもらったものを身につけると、それは、常識の範囲で、そのときの私の外見をもっとも適切に飾ることが可能となるはずであり、このような「自信」(?)らしきもののおかげで、姿勢やふるまいが改善されるような気がする。

 実際、今日は、身体に合うサイズのスーツを着て出かけた。そのせいで、昨日とくらべ、万事がうまく進んだ。もちろん、これは、錯覚かも知れない。けれども、服装を工夫するだけで気分が改善されるのなら、(改善されるのが気分だけであるとしても、)これほど安上がりなものはないと私は考えている。やはり、「馬子にも衣装」(Kleider machen Leute) なのである。

Kleider machen Leute

衣装は自分で選ぶのがよい

 そして、服装にこのような効用があるとするなら、やはり、その日に着るものは、自分で決めるべきであるように思われる。

 街を歩いていると、仕立てのよいスーツを身につけ、シャツやネクタイとのバランスも見事なのに、「着こなし」がひどい中高年のサラリーマンを見かけることが少なくない。

 たとえば、スーツにまったく合わない重いショルダーバッグを肩からかけているせいでジャケットがよじれていたり、歩き方が野蛮な感じだったり、姿勢が非常に悪かったりするのをよく見かける。2ボタンのジャケットのボタンを両方ともとめている男性を見かけることもある。

 このような男性は、身につけるものを自分で選んでいるのではなく、着るもの一式を配偶者に決めてもらっているのであろう。だから、服装とふるまいが調和せず、悪い意味で目を惹くことになっているに違いない。

 だから、自分が身につけるものに最低限の気を遣い、自分が着る服は自分で選ぶことが重要である。自分が決めたものを身につけることにより初めて、自分の身につけたものにふさわしい動作や姿勢を心がけるようになり、それにより、服装に対しさらなる注意が向けられ、自分のふるまいもこれによって改善する……、このような循環が生まれるからである。少なくとも私自身は、このような効用を期待しながら、何を着るかを考えている。

Starbuck's Study Table for Students

人間には、1度に1つのことしかできない

 私は、職業柄、自宅で仕事することが多い。だから、音楽を聴きながら仕事することが可能である。しかし、実際には、仕事中に音楽を聴くことは滅多にない。というのも、音楽を聴くと、気が散って仕事が阻碍されるからである。

 もちろん、音楽が流れていると気分が落ち着く人はいるであろう。それどころか――私には信じがたいことであるが――私の知り合いには、音楽を聴いていないと仕事に集中することができないなどと公言する者すらいる。だから、音楽と仕事の関係は、人により区々なのであろう。

 私自身は、仕事しているときばかりではなく、食事しているときにも音楽は聴かない。食事中にある程度以上の音量で音楽が流れていると、気が散って食事に集中することができないからである。私は、同時に1つのことしかできない性質のようである。

飲食店で音楽が流れていても気が散る

 だから、音楽が流れている飲食店で知り合いと食事するなど、拷問以外の何ものでもない。当然、3つの作業(=会話する、食べる、音楽を聴く)を同時に遂行するなど、私にはできないから、3つの作業を順番に遂行することになる。

 すなわち、まず、何も食べず、何も飲まずに、知り合いとしらばくのあいだ大声で会話する。(大声で話すことで音楽を掻き消すわけである。)次に、完全に沈黙してひたすら飲み、かつ、食べる数分間を過ごし、最後に、誰とも口をきかず、飲食もせずに音楽に耳を傾ける……、これを短い間隔で何度も繰り返すのが私の「飲食店での友人との会食」である。

視覚、触覚、味覚はピンポイントの刺戟の寄せ集め

 耳というのは、人間の感覚器官のうち、もっとも受動的なものであると言うことができる。そして、この受動性は、「音」というものの性質に由来する。

 たとえば、触覚は、基本的にピンポイントで受け止められるものである。全身の触覚が何らかの仕方で刺戟を受けることがあるとしても、全身の刺戟は、体表の一点を狙う刺戟を単位として、この単位の寄せ集めとして生まれるものである。

 視覚についても、事情は同じである。私が誰かに何かを見せようとしても、見せたいものには輪廓があるから、この輪廓が当の相手の視界と重なり合わないかぎり、見せたいものを見せることは不可能である。視覚や触覚に刺戟を与えるものには、基本的にすべて指向性があるのである。(味覚も同様である。)

音は空間全体を支配する

 もちろん、音に指向性を与えることができないわけではないけれども、音は、放っておけば、すべての方向へと拡散し、空間を支配する。

 音を聞きたくない場合、耳をふさいだり、その空間から逃げ出したりしなければならないが、その際に私たちに与えられているのは、ある空間を支配する音のすべてを受け止めるか、あるいは、すべてを遮断するかという選択肢だけであり、何らかの特別な装置の力を借りないかぎり、特定の音を選んで聞くことはできない。

 展覧会を見物するために美術館に行き、壁にかかった絵画を1つひとつ順番に見ることは可能でも、コンサートに行って、オーケストラを構成する1つひとつの楽器の演奏を個別に聞くことはできないのである。

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音は暴力となりうる

 聴覚というのは、ピンポイントの刺戟ではなく、音が聞こえるかぎりの空間全体を一挙に変容させる。このかぎりにおいて、音は、視覚や触覚を刺戟するものとくらべて暴力的であると言うことができる。

 音楽を聴きながら仕事する(あるいは、仕事しながら音楽を聴く)ことに何の苦労もない人には、ことによると、空間を支配している音を意識の背景へと囲い込み、意識の前景で遂行される知的作業からこれを完全に分離する特別な能力があるのかも知れないが、残念ながら、私にはこのような能力がなく、耳に入ってくる音はすべて、意識全体に影響を与えてしまう。だから、騒音のような完全に無意味な音はともかく、意味のある音が少しでも聞こえてくると、仕事が完全にストップしてしまうのは、決して異常なことではないに違いない(と私は自分のことをひそかに正当化している)。

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企業は、長期の契約による割引や「まとめる」ことによる割引を餌に顧客を囲い込もうとする

 携帯電話を長期で契約すると割引される。あるいは、携帯電話とケーブルテレビとインターネットをまとめると割引が受けられる。このような趣旨の案内を直接、あるいは、ダイレクトメールや電話で受け取ることが少なくない。

 「長期」や「まとめ」は、烈しい競争のもとで顧客を長期にわたって囲い込むための戦略である。だから、囲い込みは、規制が緩和され、新しい企業が市場に参入してくる可能性がある時期に試みられることが多い。

囲い込まれると「選択の自由」を制限される

 しかし、私は、これには基本的に応じないことにしている。

 今のところ、固定電話、携帯電話、インターネットのプロバイダー、ネット回線、ケーブルテレビ、NHK、電気、ガス……、私は、すべて個別に料金を支払っている。

 たしかに、このような支払い方では、割引は受けられない。また、大半が銀行口座からの引き落としになっているとはいえ、支払いはそれなりに面倒でもある。

 それでも、支払いに必要なカネと手間は「選択の自由」を確保するためのコストであると私は考えている。

途中で契約を解除しようとするとペナルティがある

 そもそも、たとえば携帯電話の回線の契約のように、2年間を単位とする場合、契約を解除することができる短い期間以外の時期に解約すると、違約金を請求される。

 もちろん、自分の意思で行った契約であるから、契約違反のペナルティを課せられるのは仕方がないことであるのかも知れないが、解約するにはつねにそれなりの――主観的な――不満があるのが普通であるから、違約金には釈然としないものがある。

契約を解除したあと、個別のサービスを契約しなおすのは面倒

 さらに、複数のサービスを「まとめる」ことで割引を受けていた場合、契約を解除すると、1つひとつのサービスを個別に契約し直さなければならない。これは、契約の解除を思いとどまらせる非常に大きな障碍になる。

 たとえば、私が住む杉並区では、J:COMがケーブルテレビのサービスを提供している。私も、ケーブルテレビについては、J:COMと契約している。

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 しかし、J:COMは、ケーブルテレビばかりではなく、光回線、インターネットプロバイダー、固定電話、携帯電話、電気、ガスのサービスを提供しており、すべてをJ:COMにまとめると、大幅な割引を受けることができる。そのため、J:COMから勧誘の電話がときどきかかってくるが、もちろん、私は、すべて無視している。

 そもそも、これらのサービスをすべてJ:COMにまとめてしまったら、J:COMに完全に囲い込まれ、「養分」となることを避けられない。というのも、解約することは、形式的には可能でも、現実にはほぼ不可能だからである。

 たとえば、光回線とインターネットプロバイダーについてJ:COMのサービスを解約したら、新たにどこかのプロバイダーと契約を結ぶとともに、NTTと光回線の契約を結び、さらに、公道から屋内まで回線を引く工事が必要となる。場合によっては、J:COMの回線を撤去する工事が行われ、その費用を請求されるかも知れない。電気やガスの契約を解除する場合もまた、事情は同じである。

 このような面倒をあえて引き受けても解約を実行するには、よほど重大な理由がなければならないように思われる。(同じように、販売店による引き留めが面倒であるという理由で新聞の購読をやめられない人は少なくないに違いない。)

多少割高であっても、また、支払先が分散しても、囲い込みには抵抗すべき

 だから、不満を覚えたら即座に解約し、競合する他社が提供するサービスの乗り換えることは、私たち消費者の権利に属する。

 ある会社のあるサービスに不満があるとき、「こちらの不満を解消するようサービスを改善しなければ、契約を解除して他社に乗り換える」と宣言する自由は、消費社会の健全な発展のための、そして、私たち自身の自尊心を維持するための必要条件であり、割引や手続きの簡略化と引き換えにこの自由を手放し、企業の養分になり下がることは、誰のためにもならないと私は考えている。

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