AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年04月

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パワーポイントによるプレゼンテーションはいたるところで行われている

 マイクロソフトが販売するソフトウェアに「パワーポイント」がある。よく知られているように、これは、プロジェクターを用いたプレゼンテーションのためのスライドを作成するソフトウェアである。

 職場での仕事の内容によって多少は異なるかも知れないが、民間企業で働いているなら、パワーポイント(またはこれと同等のソフトウェア)で作成されたスライドを使ったプレゼンテーションに立ち会ったり、みずからパワーポイントを使ってプレゼンテーションを行ったりした経験がない者はほとんどいない違いない。

 現在では、パワーポイントは、同じマイクロソフトのエクセルやワードとともに、ビジネス用のソフトウェアの中心に位置を占めていると言うことができる。

スライドの作り方に決まりはない

 しかし、パワーポイントで膨大な数のスライドが作られ、会議、説明会、講演、授業などで繰り返し使われてきたにもかかわらず、「プレゼンテーションのための理想のスライドとは何か」という点については、明確な合意が形成されていないように見える。

 そして、「理想のスライド」に関し明瞭な合意が欠けているということは、同じように、「理想のプレゼンテーション」についてもまた、誰もが同意するような基準がないことを意味するはずである。

プレゼンテーションはコミュニケーション

 それでも、次の点だけは、確実であるように思われる。

 そもそも、私がプレゼンテーションを行うとするなら、それは、いかなる場合においても、「アリバイ作り」のためであるはずがない。

 私は、自分の主張を聴き手に理解させ、私の言葉に対する聴き手の同意を獲得し、そして、可能なら、私の望むように聴き手を行動させることを目的としてプレゼンテーションするのである。

 つまり、プレゼンテーションは、1人が語り、多数がこれを聴くという形式を免れることはできないとしても、情報の機械的な伝達にすぎぬものではなく、相手の立場や気持ちに寄り添いながら意思疎通することにその本質があると考えるのが自然である。プレゼンテーションとはコミュニケーションなのである。

 そして、パワーポイントがプレゼンテーションの所期の目標にとって有効なスライドを作成するソフトウェアであるなら、スライドの「よさ」とは、コミュニケーションを促進する手段としての「よさ」以外ではありえないことになる。

言いたいことを直観的に伝えるスライドが歓迎される場面がないわけではない

 しかし、「スライドをどのように作ればよいのか」あるいは「効果的なコミュニケーションがどのようにして可能であるのか」という問いに答えることは容易ではない。

 私たちは、スライドを作るとき、みずからが実際にスライドを映して聴き手に語りかける場面を繰り返し心に浮かべる。しかし、最終的には自分なりの工夫が必要であるとは言っても、ルールや標準のようなものがあらかじめ設定されている方が心強いには違いない。

 実際、このようなルールや標準を提示し、プレゼンテーションにおけるスライドの作り方や使い方を記述するマニュアルのようなものがが何点も出版されている。私自身は、次の著者による一連の出版物を参照することが多い。

プレゼンテーションZEN 第2版

プレゼンテーションZENデザイン

裸のプレゼンター

ガー・レイノルズ シンプルプレゼン

世界最高のプレゼン教室(80分DVD付き)

 これらの本において、著者は、スライドの具体的な作り方を説明している。著者の提案するスライドの作り方は、日本人の平均的な「スライド観」(?)には必ずしも合致しないであろう。というのも、説明の前提となっているのは、おおよそ次のような理解だからである。

      1. プレゼンテーションの主役は人間のスピーチであり、パワーポイントではない。(退屈なプレゼンテーションの効果には”death by PowerPoint”の名が与えられている。)
      2. スライドは、スピーチの効果を上げるための補助的な手段であり、自立したものとする必要はない。(=スライドは資料でも原稿でもない。)
      3. スライドは、言いたいことの枠組を直観的、視覚的に伝えるものであり、詳細な情報は印刷して資料として配布すべき。資料からそのまま作られたスライドを著者は”slidument”と呼ぶ。

 このような理解を前提として作成されるスライドからは、当然、余計な情報が切り捨てられ、ミニマリスティックなものとなる。著者の指示にすべて従い、練習を繰り返すなら、最終的には、途方もなく洗練されたスライドを用いた「スティーヴ・ジョブズみたいな」プレゼンテーションが可能となるはずである。

 たしかに、たとえばTEDCreative Morningsの動画を見ていると、使われるスライドがおおむねミニマリスティックであり、スピーチに対する「挿絵」の役割しか担っていない(=それだけ眺めていても脈絡がわかるようになっていない)。スライドがこのように使われる場面が少なくないことがわかる。

プレゼンテーションの価値は聴き手が決めるもの

 しかし、残念ながら、プレゼンテーションとは何であり、スライドとは何であるかという点に関し、万人が上の著者に同意するわけではない。

 むしろ、プレゼンテーションとはスライドをそのまま朗読することであり、スライドはそのまま印刷して資料として利用可能でなければならないとかたく信じている聴き手は決して少なくないはずであり、このような聴き手を前にするとき、「スティーヴ・ジョブズみたいな」プレゼンテーションは、聴き手の期待に応えるものではなく、したがって、何の効果も挙げられないに違いない。

 そもそも、プレゼンテーションがコミュニケーションであるかぎり、その成否を決める権利を持つのは、語り手ではなく聴き手である。(コミュニケーションとは、聴き手のためにあるものだからである。)スライドがどれほど洗練されていても、聴き手が理解も同意も示さなければ、プレゼンテーションは失敗である。

聴き手に応じてスタイルを変えるのが「正解」

 プレゼンテーションのスタイルは多様であり、そこに「正しいプレゼンのスタイル」などというものはない。

 たしかに、TEDやCreative Morningsでスピーチするのなら、徹底的に洗練されたスライドを作り、言葉と一体になって流れて行くよう工夫しなければならないであろう。

 しかし、日本の多くの企業の内部で行われるプレゼンテーションのように、野暮で見づらい”slidument”を要求するような聴き手の前では、この要求に応えないかぎり、自分のメッセージが伝わらないはずである。

 プレゼンテーションを成功させることを望むのなら、スライドを作ったり情報を整理したりする前に、聴き手が何者であるのか、どのような意見の持ち主であるのか、これまでどのようなプレゼンテーションに馴染んできたのか……、このような点を慎重に調べ、その上で、伝え方を工夫することが必要であり、他に道はないように私には思われる。

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互酬性の原則が完全に成り立つなら、他人に親切にすればするほど私の生活は楽しくなる

 人間の行動には「互酬性」というものがあると一般に考えられている。つまり、私が誰かから親切にされると、私の方もまた、私を親切にしてくれた者に対し親切にふるまおうとする傾向があるのである。ただ、私は、相手に親切にすることにより、親切を「返す」のではなく、本質的には、私に親切に接してくれた相手に私が施す親切は、本質的に新しい親切と見なされるべきものである。

 厳密に考えるなら、互酬性というのは、誰かへの親切が親切への応答を惹き起こすことではなく、親切から新たな親切が産み出されることである。互酬性が親切の交換であるなら、それは、1回かぎりで完結し、連鎖することがないはずである。しかも、相手に対する私の親切は、本当の意味における親切ではなく、単なる返礼にすぎぬものとなってしまう。この点は、ネガティヴな方向における互酬性を観察するなら、誰でもすぐにわかることである。親切が新たな親切への刺戟になるように、誰かのふるまいが私にとって攻撃と見なすにふさわしいものであるなら、私は、反撃という仕方でこれに報いる。しかも、攻撃と反撃の連鎖は、断ち切ることが困難である。このような事実は、互酬性の背後にあるものが単なる「交換」ではないことを雄弁に物語っている。

 互酬性がいつでもどこでも例外なく成り立つ原則であるなら、楽しい人生を送る秘訣はただ1つ、目の前の他人に対し、考えうるかぎりの親切を施すことである。私が他人に親切にふるまうなら、親切にされた者は、この親切を刺戟として、さらなる親切を産み出して行くはずだからである。

深く考えず、少しだけ行動する

 今年の春から、私は、ある実験をひとりで始めた。何かに困っている他人が目の前にいるとき、手伝いができそうなら、それが見ず知らずの相手であっても、手助けを申し出てみるという実験である。

 目の前の困っている人を助けるなど、「実験」と呼ぶほどのことでもないと思うかも知れないが、「干渉しない」ことを信条としてきたこれまでの私にとっては、これは、生活の原則の大転換に当たる。

 もちろん、私は、「小さな親切運動」のような大がかりな慈善やボランティアに従事するつもりはない。私の「小さな親切」は、あくまでも、目の前の事態に対し反射的に介入するだけのものであり、

    1. 何をすれば相手が満足するか明らかであるような状況のもとで、
    2. 私の自由になる時間、知識、能力、権限などの範囲で問題の解決に貢献することができる場合にのみ

目の前の他人に助けを差し出すささやかなものである。解決が困難である場合、あるいは、どのように手を差しのべれば相手が喜ぶかハッキリしない場合、目の前に問題があることが明らかであるとしても、私は介入しない。

 大切なことは、あれこれと考えず、即座に行動することであり、また、親切をその場で実行することができないときには、介入しないことである。相手に対する親切には限度がない。親切にしようと思えば、いくらでも親切にすることが可能である。しかも、私がいくら時間や体力を費やしても、それが相手にとって必ず親切になるとは限らない。

 じっくりと考えてから行動するとき、私は、その行動の価値をどうしても予測してしまう。つまり、自分の行動の意義をあらかじめ自分で決めてしまうのである。そして、このような事前の予測や評価は、「自分の行動の正当化」を促し、自分で自分の行動を正当化してしまうと、相手から予想外の反応が戻ってきたり、問題が解決されなかったとき、私はこれに大きな不満や怒りを抱くことになる。だから、心穏やかに親切を実行するには、正当化を避けることが必要であり、正当化を避けるためには、結果や意義について考えをめぐらせ始める前に親切を差し出してしまうことが必要となる。この春から始めたささやかな親切の実験により、このような行動が自然にできるようになることを私はひそかに期待している。

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エゴサーチには中毒性がある

 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。

 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思っている。しかし、パソコンの前に坐っている時間が長いせいか、どうしても「エゴサーチ」してしまう。エゴサーチには中毒性があり、タバコやアルコールと同じように、一度習慣になってしまうと、やめることが難しいようである。

 エゴサーチに中毒性が認められるのは、それが、きわめて歪んだ仕方であるとしても、「承認欲求」を満足させるものだからであろう。私の名前が検索の結果としてヒットするのは、誰かが私に注意を向け、私の名前を含む文章をネット上に投稿したからである。エゴサーチでヒットした件数は――自動的に収集された情報が機械的にコピーされたページでないかぎり――私に向けられた注意の量を反映するものとして受け止めることができる。エゴサーチを始めると、やめることが難しいのはそのためであるに違いない。

ネット上の評価の8割以上はネガティヴなもの

 ただ、エゴサーチにより私が目にする検索結果は、大抵の場合、決して好ましいものではない。というのも、私は、職業柄、本名で著書や論文を公表しているけれども、ネット上、特にSNS上で出会う私への言及の大半が批判または誹謗中傷によって占められており、多少なりとも好意的なものは、全体の1割にも満たないからである。だから、エゴサーチするたびに、そして、新しい検索結果を見つけるたびに、私は意気阻喪することになる。

 とはいえ、これは、私の場合が特別なのではなく、ネット上、特にSNS上に公表された誰かに関する評価の8割以上はネガティヴなものであると言われている。
NEWSポストセブン|ネットの書き込みは8割が悪口 エゴサーチやめるのが吉の声│
 エゴサーチを試みると、サイバースペースが恨み、怒り、妬みなどの悪意によって満たされた空間であることがよくわかる。

エゴサーチは、かゆい湿疹をかきむしるようなもの

 エゴサーチは、私の承認欲求を歪んだ仕方で満たしてくれるものである。だから、検索結果を表示するページが誹謗中傷や罵詈雑言によって埋め尽くされているとしても、そして、検索するたびに汚らしい誹謗中傷や罵詈雑言を必ず目にするとわかっていても、エゴサーチをやめることができない。そして、実際に、エゴサーチするたびに、私の心は少なからず傷つき、生活の質は間違いなく損なわれて行く。

 たしかに、ネットの世界には、みずからが「打たれ強い」ことを公言し自慢している人々がいる。このような人々がどのような気持ちで自分に対する誹謗中傷や罵詈雑言を眺めているのかわからないけれども、決して「打たれ強い」方ではない私などにとり、エゴサーチは一種の自傷行為である。

 不特定多数の目に触れるような仕方で作品を公表したり、発言したり、行動したりする人々にとり、エゴサーチの習慣は、一種の嗜癖である。かゆい湿疹のかゆみを解消するため、これをかきむしり、かきむしることで血が流れても、さらにかきむしり続け、これがさらなるかゆみを惹き起こす……、エゴサーチは、これに似た悪循環を私たちの心の中に産み出しているように思われるのである。

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 昨日、地下鉄副都心線に乗り、ドアの上に設置されている液晶ディスプレイ(LCD)に映る動画の広告をボンヤリと眺めていたとき、強い違和感を覚えた。

 私が見たのは、次の動画である。

 この動画では、専業主婦と思われる女性が外出し、知人とどこかで会う。そして、この女性は、外出先で、小学生の子どもの居場所をスマホで把握し、その後、子どもを駅で迎えて一緒に帰宅し、帰宅したあと、宅配で届いた食料品を調理して家族で食事する。

 ここで紹介されているのは、動画の説明によれば、

イッツコムの「インテリジェント ホーム」、

東急セキュリティの「エキッズ」、

東急ベルの「ホーム・コンビニエンスサービス」、

東急パワーサプライの「東急でんき」

の4つのサービスであるらしい。

 私は、この動画で紹介されているサービスに何か不満を持っているわけではない。(そもそも、東急線沿線の住民ではないから、副都心線に乗り、動画を見るまで、東急電鉄にこのようなサービスがあることすら知らなかった。)

 私に違和感を与えたのは、この動画の最後の方、47秒あたりに登場する男性である。この男性は、「おなかすいちゃったね」という一見無邪気なセリフとともに、子どもと一緒にソファーに腰をかけてテレビを見ている。つまり、この男性の妻が食事の用意をするのを待っているわけである。

 この場面を見て、私の心に最初に浮かんだのは、「なぜこの男は手伝わないんだ?」という疑問であり、次に心に浮かんだのは、「なぜ子どもに手伝わせないんだ?」であった。何か別の用事を片づけているのならともかく、(もちろん、たとえば子どもの相手をすることがそれ自体として用事と見なされているのかも知れないが、)手が空いているのなら、ただテレビを見ながら待っているのではなく、男性も子どもも、何かを手伝うべきであろうと私は考えたのである。

 この動画ばかりではない。家族で食事する短い場面を含む(住宅関係のサービスに関する)CMでは、女性が食事を準備し、その夫はリビングルームらしき空間のソファーに坐っている映像をよく見かける。しかし、女性は料理し、男性はソファーに坐ってこれを待つという映像は、性的役割分業を前提としなければ理解することのできないものであり、この意味において古色蒼然とした印象を与えるものである。

 もちろん、性的役割分業が何もかも悪いわけではないであろう。それでも、家事に関するかぎり、これを無邪気に肯定するような映像は、現在では、現実にも常識にも理想にも、もはや必ずしも合致するものではなく、反対に、少なくとも表向きは、性的役割分業に対する否定的な見解の方が支配的であることは確かである。

 したがって、上のようなCMに食事の用意をする場面を含めるのなら、男女が――場合によっては子どもも一緒に――家事を行う映像の方が自然であり、また、このような映像が繰り返し流されることにより、CMは、これを見る者たちに対し新しい生活の形を示すことにより、「教化的」「啓発的」な仕方で影響を与えることになるに違いない。

MM Lawyers

不適切な表題の自己啓発書とビジネス書

 昨日、次のような本を見つけた。

できる男は「常識」を信じない (PHP文庫)

 「できる男は『常識』を信じない」と表紙には記されている。PHP研究所が版元であるから、内容には最低限の信用を置いて差し支えないのかも知れない。もっとも、私自身は、この書物を読んでいない。したがって、これが読むに値するものであるかどうかについては判断を控える。

 私がここで取り上げたいのは、「できる男は『常識』を信じない」という表題だけである。というのも、「ビジネス書」や「自己啓発書」には、似たような形式の表題を持つ書物が実に多いからであり、さらに、このような表題を持つ書物を本屋の店頭やアマゾンで見かけたら、購入するかどうか、ゆっくり10回深呼吸してから決めるのが無難であるように思われるからである。理由は次のとおりである。

 そもそも、表題が書物の内容を正確に映すものなら、この書物には、「できる男は『常識』を信じない」ことが記されている。そして、「できる男は『常識』を信じない」こと以外には何も記されていないはずである。ところが、私たちは、この表題を目にすると、「常識に囚われない思考や行動が生産性を向上させるという仮説」あるいは「常識に囚われずに考えたり行動したりする方法」などがここに記されていることを予想する。当然、この書物の編集者は、このような予想が表紙を眺める者の心に生まれることを期待して表題を決めたはずである。

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このタイプの表題は、見る者を「後件肯定の虚偽」へと誘う

 しかし、「できる男は『常識』を信じない」という文が真であるとしても、この文は、すべての「できる男」に「『常識』を信じない」という共通の傾向が認められることを語るものであるにすぎない。したがって、この文を変形することによって導き出されるのは、せいぜい、「『常識』を信じない」という性格を欠いた者の集合の要素には「できる男」が1人も含まれていないということにとどまる。「『常識』を信じない男が『できる男』である」こと、あるいは、「『常識』を信じることをやめれば『できる男』になれる」ことは、論理的には決して導き出すことはできないのである。

 実際、「できる男」がすべて「『常識』を信じない」というのが事実であるとしても、「できない男」(これが「できる男」の矛盾概念であると仮定する)の中にも「『常識』を信じない」者がいることを形式的に否定するものではない。したがって、上の書物の表題は、「できる男は『常識』を信じないかも知れないが、『常識』を信じることをやめたからと言って、必然的に『できる男』になることができるわけではない」という意味に理解されねばならないのである。

 「できる男は『常識』を信じない」から「『常識』を信じなければ『できる男』になれる」を導き出すのは論理的な虚偽であり、これは、伝統的論理学において一般に「後件肯定の虚偽」と呼ばれる誤謬推理の一種である。このタイプの表題は、これを見る者を後件肯定の虚偽に誘うものであると言うことができる。

 次の本についても、事情はまったく同じである。

できる男は超少食―空腹こそ活力の源 !

何もしなくても人がついてくるリーダーの習慣

 形式的に考えるなら、「できる男は『超少食』」かも知れないとしても、「食生活を『超少食』にあらためれば『できる男』」になることができるわけではなく、どのような「習慣」を身につけようとも、それだけで「人がついてくるリーダー」になることができるわけでもないのである。

原因を推定しようとすることは自然な反応だが、表題を見て、「逆も真」かどうかを考えてみるべき

 とはいえ、「できる男」なるものが目の前にいるとき、なぜこの人物が「できる」のか、その原因を知りたいと誰もが考える。これは、人間にとって自然な欲求である。そして、このような欲求に応えるとき、私たちは、後件肯定の虚偽をあえて犯す。つまり、原因を推定するのである。たしかに、このような推理は、必然的に真であるわけではないが、真である可能性がないわけではない。これは、一般に「アブダクション」と呼ばれるものであり、三段論法のうち、小前提と結論を入れ替えることによって作られる。(だから、原因を推定する推理としてのアブダクションは、つねに後件肯定の虚偽に当たる。)
 だから、私は、このタイプの表題を持つ「自己啓発書」や「ビジネス書」を買うべきではないと言うつもりはない。

 ただ、このような表題を見て、その書物に何かを期待したとき、自分が後件肯定の虚偽に陥っていないかどうか、一度は疑ってみるべきである。そして、後件肯定の虚偽に陥っているとしても、それでも、「できる男」が「できる」原因を知りたいと思うのなら、書物を購入する前に、10回深呼吸してから、自分自身が「できる男」になる方法がそこに記されているわけではないことをあらかじめ理解すべきである。これは、時間とカネを無駄にしないために必要な手続きであろう。

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