AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年04月

和菓子 : Japanese sweet

和菓子における「見立て」と「写し」

 「見立て」と「写し」というのは、和菓子に関してよく用いられる区別である。

 食品以外の何か、特に、それ自体としては形を持たないものを間接的に連想させるよう食品の形を整えることを「見立て」と言う。下の記事に記されているように、季節、気候、情緒などを和菓子に語らせるのが「見立て」である。

 これに対し、「写し」は、文字どおり、菓子を何かの形に似せることを意味する。和菓子を用いて主に果物、花、天体、動物などの自然物を模写するのが「写し」である。

File32 和菓子|美の壺

 次の本には、さらに具体的な説明が載っている。

NHK美の壺 入門編 (AC MOOK)

 和菓子を何かに「見立て」るのは、主に上方の文化であり、これに対し、「写し」としての和菓子は、江戸を中心とする文化に属するもののようである。

「見立て」はシンボルまたはインデックス、「写し」はアイコン

 和菓子における「見立て」と「写し」のうち、これを口にする人間にそれなりの知的水準を要求するのは、当然、「見立て」の方である。

 見立てとしての和菓子は、文学における短歌や俳句と同じであり、これを味わうことができるためには、「見立て」られている当のものが日本の伝統的な文化的コンテクストの内部において占める位置をあらかじめ承知していなければならないからである。つまり、このような知識を持たない者には、和菓子が差し出される状況や和菓子の形状を評価することができない。「見立て」としての和菓子は、この意味において、「ハイコンテクスト」な食品である。

 これに対し、「写し」としての和菓子を味わうのに、このような文化的な想像力は不要である。というのも、和菓子の形状を見れば、何が写しとられているのかは、大抵の場合、おのずから明らかだからである。(というよりも、和菓子を見て、何を写しとったものであるか誰でもすぐにわからなければ、それは失敗作である。)典型的なのは「たい焼き」である。たい焼きの形状は、鯛の模倣である。したがって、たい焼きを目にするとき、「なぜこれが『たい焼き』と呼ばれているのか」という疑問が心に浮かぶことはない。「写し」としての和菓子の場合、何が写しとられているのかが誰にとっても明瞭であることが必要であり、残念ながら、この意味において、相対的に「ローコンテクスト」な食品と見なされねばならない。

 チャールズ=サンダーズ・パースによる記号の古典的な分類を借りてこれを言い換えるなら、「見立て」としての和菓子はシンボル(象徴記号)またはインデックス(指標記号)に当たり、「写し」としての和菓子はアイコン(類似記号)に相当するであろう。

「桜の花を練り込んだ……」は餌である

 しかし、「見立て」よりも「写し」の方が相対的にローコンテクストであったとしても、それでも、「写し」としての和菓子は、食品以外の何ものかを模倣し模写するものであるかぎりにおいて、写しとられている当のものから截然と区別されていた。したがって、「写し」としての和菓子を味わうためには、少なくとも「あれがこのように写しとられているのか」という再認の手続きは必須であった。

 ところが、最近は、毎年春になると、「桜の花をかたどった」食品や「桜色をした」食品ではなく、「桜の花を練り込んだ」蕎麦、洋菓子、和菓子などが製造され、販売されるようになっている。これは、桜の色や形が写しとられた食品ではない。ここでは、「現物」としての桜が素材として含まれているのである。これは、ローコンテクストな食品ですらなく、もはや「コンテクストフリー」な何ものかであると言うべきである。

紀文食品/伊達巻パッケージ | BASE CREATIVE

 しかし、桜の「現物」を口に入れることで初めて春を感じるなど、人間ではなく動物のすることである。ヒト以外の動物が現物としての桜を口に放り込まなければ春を感じられないとしても、それはやむをえないことである。なぜなら、動物には記号を操ることができないからである。動物は、現物を直に嗅いだり口に入れたりするほかはないのである。しかし、記号を操る人間が動物を真似して現物を口に入れることは、必要ではないばかりではなく、好ましくもない。それは、非人間的な動物的なふるまいである。「桜の花を練り込んだ」ものは、食品ではなく、本質的に「餌」と見なされねばならない。

 「見立て」を基準とするなら、「写し」の試みは、一種の文化的な堕落であったかも知れない。しかし、現代の食品は、この「写し」から歩みをさらに進め、「現物」を摂取するところへと転落してしまったように見える。

 食品に具わる記号としての性格により、人間が口にする食品は、動物のための餌から区別されるはずである。したがって、日本人が「桜の花を練り込んだ」ものをよろこんで口にするなら、それは、食品を記号として享受する能力の喪失と日本人の動物化を反映するものとして受け止められねばならないように思われる。

Sputnik, mi amor

読んでいることを他人には報告できない本がある

 何を読んでいるのか、あるいは、何を読んだのかと他人から問われて、返答に窮することがある。

 SNS上では、自分が読んだ本を喜々として公表している人がいるけれども、私にはとても真似することができない。(1)大抵の場合、複数の本を並行して読んでおり、しかも、(2)実際に手に取る本のうち、最初から最後まで通読する本は必ずしも多くはないからである。

 私は、朝から夕方まで、本を読んでいたら片づけることができない仕事がないかぎり、何らかの仕方でずっと本と格闘しているけれども、「読む」ということが「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」ことを意味するなら、おそらく、私は、本をほとんど何も読んではいないことになる。

 そもそも、「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」という読書態度は、私の雑な歴史認識に間違いがなければ、少なくとも西洋では、18世紀後半以降、小説の受容とともに支配的になったものである。トルストイの『戦争と平和』のような超長篇小説を最初から最後まで読み通すというのは、決して普通のことではないように思われるのである(と言いながら、集中力が続かない自分自身を慰めている)。

 しかし、それ以上に大切な理由は、たとえ通読していても、「読んでいる」「読んだ」などと恥ずかしくてとても公言することができない「下等」な本を読むのに、それなりの時間が費やされているからである。

下等な本の方が知的な刺戟に満ちていたりする

 しかも、厄介なことに、このような下等な本を読んでいるときの方が脳が活発に働くせいか、知的な刺戟を与えられることが多いのである。食事になぞらえるなら、読んでいることを他人に報告することができるようなものは、野菜をたくさん使った健康的な料理であり、これに対し、読んでいることを他人には知られたくないような下等な本は、健康を害することが明らかな酒の肴やジャンクフードに当たる。

 だから、著書や論文のネタが最初にひらめくのは、大抵の場合、下等な本を読んでいるときであり、誰でもタイトルを知っているような古典的な著作を読んでいるときに心に浮かんだ思いつきが知的生産の直接のトリガーになることは滅多にない。もちろん、それは、私が下等だからなのかも知れないが……。

本は、隠れて読まないと面白くないのか

 とはいえ、他人に隠れて読む本の方が、白昼堂々と読む本よりも断然面白く感じられることは事実である。

 締め切り間近の仕事を片づけなければならないとき、これを放擲してこっそり読む本は、途方もなく面白く感じられるのに、同じ本を時間に余裕があるときに読み返しても、どこが面白いのかよくわからないことが少なくない。中学生のころ、中間試験や期末試験の直前、本当は真面目に勉強していなければいけないとき、自宅の机の引き出しに忍ばせておいた司馬遼太郎の歴史小説を隠れて読んでいた。小学校6年生の冬には、中学受験の直前だというのに、机の引き出しに――今となってはどこに面白さを感じたのかわからないが――井伏鱒二や志賀直哉の小説を放り込んでおき、これを読んでいたのを覚えている。

 本は隠れて読むことで初めて――場合によっては実力以上に――面白いものとなるという主張が妥当なものであるなら、「読むことが格好よい本」とか「読むことが望ましい本」というのは、決して面白くないことになる。少なくとも、誰かから「読め」と命令された本など、面白く読めるはずがないのである。

 この意味では、恥ずかしくて他人にタイトルを告げることができないような本ほど面白く、読書にふさわしいものであり、読むことを禁じられた書物がない現代の日本では、このような下等な本を読むときにこそ、読書の本来の可能性が拓かれると言うことができないわけではないように思われる。

 以前、次の記事を投稿した。


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、


 この記事において、私は、読書が本質的に密室で遂行されるべきものであり、「読書会」「ソーシャル・リーディング」などの試みが読書の本質と相容れないものであることを強調した。

 しかし、「読書は密室で遂行されるべきものである」という表現は、正確ではないかも知れない。むしろ、密室においてのみ、読書は本来の意味において遂行されるのである。たしかに、書物に関する情報の共有は、それ自体としては好ましいことである。しかし、これを超えて、他人とともに、他人の視線にさらされながら、あるいは、他人に命令されて本を手に取り、文字を目で追いかけることは、もはや「読書」ではない。書物を媒介として誰かと「つながる」など、書物に対する侮辱に当たるのではないかと私はひそかに考えている。

シーサー

原則:自家用車なしの旅では、行動の自由がいちじるしく制限される

 一昨年と去年、ひとりで沖縄に行き、それぞれ3泊4日で方々を歩き回ってきた。

 私は、沖縄には地縁も血縁もなく、普段から連絡を取り合うような親しい知人がいるわけでもない。だから、旅行中は、ほぼ完全な単独行動であった。ルートを自分で組み立て、行きたいところに行ってきたのである。

 とはいえ、私には自動車の運転ができない。運転免許を持っていないのである。自宅も職場も東京23区内の場合、自動車を持っているメリットはほとんどないのに対し、誰でも直観的にわかるように、沖縄の社会は、誰もが自動車を運転し、それなりの距離を短時間で移動することを前提として成り立っている。

歩行者は最初からお呼びではない

 実際、一昨年、沖縄に行ったときには、こういうことがあった。

 那覇から高速バスに乗って名護に行ったときのことである。名護のバスターミナルに辿りついてバスを降り、ボンヤリと周囲を眺めていたとき、近くのビルの上にあるマクドナルドの看板が目にとまった。

 この看板を見た私の心に最初に浮かんだのは、「ああ、この近所にマクドナルドがあるのか」という実につまらない感想であった。しかし、何秒かこの看板を見つめているうちに、私は、強烈な違和感に襲われた。というのも、この看板は、マクドナルドが「5km先」にあることを告げていたからである。

 東京23区では、「5km先」に店があることを知らせる看板など、何の役にも立たない。もっと近くに別の店があるからである。しかし、沖縄では、店まで徒歩で1時間以上かかる距離にある場所に看板を出すことに意味があるらしい。この看板が自家用車を運転する者が見ることを想定して設置されたものであり、「歩行者」などは最初からお呼びではないことを私は理解した。

 社会全体が自家用車に最適化されているから、運転ができないと、那覇市の中心部のごく狭いエリアを除き、ガイドブックに掲載されているような観光地の大半について、アクセスは途方もなく困難になる。

沖縄本島の南半分については、時刻表を細かくチェックして計画を立てれば、大体の観光地は何とかなる

 もちろん、運転できないと移動の自由が制限されることは、沖縄に行くことを思いついたときから、私にも何となく想像がついていた。観光地を案内するウェブサイトを見ても、ガイドブックを見ても、自家用車によるアクセスの方法しか記載されていないところが実に多いのである。

 だから、私は、バスとタクシーで行けるところまで行き、どうしても行けないところは諦めることにして旅行の計画を立てた。あれこれ調べているうちに、沖縄本島のうち、名護市より北のエリアの観光スポットは、自家用車を運転することができないと手も足も出ないところが多いけれども、南の方は、自動車を運転できなくても、バスとタクシーと徒歩を組み合わせることでアクセス可能なところが多いことがわかってきた。

 行きたいところを決めたら、路線バスでアクセスすることができるかどうかをガイドブックやウェブサイトでチェックする。そして、路線バスでアクセス可能であることがわかったら、

バスなび沖縄

バスマップ沖縄

を利用して、

    • どこの停留所から、
    • 何時何分に
    • どのバス会社の
    • どの系統に乗り、
    • どこの停留所で降りるか、
    • そして、この停留所からどのように歩くか

を、行きたいと思う観光地のそれぞれについて、すべてメモしておく。山の中で道に迷う危険があるから、スマホまたはタブレット型端末は必携であろう。

 観光地によっては、最寄りの停留所を通過するバスが1日1本しかないようなことがある。そのような場合、もう少し便数の多い路線を使い、少し離れた停留所から歩いた方がよい。

 私は、糸満市にある「白梅の塔」を訪れた。白梅の塔とは、従軍看護婦として第二次世界大戦で動員され、犠牲になった沖縄県立第二高等女学校の生徒たち(白梅学徒隊)の慰霊のために建立された記念塔である。

白梅学徒隊 - Wikipedia

 白梅の塔は、「ひめゆりの塔」ほどには有名ではないけれども、その分、観光地化されておらず、静かな雰囲気が保持されている。私自身、白梅の塔を訪れたときには、誰のことも見かけなかった。

 それでは、この白梅の塔に公共の交通機関だけでアクセスする場合、どのバス停を使えばよいのか。純粋に物理的な距離だけを考慮するなら、白梅の塔にもっとも近いのは、沖縄バスの86系統の「田原入口」という停留所である。停留所から白梅の塔までは徒歩5分くらいなのではないかと思う。

 しかし、この「田原入口」を通過するバスは1日にわずか2本、しかも、通過するのは、いずれも午前7時台である。したがって、この系統のバスを使って白梅の塔に行くことは現実的ではないことになる。

 そこで、私は、糸満バスターミナルからバスに乗り、「真栄里」という停留所まで行き、ここから白梅の塔まで歩いた。「真栄里」バス停から白梅の塔までは、私の足で約20分であった。

 「真栄里」は、白梅の塔からは少し離れているけれども、名城バイパスに面したところにあり、複数の会社の複数の路線のバスがここを通過する。15分も待てば、糸満バスターミナル行きのバスに乗ることができるのである。

 なお、次のブログの筆者は、「県営新垣団地入口」という停留所を使ったようであるが、この停留所も、通過するバスの本数が極端に少ない。

沖縄本島縦断 路線バスでゆく大人の修学旅行 第4日

沖縄の人は時間にルーズと言われるが、交通機関は基本的に定刻どおりに運行されている

 東京には、沖縄県の人々について、「時間にルーズ」という印象を持っている者が多い。たしかに、必ずしも時間が守られない場合は少なくないのかも知れない。ただし、バスは、道路の渋滞がないかぎり、基本的に定刻どおりに運行されている。バスの運行管理が杜撰であったら、バスに頼って沖縄を旅するなど不可能であるが、この点について心配する必要はないようである。

教訓:困ったら潔くタクシーを使うべし

 白梅の塔を訪ねたのと同じ日、これに先立ち、私は、同じ糸満市の喜屋武岬に行った。ここは、沖縄戦の激戦地である。

喜屋武岬 - Wikipedia

 上に掲げたブログの筆者も、白梅の塔と同じ日に喜屋武岬を訪れたようである。

 当初、私は、上のブログの筆者が辿ったのと同じルートで喜屋武岬にアクセスしようとした。つまり、喜屋武岬の手前にある同じ名前の集落までバスで行き、そこから徒歩で喜屋武岬に行くつもりだったのである。ところが、バスの乗り継ぎが上手く行かず、そのため、上のブログの筆者がバスを降りたところまでタクシーで行き、そこから歩くことにした。

 ところが、タクシーに乗り、「喜屋武の集落まで行ってほしい、そこからは歩く」と運転手さんに言ったところ、「やめておいた方がよい、悪いことを言わないから、喜屋武岬まで乗って行け」という返事が戻ってきた。

 なぜ喜屋武岬までタクシーで行くことをすすめられたのか、最初はわからなかったけれども、実際に行ってみて、運転手さんのすすめに従って正解であったと強く感じた。というのも、上のブログの筆者が歩いたときとは様子が異なり、私が喜屋武岬を訪れたときには、集落から岬までのあいだの農地が土地改良のための大規模な工事中で、狭い道路をダンプカーや重機を積んだトラックが頻繁に行き来していたからである。当然、歩行者が路上にいる可能性など、まったく考慮されておらず、危険な状態でもあった。タクシーに乗っていなかったら、私は、途中で引き返していたと思う。

 路線バスにこだわらず、必要に応じて柔軟にタクシーを使うことは、時間と体力の節約になるばかりではなく、安全でもあることが多い。私は、ある程度以上長距離の移動にはバスを使ったけれども、移動距離が短いときにはタクシーを頻繁に使った。(各地の観光案内所には、地元のタクシー会社の電話番号が必ず掲げられており、電話で簡単に呼ぶことができる。)

 自家用車を使わずに沖縄を旅行するなら、短距離の移動はタクシーが便利である。ただし、那覇市の中心部については、このかぎりではない。というのも、時間によっては渋滞が激しく、バスであれタクシーであれ、自動車がまったく使いものにならないことがあるからである。

Untitled

人生に対する積極的な態度と消極的な態度

 私は、これまでの人生の中で何度か、人生を諦めそうになったことがある。

 人生を諦めるというのは、自分が置かれた環境を見限り、新しい環境――それがどのようなものであるとしても――へと逃れて行くことではない。下の記事に書いたように、私は、このような意味における脱出には肯定的な意味があると信じている。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 人生を諦めるというのは、人生に対するやや消極的な態度である。

 何かの折に、ふと「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という感慨が短いあいだ心を占領することがある。それは、明らかに「人生の危機」に当たるときではない。自分が身を置いているのが危機的な状況であることがわかっているのなら、この状況から全力で逃れることを誰でも試みるはずだからである。

これを選んでしまったら、後戻りできないのに……

 むしろ、このような感慨が訪れるのは、人生をある意味における安定へと誘うような選択肢が私の前に姿を現すときである。

 もちろん、この選択肢が十分に満足すべきものであるなら、これを選び取るのに何ら問題はない。問題は、心に浮かぶ可能性について心の底では満足していないのに、そして、この可能性を選び取ってしまったら、もう2度ともとには戻ることができず、選び取ったことによって形作られる状況からは永遠に脱出することができないとわかっているのに、それでも、何となくこれを選び取ぶことを自分に許してしまうな気分に囚われることである。私自身は、40歳を過ぎてから、この生ぬるい気分にときどき襲われるようになった。

 幸いなこと――であるかどうかはよくわからないのだが――に、私の場合、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」と言って何かを選び取りたくなるような気分に陥るたびに、「ふざけるな、それで好いわけがないだろうが」「そんな人生は絶対に嫌だ」という反抗的な声が自分の内部から聞こえてきて、私を生ぬるい諦念から引きずり出してくれる。この叱咤激励の声が聞こえなくなったら、私は、冬の朝の布団の中のような生暖かい奈落へと引きずり込まれて行くのではないかと思う。

残りの人生をやり過ごしてしまってよいのか

 「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という感慨が心に生れるのは、すでにそれなりの期間にわたり人生を生きてきたからであり、人生の残りがある程度まで掌握可能なサイズになってきたからであるに違いない。つまり、「この程度の期間なら、やり過ごしてしまってもかまわない」と感じられるようになったからであるように思われる。

 たしかに、小学生や中学生にとり、自分があとにしてきた人生と比較し、残りの人生は途方もなく長く、これを「やり過ごす」決意が心に生まれることはないであろう。しかし、年齢を重ねるたびに、残りの人生は少しずつ見通しの利くものになり、それとともに、これを「やり過ごす」可能性が心に浮かぶようになる。

 ただ、これからの人生を「やり過ごす」ことは、生きることを諦めるのと同じことであると私は考えている。もちろん、今の社会の中で私自身が置かれている状況は、それなりに安定したものであり、私が「まあ、俺の人生、こんなもんかな」とつぶやいたとしても、世間からは「大いに結構じゃないか」という反応が戻ってくるに違いない。

 誰の人生にも、1分、1時間、1日、1週間など、ある程度の幅の非生産的な退屈な時間をやり過ごすことはある。しかし、このようにしてやり過ごされた時間のあとには、それ自体として価値ある時間が必ず続いて行く。これに対し、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という生ぬるい妥協と諦念に浸って自分をごまかし、そして、残りの人生をやり過ごすことを自分に許すとき、このやり過ごされた時間の最後に来るのは死であり、死のあとには何もない。

 あとどのくらいの人生が私に残されているのか、これはわからない。しかし、5年であれ、10年であれ、50年であれ、残りの人生をやり過ごすことに決め、前進と成長を自発的に諦めてしまったら、私は、他の人々の前進と成長を恨めしく眺めることになるであろうし、死ぬときに必ず後悔するはずである。今後、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」などと自分の人生を総括し、自分を生ぬるく欺きつつ人生をやり過ごすことへの誘惑は、強くなって行くことを避けられないかも知れないが、「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という声に導かれて行きつくのは、偽りの幸福にすぎない。この誘惑に抵抗し続け、人生を決してやり過ごさないことは、幸福な人生のための最低限の前提であるように思われるのである。

Girls with shopping bags

セール品を買うときには、なぜ値引きされているのかを理解することが必要

 街を歩いているとき、店頭でさまざまな商品のセールに出会うことがある。まさか「セールなら何でも買う」「ものを買うのはセールのときだけ」などという人はいないであろうが、それでも、衣料品を中心にして、セールになるのを待って買う人は少なくないに違いない。

 しかし、私自身は、スーパーマーケットでの食品の値引きを別にすると、セールになっているものを買うことはあまりない。というのも、セールになっているものは、家電でも、食品でも、衣料品でも、雑貨でも、値引きをせざるをえない何らかの理由があるのが普通だからである。

 したがって、セールで売られているものが安いからと言って、闇雲にこれに飛びつくと、かえって損をする可能性がある。

セール品は返品、交換ができないのが原則

 まず、セールになっているものは、アウトレットで販売されているものや「福袋」を含め、原則として返品、交換ができない。返品、交換されては困る何らかの事情があるから、その分、もとの価格から値引きされていると考えた方がよい。

 これは、ほぼすべてのセール品に当てはまる普遍的な原則であるけれども、この点に無頓着な人は少なくないように思われる。

 だから、ある程度以上高額なもので、かつ、返品、交換する可能性が少しでもあるなら、セール品は購入しない方が無難であることになる。すなわち、よほどの安物でないかぎり、あるいは、以前に購入したのとまったく同じものでないかぎり、ブランドものの靴、コート、アクセサリーなどについては、セール品は避けるべきであることになる。

 一般に、高級なブランドの製品は、もともと高額であるから、よほど特殊なもの――たとえば口紅のような――でないかぎり、基本的に何についても返品、交換を受け付けている。

 したがって、たとえば「それなりに高級なお洒落なハンドバッグがほしい」と思うのなら、セールで買うことはすすめない。セールではなく正価で購入した商品なら、返品や交換が可能であり、時間と手間さえかければ、値段に見合う気に入ったものに必ず出会うことができるからである。

化粧品は、正価で購入しても返品、交換ができないから、購入前にサンプルを使うことができる

 なお、化粧品は、値段に関係なく、また、セールであるかどうかにも関係なく、返品、交換は原則として不可能である。これは、スーパーマーケットで売られている野菜について返品、交換ができないのと同じである。

 とはいえ、化粧品の価格は、野菜とは比較にならないほど高いのが普通である。だから、メーカーは、客のリスクを抑えるため、美容部員を売り場に配置して対面で商品を販売したり、大量のサンプルを客に配布したりしているわけである。(DHCを始めとするいくつかのブランドの商品が安いのは、客のリスクを抑えるためのコストがかかっていないからである。)

必ず消費するものなら、安売りされているものを優先的に選んでさしつかえない

 もちろん、値引きされているときに、これを優先的に購入して何の問題もない商品はたくさんある。たとえば、普段の生活においてすでに実際に使用されている消耗品や、いつも食べている加工食品のようなものなら、値引きされているものを購入しても、損する危険はない。もちろん、消費期限が近づいているとか、廃番の商品であるとか、値引きされているのにはそれなりの事情があるには違いないけれども、これを許容することができるのなら、むしろ、値引きされているものを優先的に選んでもかまわないはずである。

 なお、スーパーマーケットで食品が値引きされているとき、値引きの理由が「賞味期限/消費期限が近い」ことであるなら、むしろ、このような商品を積極的に購入することは、道徳的に考えて好ましいことですらある。というのも、このような商品は、売れ残れば廃棄されることを免れないけれども、これは、いわゆる「食品ロス」を増やすことになるからである。値引きされている食品を購入するなら、若干の金銭を節約することが可能となるばかりではなく、これは、食品ロスを削減し、地球環境への負荷を減らすことにもなる。

「わけあり」という理由で値引きされているものを購入するときには、「わけ」を確認することが絶対に必要

 とはいえ、「わけあり」という表示とともに値引きされている場合、その「わけ」を確認することは絶対に必要である。賞味期限が近い、形が悪いなどの理由で値引きされているのならかまわないけれども、中には、さらに深刻な何らかの事情によって値引きされていることがないとは言えない。特に通信販売の商品で「わけ」が明記されていないときには、購入には慎重になる方が安全であるに違いない。

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