AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年05月

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 ひとりで食事することができない者が多いらしいという話題がニュースで取り上げられたのは、今から15年くらい前のことであった。今では、同じことを一緒にやってくれる相手がいないことに覚える恐怖や恥ずかしさは、病気のようなものと見なされ、「ランチメイト症候群」「ひとりじゃいられない症候群」などという立派な名前が与えられているようである。

 ひとりで食事することができないのは、周囲から孤独な存在と見られたくないからであるらしい。私には、孤独な存在であること、あるいは、他人の目に孤独な存在と映ることがなぜ忌避されねばならないのか、今も昔も、わからない。私は、どちらかと言うと、ひとりの方が好きな性質のようである。

 ただ、大学の教室や食堂を観察していると、同じ一つの空間を共有する者の顔ぶれがある程度以上の時間にわたって変化しないところでは、ひとりで着席することを何としてでも避けようとする学生が少なくないことがわかる。(電車やバスの車輌の内部のように流動性の高い空間なら、ひとりでいても平気であるはずである。)

 たしかに、私たちは、群れからはぐれた象(rogue elephant) について危惧を抱く。それは、このような像が、暗黙のうちに全体を支配する秩序を尊重しないおそれがあるからである。ひとりでいることができない者たちは、他者のこのようなままざしを先取りして内面化してしまっているのであろう。また、コーヒー店で着席するとき、店の内部に背を向けて壁や窓に対面する座席を選ぶ客が多いのもまた、同じ理由によるのかもしれない。


コーヒー店でどこに坐るか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

店に背を向ける席の不思議 私は、普段は、所用のある場所を最短の経路と時間で移動するよう予定を組んでおり、外出先で「時間をつぶす」ことはあまりない。それでも、この数年は、授業の時間割の関係で、週に1度、早朝に職場の近くのチェーンのコーヒー店(カフェ)に立ち寄


 もちろん、ひとりでいることが平気であるとは言っても、私にも、誰かに近くにいてほしい状況というものがまったくないわけではない。それは、心身に何らかの痛みを覚えるときである。

 誰も近くにいない状況のもとで、急に胃が痛むことが稀にある。そのようなとき、私は、ただひとりで痛みに向き合わなければならない。もちろん、私の傍らに誰かがいてくれたとしても、痛みがそれ自体としてやわらぐわけではないであろう。それでも、(特に真夜中など、)痛みが去るのをじっと待っていたり、痛みを止めるための処置を考えたりするとき、私は、途方もなく深い孤独、いや、正確に言えば、私の社会的な生存が脅かされているかのような底なしの寂しさと恐怖を覚える。

 ひとりでいること、しかも、社会の秩序を担う責任ある主体であることは、内面の緊張を私たちに要求する。この緊張に耐える強さは、しかし、誰もが具えているものではない。「ランチメイト症候群」が社会の広い範囲に認められること、そして、強い同調圧力が社会を支配していることには、個人に課せられるこの緊張を緩和する積極的な役割があるに違いない。

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 最近、齢をとったと感じることが多い。純粋な体力が落ちたわけではないし、誰かに何かを言われたわけでもない。齢をとったと感じるのは、野心に囚われ、心が波立つことが少なくなってきたからである。

 大学院生のころから長い間、1本でもたくさんの論文を書き、1冊でも多くの著書を出さねばという焦りに突き動かされてきた。私の自由にならない形で誰かが設定した到達目標を自分の現状とたえず比較しながら、上を向いて――というよりも、上から釣り糸で引っ張られているような状態で――仕事に追い立てられる期間が長く続いたのである。

 もちろん、今でも、さらなる上昇とさらなる前進への渇望が心に生まれ、居ても立ってもいられなくなることがまったくないわけではない。また、怒り、嫉妬、羨望、恨み、憎悪などに心が振り回されることがなくなったわけでもない。しかし、野心にもとづくそのような心の動揺は、最近、少しずつ減っているような気がする。

 以前、次のような記事を投稿した。


「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という心の声に耳を傾けると不幸になる : AD HOC MORALIST

人生に対する積極的な態度と消極的な態度 私は、これまでの人生の中で何度か、人生を諦めそうになったことがある。 人生を諦めるというのは、自分が置かれた環境を見限り、新しい環境――それがどのようなものであるとしても――へと逃れて行くことではない。下の記事に書


 「人生を諦める」ことは決してしてはならないことであるというのが上の記事の内容である。現在、私自身は、決して人生を諦めたわけではない。人生を満足の行く仕方で仕上げることへの意志は、誰にとっても、どのような状況のもとでもきわめて大切なものであると私は考え、生活の充実のために必死に努力している(つもりである)。

 幸いなことに、今のところ、私は、大学院生のころに学会で見て「ああはなりたくない」と思ったようなタイプの大学の教師にはならずに済んでいるけれども、それとともに、私の現状が、大学院生のころに思い描いていた今の年齢になったときの自分の姿とはいくらか異なっていることもまた、確かである。

 しかし、最近は、なりたい自分のようなものを心に描いても、あまり楽しくないし、目標に向かって努力しなければならないという焦燥感に襲われることも少なくなった。(ただ、このブログをもう少したくさんの人に読んでもらいたいとは思っている。)この意味で、10年前、20年前とくらべ、心はやや穏やかになり、そして、周囲に目を向ける余裕も少しだけ生まれたような気がする。少なくとも、これまで腹を立てていたことに対し、あまり腹が立たなくなってきたことは大きな成長なのではないかと考えている。

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衣類の通販はどこまで使えるのか

 15年くらい前に初めて通販で服を買ってから、去年あたりまで、服は主に通販で手に入れていた。失敗は少なくなかったけれども、通販を使うようになる前、特に学生時代には、つねに服の不足に悩まされ、ボロボロになって穴が開くまで同じ服を着ていた。通販は、私の生活をずいぶん改善してくれたと言うことができる。

 アメリカには、普通の衣類ばかりではなく、オーダーメイドのスーツの通販まである。何年か前には、これを何回か使ってみたこともある。オーダーメイドのスーツの通販については、次に挙げる2つが代表的なサイトである。

Custom Men's Suits | Indochino

Black Lapel

 送料を除けば、いずれのサイトでも、スーツ一着の値段は日本の量販店とほぼ同じである。ただ、自分で――しかも、インチで!――採寸しなければならないことを考慮するなら、それなりのリスクがある。おそらく、自分の身体にフィットしたスーツを手に入れるには、何度か注文しながらサイズを微調整するプロセスが不可欠であり、この意味では、オーダーメイドのスーツの通販は割高であるかも知れない。

年齢を重ねるとサイズが合わないことに悩まされるようになる

 しかし、最近は、通販を使うことはあまり多くない。サイズが身体に合わなくなってきたのである。

 SMLなどに区分された衣類のサイズは、当然のことながら、つねに同じであるわけではない。私が通販で購入する服は、昔はLサイズのものが普通であったが、数年前からMサイズが中心になった。体重が減ったからである。しかし、最近は、Mでも大きくなり、次第にSを選ぶことが多くなるとともに、購入した服が体に合わないことが多くなった。私の体型が変わったせいなのか、それとも、日本人の標準的な体型が変化し、これとともにSMLの各サイズに対応する服の大きさが変わったからなのか、私にはよくわからない。

 私の親族の1人が、それなりに高齢になってから、「店に行っても、新しい服で身体に合うものがない」と愚痴をこぼしていたことを思い出した。ある程度以上年齢を重ねると、その時点での日本人の標準的な体型と自分の身体とのへだたりが大きくなり、既製の服が身体に合わなくなってくるのかもしれない。

服と靴はできるかぎり店で買うようにしている

 この親族の場合、下着の類まで身体に合わなくなっていたようであるが、私は、まだそこまで追い詰められてはいない。それでも、仕事用のスーツについては、量販店と通販を使うのをやめ、百貨店でのイージーオーダーに変えた。注文のたびに採寸してもらい、その時点での体型に合わせて微調整してもらっているから、身体に合わないものを買う危険はない。これは、以前、次の記事に書いたとおりである。


服装に気を遣うと、行動や姿勢が改善される 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

身体に合わない服を着ると行動や姿勢に悪影響を与える 昨日は、スーツを着て出勤した。私は、夏の暑い時期を除けば、講義や会議があるときにはスーツを着ることにしている。だから、スーツを着ること自体は、普通である。しかし、昨日のスーツには、小さな問題があった。サ

 スーツ以外の衣類についても、できるかぎり店に足を運び、試着してサイズや色を自分で確認し、かつ、店員に確認してもらうことにしている。量販店ではない、普通の店で衣類を購入するためにわざわざ街に出かけて行くのは面倒であるし、いくらか割高になる可能性はある。ただ、身体に決定的に合わない服を買ってしまう危険は回避することができる。

 私の予想に間違いがなければ、今後、年齢とともに、通販で買う服に「ハズレ」が多くなり、店に足を運んで試着を繰り返すことに時間や体力を費やさなければならなくなるはずである。そのためにも、今のうちに、できるかぎりたくさんの店を回り、店で服を買う経験――私には不足している――を重ねることが絶対に必要であると考えている。

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「左利き界」では肩身の狭い思いをしている

 私は左利きである。しかし、私の周囲には、私が左利きであることを知る者はあまりいない。私の仕草を眺めていても、私が左利きであることに気づく機会が少ないからである。

 私は、もともとは左利きあるけれども、日常のいくつかの動作については、子どものころ、小学校に入学するころまでに右利きに矯正された。だから、私は、正確に言うと、「矯正された元左利き」である。

 「矯正された元左利き」というのは、「左利き界」(?)では肩身が狭い存在である。右利き/左利きが誰にも明らかになるもっとも目立つ標識は、文字を書くときに使う手であろう。たとえばアメリカのオバマ前大統領のように、公文書に署名するときに左手を使う姿がテレビで放映されれば、誰でも「あの人は左利き」とわかる。しかし、私のような「矯正された左利き」は、文字を右手で書くから、左利きとは気づかれない。「矯正された元左利き」というのは、「左利き界」における「矯正された元左利き」は、かつてのヨーロッパで迫害を逃れるためにキリスト教に改宗したユダヤ人、あるいは「隠れキリシタン」のようなものである。

それでも左利きであることに変わりはない

 ただ、利き手の矯正というのは、「左利きを右利きに矯正する」ものではなく、「特定の動作を主に右手で行うことができるようにする」ものにすぎない。私の場合、「文字を書く」と「箸を持つ」という2つの場面では右手を使うよう訓練されたけれども、これらに右手を使うようになれば、他の動作にも自動的に右手が使われるようになるわけではなく、右手を使うように訓練されないかぎり、左手が使われ続ける。当然、身体の筋肉の発達、靴の踵のすり減り方などにも、左利きの特徴が現われる。

 私は、野球では「左投げ左打ち」である。ボールを投げたり打ったりする動作は書く動作や箸を持つ動作ほど重要ではないと両親が判断し、利き手を矯正しなかったからである。(しかし、腕時計は、つねに左手につけている。そのため、中学生のころ、野球のボールを投げたとき、腕時計が腕からはずれ、ボールと一緒に飛んで行ってしまったことがあった。私の腕時計は頻繁に故障するが、それは、腕時計を利き手につけているせいかもしれない。)

 また、私は、料理するときには左手で包丁を握る。(だから、和包丁は原則として使わない。)小学校に入学した時点では、まだ自分では料理をしなかったからである。

 私の「右利き」は、1970年代前半の小学校低学年の生活において両親が重要だと判断した活動に最適化されたものであると言うことができる。したがって、これ以降に新たに使うようになった道具はすべて、左手で扱う。たとえば、電話で通話するときには、受話器を左手に持ち、左耳にこれを当てる。同じように、カギを回しドアを開けるのに使うのは左手である。(鍵穴にカギを一度で入れられないことが多い。)鋏を使うのも左手である。テレビのリモコンを操作するときも、使うのは左手だけである。

利き手を「再矯正」するつもりはない

 もちろん、このような右と左のハイブリッドには、目立たない部分で不便がないわけではない。また、最近では、利き手の矯正は必ずしも行われなくなっているようである。この意味において、左利きは、かつてよりは暮らしやすくなっていると思う。

 それでも、私は、自分自身について現状を変え、左手で文字を書いたり食事したりすることを練習するつもりはない。ハイブリッドは、私の個性の一部だからであり、「丸ごと左利き」になることに意義があるようには思われないからである。

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睡眠は日中の生産性に影響を与える

 連休が明けてからまもなく3週間になる。個人的なことになるが、この間ずっと、いくらか寝不足の状態が続いていた。

 次の本にあるように、睡眠というのは、それ自体としては、質や量を測定したり評価したりすることは難しいものであるらしい。

8時間睡眠のウソ。

 ただ、質、量ともに十分な睡眠がとれているかどうかは、目覚めているときの生活の質によって判定される他はない。目覚めているあいだの活動が生産的なものであるなら、それは、睡眠が質量ともに十分であることの証拠になるはずである。(だから、「質量ともに十分な睡眠をとるにはどうしたらよいか」という問いには答えられなくても、「質量ともに十分な睡眠がとれているかどうか、どうしたらわかるか」という問いに答えを与えるのは簡単である。)

睡眠が不足すると

 ところで、私自身は、睡眠時間を長く必要とする方である。1日に8時間は眠っていたい、いや、10時間でもかまわないとすら考えている。だから、基本的にはつねに睡眠に飢えている状態にある。

 今月に入ってから、1日平均5時間から6時間くらいしか眠ることができない日々が続いていたが、おそらく、そのせいで、最近は、日中の生産性が次第に落ちていた。

 今日も、朝早くから雑用を片づけていたのだが、午後になり、とうとう何も考えることができなくなった。そこで、仕事を中断してしばらく眠ることにした。

 睡眠をとり、そして、目覚めても、小人が働いて目の前の問題を片づけてくれるわけではない。ただ、よく知られているように、眠っているあいだ、人間の脳の内部では、目覚めているあいだに取り入れられた情報が整理される。したがって、問題の見通しがよくなっていると一般に考えられている。これは、受験生にとって寝不足が好ましくないと言われるときの根拠の1つである。

睡眠は最初に試みるべき解決策

 以前、次のような記事を投稿した。


「今日は何もかも上手く行かない」と感じたときの対処法 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

上手く行かないことが一日のうちに続けざまに起こることがある。予定していた会合が急にキャンセルになったり、書類にミスが見つかったり、仕事上の関係者の不手際のせいで面倒な雑用が急に飛び込んできたり......。このようなとき、その日にするはずだったことが片づかない


 私は、この記事で、深呼吸と筋トレの効用について書いたけれども、30分以上の時間を確保することができるのなら、生産性を回復するのにもっとも効果的なのは、少なくとも私の経験では、睡眠である。(本当に睡眠が不足すると、筋トレしようとしても、身体に注意を集中させることができない。)

 実際、私の場合、午後から夕方にかけて眠ったおかげで、体力と気力がいくらか回復したように思う。

 ただし、朝から仕事がある普通の平日の前日(通常は日曜日)には、昼寝をしない方がよい。というのも、長く昼寝すると、睡眠と覚醒のリズムが崩れて夜の睡眠が不足し、これが翌日の仕事に好ましくない影響を与えるおそれがあるからである。

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