AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

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家庭料理がプロを模範とするようになったのは高度経済成長期

 今から10年以上前、次の本を読んだ。

"現代家族"の誕生―幻想系家族論の死

 日本の家庭料理は、世界の他の国と比較して多様であると一般に考えられている。たしかに、事実としてはそのとおりであろう。

 しかし、上の本の著者は、日本の家庭料理のメニューが多様化し、主婦が家庭で作る料理のバラエティが急激に増えたのは、戦後の高度経済成長期であることを明らかにしている。つまり、(著者によれば、)1960年代に生まれた日本人の親の世代が現代の家庭の必須の小道具である「家庭料理」のイメージを作り上げた第一世代に当たることになる。高度経済成長以前のながいあいだ、日本人の食卓は必ずしもバラエティに富んだものではなく、また、主婦が炊事にかけていた時間やエネルギーもまた、決して多くはなかったのである。

自律性を失った家庭料理

 しかしながら、時間と手間のかかる家庭料理を作り上げた世代に当たる主婦たち自身が育った家庭には、料理に関し模範となるような者はいなかったに違いない。したがって、彼女たちには、書籍、雑誌、テレビなどを利用してプロの料理人や料理研究家が作ったレシピを手に入れ、これを模範として家庭料理を作り上げる以外に道はなかったはずである。手の込んだ中華料理、洋食、和食、洋菓子などは、このようにして家庭に入り込んできたのである。

 本来、家庭料理とプロの料理は、同じ食事を構成するものであるとはいえ、性格をまったく異にするものである。プロの料理は、たとえ大衆食堂のメニューであっても、本質的に商品である。しかし、家庭料理は、対価を要求する性質のものではなく、当事者たちが満足するかぎり、その内容は特に問題にならない。高度経済成長以前には、主婦が仰ぐべき家庭料理の模範は、主に自分の家庭(または嫁ぎ先)で受け継がれてきたレシピか、ごく簡単な料理本に掲載されたレシピの範囲を超えることはなかったに違いない。


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 ところが、戦後のいわゆる「家庭料理」は、それぞれの家庭において完結するものではなくなる。つまり、料理が成功しているかどうかを決めるのは、両親、子ども、舅姑など、家庭を構成するメンバーではなく、料理店のメニューや料理本になってしまったのである。料理に関するかぎり、家庭は、自律性を奪われ、外部に設定された基準に隷属するようになってしまったことになる。

家庭の主婦は、料理人や料理研究家の「劣化コピー」を目指すのをやめるべき

 もちろん、いくら道具を買い揃えても、いくら下準備に時間をかけても、家庭の主婦がプロにかなうはずはない。だから、家庭料理が外部の基準に隷属するかぎり、その目標は、「時間と手間と技量が許す範囲で、いかにして家族の健康を維持するか」ではなく、むしろ、「プロが作ったような外見と味を、時間と手間をかけずにいかに実現するか」となる。これは、必然の成り行きである。

 冷静考えるなら、主婦というのは、料理のプロではない。というよりも、主婦はいかなるもののプロでもない。以前、次のような記事を投稿した。


紫外線対策のための手袋なるものへの違和感 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

日焼けしたくないという気持ちはわからないわけではないが 5月の中ごろ、休みの日に近所を散歩していたら、1人の高齢の女性が通りを向こうから歩いてくるのが目にとまった。この女性もまた、散歩の途中だったのであろう、両手には何も持たずに歩いていた。 この女性が私の


 主婦は、美容のプロではなく、服飾のプロでもなく、掃除のプロでもなく、裁縫のプロでもなく、洗濯のプロでもない。当然、料理のプロでもないし、炊事のプロであることが誰かから求められているわけでもない。主婦は自分の炊事の出来ばえを評価する基準を外部に求めるのをただちにやめ、自分の家族にとり本当に必要な食事とは何であるのか、自分が炊事に使うことができる時間や体力を考慮しながら吟味すべきである。

 家事の出来ばえの基準を見失うと、主婦は、家事をまったく放棄してしまうか、あるいは、反対に「丁寧な暮らし」という名の暇人の道楽に際限なく時間と体力とカネを注ぎ込むかのいずれかになり、家族を不幸に陥れることになるように思われるのである。

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日焼けしたくないという気持ちはわからないわけではないが

 5月の中ごろ、休みの日に近所を散歩していたら、1人の高齢の女性が通りを向こうから歩いてくるのが目にとまった。この女性もまた、散歩の途中だったのであろう、両手には何も持たずに歩いていた。

 この女性が私の注意を惹いたのは、この女性が挙動不審だったからではない。そうではなくて、この女性が手袋をつけていることに気づいたからである。この女性がつけていた手袋は、指先から手首あたりまでを覆ういわゆる「手袋」ではなく、上腕の途中まで、つまり、半袖のシャツから露出している部分をすべて覆うようなものである。この数年、夏になると、このタイプの「手袋」をつけている女性、特に中高年の女性をよく見かける。

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 この「手袋」は、紫外線の侵襲と日焼けを防ぐためのものである。だから、「手袋」をつけている女性は、サンバイザーか帽子を必ずかぶっている。

 たしかに、日焼けしたくないという気持ちは、わからないわけではない。日焼けしたり、皮膚にシミができることは――日本人の場合、これが原因で皮膚がんになる危険は比較的小さいとは言え――健康面でも美容面でも、決して好ましいことではないと言えないことはない。

芸能人と「一般人」では、紫外線対策の意味が違う

 しかし、私は、あの「手袋」には強い違和感を覚える。というのも、「手袋」をつけた女性たちは、夏の紫外線対策を、日常生活においてきわめて優先順位の高い課題と見なし、紫外線対策に高い優先順位を与えるような生活を自分が送っていることを外部に向かって誇示しているように見えるからである。

 「誇示などしていない、必要だから手袋を身につけているだけ」という反論があるかも知れないが、そうであるなら、手袋をつけるのではなく、長袖の衣類を上から羽織ればよい。わざわざ半袖のシャツを着て、その上で長い手袋をつけるというどこかチグハグな身なりは――もちろん、「夏の装い」をめぐる従来の常識に対する挑戦であり――この手袋を見せるためであると考えないかぎり、説明のつけようがないのである。

 なぜ女性たちがこの不思議な「手袋」をつけるようになったのか、私は知らないけれども、きっかけは女性の芸能人だったのではないかと想像している。たしかに、女性の芸能人、特に、映画やテレビドラマに出演することを主な仕事とする女優であるなら、職業上、顔面、腕、足など、衣類から露出している皮膚の日焼けやシミは、絶対に避けなければならないものであり、紫外線対策は、優先順位がつねにもっとも高い課題の1つであると言うことができる。だから、必要に迫られないかぎり皮膚を直射日光にさらさないよう、長い手袋で腕を紫外線から保護することがあるとしても、これは、女優にとっては、職業上のやむをえざる措置であり、決して外部に対して自分のステータスを誇示するためではないのである。

芸能人の夏の美容法。綾瀬はるかや壇蜜の美の秘訣とは | 福山雅治に学ぶメンズ美容

 しかし、たとえばママチャリに乗って激安スーパーに買い物に出かけるような女性にとって、肌を日焼けさせないことは――どうでもよいとは言わないが――決して優先順位の高い課題ではないはずである。このようなことは、美人で有名な女優が必要に迫られてするからサマになるのであり、普通の女性が同じことをしても、大抵の場合、ただ違和感を与えるだけである。普通の日本人の女性にとって、芸能人のライフスタイルや美容法を模範とするなど、高級な料亭やフランス料理店のメニューに倣って毎日の献立を決めるようなものであり、浮世離れした暇つぶしにすぎない。

 芸能人には芸能人の生活なりの課題の優先順位があり、そして、この優先順位は、私たち一人ひとりの生活における多種多様な課題の優先順位と同じであるはずがない。私たちの生活はそれぞれ、かぎりなく個性的であり、したがって、生活の目標もまた、同じように個性的であるはずである。紫外線対策のために手袋をつけている女性にとり、自分の生活の中で、日焼けしないこと、しみを作らないことがどの程度の優先順位にある課題であるのか、一度冷静に吟味することは、決して無駄ではないように思われるのである。

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我慢には、定期的な棚卸しが必要

 人生には、我慢しなければならないことが多い。人生は、我慢の連続であると言うこともできる。

 しかし、我慢を続けているうちに、何のために我慢しているのか、その本来の意義が見失われ、我慢が惰性になることが少なくない。身体に対する痛みのように、それ自体としては麻痺することが決してないものを除くなら、大抵の場合、我慢を続けるうちに、我慢の対象となっているものに対する受動的な姿勢が固着し、我慢しているという自覚すらなくなってしまうことがある。

 このような自覚なき我慢は、私たちを消耗させるばかりではない。それは、性格を歪め、他人に対する態度を歪め、ものの見方を歪めてしまう。だから、椅子に坐って何時間か仕事を続けたら、立ち上がって背伸びをするのが健康にとって好ましいことであるのと同じように、我慢の自覚を取り戻すためだけにでも、自分が何に耐えているのか、定期的に点検することは、精神の健康にとって必要な作業であるように思われる。

何を期待して我慢しているのか、あらためて考えてみる

 たとえば、あなたが親しい知り合いから何かの仕事を頼まれ、この仕事を引き受け、そして、ある程度の期間にわたって続けてきたとする。ところが、この仕事は、時間的に体力的にも金銭的にも、あなたにとってかなりの負担であり、さらによくないことに、この仕事の内容に意義を認めることができないとする。

 あなたがこの我慢を冷静に吟味するなら、次の点がただちに明らかになるはずである。すなわち、あなたがこの仕事を我慢して続けている理由はただ1つ、それは、あなたの親しい知り合いから頼まれたからであり、この仕事をやめることにより、その知り合いとの関係が損なわれる惧れがあるからである。

 このような場合、あなたが考えるべき点は2つある。

    • 1つは、仕事を断ることにより、問題の知り合いとの関係が本当に損なわれてしまうのかどうかという点、
    • もう1つは、その知り合いとの関係が損なわれることがなぜ困るのかという点である。

 あなたが自分自身の時間や体力や金銭を犠牲にして仕事を続けていることを知り合いが承知しており、かつ、あなたの犠牲に報いてくれるのであるなら、あなたが自分の生活の一部を犠牲にすことは正当であるかもしれない。しかし、あなたの犠牲が一方的なもの――つまり、本来の意味における犠牲――であるなら、あなたの我慢は完全に無意味であり、あなたは、この仕事が原因で強いられた我慢をただちに清算し、自分自身のためになることに人生を使うべきである。あなたの我慢が知り合いに対する「貸し」として計上されているのは、あなたの心の中だけだからであり、仕事を依頼した知り合いは、あなたが我慢していることすら承知していないはずだからである。

 あなたには、あなたにとって自然なものの味方、あなたにとって自然な他人に対する態度、あなたにとって自然な性格というものがある。そして、あなたの人生は、あなたにとって自然なあり方を実現するために、そして、あなたにとって自然なあり方を枠組みとして組織されるべきものである。自覚なき我慢が人生において有害なのは、これがあなたにとっての「自然」を不知不識に腐蝕させてしまうものだからなのである。

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 以前、次のような記事を投稿した。


死者との対話 : AD HOC MORALIST

歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の文明がメソポタミアに起源を持つという世界史の常識に従うなら、人類の歴史には少なくとも8


 私たちが生きている「この世」は、歴史(または伝統)の積み重ねの上に成り立っている。現代というのは、歴史の厚みの最上部を覆う薄い膜のようなものである。現在の社会は、死者との対話の中で形作られてきたものであり、このかぎりにおいて、この世に暮らす私たちは、膨大な数の死者に支えられたわずかな数の生者にすぎないことになる。

 とはいえ、歴史を形作る人間のほとんどすべてが死者であるとしても、また、私たちの生活が死者とのたえざる対話であるとしても、このような事実は、この世が死者たちののものであることを必ずしも意味するものではない。むしろ、この世は、現に生きている者のためにあること、過去のために現在があるのではなく、過去とは、あくまでも現在に奉仕するかぎりにおいて過去として成立するものである。この点を、私たちは決して忘れてはならないと思う。

 私の誕生日は、私の親族の一人の命日と同じである。そのため、私の誕生日を祝う日とすべきか、それとも、亡くなった親族に思いを寄せる日とすべきであるのか、決めかねていたことがある。しかし、結局、私は――というよりも、私の家族は――その日を親族の命日ではなく、私の誕生日とし、亡くなった親族のための墓参は、前日に済ませることにした。生者の都合を優先し、死者の記念日を移動させることは、勇気を必要とする決断であったと思う。けれども、この世に身を置き、食事したり、働いたり、眠ったりするのは、死者ではなく生者である。死者を想い出すよすがとなるものは必要であるとしても、死者は、そして、歴史は、あくまでもこの世の脇役にすぎないと考えるべきであるように思われるのである。

 とはいえ、残念なことに、現代の日本では現在と未来に主役の位置を与え、歴史や過去を脇役として参照するごく自然な歴史的パースペクティヴを失いつつあるように見える。この点を雄弁に物語るのは、意味不明なモニュメントの氾濫である。


モニュメントの氾濫 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

街を歩いていると、銅や石を主な素材とするモニュメントを見かけることが少なくない。以前は、このようなモニュメントを東京で見かけるとすれば、それは、ごく限られた地域の、しかも、いかにもモニュメントがありそうな場所だけであったように思う。上野公園の西郷隆盛像


 そもそも、「記念碑」とは、過去を思い出すためのよすがとすべきものである。したがって、ごく少数の重要な人物の像が歴史的に見て適切な地点に設置されるのがふさわしい。そして、この観点から眺めるなら、漫画やアニメの登場人物の姿をモニュメントとしてかたどることが、歴史的なパースペクティヴの狂いを反映するものであることがわかる。漫画やアニメの登場人物は、あくまでも、現在に属するものであり、現在に属するものであるかぎり、歴史を形作るものとなるかどうかを決めるのは、未来の世代のはずだからである。

 過去と現在のあいだには、境界はない。両者は、一体となって共存しているものである。けれども、両者のあいだには、区別が認められねばならない。つまり、それが生者のためのものであるのか、それとも、死者のためのものであるのか、丁寧に吟味し、死者へのまなざし――そこには、モニュメントの氾濫に認められるような「自己歴史化」と呼ぶべき事態が含まれる――が生者の生存を阻碍し歪めるのなら、これは、断固として排除されねばならないと私は考えている。

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集団の利益を代弁する役割は苦手

 給料をもらって働いていると、自分が所属する小さな集団を代表して他の組織の誰かと交渉し、交渉の場面において、自分が所属する集団の利益を代弁して何かを主張しなければならないことがある。これは、私がもっとも苦手とするところであり、これまで、ながいあいだ、集団の利益を代弁しなければならないような仕事からは逃げ回ってきた。今でも逃げ回っている。

 私は、自分のことにしか関心がないのであろう、あるいは、集団への帰属意識に乏しいのであろう、自分の利害にはそれなりに敏感であるけれども、集団の利益という抽象的なものに関心を向けるのには、特別な努力を必要とする。だから、集団の利益を代弁する席に着くと、交渉を最短で終わらせることを目標に、万事において簡単に妥協してしまうことになる。これは、集団にとっては大きな損害となるに違いない。

家族の利益を代弁することができるかどうか自信がない

 このような私であるから、職場の利益を代弁することが苦手であるばかりではなく、家族の利益を代弁するような立場に身を置くこともまた、できることなら避けたいと思っている。というのも、家族の利害にかかわることに関し、簡単に妥協してしまうのではないかという懸念を自分自身について抱いているからである。家族の利益を守ることが面倒になったら、家族を捨ててしまう虞があるわけである。

 職場の利益を守るのが面倒になったら、仕事をやめればよいけれども、家族の利益を守るのが面倒になったからと言って、家族を捨てて逃げてしまうわけには行かない。家族のために泣いたり怒鳴ったりすることができるというのは、私にとっては、決して当たり前のことではなく、「どんなことがあっても君(たち)を守る」などと家族のメンバーに約束するなど、恐ろしくて私にはとてもできない。家族というのは、職場とは異なり、自由に加入したり脱退したりすることができる集団ではない。だから、家族に関しては、利益を代弁せずに済ませるなど、いかなる場合にも許されないことになる。だから、いずれかの家族に属することは、すでにそれ自体として、私の目には大きなリスクと映る。

自分の利害すらどうでもよくなるのではないかという懸念

 しかし、さらに反省を進めて行くと、本当は、自分の利益すら、私にとってはどうでもよいことであり、最終的には、私にとって是が非でも守らなければならないものなど何もないことが明らかになってしまうような、嫌な予感がしてならない。「本当に大切なものとは何か」「何が何でも守らなければならないものは何か」……、自分に対しこのように問いかけても、明瞭な答えが得られないからである。これは、非常に恐ろしいことである。守るべきものが何もない、大切にすべきものを何も持たないことは、人生において寄る辺がないことを意味するばかりではなく、それ自体が悲惨なことでもある。それは、信仰を失ったキリスト教徒の悲惨と重ね合わせることができるような性質の何ものかであり、ニヒリズムないし絶望へと差しかけられた者の悲惨であるように思われるのである。このように考えるたびに、私は、さらに自分自身の空虚さを自覚し、そして、愕然とする。

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