AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

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カネの有無が勝負を決することがある

 外交交渉では、武力において劣る国は、相手から足元を見られるのが普通である。(だから、憲法を改正しないかぎり、わが国は外交で負け続ける運命から逃れられない。)同じように、他人とのあいだの交渉では、いざというときには、所持金ないし財産の有無が勝負を決することが少なくない。

 もちろん、核保有国が核兵器を気前よく使うことなどないのと同じように、いくら金持ちでも、いわば「札束で顔をはたく」ような仕方で問題を解決するようなことは滅多にない。カネを実際に使うのは、最終的な手段である。

 とはいえ、十分なカネには、気持ちに余裕を作る効果がある。目の前にある問題の解決を可能にするだけのカネがあると思えば、強気に出ることが可能になるのである。もちろん、いざとなれば身を翻して逃げることもできるであろう。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 たとえば、同じ職場で働く場合でも、辞めたら路頭に迷う、あるいは、辞めたら家族を養えない、という気持ちに追い立てられながら働くのと、3年は働かなくても食って行くことができるだけの貯金を作った上で働くのとでは、気分はまったく違うであろうし、職場でのパフォーマンスにも差が生まれるであろう。当然、いざとなったら辞めても食って行けるという前提のもとで働く方が、高い生産性を期待することができるはずである。(だから、サラリーマンは、いつ逃げ出しても大丈夫なように、「脱出資金」をつねに用意しておくのがよいことになる。)

カネを使うことは、問題解決のための現実的な選択肢である

 しかし、カネを実際に使わなければ解決することのできない問題は、いつか私たちの前に現れる。しかし、それは、人生を左右するような問題であるというよりも、むしろ、大抵の場合、何らかの「障害物」を除去する費用としてカネが使われることになる。何かが「障害物」になるのは、問題を解決するために交渉が成り立たないからである。

 カネで解決する以外に道がないのは、主に過去に関する事柄である。過去は変更不可能だからである。裁判における損害賠償は、過去に関する事柄をカネで解決する典型的な事例である。変更することができない過去に対し値段がつけられるわけである。

私たちの生活が直面する困難の大半は、カネがないことに由来する

 カネは、実際に使うかどうかには関係なく、誰にとっても大切なものであり、ないよりはあった方がよいに決まっているものである。カネがあればすべての問題が解決可能であるわけではないけれども、日常生活において私たちが直面する問題の大半は、カネがその都度十分にあれば最初から起こるはずのない問題であると言うことができる。この意味において、私たちは全員、程度の違いはあるとしても、「貧しい」ことに違いはない。

 そして、日常生活において出会われるこまごまとした問題がいずれも、カネで解決可能なものであるなら、反対に、カネでは決定的に解決することのできない問題とは一体何であるのか、つまり、カネがあっても回避することのできない問題は何か、ということを真剣に考えてみることが必要となるであろう。なぜなら、カネがいくらあっても回避することのできない問題こそ、万人が頭を悩ますに値する問題であるはずだからである。


100兆円あったら何に使うか : AD HOC MORALIST

この問いに対する答えには、答える者の素姓が映し出される 「100兆円あったら何に使うか」。この問いは、想像力を刺戟するばかりではない。この問いに対する答えは、答えた者がどのような人間であるかを正確に教えてくれるものであるように思われる。ブリア=サヴァランの格

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2ボタンのスーツでは、第1ボタンのみを留めるのが普通

 平日の街を歩いていると、スーツ姿の男性のサラリーマンを大量に見かける。これらのサラリーマンの半分以上は、いわゆる「シングル」のスーツを着ており、さらに、その大半は、「2ボタン」のスーツを着ている。そして、「2ボタン」のスーツを着ているサラリーマンのうち95%以上は、第1ボタンのみを留めているか、あるいは、ボタンを留めていないかのいずれかである。

 シングルの2ボタンのスーツでは、第1ボタンのみを留めるのが一般的であり、場面によってはボタンを留めないことも許容される。(あらたまった場面、たとえば賞状を受け取るようなときには、ボタンは留める方がよい。)これは、私などが言うまでもなく、スーツを着るときの基本的なルールとしてよく知られていることである。スーツを初めて買ったり作ったりするとき、店で教えてくれることが多いはずであるし、店で教えてもらう機会がなくても、スーツの着こなしに少しでも興味があるなら、これがもっとも基本的なルールであることはすぐにわかるに違いない。

 実際、2ボタンのスーツの第2ボタンは、事実上の飾りであり、大抵の場合、留められないことを前提に仕立てられている。2つのボタンを無理に留めると、生地が前方に集まり、裾のベントが開いてしまうはずである。

2ボタンのスーツの両方のボタンを留めるサラリーマン

 ところが、ごくまれに、2ボタンのスーツの両方のボタンを留めているサラリーマンを街で見かけることがある。調べたわけではないけれども、サラリーマンの100人に1人くらいは、ジャケットのボタンを上下とも留めて街を歩いているように思われる。

 もちろん、下で述べるように、ジャケットのボタンを2つとも留めることがそれ自体として禁じられているわけではないが、第1ボタンのみを留めることが事実上のルールになっている状況のもとでは、ボタンを2つ留めたサラリーマンは非常に目立つ。このようなサラリーマンは、2ボタンのスーツでは留めるのは第1ボタンだけであることをどこでも教えられなかったのであろう。このサラリーマンがボタンを2つ留めていることから、彼の父親もまた、ボタンを2つとも留めていたこと、あるいは、父親がスーツを身につける職業に就いていなかったことを想像することができる。

 私自身、あまり偉そうなことは言えないけれども、スーツをどのように着るか、とか、スーツと靴をどのように合わせるか、とか、このようなごく基本的なことは、家族から教わって習得するものであるように思われる。男性の場合、何をどのように着ているかにより、その人がどのような環境で生活してきたのか、何となくわかる場合が少なくない。

「パドック・スーツ」なら、2ボタンのジャケットでも、両方のボタンを留めてよい

 もっとも、2ボタンのジャケットのボタンを2つとも留める場合がまったくないわけではないようである。下のリンクの写真は、ウィキリークスの創始者ジュリアン・アサンジであるが、写真では、この人物は、2ボタンのジャケットのボタンを両方とも留めている。


Julian Assange tweete une photo de lui heureux alors que la Suède classe sans suite l'enquête pour viol

Julian Assange est (presque) libre. VOIR AUSSI : "MacronLeaks" : Comment WikiLeaks et Julian Assange ont outrepassé leur rôle de lanceurs d'alerte Et il a l'air évidemment ravi par cette nouvelle : Le parquet suédois annoncé vendredi 19 mai qu'il abandonnait l'enquête pour viol, en cours depuis sept ans contre le fondateur de WikiLeaks.


 ジュリアン・アサンジという人物にどの程度のファッションのセンスがあるのか、私には判断がつかない。それでも、オーストラリア出身の白人としては平均以上のセンスは具えているはずであり、ジャケットのボタンに関する基本的な知識を欠いているとは考えられない。そこに何かの理由を想定することが自然であるように思われる。

 1960年代のごく短い期間――であると思うが――2ボタンのジャケットのボタンを両方とも留めることがお洒落として普及していた時期がある。ジョン・F.ケネディが公の場に姿を現すとき、2つのボタンを両方とも留めていることが多かったからである。(下のリンクの写真を参照。)現在のアメリカの大統領のドナルド・トランプが、そのファッションに関し現地の評論家やブロガーから烈しくダメ出しされているのとは対照的に、ケネディは、ファッションについても強い影響を周囲に与え、肯定的な評価を獲得していたことがわかる。

John F. Kennedy's Ivy League Style

 ただ、ケネディのスーツは、当然のことながら、完全なオーダーメイドであり、上の記事にあるように、ベントのないスーツであるとともに、また、下の記事にあるように、第2ボタンが高い位置に来るいわゆる「ハイ・ツー」の「パドック・スーツ」(paddock suit) (「パドック・カット」あるいは「パドック・スタイル」とも)に似た形に仕立てられていた。パドック・スーツは、2ボタンの両方を留めることを前提とする型のスーツである。

Paddock Suit - by Robert Goodman - Apparel Arts 1939

 とはいえ、街で見かけるサラリーマンは、ケネディの真似をしているわけではなく、もちろん、1930年代のファッションを模倣しているわけでもない。(ただ、2ボタンのスーツに関して言えば、「ハイ・ツー」はやや増加傾向にはある。)実際、大抵の場合、2つのボタンを両方とも留めたサラリーマンのジャケットは、おそらく既製品なのであろう、ボタンを留めたせいでもとの姿を完全に失っていることが多い。これは、基本的なルールに関する無知に由来するスーツの誤った着方として訂正されるべきものであるに違いない。

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会いたくないと思う相手に限って会ってしまう

 学部生のころ、ある先生のところに質問に行き、そのついでに、世間話をしていたとき、何がきっかけだったのかよく覚えていないけれども、私の親類の職業のことが話題になり、私が、親類の一人の職場の名をその先生に告げたことがある。すると、その先生は、御自分の奥様の親類でその同じ職場に勤めている者がいると言い、その親類の方の名前を私に教えてくれた。

 しかし、私は、顔には出さないようにしたが、ひそかに凍りついた。というのも、先生の口から出たその親類の方の名前というのは、同じ職場で働く私の親類からすでに何度も聞かされていた同僚の名前であり、しかも、つねに悪口とともに聞かされていた名前だったからである。その職場では、私の親類と先生の親類の方は犬猿の仲であり、一触即発の状態だったのである。

 私は、その場では何も言わず、そのまま退散したけれども、その後、その先生とのあいだには、何となく気まずい空気が生まれ、私は、その先生にはできるかぎり近づかないようにした。

 自分に対し必ずしも好意的ではないことがあらかじめ分かっているような人物、あるいはその関係者と、思わぬところで、思わぬときに遭遇する、このようなことは、少なくとも私の場合、決して珍しくない。(自慢ではないが、現実的な敵と可能的な敵を併せると、私には相当な数の敵がいるに違いない。)だから、誰かとある程度以上親しくなる可能性があるときには、相手の生活、背景、信条などを私の力の及ぶ範囲で調べてから慎重に接近することにしている。これまで、不用心に近づいてひどい目にあったことが何回かあるからである。どのような会合に顔を出しても、できれば会いたくないと思う相手を少なくとも一人は発見する。そして、そのたびに、世間が狭いものであることを実感する。

逃げ回っていても仕方がない

 とはいえ、会いたくない相手を忌避して逃げ回っていると、行動範囲が次第に狭くなってくる。嫌な相手と近距離で顔を突き合わせるような状況は避けるとしても、そうでなければ、適当にやり過ごしたり無視したりする度胸は、やはり必要であろう。気が重く感じられる場面にも、できるかぎり顔を出すよう心がけてはいる。

 そもそも、世間を構成するのは、私に敵意を抱いている者や、私に必ず敵意を抱くはずの者ばかりではあるまい。未知の誰かが私のことを好意的に評価してくれるかもしれない。私と親しくなることを望む者がどこかにいるという想定もまた、必ずしも不自然ではないように思われる。

 実際、私の知らない誰かがどこかで私のことを気に入ってくれるかもしれない、新しい出会いがあるかもしれないと思わなければ、ブログなど書き続ける気にはならないであろう。

 だから、初対面の人、しかも、挨拶以上の何か意味のあるコミュニケーションの相手となる可能性のある人には、最大限の笑顔とともに礼儀正しく愛想よく接し、相手の神経を逆撫でしないよう心がけている。この戦術が成功しているかどうかはよくわからない。まったく効果のない相手がいることは確かであるけれども、出会いがしらに見ず知らずの相手から不快な言葉を浴びせられるようなことは、最近ではずいぶん少なくなった。私がそれなりに年齢を重ねたおかげでもあるかも知れない。

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Photo by Ben White on Unsplash

他人の親切は負担になることがある

 私は、知り合いからプレゼントをもらうのが苦手である。なぜなら、もらったプレゼントには何らかの仕方で返礼しなければならないからである。

 もちろん、私の知り合いがプレゼンとするとき、私に「貸し」を作ることを意図しているわけではないであろう。

 実際、私が誰かにプレゼントしたとき、即座に返礼の品物が贈られてきたら、私は気を悪くする。残念ながら、私の周囲にいる知り合いのかなりの部分は、私からのプレゼントに対しこのような行動をとり、私は、そのたびに不快になる。(私は、よほど信用されていないのであろう。)

 最近、私は、誰かにプレゼントしたり、手土産を持って誰かに会いに行ったりすることがずいぶん少なくなった。モノが介在する関係は、私にとっては、あまり楽しいものではないからである。このような関係に巻き込まれることは、モノにとってもまた不幸であるように思われる。

本当に親しい相手からのプレゼントは、負債ではなく宝物

 このように、私にとって、プレゼントは一種の負債となり、返礼するまでは気分が落ち着かないことが多いけれども、プレゼントを贈られても、まったく負い目を感じない相手というのがいないわけではない。そのような知り合いこそ、私にとって本当に親しい相手であり、私は、もらったプレゼントを、その値段や世間における価値とは関係なく、心から大切にするはずである。

 そして、このことは、私が現に大切にしているものを私に贈ってくれた相手こそ私にとって大切な存在であることを意味する。言い換えるなら、私の持ち物から、私が大切にしているものを選び出し、そして、それがどこから来たものであるかを確認することにより、私が誰を大切に思っているかがわかるのである。

「サプライズ」が成功するかどうかも相手との関係次第

 だから、いわゆる「サプライズ」が成功するかどうかもまた、相手のことをどの程度まで信頼しているかによる。

 相手を喜ばせるためにサプライズを仕掛け、実際にこれを実行しても、相手がまったく喜ばないばかりではなく、反対に、相手のことを怒らせたり不快にさせたり困惑させたりする危険がある。このような危険を避けるには、相手を慎重に選ぶことが必要となる。

 私自身は、サプライズを仕掛けるのも仕掛けられるのも、両方とも苦手であるけれども、もし誰かに対しサプライズを計画するなら、その相手からもらったプレゼントを私がどのくらい大切にしているか、胸に手を当てて考えてみる。相手からもらったものを私が大切にしているのなら、サプライズを仕掛けても喜んでもらえるであろうし、サプライズを仕掛けられても喜んで受け止めることができるはずである。(反対に、サプライズを仕掛けることで不快にさせたり怒らせたりしてもかまわないと考える相手にサプライズを仕掛けると、ほぼ間違いなく、相手に不快な思いをさせることになる。相手のことを大切に考えていないからである。)

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 すべてに先立って言っておくなら、私は、人気がない。なぜ人気がないことの証拠に、私の前には、誰もあまり積極的に近づいてこない。「人気がある」という表現が「ファンが多い」と言い換えることが可能であるなら、私にはファンが少ないということになる。

 なぜ私に人気がないのか、原因は不明である。外見のせいなのか、話題に乏しいからなのか、金持ちではないからなのか、話し方や声にクセがあるからなのか、いろいろと可能性を検討してはみたけれども、結局、その正体はわからない。

 確かなのは、私が他人に直に対面するときでも、メールや手紙のような文字ベースのコミュニケーションでも、論文や著書でも、あるいは、このブログのような意見表明でも、「人気がない」点ではすべて同じということである。外見も声も明らかではない状態ですでに人気がないという事実をこう考慮するなら、私が不人気であるのは、私に由来するすべてのものの背後にある私の性格のようなものが忌避されているからであると考えるのが自然である。

 容姿のおかげで人気者になったり、財産があるという理由で人々が身辺に集まったりすることがないわけではないとしても、たしかに、人気というのは、大抵の場合、個人の性格に対する評価と一体のものである。したがって、人気者になるためには、何よりもまず、周囲から評価されるような性格の持ち主になることが必要であることになる。

 とはいえ、性格というのは、人生経験の中で形成された行動や判断の「癖」であるから、これを矯正することは容易ではない。おそらく、性格の矯正には、性格が形成されてきたのと同じくらいの時間がかかるのであろう。人生のどの時期に、どのような状況のもとで、何がきっかけで好ましくない「癖」が形作られたのか、人生を遡って行くとわかることがある。大抵の場合、性格を形作るのは、かなり若いころ、思春期またはそれ以前の時期の生活環境や出来事であり、ある時期以降は、今度は、このようにして形成された性格の方が人生に偏りを作り出すようになる。

 私の性格に由来する行動や判断は、私の生活の不可欠の一部であり、私の生活の枠組みをなすものであるから、これを冷静な吟味や反省の対象とすることは難しい。それでも、自分自身のあり方に注意を向け、これを見つめることにより、私の性格の正体もまた、少しずつ明らかになり、行動や判断の癖もまた少しずつ矯正されて行くのかも知れない。

関連情報

 このブログに昨日投稿した記事で、このブログに投稿した記事が合計で300になっていたことに気づいた。2016年8月25日に最初の記事を投稿してから、一日も休まず毎日1件ずつ記事の投稿を続けてきた。

 今年の3月末に次の記事を投稿してから、状況に大きな変化はない。PV(ページビュー)は驚くほど少ないまま、記事の数だけが多くなった。


ブログを書き続ける力 : AD HOC MORALIST

これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが...... 最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。 もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも


 ただ、性格が矯正されるなら、事情もまた変化するのかも知れないけれども、現状では、私の努力の範囲を超える問題であり、したがって、さしあたり意味のない問題であると考え、なかば諦めている。

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