AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

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通りすがりに入ったカフェがテレビで紹介された店だった

 今日の午後遅く、移動中に東京都心のあるオフィス街を徒歩で通過した。たまたま、次の予定までに1時間ほど時間が空いていたため、近くにあったカフェに入った。

 カフェのガラス戸を開けたとき、中から店員がやってきて、人数を不安そうな顔で私に尋ねた。私が「1人」と答えると、少し安心したような顔になって、すぐに席に案内してくれた。

 なぜ店員の顔に懸念の色が現われていたのか、そのときにはわからなかったけれども、席に着き、コーヒーとホットケーキ(←その店の名物の一つのようであった)を注文してから周囲を見渡してみて、その理由が何となくわかってきた。店の壁に、テレビ番組の取材で訪れたと思われる芸能人の色紙が何枚も飾られていたのである。

 色紙をよく見ることで、異なる番組の取材で異なる芸能人が異なる時期に店を訪れたことがわかった。つまり、この1年くらいのあいだに、テレビ番組でこの店が何回か紹介されているということなのであろう。私自身は、問題の番組を1つも見ておらず、当然、その店がテレビで紹介されたことも、壁に飾られた色紙を見るまで気づかなかったけれども、当然、大半の客にとり、この店を選ぶ理由は、「テレビで紹介されていた店」である点にあると考えるのが自然である。

 実際、私が店に入ることができたのは、幸運だったようである。私が店に入ったとき、店は1人分の席1つを除きすべて埋まっており(←客は私以外は全員女性)、そこに私がすべり込んだことになる。私が店に入った直後、店の外に10人近い行列(←全員女性)が一度に出来上がり、私が店を出るときにも、行列(←全員女性)は完全には消えていなかった。私は、行列がちょうど途切れたタイミングで店にすべり込んだことになる。

 店の入口で私を迎え撃った店員の顔が不安そうだったのは、客が複数名だった場合、路上で待つように言わなければならないと覚悟していたからに違いない。(それにしても、私が一人でこのタイプのお洒落なカフェに入ると、ほとんどの場合、なぜか「便所の隣」「レジの前」「厨房の出入り口」などに坐るよう求められる。今日も店でも、私が坐らせられたのは、厨房の出入り口であった……。なぜこのような条件の悪い、うるさい席に坐らせられるのか、これは私にとっては謎である。)

「行列に並んでまで」店に入りたいのか、それとも「行列を作るのが楽しい」のか

 私自身は、行列が大嫌いであり、一人のときには、飲食店の前に行列ができていたら、行列があるということを理由にその飲食店には近づかない。誰か知り合いと一緒に飲食店に出かけ、そこで列を作って順番を待たなければならなくなったときにも、基本的には、並ばずに入ることができる別の店を探す。考えが少し古いようであるけれども、商店や飲食店の前にできる行列というのは、社会の貧困の証のように思われるのである。おそらく、戦後間もない時期の日本の行列や、旧ソ連の行列を映像で何度も見ているからであろう。だから、列に並んで順番待ちしている客に気持ちが私にはわからない。

 しかし、形式的に考えるなら、列を作る理由は、次の2つに限られるように思われる。すなわち、順番待ちしてまで食べたいもの、あるいは、手に入れたいものが店にあるからであるか、あるいは、知り合いと一緒に列を作って順番を待つことがそれ自体として楽しいのか、これら2つ以外に理由は認められないはずである。

 テレビで紹介されていたという理由で客が殺到することが店にとってありがたいのかどうか、私にはわからないけれども、そのような客が常連となり、繰り返し店を訪れることは必ずしも期待することができないことは確かである。私自身は、自分が実際に訪れて居心地のよさを覚えた店を何回も訪れることが、店に対する礼儀であるような気がしている。今日の午後のカフェの前には、しばらくはまだ、テレビを見て訪れる客が列を作っていることであろう。私は、当分のあいだ、この店に行く予定はないけれども、テレビで紹介されたことが忘れられ、少し客が減ったころ、あらためて行ってみるつもりである。

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 先週、次のニュースを見た。

パナマが台湾と断交 中国と国交樹立 - BBCニュース

 中米のパナマが中華人民共和国と国交を結び、同時に、台湾と国交を断絶したという非常に残念なニュースである。

 1970年代までは実質的にどうであったかわからないが、少なくとも、現在では、台湾は、形式的にも実質的にも民主主義国家である。自由と民主主義に意義を認め、この認識とわが国と共有する国家と協同することが日本人と日本政府の原則であるかぎり、台湾は、東アジアの諸国の中で、日本の支援にもっともふさわしい国家であると言うことができる。

 日本の国内に「中共びいき」がどのくらいいるのか知らないが、また、そもそも、「中共びいき」なるものがありうるのかどうかもまた、私にはわからないが、中華人民共和国か台湾かの二者択一を迫られたら、日本人はほぼすべて、心情的には台湾の味方につくことになるのではないかと思う。日本は目に見える形で台湾を積極的に支援すべきであると私は考え、台湾をめぐる環境の悪化、具体的には、台湾に対する中華人民共和国の不正な攻撃が明白であるにもかかわらず、これを不正と明言することも非難することもないわが国の政府の態度には少なからぬいらだちを覚えている。

 特に、今回のパナマについては、台湾から長期間にわたり各種の援助を受けてきたにもかかわらず、カネに転んだのであり、カネに公然と転ぶことがそのまま許されるような国際秩序を放置することは、日本とっても世界にとっても有害であるように思われる。

 実際、上の記事には、次のように記されている。

台湾の外交部(外務省に相当)は声明で、パナマが「北京当局の経済的利害に屈した」と非難した。

声明はさらに、パナマが両国間の「長年にわたる友好関係を無視した」とし、台湾は「北京当局の金銭による外交と競争することはしない」と述べた。

 もちろん、国際政治の現実の場面では、カネが意思決定を左右することが少なくないことはよく承知している。それでも、たとえばアメリカは、中華人民共和国とは異なり、自国の対外政策のすべてに(レトリックを用いて)「正義」の名を与えるだけの手間はかけている。(日本政府は、今回の出来事に関し、パナマに対して経済制裁を課してもよいのではないかとすら私は考えている。)

 台湾は、わが国の周辺諸国の中では唯一の親日国であり、現在では、わが国が台湾から攻撃される事態は想定されていない(はずである)。しかし、それだけに、台湾が中華人民共和国に呑み込まれるようなになれば、わが国の安全はいちじるしく脅かされることになる。沖縄の安全保障上の役割は、今の何倍も大きくなるであろうし、沖縄に駐留するアメリカ軍の規模もまた、縮小されないばかりではなく、反対に、必ず拡大されるはずである。

 日本人の平均的な価値観を基準とするなら、台湾の方が中華人民共和国よりも「よい」国であることは明らかである。だから、台湾を応援することが政府にはできないのなら、私たち一人ひとりが――大したことはできないとしても――台湾を訪れたり、台湾製のものを積極的に購入したり、台湾人を支援したりすることにより、台湾を応援しなければならない。私自身、普段から、選ぶことができるものについては、”made in Taiwan”の製品を購入するようにしている。

 大切なことは、台湾に注意を向け続け、台湾を国際社会の孤児にしないように手を差しのべ続けることであり、そのために何ができるかを私たち一人ひとりが模索し続けることであるように思われる。

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興味のないことについて「やらないことの言い訳」を探すことはない

 何かをやってみたいとき、私は、できないことの言い訳をすぐに探してしまう。できないことの言い訳を見つけることに関するかぎり、私は――そして、おそらく誰でも――天才的な能力を発揮する。

 「やりたい」「やってみたい」という意欲が心に一瞬だけ浮かび、しかし、次の瞬間にはもう、私は、できないことの言い訳を探している。いや、場合によっては、目指す言い訳に辿りついていることもある。だから、ある計画について、本当にやりたいことなのかどうか、見きわめることは容易ではない。

 確実なことがあるとするなら、それはただ一つ、興味のないことについては、やらないことの言い訳をあえて探さないということである。そもそも、興味のないことについては、心に浮かぶことすらないから、「やってみようか」と考える機会すら最初から訪れないのである。

「やらないことの言い訳」は、大抵の場合、合理的である

 もちろん、やらないことの言い訳を探すとき、対象となっている事柄のすべてが私にとってやりたいことであるわけではない。本当にやりたくないこと、あるいは、本当にできないことは誰にでもあるからである。たとえば、私は、酒が飲めない。だから、誰かから酒を飲むよう求められれば、相手によっては、飲まないことの言い訳を探すことになる。相手を説得するためである。

 しかし、言い訳というのはすべて、自分または他人を何らかの意味において説得することを目指すものであるから、当然、それなりに合理的であるのが普通である。そして、この合理的な外観は、言い訳の一つひとつが覆い隠している欲求や関心というものが自分にとってどのくらい価値あるものであるのかを分かりにくいものにしている。

「やらないこと」が手段にかかわる場合、言い訳によって否定された欲求や関心は「かけがえがある」

 言い訳によって覆い隠された欲求や関心が自分の本当の欲求や関心であるのか、本当にやりたくないことであるのか、あるいは、ただ実行の可能性が心に浮かんだにすぎないことであるのか、これを判別する簡単な方法がある。それは、「やらないことの言い訳」に対応する当の事柄が、私にとって何らかの「目的」であるのか、それとも、それ自体は目的ではなく、別の目的を実現するための「手段」にすぎないのかを確認することである。

 私が探しているのが、手段となる何ごとかを実行しない言い訳であるなら、その言い訳は、何らかの目的を実現するためにその手段を選びたくない理由であり、したがって、代案を見出すことができるかぎりにおいて、それは正当である。

 これに対し、私の言い訳が「目的」にかかわるものであるなら、つまり、「やらないことの言い訳」を探している当の事柄が何か別の目的を実現するための手段ではなく、それ自体として私の関心や欲求を惹くものであるなら、「やらないことの言い訳」が覆い隠すのは、私が本当にやりたいことである。この場合、「やらないことの言い訳」を探してはならないことになる。

 もちろん、目的と手段の関係は相対的なものであり、私の欲求や関心の対象となるのは、大抵の場合、目的でもあり手段でもあるような何ものかである。ただ、何らかの目的を実現するための手段にすぎぬものであるとしても、その目的が私にとって必ずしも明瞭ではない場合――つまり、手段としての性格が相対的に希薄である場合――私は、これを目的と見なすことが許される。反対に、何かの手段として、目的との関係が明瞭な仕方で意識に上る場合――つまり、目的としての性格が相対的に希薄である場合――には、「別の選択肢」を検討することが可能であるに違いない。

 「やらないことの言い訳」は、私の心の中から際限なく湧いてくる。そして、この言い訳は、私が新しい一歩を踏み出すことを妨げる。もちろん、言い訳のおかげで危険や破滅を免れることが可能になることがないわけではない。しかし、それだけに、一つひとつの言い訳が斥けようとしているものが何であるのか、これを丹念に吟味することは、私が本当にやりたいこと、本当の欲求、本当の幸福を見出し、幸福な人生を送るために不可欠の作業であるように思われる。

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タワーマンションの高層階に住んでいて火事になったら助からない

 6月14日にロンドンのノース・ケンジントンにある24階建ての公営住宅Grenfell Towerで火災が発生したようである。(次の記事には27階建てとあるが、正確には24階建てらしい。)

英国の27階建タワマンで火災、崩壊の危険も | 日テレNEWS24

 多くの死傷者が報告されており、この種の火災の被害としては非常に大きいと言うことができる。

 今回の火災が起った建物は24階建てであり、周囲のどの建物よりも高いという意味では高層であるけれども、東京の都心にあるいわゆる「タワーマンション」が40階建て、50階建てであることと比較するなら、必ずしも高層というわけではない。(日本の常識では、24階建ての集合住宅は「タワーマンション」とは呼ばれない。)

 それでも、建物の内部における上下の移動手段が階段だけであったなら、24階という建物はありうべからざるものであったに違いない。24階の住人には、地階から24階分を上ることなど物理的に不可能だからである。(24階から地階まで下る方も、ほぼ不可能である。)

暮らすなら断然低層階

 高層マンションの場合、眺望の点で高層階の方がすぐれているのが普通である。だから、階数が上るとともに住戸の価格もまた、これに比例して上がることになる。けれども、安全を考えるなら、住戸は低層階にあるほど好ましいように思われる。

 たしかに、階段を上り下りするスピードを競うスポーツにとっては、超高層建築物は魅力的であるのかもしれない。

Vertical World Circuit

 しかし、暮らしやすさと安全を考慮するなら、集合住宅を高層にしなければならない理由は、土地の効率的な利用以外には考えられない。

 私自身、現在は、一戸建てに暮らしている。また、かつては、いくつかの集合住宅で暮らしたけれども、これまででもっとも高い部屋は7階にあった。1階とのあいだを階段で往復することができる階数としては、私の場合、7階が限度であったように思う。

地べたに足がついていると安心する

 東京で生まれ、東京で暮らしている者にはふさわしくない発言になるかも知れないが、私は、できるかぎり「地表面」に近いところで暮らしたいといつも考えている。これは、「土と触れ合う」というようなことではなく、地べたに足をつけることができるところにいないと、何となく落ち着かないのである。私の自宅の周辺は、路面がそのまま本来の地面になっている。また、私の職場やその周辺も、路面がただちに地面であり、舗装の下を掘れば、自然の土砂が現われる。

 ところが、東京には、人工地盤がいたるところに造成され、そのせいで、もとの地表面の姿が掻き消されてしまった地域がある。典型的なのは六本木である。六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、いずれも大規模な人工地盤の上に造られたエリアであり、もとの地表面がどのレベルであるのか、もはやわからなくなっている。特に六本木ヒルズは、もともと低地だったところを人工地盤によって嵩上げして生まれた空間であり、六本木に行くたびに、特に六本木ヒルズの方面に足を向けるたびに、何か落ち着かない気持ちに襲われる。

 「地べた」がどこにあるかを確認し、これとほどよい距離をとることは、人間にとり、自分の身体をスケールとする空間感覚を身につけるのに必要な条件となっているように思われる。だから、この意味においても、集合住宅で暮らすなら、低層階の方が好ましいように思われる。タワーマンションの高層階で暮らすことは、自分の身体感覚、周囲にあるものとの距離を把捉する能力を損ねることになるような気がしてならないのである。

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「うちの嫁」の強烈な違和感

 自分の妻のことを第三者に語るのに「うちの嫁」という表現を使う男性を私が初めてテレビで見たのは、もう10年以上前のことであったと思う。そして、この「嫁」という語の用法は、私に強烈な違和感を与えた。

 そもそも、「うちの嫁」という表現が指し示すのは、男性の場合、自分の息子の配偶者でなければならない。したがって、「うちの嫁」という言葉が有意味であるためには、自分に息子がいること、そして、この息子が既婚であることが必要である。なぜ自分の配偶者を「うちの嫁」と呼ぶことが許されるのか、私にはまったく理解することができなかった。今でも理解することができない。

 私は独身であり――そのせいなのかどうかわからないが――私の周囲にも独身者が多い。自分の配偶者のことを話題にすることができる者が周囲に少ないのだから、「うちの嫁」などという言葉に出会う機会は、幸いなことに、さらに少ないことになる。しかし、世間では、「嫁」のこの誤用は、かなり広い範囲に蔓延しているようである。

既婚の女性が自分の夫を指し示すのに「うちの婿」という表現を使ったら

 「嫁」という語のこのような使用が不適切であることは、反対の場合を心に描くことにより、ただちに明らかになる。すなわち、既婚の女性が「うちの婿」という表現を用いて自分の夫を指し示すなら、「婿」という語のこの用法は、明らかな誤りとして受け止められるに違いない。

 男性は自分の妻を「うちの嫁」と呼んでもかまわないが、女性が自分の夫を「うちの婿」と呼ぶのは、誤用と見なされる。「うちの嫁」と「うちの婿」の用法のあいだに認められるこの差異は、生活における男女の役割の非対称性を雄弁に物語る。

正しい意味での使用の減少

 現在では、「お」という接頭辞も「さん」という接尾辞もともなわない単なる「嫁」という言葉が本来の意味において使われる機会は多くはないであろう。この言葉が使われる典型的な場面は、舅や姑が他人に対して息子の配偶者のことを語るときであるけれども、息子の配偶者を「嫁」の一言で片づけることを自然と受け止める舅や姑というのは、現在では少数派に属するはずだからである。

 さらに、少し冷静に考えるなら、「嫁」のこの本来の用法は、独立したものではなく、舅や姑の「嫁観」(?)の反映として受け取られるべきものであることがわかる。たとえば、息子の配偶者を「嫁」と表現するような舅や姑なら、当然、自分の息子の配偶者、つまり言葉の本来の意味における嫁の名を呼ぶとき、「花子さん」などとは言わず、「花子」と呼び捨てにするはずである。息子の配偶者の名を呼び捨てにするというのは、息子の配偶者に対するある態度の反映であり、特定の「家庭観」の反映なのである。だから、舅や姑が減少し、これとともに、「嫁」という語もまた、本来の意味において使われなくなってきたと考えるのが自然である。

「うちの嫁」が前提とする家庭観は「江戸しぐさ」のようなもの

 単独で使われる「嫁」という語がこのような古い家庭観を背負うものであるとするなら、「うちの嫁」という表現を妻に関して用いるとき、男性は、何らかの古い家庭観の枠組みの内部における「嫁」の位置や役割を自分の妻に対し――大抵の場合、不知不識に――期待していることになる。

 とはいえ、「うちの嫁」などという表現によって妻を指し示す男性がこの表現の背後に漠然と認めているのは、歴史的な「古い家庭観」ではない。妻を「うちの嫁」と呼ぶ夫が漠然と心に描く家庭とは、夫と妻の役割分担が明瞭な空間、妻を中心として家庭が整然と組織され、妻の役割や権限が夫によって十分に尊重されている空間である。そして、「うちの嫁」という表現が妻の位置や権限を尊重する文脈において用いられることが多いという事実は、この表現を使う男性が、「嫁」の語の使用が前提とする家庭の姿を「かつては日本のどこにでもあった古きよき家庭」の姿と見なしていることを教える。

 ただ、このような家庭は、皆無であったわけではないとしても、少なくともわが国の歴史では、「かつては日本のどこにでもあった」ものなどではなく、わざわざ探さなければ見つけることなどできない例外的少数である。「うちの嫁」という表現を支える家庭観が支配的になったことは、わが国の歴史では一度もないはずである。この意味において、「うちの嫁」という表現の使用が前提とする家庭観は、歴史に根拠を持たぬもの、あの「江戸しぐさ」に似た一種のフィクションであると言うことができる。

 既婚の女性は、「うちの嫁」として語られるたびに、架空の家庭観をソフトな仕方で押しつけられていることになる。だから、この押しつけに不満を覚えるのなら、そのような女性は、自分の夫のことを「うちの婿」と表現することでこれに抵抗すればよいと私は考えている。「うちの婿」という表現が使われることにより、「うちの嫁」の四文字からなる記号は不透明なものとなり、この記号が担う枠組みのフィクティシャスな性格を否応なく明らかにするはずである。

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