AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

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この問いに対する答えには、答える者の素姓が映し出される

 「100兆円あったら何に使うか」。この問いは、想像力を刺戟するばかりではない。この問いに対する答えは、答えた者がどのような人間であるかを正確に教えてくれるものであるように思われる。ブリア=サヴァランの格言を模倣し、次のように言うことができるであろう。「100兆円あったら何に使うかを言ってみろ、そうしたら、私は、君が誰であるかを言ってやる」。

 とはいえ、この問いに対する答えはほぼすべて、次の3種類のいずれかに分類されるはずである。

(1) 個人的な贅沢のための無駄遣い

 「100兆円あったら何に使うか」と問いかけ、そして、1日かけて答えを出すよう求められたとき、私たちが最終的に辿りつく使い道は、どのようなものであろうか。100兆円というのは、現在のわが国の一般会計の予算の総額とほぼ同じであり、個人の家計の規模からは乖離した途方もなく巨大な金額である。だから、100兆円に見合う支出とはどのようなものであるのか、直観的にはわからないのが普通である。だから、100兆円の使い道として多くの人の心に最初に浮かぶのは、普段の生活の延長上にあるもののための無駄な支出である。つまり、度を超えた贅沢である。たとえば、無人島を買って別荘を建てる、プライベートジェットを買う、高額なブドウ酒を大量に買い、これで風呂を沸かす、宇宙旅行する、競馬やカジノで散財する、などがこれに当たる。

 日常生活における贅沢というものには、おのずから限度がある。人間の生理的な欲求に明瞭な限度が認められるからである。しかし、100兆円は、この限度をはるかに超える贅沢を可能にする。だから、個人的な贅沢のために100兆円を使う場合、その大半は、単なる無駄遣いとなり、札束をゴミ箱に捨てるのとほぼ同じことになるのを避けられない。これは、想像力の貧困の帰結であると言うことができる。

(2) 貯金や運用

 「100兆円あったら何に使うか」という問いに対する答えとして、もっとも無難な、また、もっとも安直な答えは、「貯金する」あるいは「運用する」というものである。貯金したり運用したりすることにより、使い道を決めるのを先送りすることが可能となるとともに、それなりの利息を手に入れることができる。年利0.001%で運用するとしても、年に10億円の利益が得られるはずであり、これは、平均的な日本人にとっては十分すぎる収入であろう。

 ただ、この場合、100兆円は、ただ利息を産み出しているだけであり、本当の意味において使われたことにはならない。「100兆円あったら何に使うか」と問われ、貯金あるいは運用と答えた者は、100兆円を必要としてはいないのであろう。

(3) 世界(または社会)の変革のための資金

 そして、この問いに対する答えの第3のグループは、使い道を世界あるいは社会の変革に求めるものである。もちろん、この場合の変革とは、NPO法人を作って貧困家庭を救済したり、希少金属をゴミから取り出す技術を開発したりすることから、中国の民主化運動を支援したり、スナイパーを大量に雇用し外国の独裁者や有害な政治家を暗殺したりすることまで、途方もない広がりがあるに違いない。しかし、「100兆円あったら何に使うか」と問われ、この第3のグループに分類される使い道を答えた者は、自分が理想とする社会を心に描くだけの想像力を具えた者であり、第1、第2のグループとは異なり、理想の実現のために100兆円を本当に必要としている点において共通していることは確かである。(また、100兆円があれば、大抵のことは実現可能であるか、少なくとも、実現の目途をつけることができるはずである。)

100兆円の使い道の問題とは、理想とする社会の姿の問題

 100兆円の使い道に関する問いは、理想の社会をめぐる問いに置き換えることができる。だから、「あなたにとって理想の社会とは」「理想の社会を実現するために克服されるべき困難は」などの問いに適切な答えを与えることができない者には、100兆円を使う「能力」が欠けているのであり、したがって、民主主義社会を構成する責任ある主体としての資格が欠けているかも知れないと考えることは、決して不可能ではないように思われる。

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よい大学の「よさ」とは、成長を望む学生に提供するオプションの豊かさ

 同じ専門を勉強するために入学するなら、偏差値が高い大学の方がよいと普通には考えられている。いや、それどころか、偏差値さえよければ大学や学部などどうでもよいと考える者は少なくないかもしれない。しかし、なぜ偏差値が高い大学の方が好ましいのか、本当の意味は、必ずしも理解されておらず、このような問いが問われることもまた、稀であるように思われる。「なぜ偏差値が高い大学の方が望ましいのか」という問いに対する答えが自明であり、この問いが愚問であるように見えるからである。

 たしかに、入学するのに高い偏差値を必要とする大学に在籍したり、このような大学の出身者であったりすることには、いくつもの利点がある。卒業した大学を問われ、大学名を答えたところ、「それはどこにある大学なの?」などと尋ねられることはなく、むしろ、自分が学生時代を過ごした大学は、経歴に箔をつけるのに役に立つであろう。また、場合によっては、豊富な人脈を獲得することができるかもしれない。

 けれども、このような利点は、入学者の偏差値が高い大学を選ぶ理由であるとしても、ある大学の入学者の偏差値が高いことは、就職に有利であることや人脈を獲得しうることの「原因」ではない。むしろ、偏差値というのは、企業から高く評価されるような能力や、人脈を作り上げる能力を持つ卒業生がこれまで長期間にわたり特定の大学に偏在してきたことの「結果」であるにすぎない。この意味において、ある学生が自分の希望する企業に就職することができたり人脈を手に入れたりすることができるかどうかは、最終的には、本人の個人的な努力次第であることになる。(企業の採用担当者が、入学者の偏差値が高い大学の出身者を好むとするなら、それは、「ババを引く」確率が低いからである。)

 むしろ、よい大学に認められる「よさ」というものがあるとするなら、それは、成長を望む学生に対して提供しうるオプションの豊かさに比例するものであるように思われる。そして、成長を望む学生が本当の意味において成長することが可能となるために必須であるのは、人文学の領域における豊富なオプションである。

本当の意味における成長は人文学の遂行においてのみなしとげられる

 以前、次のような記事を投稿した。


人文学は「役に立つ」のか、そして、「必要」なのか : AD HOC MORALIST

人文学は技術的な知識ではないから「役に立たない」 国立大学の文系学部が廃止されるかも知れないというニュースが流れたのは、昨年の夏のことである。そして、それ以来、文系の諸科学が「役に立つ」のか、「必要」であるのか、また、習得すべきなのは「役に立つ」知識だけ


 本当の意味における成長は、人文学の遂行によって、あるいは、人文学の遂行において初めて可能となるものなのである。

外国語科目の多様性は、成長の可能性に相関し、大学の「よさ」に相関する

 しばらく前、地方のある国立大学のカリキュラムを眺める機会があり、私は、このカリキュラムに違和感を持った。というのも、この大学では、大学に入学した学生が英語の他に1度に1つしか外国語を学ぶことができないようになっていたからである。というよりも、カリキュラムは、英語の他に複数の外国語を勉強したい、あるいは、しなければならないという可能性を最初から想定していないように見えたのである。

 ある大学に身を置いた場合にどの程度の(言葉の本来の意味における)成長を期待することがゆるされるか――これがよい大学の「よさ」の意味である――は、設置されている外国語科目の多様性を手がかりとして測ることができるように思われる。私のように、西洋方面の人文系の領域を専門とするのなら、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、ラテン語という主な5つの言語の初歩を習得することは必須であるけれども、たとえ語学を特に必要としない分野を専門とする場合でも、また、語学に特別な関心がないとしても、新しい外国語への扉がどのくらい豊かに用意されているかは、その大学が学生の成長を真剣に考える度合いに正確に相関し、その標識となるように見えるのである。つまり、学生の成長を可能にするという意味においてよい大学ほど、多くの種類の外国語をカリキュラムに取り入れているように思われるのである。

 私自身が学んだ大学では、英語以外に複数の外国語の授業を1年生から並行して選択科目として履修するオプションがあり、2年生の終わりまでに上記5言語の初歩的な部分を身につけることができた。学生時代の私は、これを当然のこととして受け止めていたけれども、冷静に周囲を眺めるなら、これは大変な幸運であったのかもしれない。大学在学中に英語以外の語学を1つしか習得することができなかった学生の目に映る世界は、在学中に5つの言語を学ぶ機会のあった者の前に広がる世界と比較し、奥行きを欠いたもの、そして、くすんだものとなることを避けられなかったはずだからである。

人文学、特に外国語を学ぶオプションが豊かな大学ほど入学者の偏差値が高い

 まして、最近では、文系でも、英語以外の外国語科目を設置しない大学が少なくない。首都圏の片隅にある社会科学系を中心とするある小さな大学のカリキュラムには、最初から英語以外の外国語科目がない。選択必修の外国語科目がないばかりではなく、英語以外の外国語は、選択科目にすら見当たらないのである。そして、名称の点では「大学」であっても、実質的には「知のシベリア」と表現するのがふさわしいこのような不毛の環境で学生時代を過ごす者には、どのような「成長」が許されるのであろうか。そして、みずからの地平を更新し、みずからの存在可能性へとフリーハンドで身を開くどのような機会が与えられるのであろうか。

 ところで、「よい」大学の「よさ」を学生の成長の可能性の豊かさに求めるとき、この豊かさは、設置された外国語科目の多様性と相関するばかりではない。不思議なことに、この多様性は、入学者の偏差値ともまた、大体において相関する。言い換えるなら、入学者の偏差値が高い大学ほど、多くの種類の外国語をカリキュラムに取り入れているように見える。人文系、特に外国語科目の充実と入学者の偏差値のあいだには、強い相関関係が認められるように思われるのである。

 したがって、学生の成長を促す「よい」大学を目指すのなら、最初になすべきなのは、「実学」や「就業体験」や「職業訓練」にリソースを投入することではなく、資金が許すかぎりにおいて人文学を学ぶオプションを増やすこと、特に多くの外国語学習のオプションを増やすことでなければならないはずである。

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 以前、次のような記事を投稿した。


「さあて、今日は何をしようかな?」 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

無為の理想と無償の行為について哲学的に考える。


 この記事において、私は、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら、鳥のさえずりとともに目を覚まし、朝食を摂りながらその日の予定を考えるような生活が理想であるという意味のことを書いた。

 それでは、これが私の理想の一日の始まりの光景であるとするなら、その一日は、どのようにして終わるのであろうか。つまり、一日の理想的な始まりに対応する理想的な終わりとは、どのようなものなのであろうか。しかし、この点についてもまた、私には、明確な姿があり、理想の一日がこのようにして終わればよいと考える光景がある。

 この理想的な光景に登場する私は、テレビの前に置かれたソファーに腰を下ろし、テレビをつけたままうたた寝している。テレビを見ながら、居眠りしているようである。理想の一日は、テレビの前でのうたた寝で終わるわけである。

 テレビを見ながらのうたた寝は、もう20年以上前から、私の理想とする老後の一日の終わらせ方であった。原稿の締め切りに追われることもなく、職場での雑用に頭を悩ませることもなく、穏やかにテレビを見ながら眠りにつく……、たしかに、これは、いくらか自堕落な生活ではあるけれども、それでも、かぎりなく心穏やかな生活でもあるように思われる。

 「老後」の生活は、現在の私の心を占領しているいくつもの関心や気がかりからは無縁であるかも知れないが、その代わり、「老後」なりの気がかりや苦労がそこには見出されるには違いない。それでも、(どのような番組かはわからないが)一日をテレビの前で穏やかに終わらせることができる生活を手に入れることができるなら、私としては十分に満足であろうと思う。

 ところで、アメリカのテレビドラマや映画を見ていると、テレビの前に置かれた二人掛けのソファーにカップルが腰を下ろし、男性が女性の肩に腕を回して二人でテレビを見ながらうたた寝する場面にときどき出会う。これもまた、私の理想とするところではあるが……。

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トークイベントでスピーカーが冗談を言ったら、面白くなくても笑うべきか

 しばらく前、あるトークイベントを見物に行った。そして、行かなければよかったと深く後悔した。理由は簡単である。あまり面白くなかったのである。

 いや、正確に言うなら、「あまり面白くなかった」のではない。壇上で話しているスピーカーたちが聴衆を面白がらせることを意図して何回も冗談を言い、そのたびに、多くの聴衆が笑った。しかし、私には、その冗談のどこが面白いのか、サッパリわからなかったのである。

 アメリカで製作されるシットコムには、画面の外から笑い声を流し、笑うべき適切な瞬間を教えてくれる番組が少なくない。それと同じように、私の前後左右の聴衆が笑いという形で反応を示すときには、私もまた「笑うべき」なのであろう。実際、そのトークイベントでは、周囲の聴衆が冗談に笑うたびに、私もまた――サッパリ面白くはなかったけれども――無理に笑顔を作って冗談に付き合った。一人だけ仏頂面しているわけには行かないように感じられたからである。会場を埋める聴衆のほとんどが登壇したスピーカーのファンであり、面白くなくても笑顔を作らざるをえない空気がそこにあったことは確かである。

 そもそも、代金を支払って聴きに行くイベントの場合、面白くなければ笑わなくてもかまわないのか、それとも、面白くなくても、スピーカーへの礼儀として笑顔を作るべきなのか、私にはよくわからない。私が笑顔を作るよう努めるとするなら、それは、私自身がスピーカーであったら、聴衆の仏頂面は見たくないに違いないと想像するからであるが、この気持ちがスピーカーに共通のものであるとは言えないかもしれない。

 もちろん、一方において、カネを払って座席を買っているのだから、私が笑えないときには、私を笑わせるような冗談を言えないスピーカーの方に責任があると言えないことはない。

 けれども、他方において、私には合わない冗談を聴かされる危険を予想しなかったのは私の責任であり、その場に身を置く以上、面白くなくても笑顔を作ることは義務であると考えることも可能である。

笑えないのが怖ろしくて寄席に行けない

 このように考えているうちに、私は、次第に面倒になってきた。笑えなかったとき、面白くなかったときに、無理に笑顔を作ったり、面白いふりをしたりするのは、いかにも面倒である。しかし、周囲の聴衆が冗談に反応して笑っているのに、私ひとりだけが仏頂面しているのもまた、決して楽しくはない。結局、この種のライブのトークイベントには、講演であれ、トークショーであれ、基本的には行かないことにしている。

 映画やテレビドラマなら、笑えなくても気にならない。というのも、私が笑えなかったとしても、映画やテレビドラマのストーリーがそのせいで変化するようなことはないからである。だから、問題は、私の反応がスピーカーから見える状況、つまりライブのイベントで「笑えない」ことである。

 もっとも恐ろしいのは、「寄席で笑えない」ことである。寄席で落語を聴き、しかし、サッパリ面白くないとき、「笑うべきか、笑わざるべきか」という選択を迫られることになるのがつらいのである。

 私は、CDに収録された落語を聴いても、腹を抱えて笑うことは必ずしも多くはない。当然、寄席に身を置いたときに、「笑えない」危険は十分にある。特に、寄席というのは、本質的に笑える話を聴かせるための空間である。このような趣旨の空間に身を置き、それでも笑うことができなかったときのことを想像すると、足がすくんで寄席に近づくことができないのである。

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前方から乗車し、中央(または後方)から降りるバスで「ありがとうございました」と言うのは不自然

 上記の問いに対する私の答えは、「場合による」である。

 私は、普段の生活でバスを使うとき、降車するとき運転手には何も言わない。というのも、東京23区内のバスの大半が、前方から乗車し、中央(または後方)から降車する仕組みを採用しているからである。この仕組みは、大半の事業者が運賃を均一にしていることと関係がある。

 したがって、中央(または後方)のドアから降車するとき、車輌のもっとも前方にいる運転手に向かって「ありがとうございました」と声をかけるのは不自然であるように思われる。なぜ不自然であるかと言えば、「ありがとうございます」という声を届けるべき運転手は、声を発する乗客から見て、車輌の内部でもっとも遠いところに身を置いているからである。声を届けたいと思うのなら、声が相手に自然に届く範囲に移動するのが自然であろう。(中央線や山手線の最後尾の車輌から降車するとき、先頭の車輌の運転手に向かって「ありがとうございました」と怒鳴るのが不自然であるのと同じことである。)

地方でバスを使うときは、降車時に運転手に挨拶することが多い

 もちろん、どれほど遠くからでも、「ありがとうございます」と運転手に言うことが、それ自体として悪いわけではない。だから、私自身は、降車するときに何も言わないけれども、「言いたければ言えばよい」と考えている。

 とはいえ、運賃が均一ではない路線のバスを使うときには、前方のドアから降車する際に運賃を支払う。私は、このとき、何らかの仕方で挨拶することにしている。運賃を支払う瞬間には、運転手のもっとも近いところに身を置くことになるから、挨拶は自然である。地方に行くと、バスの運賃は均一ではないのが普通であるから、挨拶する機会も自然に多くなる。以前、沖縄を旅行したときなど、バスを繰り返し乗り継いで移動したため、降車のたびに運転手に挨拶していた。

前方から乗車するなら、乗車時に挨拶してもよい

 さらに言うなら、前方から乗車し、前方から降車する仕組みのバスを使うときには、降車するときばかりではなく、乗車するときに「こんにちは」などと挨拶するのもよいかもしれない。(挨拶すべきだ、とまで主張するつもりはないが、運転手と視線が合ったら、言っても悪くはないと思う。)

 昔、アメリカに行ったとき、地元の路線バスに乗ったことがある。観光地を経由しない路線だったせいか、事前に想像していたとおり、客の大半は、黒人とヒスパニックの通勤客であった。停留所で列に並び、バスを待っていると、やがてバスが到着し、乗客は、バスの前方から順番に乗車し始めた。

 その路線は、均一運賃だったため、乗客は、乗車時に運賃を支払うことになっていたが、乗客が運賃を支払うとき、プロレスラーのような風体の黒人の運転手が乗客一人ひとりに”Hi!”などと声をかけ、乗客の方も、運転手に挨拶を返していた。私は、最初、運転手が顔見知りに声をかけているのかと思って眺めていたが、私が運賃を支払ったとき、運転手は、私にも”How are you?”と声をかけてきた。(声をかけられるとは予想しておらず、少し驚いたけれども、”fine, thanks”と答えた。)

正しい挨拶は「ありがとうございました」ではなく「お世話さまでした」

 ただし、前方から降車する場合でも、降車の際、運転手が私に何も言わなければ、私の方もまた、運転手には何も言わない。運転手が「ありがとうございました」に代表される何らかの言葉を私にかけたとき、これに対する応答として、私の方でも挨拶するだけである。

 これは、言葉の単なる投げつけ合いではなく、コミュニケーションとして理解されるべき事柄である。だから、相手からかけられた言葉に応じて、こちらも言葉を適切に選ぶことが必要となる。

 だから、私は、挨拶する場合にも、「ありがとうございました」とは言わない。この「ありがとうございました」は、カネを受け取る側の挨拶であり、カネを払った側の標準的な挨拶は「お世話さまでした」である。スーパーマーケットのレジで「ありがとうございます」と言われたときにも、「お世話さまでした」と返すべきである。(飲食店なら、「ごちそうさまでした」でもよい。)もちろん、何か特別に親切にしてもらったら、この親切に対する感謝として「ありがとうございました」と言う場合がないわけではないが、これは例外である。

 バスを降りるとき、運転手から何かを言われたら、投げかけられた言葉にふさわしい何かを返す。これが原則であり、乗客の方から先に、あるいは乗客だけが礼や感謝の言葉を口にすることは、コミュニケーションとして不適切であるように思われるのである。

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