AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

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手帳は「月曜日始まり」が多数派なのに、カレンダーは「日曜日始まり」が多数派

 以前、次の記事を投稿した。


手帳を使わずメモ用紙で予定を管理する 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

手帳やメモ帳は使わない スケジュールを記入する小さな冊子は、一般に「手帳」と呼ばれている。これは、社会において何らかの役割を担っている大人なら、当然、少なくとも1人に1冊は持っているべきもの、いや、持っているに決まっているものであると普通には考えられている


 上の記事に書いたように、私は、「手帳」と名のつくものを持たない。毎週ほぼ同じスケジュールの繰り返しだから、メモ用紙とグーグルカレンダーがあれば、スケジュールの管理に苦労することはないのである。手帳に予定を書き込んでみても、結局、どのページも同じになってしまう。

 ところで、私が手帳を使わなくなったのには、他にもいくつかの理由があるけれども、その大きな一つは、手帳のほぼすべてにおいて、なぜか月曜日が1週間の最初の日になっている点である。見開きで1週間の予定を管理することができる手帳の場合、ページの最初に記されているのが月曜日なのである。

 これに対し、壁掛けや卓上のカレンダーでは、1週間の始まりが日曜日であるのが普通である。つまり、カレンダーに従うなら、1週間の最初の日は日曜日であることになる。壁に掛かった大型のカレンダーを眺めながら予定を立て、これを手帳に書き込むとき、どうしても書き間違いが起こる。私が手帳を使わなくなった原因の一つに、カレンダーと手帳のあいだのこのズレがあったことは確かである。

歴史的に見るなら、1週間の最初の日は日曜日

 歴史的に見るなら、1週間の最初の日は日曜日である。すなわち、1週間は、日曜日に始まり、土曜日に終わる。この考え方に従うなら、土曜日は週末であるけれども、日曜日は「週末」には当らないことになる。

 日曜日を1週間の最初の日と定めたのは、ユダヤ教である。というよりも、正確に言うなら、土曜日を安息日、つまり、1週間の最後の日とすることがユダヤ人によって決められたのである。(だから、神が世界を作り始めたのは日曜日であり、神にとり、日曜日は休日ではなかったことになる。)日曜日が第1日、月曜日が第2日、火曜日が第3日、水曜日が第4日、木曜日が第5日、金曜日が第6日、土曜日が安息日で第7日となる。

 これに対し、ユダヤ教のあとに成立したキリスト教は、安息日を1日ずらし、日曜日に定めた。だから、キリスト教にとり、1週間の最初の日は月曜日となる。実際、欧米には「月曜日始まり」のカレンダーが少なくない(ような気がする)。キリスト教が日曜日を1週間の最後の日と定めたからであるに違いない。

 さらに、ユダヤ教、キリスト教よりもあとに成立したイスラム教は、安息日をさらにずらして金曜日とした。イスラム教徒の1週間は、土曜日から始まることになる。

日本には曜日の観念がなかった

 とはいえ、上に述べたように、「1週間=7日」という観念は中東に由来するものである。したがって、明治以前の日本人にとり、1週間というのは、未知の単位であった。当然、わが国には、1週間が何曜日から始まるかという点に関する明確な合意はなく、一人ひとりの好みに従い、自由に決めることが許されている。

 私は、「1週間は何曜日から始まるのか」と問われるなら、さしあたり、「社会全体としては日曜日とするのが自然」と答える。1週間の最初の日と最後の日が休日になるからである。バッファーが前後にあると考えた方が、心に何となくゆとりができるはずである。もちろん、これは、単なる個人的な見解である。

 ただ、今年に限るなら、私の個人的な1週間は、金曜日に始まり、木曜日に終わる。職業柄、土曜日や日曜日には、自宅で朝から晩まで仕事していることが多いが、その代わり、木曜日には仕事の予定を何も入れず、完全に休むことにしているのである。月曜日から水曜日まで授業と雑用が切れ目なく続くからでもある。グーグルカレンダーの設定では、1週間の最初の日について土曜日(イスラム教)、日曜日(ユダヤ教)、月曜日(キリスト教)の3種類しか選択肢がないのが少し残念である。

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「肉じゃが」は家庭料理の代表ということになっているが

 「肉じゃが」は、日本人、特に男性が好む家庭料理であると普通には信じられている。残念ながら、「肉じゃが」の好き嫌いを周囲の男性に自分で確認したわけではないから、実施に「肉じゃが」がどのくらい好まれているのか、私は知らない。

 ただ、私自身は――日本人の男性であるが――「肉じゃが」をあまり好まない。もちろん、目の前に出てくれば、食べないわけではない――つまり、積極的に忌避するほど嫌いではない――けれども、特に食べたいと思ったことはない。いや、正確に言うなら、他の選択肢があるなら、「肉じゃが」を選ぶことはまずないという程度には嫌いである。「肉じゃが」が男性を「落とす」「勝負料理」であるなどという文章に出会うとき、私は強い違和感を覚える。

肉じゃが? 餃子? 「男を落とす勝負料理」のすごすぎる中身とは|【マイナビ賃貸】住まいと暮らしのコラム

「肉じゃが」のしまりのなさが苦手

 私の見るところ、「肉じゃが」というのは、「しまりのない」料理である。(少なくとも私は、「しまりのない」「肉じゃが」しか見たことがない。)

 「肉じゃが」が「肉じゃが」であるためには、肉(牛肉あるいは豚肉)とジャガイモが入っていなければならない。その他に、ニンジンと玉ねぎ、さらに、場合によってはシラタキや絹サヤが入っていることもある。これは、「カレーからスパイスを取り除いたもの」と「すき焼きを水で薄めたもの」を足して2で割った料理である。

 しかし、カレーは、スパイスがあってこそ美味しいものであり、すき焼きは、煮詰められることで生まれる濃い味に価値があるのに、「肉じゃが」は、これら2つをともに欠く煮物であることになる。「肉じゃが」が与える気が抜けた「しまりのない」印象は、この点に由来するように思われる。

「肉じゃが」の「おざなり」なところ

 さらに、「肉じゃが」とは、基本的にジャガイモを味わう料理なのであろうが、少なくとも私の知る範囲では、ジャガイモが煮崩れるのを防ぐためなのか、味が内部にしみこむまで加熱されず、食べるとき、ジャガイモの青臭さが鼻につくことが少なくない。(ジャガイモの青臭さを好む人は、決して多くないと思う。)

 青臭さは、カレーに代表される強力なスパイスで消す、あるいは、コロッケやポテトサラダのように原形をとどめない程度まで加熱することによって消すことができるが、一般的な和風の煮物の味つけでは――味を薄くしても濃くしても――青臭さが消えることはない。(子どものころ、食卓に「肉じゃが」が出てきたことがあった。そのとき、私が「ジャガイモが青臭い」と文句を言ったら、「『肉じゃが』とはそういうもんだ」という返事が戻ってきた。この返事には、今でも釈然としないものを感じる。)

 けれども、青臭さを完全に消すことを目指して何らかの工夫が試みられたという話は、寡聞にして知らない。「肉じゃが」が、しまりのない料理であるばかりではなく、細部に関し「おざなりな」料理であるという印象を与える原因の一つはここにある。同じ煮物と言っても、「肉じゃが」は「筑前煮」に遠く及ばないと私は考えている。

「肉じゃが」で「落とす」ことができるのは、「肉じゃが」が好まれているからではない

 どのような根拠があるのかは知らないが、「肉じゃが」が男性を「落とす」のに効果的であると普通には信じられているようである。しかし、実際には、「料理が何であっても、落ちるときは落ちる」と考えるべきである。「落ちる」かどうかは、本質的にコミュニケーションの問題であり、相手への思いやりの問題だからである。

 「『肉じゃが』さえ出せば落ちる」など、ありうべからざることであることは、少し冷静に考えれば、誰にでもわかることである。(たとえば、私のように「肉じゃが」を好まない者には、「肉じゃが」は逆効果でしかない。)

 味の好みは人によりまちまちである。。何らかの手料理を手段として男性を「落とす」ことを望むのなら、標的となる男性の好みを徹底的に調べるべきであろう。

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 アメリカやイギリスで作られているファッション関係の動画をYouTubeで見る機会が多い。

 私は、もともと、「おしゃれ」にはほとんど関心がなく、かつては、ボロボロのものを平気で身につけていた。しかし、ようやく、最近になって、見た目の大切さに気づき、身につけるものに少し気を遣うようになった。

 YouTubeで動画を見るようになったのも、おしゃれなスタイルに目をさらすことで、勘のようなものが少しでも身につくのではないかという期待を抱いているからである。(センスが実際に身につくかどうかは、よくわからない。)

 ところで、しばらく前、YouTubeで次の動画を見つけた。


 衣装箪笥の中のすぐに捨てるべきアイテムとしてこの動画で挙げられているのは、次の10種類である。すなわち、

    1. 「古い日焼け止め」
    2. 「汚れた下着」
    3. 「汚れて伸びたアンダーシャツ」
    4. 「古い歯ブラシ」
    5. 「古いランニングシューズ」
    6. 「保存方法を間違えたフレグランス」
    7. 「穴があいたソックス」
    8. 「色あせた水着」
    9. 「擦り切れたジーンズ」
    10. 「攻撃的なグラフィックが印刷されたTシャツ」

 最後のものを除くと、捨てるべきものとは、古くなり使えなくなったものであることがわかる。

 衣類というのは――靴やカバンを含め――定期的に点検して捨てることが必要なものである。というのも、衣類には明確な賞味期限がなく、擦り切れたり傷んだりすることがあるとしても、その変化は緩慢であり、持ち主の目にはわからないことが多いからである。半年ごと、あるいは1年ごとに定期的にアイテムを処分しないと、周囲の目に「ボロボロ」と映るものを、それと気づかぬまま使い続けることになってしまう危険があるのである。

 私自身、上の動画を見て、自分の衣類を早速点検した。自分では気づかなかったけれども、人目に触れるところでの着用にはもはや耐えないようなものをたくさん見つけ、これを処分し、代わりに、新しいものを補充した。

 なお、私は、衣類を処分するときには、原則としてすべてゴミとして捨てる。ゴミに出す前に雑巾等として再利用するものはあるけれども、最終的には、古着屋やリサイクルショップに持ち込むことはなく、すべて可燃ゴミとして捨てる。勿体ないと感じる人がいるかもしれないが、古着屋やリサイクルショップに持ち込むために必要な手間や時間や体力を考えるなら、捨ててしまう方が、全体としてはよほど節約になるように思われる。

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 私が日本の女性についていつも不思議に感じていることの1つに、年齢を重ねることへの極端な恐怖あるいは嫌悪がある。

 これは、外国との比較において初めてわかることではない。一方において、年齢を重ねた女性のアンチエイジングへの執着、他方において、自分よりも少しでも年齢が上の同性を「ばばあ」(または「おばさん」)と呼んで見下す傾向、年齢を重ねることへの怖れは、この二つによって容易に確認することができる。

 以前、私は、アンチエイジングに関し、次のような記事を投稿した。


年齢を重ねてよかったと思えること 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

単なる「老い」から区別された年齢を重ねることの意義を哲学的に考える。


 年齢を重ねることは、単なる老化ではない。単なる老化以上の意味を年齢に見出さない者は、みずからの内面が空虚であることを告白していることになる。上の記事では、このようなことを書いた。

 同じことは、「ばばあ」(または「おばさん」)という語の使用についても言うことができる。「ばばあ」という語は、本来は高齢の女性に適用されるものであるけれども、ここでは、相対的な意味における「高齢」の女性が「ばばあ」と呼ばれる場合を考える。たとえば若者向けの洒落た衣料品店、コンサートの会場、あるいは、「婚活市場」のような抽象的な空間に身を置く女性のうち、年齢が比較的高い女性が「ばばあ」と呼ばれる。「ばばあ」と呼ばれた女性たちは、このような空間にふさわしくない存在、「齢甲斐もなく」そこにとどまっている存在であり、排除されるべき存在なのである。

 実際、30代の女性は、40代の女性を「ばばあ」と呼び、20代の女性は、30代の女性を「ばばあ」と呼ぶ。それどころか、高校生が大学生を「ばばあ」と呼ぶのを耳にすることもある。自分よりも年齢が上の女性のことをあえて侮蔑的に「ばばあ」と呼ぶことにより、自分の縄張りを確認しているに違いない。

 とはいえ、アンチエイジングが向かうのが自分自身の皮膚であったのに対し、「ばばあ」という語は、他人に適用されるものであり、この意味において、この言葉が与える影響は複雑である。

 形式的に考えるなら、日本の女性は、生まれたときから経過した時間に比例して(同性を中心として)他人から「ばばあ」と言われたり、「ばばあ」に分類されたりする危険が高くなる。そして、ある年齢を超えると、他人から「ばばあ」と見なされる場合の方が普通となり、「若さ」が参入の前提となっているような空間からは完全に締め出される。

 若さを参入の前提とする空間から締め出されると、しかし、不思議なことに、このような女性は、自分自身を「ばばあ」と規定するようになる。「ばばあ」であるという理由である空間から締め出されたからと言って、自分を「ばばあ」と見なさなければならないわけではなく、自分が好きなようにふるまえばよいはずであるのに、自分を「ばばあ」と見なし、いわば「『ばばあ』の世界」と呼ぶことのできるような世界へとみずからを閉じ込めてしまう。このような女性に対し若者と同じようにふるまうことを求めるあらゆる試みは、「もうおばさん/ばばあだから」という説明とともに即座に斥けられる。

 「『ばばあ』の世界」が日本の女性にとって居心地のよいものであるのかどうか、私にはわからない。ただ、これが、男性の目には「中性的」な――男性性も女性性も失われた――世界であり、若い女性が上の年齢の女性を排除しながら作り上げる若者向けの空間以上に理解することの困難な世界であることは確かであるように思われる。(高齢の女性の服装が幼児の服装にかぎりなく似たものになることは、「『ばばあ』の世界」の特徴が性別を示すものの剥落にあることを雄弁に物語る事実である。)

 私自身は、どれほど年齢を重ねても、女性にはこのような「異界」に足を踏み入れてほしくはないと考えている。年齢を重ねるとともに、日本人の女性の多くが自発的に「『ばばあ』の世界」の住人となり、急激に「中性化」して行くことは、多くの男性の目に、不気味なものと映るからである。

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 月曜日の朝、仕事に行くのがつらく感じられる。もちろん、行きたくないからと言って、行かずに済ますことができるわけでもなく、結局、重い足を引きずって自宅を出ることになる。

 私自身、月曜日の出勤時間は、去年までは午後2時ころであったけれども、今年は、担当する授業の関係で、午前7時には家を出なければならなくなり、自宅から出るときの足どりも、その分だけ重くなったように思われる。

 しかし、一週間の実質的な最初の日がこのように始まるのは、決して幸せなことではない。月曜日の朝の気分は、その後の日々の生産性に影響を与えるかもしれない。そこで、何とかして、もう少し楽しい気分で仕事に向かえないものか、少し工夫することにした。

とにかく早く起きる

 私が最初に試みたのは、早起きすることである。

 私は、普段から比較的早起きであり、午前6時には起床するけれども、日曜日の夜は早く就寝し、月曜日の朝は特に早く起きることにしている。すなわち、日曜日は午後8時に就寝し、月曜日は午前4時に起床する。そして、朝食をとってから自宅で一仕事することにしているのである。これにより、物理的に身体を動かし始める前に「世俗的なモード」に自分を切り替えることが可能となる。

呪文を唱えて自分に言いきかせる

 ただ、早起きの効果は限定的である。朝早く起きても、世俗になじむ余裕ができるだけであり、必ずしも爽やかな気分にはならないからである。

 しかし、月曜日の朝、職場に行くのが本当に嫌なら、次のように自分に言いきかせると、なぜか気分が晴れることが多い。すなわち、「来週はもう行かなくていいんだ」と心の中で繰り返し唱えるのである。

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 もちろん、実際には、来週の月曜日には出勤しなくてもよいわけではない。職場がなくならないかぎり、解雇されないかぎり、急な病気に罹らないかぎり、来週の月曜日の朝もまた、今週の月曜日の朝と同じように、私は仕事に出かけるであろう。また、「来週はもう行かなくて済む」ことを期待しているわけでもない。だから、「来週はもう行かなくていいんだ」と自分に言いきかせることは、自分に嘘をつき、自分を騙すことを意味する。

 それでも、「来週はもう行かなくていいんだ」という呪文を心の中で繰り返し唱えると、さしあたり来週以降の仕事に関する予定、計画、懸案などを――短時間であるとしても――すべて心から締め出すことが可能となり、気分が軽くなる。来週の月曜日はカバンに荷物を詰めることも、靴を履いて玄関を出ることも、サラリーマンと一緒に駅に歩いて行くことも必要ないと無理に考えてみると、月曜日の午前中の何時間かを気持ちよく過ごすことができるようになるはずである。

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