AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年06月

headaches-1454330_1280

 完全に私的なことになるが、今日は、昼ごろから少しずつ頭痛があり、午後にかけて次第にひどくなった。

 頭痛にはいろいろな原因があるけれども、僧帽筋の血行が悪くなることによって起こる場合が少なくない。そのため、私は、肩と背中の筋肉を動かしたり鍛えたりするような運動を心がけている。

 もっとも簡単なのは、セラチューブやモビバンに代表されるチューブを使ったトレーニングである。(ただ、私自身は、モビバンを使ったことはない。)

ディーアンドエム(ディーアンドエム) セラチューブ レッド TTB-12

モビバン(mobiban) モビバンEXブルー(一般向け) MV008 BL

 それでも、月に1回くらいは頭痛に襲われる。特に、今日は、頭痛に加えて、途中から吐き気まで重なった。頭痛があまりにもひどいと、吐き気がすることがあるのである。夕方から職場で会議があったのだが、約1時間の会議が永遠のように長く感じられた。

 会議が終わってから乗った電車の中でも、吐き気が続き、混雑した電車の中で、もう少しで吐きそうになった。

coffee-777612_1920
 自宅に戻り、食事をしたり、コーヒーを飲んだりしているうちに、頭痛と吐き気が両方とも少しずつ収まり、ようやくパソコンに向かうことができるくらいまで回復した。

 頭痛に吐き気が加わることは、年に1回くらいあるけれども、出先で頭痛と吐き気に襲われたのは、今回が初めてであるが、誰かに近くにいてほしいと思うのは、こういうときである。

cemetery-1655378_1920

世界の悪意を感じるとき

 どこで何を見ても面白くないように感じられることがある。あるいは、視界に入るものすべてが腹立たしく思われることがある。街を歩いているとき、何かに気づくたびに、心の中でこれに悪態をつく。このような経験は、誰にでもあるに違いない。そして、このようなとき、私たちは、世界全体を憎悪していると言うことができる。

 世界を憎悪するとき、私は、新しい経験を欲しない。新しく到来するものはすべて、私を不快にさせ、私を攻撃するものだからである。

 私が世界を悪意あるものとして認識するかぎり、そして、新しいものとの出会いを忌避するかぎり、私の生活は、何らかの意味における「引きこもり」とならざるをえない。あらゆるものの到来を遮断することにより、新しいこと、予期せざることを目にしたり耳にしたりする苦痛を免れられるからである。

 たしかに、世界に対する憎悪を心に抱えている者にとり、新しいものは、心を波立たせるものであり、是非とも経験したくないものである。だから、引きこもりは、新聞も読まず、本も読まず、テレビも見ない。まして、知り合いの消息など、最新の注意を払って耳に届かぬよう工夫するはずである。

世界を憎悪するのは、自分を正当化する必要があるから

 私は、新しいものを恐れる。つまり、私は、本当の意味における経験を忌避し、世界に対し心を閉ざす。しかし、それは、世界の悪意のせいであるというよりも、むしろ、私がみずからの現状を正当化する必要にもとづくものである。私は、新しいものを経験することにより、自分の生活を支える信念や自己認識の妥当性に疑問符がつき、これが揺るがせられることを怖れているのである。

 そして、自分が妥当であると信じてきたもの、その信念の妥当性を前提として生活が組み立てられてきたもの、つまり、自分の生存を支えてきたものが揺らぐとき、私は、これに必死で抵抗する。これが自己正当化である。しかし、私が自己正当化を必要とするのは、私が自分自身を実体化し疎外しているからに他ならない。自己正当化とは、私がみずからをモノとして扱い、自由を失っているとき、したがって、みずからに対する信頼を失っているときに要求されるものであると言うことができる。

 新しいものに身を開き、世界に対する憎悪や恐怖を解消し、自分と世界の関係を正常化するために最初になすべきことは、私の本当の姿であると信じてきたものが、本当は実体化された私、モノとしての私、自分の体裁を取り繕うための「仮面」にすぎないという事実に気づくことであろう。言い換えるなら、自分の生活を支えてきた信念や自己認識を心の底では信じていない――あるいは、信じているという確信がない――ことを率直に認めるとき、私は、本当の意味において自由になるための最初の一歩を踏み出すことになるはずである。

Namban-17

ヨーロッパの植民地だった国々は、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に直面している

 外国の文化はどのように受容されるべきか。この問に関し、わが国には、ある特別な答えを与える権利があるように思われる。

 近代においてヨーロッパ諸国の植民地となった地域では、それぞれの地域の伝統は、あるいは消去され、あるいは無視された。中南米、東南アジア、サハラ以南のアフリカの諸国がこれに当たる。

 もちろん、これらの国々において、植民地化以前の文化が完全に消滅してしまったわけではないけれども、それは、ヨーロッパ諸国がこれらの国々に無理やり押しつけた言語や文化に特徴を与える「偏り」以上のものではないように見える。ヨーロッパの旧植民地の多くでは、旧宗主国の言語が現在でも公用語であり、この場合、植民地になる前に使われていた言語は外国語と同じである。

 何よりも深刻なのは、多くの地域において、植民地化される以前に用いられていた言語が消去されたという事実である。ヨーロッパの植民地だった国々が、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に苦しめられていることは、V.S.ナイポールの作品群を俟つまでもなく、誰が考えても明らかであろう。

日本は、ヨーロッパの植民地だったことがない

 これに対し、わが国は、ヨーロッパのいずれかの国の支配下に入ったことが一度もない。このことは、古代以来、文化に大きな断絶がなく、また、同じ言語が(変化が激しい言語であるとは言え)使われ続けてきたことを意味する。(さらに、日本語以外の言語が公用語になったこともない。)

 したがって、ヨーロッパ以外の多くの国とは異なり、外国の文化について、日本は、自国の文化に「吸収する」形でこれを摂取してきた。言い換えるなら、外国の文化は、つねにいくらか「日本化」されてきたのである。

 日本が中国の文化を摂取したのは、中国から押しつけられたからではなく、これが日本人にとり役に立ちそうなもの、面白そうなものだったからである。同じように、16世紀以降にヨーロッパと接触するようになってからも、日本人が外国から受け取ったのは、何らかの効用が認められるものだけである。これは、ヨーロッパの植民地だった国々からわが国をへだてる決定的に重要な特徴である。

「いいとこどり」は文化の生産性の証

 これまで、わが国は、外国の文化を、日本人にとって価値あるものであるかぎりにおいて、日本人にとって必要なかぎりにおいて受容してきた。実際、ヨーロッパ諸国の植民地となったことのないわが国には、「外国文化を日本的な仕方で受容する」権利がある。つまり、日本人には、ヨーロッパやアメリカの文化を、現地の人間が受け止めているとおりに受け止める義務などないのである。実際、日本人は、この権利を十分に適切に行使してきた。このことは、古代から現代までの日本文化の歩みを辿ることにより、簡単に確認することができる。

 ある文化の歴史的な価値は、そのオリジナリティにあるのではなく、過去の文化あるいは外国の文化を摂取し、これを新しいものへとまとめ上げる力量にある。この点は、以前に投稿した次の記事に書いたとおりである。


もしすべての日本人が漢文の勉強をやめたら : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│ ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは


 文化が生産的であるとは、外国文化を(見方によってはおざなりな仕方で)「いいとこどり」し、これを完全に消化し同化してしまう力を具えていることである。そして、この意味では、日本文化は、少なくともこれまでのところ、きわめて生産的であり続けたと言うことができる。

 しかし、現在、政府は、英語を小学生に勉強させたり、大学を「グローバル化」したりすることにより、アメリカが全世界に押しつけたものを「丸ごと」引き受けることを国民に求めているように見える。これは、日本に固有の「いいとこどり」の伝統とは相容れない試みであり、明治初期の日本政府による滑稽な欧化政策――その象徴が鹿鳴館である――を想起させるものである。

 幸いなことに、明治の欧化政策は、大した痕跡を日本の社会にとどめることなく終息した。しかし、現在の政府が国民に求める「グローバル化」により、日本文化の健全な生産力は、深刻な仕方で傷つけられるかもしれない。

 日本には、外国文化を自分の好きなように受容する権利がある。この点を再確認し、「いいとこどり」の伝統を全力で守ることは、現代の日本人の課題であるに違いない。

tuna-576938_1280

「ただ生きているだけ」には耐えられない

 私は、自殺を考えたことが一度もない。これが私の幸福の証であるのかどうか、よくわからないけれども、何らかの意味において「めでたい」ことであるのは間違いないように思われる。

 とはいえ、いつか自殺したくなるかも知れないということを漠然と予想することがないわけではない。そして、どのような状況のもとで自殺したくなるか、ときどき思考実験している。(もちろん、自殺の原因や状況や動機はまちまちであり、一般化は困難である。だから、私が想像する自殺の条件は、私にしか妥当しないものであるに違いない。)

 そして、自殺について考えるたびに、私の心に必ず浮かぶものがある。それは「ただ生きているだけ」の状態である。何の前進も成長もなく、未来が現在の機械的な延長のように見えるとき、自分が「ただ生きているだけ」であるように感じられるのである。生活のすべてを会社に捧げてきたサラリーマンの多くは、定年退職したあと、「ただ生きているだけ」の状態に陥るはずである。

 人間は――というよりも、私は――「ただ生きているだけ」には耐えられない。「ただ生きているだけ」の状態を強いられたら、実際に自殺するかどうかはともかく、生きる意欲を決定的な仕方で失うであろう。

「ただ生きているだけ」はどこにでも出現する

 もっとも、人が「ただ生きているだけ」の状態に陥るのは、決して珍しいことではない。定年退職し年金生活を送っている老人ばかりではなく、働いて給与を受け取っているサラリーマンでも、あるいは、その他の職業に従事している者でも、日々の仕事の繰り返し――決して定型的なものではないとしても――に飽き、この先、同じことを繰り返して一生を終えることを想像して意気阻喪することになる。自分が「ただ生きているだけ」であるように感じられる瞬間である。

 不安定な生活よりも安定した生活の方が好ましい。これは、誰にとっても同じである。しかし、どれほど収入が多くても、どれほど安定していても、将来における自分の新しいあり方を心に描くことができなければ、それは、生きていないのと同じことであるに違いない。人間は、マグロやカツオと同じように、前進していないと死んでしまうものであると言うことができる。

 私は、夕食のとき、次のように自問することにしている。すなわち、「今日のこの食事は、ただ生命を維持するためだけのものなのか、それとも、食事がさらなる成長や前進の糧になるのか」と自分に対し問うことにしているのである。これは、自分の人生に何らかの意味があることを確認するための儀式のようなものであり、「ただ自分の命をつなぐためだけに食べている」としか思えなくなったら、そのときには、ものを食べる気力すら失われるであろう。

matt-aunger-198067

愛玩動物に占める純血種の割合が増えているような気がする

 これまでの人生の中で、私は、何種類かのペットを飼ってきた。特に期間が長かったのは犬とネコであり、犬とネコのそれぞれとは、10年以上暮らした経験がある。

 ただし、私が一緒に生活した犬とネコはいずれも、直接あるいは間接の知人から譲り受けたものであり、カネを出して購ったものではない。(念のために言うなら、両方とも雑種であった。)

 カネを出してペットを購った経験がないせいなのか、私にとり、ペットはもらうものであり、これを買うものと見なすことはできない。だから、ペットショップのようなところでペットを「買う」ことには強い抵抗を感じる。

 夕方、近所を散歩していると、犬を連れた中高年の男性や女性とすれ違うことが少なくない。このような犬たちのうち、ペットショップで購われたものがどのくらいの割合なのか、私は知らないけれども、私が犬を飼っていた20年以上前とは異なり、街を歩いている犬のかなりの部分が血統書のある純血種であるように思われる。

愛玩動物をカネで購ってよいのか

 純血種の犬(やネコ)の場合、知人や友人からタダで譲り受けるなどという機会は滅多になく、むしろ、このような犬(またはネコ)の大半は、主に利殖を目的として繁殖させられ、販売されているものであろう。このような状況を考慮するなら、ペットを手に入れるにあたり、金銭の授受があることは、現在ではもはや珍しくないのかもしれない。

 しかし、私自身は、犬やネコを「買う」ことに強い抵抗を覚える。対価を支払って「購入」した犬やネコが自宅にいたら、私には、彼ら/彼女らの目をまともに見ることができないのではないかと思う。

 魚類、両生類、鳥類、爬虫類などはこのかぎりではなく、また、犬とネコ以外の哺乳類についてもよくわからないけれども、少なくとも愛玩動物としての犬やネコは、人間にとっては家族の一員であり、家族の一員であるかぎり、彼ら/彼女らは、何らかの程度において擬人化されることを免れないものである。

 少なくとも近代の日本において支配的な平凡な家族観に従うなら、家族というのは、メンバーをカネで買って大きくすることができるような社会集団ではなく、家族を構成する一人ひとりのあいだには、「売買」には還元することのできない引力が認められるのでなければならない。したがって、犬やネコが家族の一員であるかぎり、購入されて私のもとへやってきたという事実は、人身売買に似た後ろめたさを感じさせるはずである。(少なくとも、私には耐えられない。)

 ペットショップの店頭で犬やネコを見かけ、生命あるもの、しかも、擬人化を容易に受け容れる愛玩動物が自宅にいることを想像しただけで、強い憐れみに囚われ、目をそむけてしまう。しかし、おそらく、私は特別気が小さいのであろう。このような小心な人間には、いわゆる「愛犬家」になることなど永遠に不可能であるに違いない。

↑このページのトップヘ