AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年07月

エゴサーチには中毒性がある

 以前、次の記事を投稿した。


エゴサーチはやめた方がよい : AD HOC MORALIST

エゴサーチには中毒性がある 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思


 エゴサーチの結果として私たちが目にするものの約80%はネガティヴな内容である。それにもかかわらず、私たちがエゴサーチするのは、これが承認欲求を歪んだ形で満足させるからである。エゴサーチに中毒性があり、エゴサーチすることで不快な思いをすることがわかっていても、自分の名前をキーワードにして検索してしまうのである。エゴサーチというのは、かゆい湿疹をかきむしり続けるようなものであると言うことができる。上の記事では、このようなことを書いた。

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エゴサーチはネットを使ってすることが他にないから

 とはいえ、エゴサーチしてしまうのには、このような内的な事情のほかに、もう1つ、外的な事情もあるように思われる。エゴサーチによって不快な思いをするのがわかっていながら、これをやめることができないのは、「退屈だから」であると考えることができるのである。

 エゴサーチを日課としている――私もそうである――としても、「ネットの主な利用目的がエゴサーチである」という人は稀であるに違いない。むしろ、大抵の場合、日常的なエゴサーチは、主となる仕方でのネット利用のあとで、あるいは、その合間に試みられるはずである。

 そして、この事実から、次のことが明らかになる。

    1. すなわち、エゴサーチすることを思い立つとき、大抵の場合、手持ち無沙汰であり、スマートフォンやパソコンをネットに接続し、あちこちをタップしたりクリックしたりして暇つぶしをしていること、
    2. しかし、スマートフォンやパソコンをいじっているうちに、必要でもないのにこれがやめられなくなる――このようなときには、脳波が睡眠時のような状態になっているようである――と、エゴサーチを思いつくこと、
    3. つまり、ネットに長時間接続している者が辿りつく究極の「ネット遊び」がエゴサーチであること

がわかるのである。


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 もちろん、少し冷静に考えるなら、ネットを使った生産的な活動がいくらでも可能であることは明らかである。しかし、ネットに長時間接続し、頭が朦朧とした状態では、思いつくことの幅が狭くなり、気がつくと、半分眠ったようになって画面をこすったり、キーを叩いたりしていることになる。

 エゴサーチは、脳の活動がもっとも低下した状態で私たちが思いつくネットの使い方であり、エゴサーチを思いつくことが、それ自体として、精神の健全な活動が阻碍されている証拠であると言うことができる。(だから、エゴサーチするときには、大抵の場合、「エゴサーチでもするか」と考えているはずである。)

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 本を読みすぎると、ものを考える力が損なわれる。これは、古代から現代まで、多くの知識人が繰り返し強調してきた点である。

 書物というのは、他人の思索の成果である。だから、読書とは、他人の思索の成果をそのまま受け容れることを意味する。しかし、私にどれほど似ている他人であるとしても、やはり、他人の思考の枠組みは、私の思考の枠組みとは異なる。著者が考えたことを著者の身になって理解することは、精神の力を消耗させるとともに、自分にもともと具わっていた枠組み、つまり「本当の自分」のようなものを掻き消してしまう……、読書を否定的に評価する人々の見解の最大公約数は、このように表現することが可能である。

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 この「本の読みすぎ」の最大の犠牲者として文学史に登場するのが、セルバンテスの長篇小説『ドン・キホーテ』の主人公である。彼は、中世を舞台とする騎士道物語を来る日も来る日も読み続け、そのせいで、自分の本当の姿を見失い、自分が騎士「ドン・キホーテ」であると思い込むようになった人物である。騎士道の世界に完全に憑依され、狂気の世界に迷いこんだ主人公には、目に映るもののすべてが騎士道物語を構成する要素となる。これは、読書の過剰が惹き起こす、滑稽でもあり悲惨でもある一つの症例であると言うことができるかもしれない。

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 それでは、読書の害悪から逃れるにはどうしたらよいのか。

 もっとも簡単な、そして、基本的には唯一の方法は、本を読むのをやめ、(もちろん、スマホをいじるのをやめ、)他人の言葉に耳を傾けるのをやめることである。そして、掻き消されてしまった「本当の私」が私の内部で声をあげるようになるのをじっと待つことである。

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 この「待つこと」とは、何かを待ってはいるが、何を待っているのかよくわからない「待つこと」である。もちろん、私が待っている相手は、私――「本当の私」――以外ではありえないのだが、その私の正体は、さしあたり、私にはわからない。また、いつ私が姿を現すのかも、私にはわからない。この意味において、私は、不安に満ちた待機――ただ待つだけ――の時間を経験することになるはずである。

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命まで奪われることはないという意味では「やり直しがきく」は正しいが……

 「人生で失敗しても、何度でもやり直せる」という意味の言葉を耳にする機会は少なくない。たしかに、現在の日本に範囲を限るなら、「何かあってても生命まで奪われることはまずない」という意味では、失敗することは、それ自体としては、決定的な破滅を必ずしも意味しない。このかぎりにおいて、失敗してもやり直しがきくという意見は、誤りではないと言うことができる。

 しかし、何かが上手く行かなかったとき、「やり直しがきく」が真であるためには、2つの条件が必要となる。これら2つの条件のうち、いずれか一方でも欠いているとき、失敗は、人生のある範囲ないし局面では決定的な破滅を意味することになるように思われる。

「やり直しがきく」ための条件[1]:自分の本当の目的を知る

 第一に、何かに失敗したときには、失敗した当の事柄をそれ自体として目指していたのかを最初に確認すべきである。具体的に言い換えるなら、(1)何かに失敗したとき、失敗したこと自体が目的であったであったのか、それとも、(2)失敗したことは、別の何かを実現するための手段にすぎず、本当の目的は他にあるのか、この点をみずからの心の中で明確にすることが必要となる。

 実際には、上記の(1)であることは稀であり、ほぼすべての場合において、何かを実現するための手段を獲得することができなかったことが深刻な「失敗」と誤って受け取られている。だから、失敗を振り返り、これを実現することで自分が何を得ようとしていたのかを明らかにし、この目的を実現するための他の合理的な手段を探せばよいだけのことである。

 失敗が破滅と受け止められてしまうのは、(1)最終的な目的について真剣に考えることなく、(2)手段の獲得が自動的に何かを実現してくれるという漠然とした期待のみにもとづいて手段が標的となり、しかも、(3)その手段の獲得に失敗するからである。

「やり直しがきく」ための条件[2]:「やり直し」にはそれなりのコストがかかることを理解する

 第二に、私たちが承知しなければならないのは、「やり直し」、つまり、最終的な目的を別の手段によって実現することは、ほぼあらゆる場合において可能であるとしても、この「やり直し」には、相当な覚悟が必要となるという事実である。場合によっては、途方もなく大きな努力や、途方もなく多額の金銭の負担を避けられないであろう。だから、上で述べたように、本当に実現したいものがあらかじめ明確でないかぎり、この負担には耐えられないはずである。

 そもそも、何かを実現するために最初に選ぶ手段というのは、考えうるすかぎりのべての選択肢のうち、時間、体力、費用などの点でもっとも負担の軽いものであるのが普通であるから、この手段の獲得に失敗し、他の道を行くかぎり、負担が増えるのは仕方がないことである。

視野を広げて自分を見つめなおすことが必要

 会社で出世することであれ、大学入試に成功することであれ、宇宙飛行士になることであれ、プロ野球選手となってジャイアンツでプレーすることであれ、それ自体が目的であるわけではなく、いずれも何か別の目的を実現するための手段にすぎず、また、この目的を実現する手段は、つねに複数、いや、無限にある。他の手段が思いつかず、何かに失敗するとすぐに「破滅」の二文字が心に浮かぶのは、視野が狭くなってしまっているからにすぎないのである。

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 私は、イベントとしての学会が好きではない。学会で研究発表を聴くのも好きではないし、自分で研究発表するのも好きではない。もちろん、「総会」など、何のためにあるのかほとんど理解することができないし、「懇親会」の三文字にいたっては、もはや「この世の地獄」の同義語でしかない。

 それでも、年に何回かは、学会に参加し、会場になったどこかの大学の教室の片隅で冷や汗を流しながら何時間かを過ごすことがある。

 とはいえ、ただ発表を聴くのは、退屈でもあり、苦痛でもある。そもそも、研究者の仕事は、他人の話を聴くことではなく、みずからが何かを公表することである。当然、他人の研究発表を聴くのが好きな研究者は多くはない。だから、何か質問をひねり出して発表者にぶつけることで、苦痛を紛らわせることがある。(人文系の学会で個人の研究発表に対して行われる質問の大半は、黙っていることの苦痛から逃れることを動機とするものであるような気がしてならない。)

人文系の学会での個人の研究発表の実質は、発表原稿の「読み合わせ」

 社会科学や自然科学についてはよく知らないが、人文科学(歴史を除く)の場合、学会では、研究発表の前に要旨または発表原稿が事前に(あるいは会場で)配布され、発表者は、要旨または原稿に従って発表するのが普通である。

 要旨や原稿が配布されるのは、これが発表の内容を聴衆に理解させるのに有効だからというよりも、むしろ、発表に続く質疑応答や討論の資料として必要だからである。(要旨も原稿も配布せずに発表すると、聴衆から苦情が出ることがある。)

 自然科学上の新しい発見があると、テレビのニュース番組で、パワーポイントによるスライドを背にして学会の会場で何かを説明する発表者の姿が画面に映し出されることがあるけれども、人文科学系の学会(歴史を除く)では、個人の研究発表でパワーポイントが使われることは滅多になく、したがって、あのような光景に出会うことは稀である。そもそも、人文系の場合、何か新しい発見があっても、研究発表という形でこれが公になることはないということもある。(「研究の成果」ではないからである。)

 人文科学系の学会での普通の研究発表では、どこかの大学の教室で、教卓の前に発表者が立ち、聴衆がこれに向き合うように学生の席に陣取り、事前に配布された発表原稿の「読み合わせ」を全員で行い、その後、この発表――というよりも原稿――について参加者が討論することになる。日本人でも外国人でも、この点に関し違いはない。

[1]専門外のテーマの研究発表で質問するオーソドックスな方法

 研究発表を聴き、そして、質問する手順としてもっとも正統的なのは、発表原稿を受け取ったら、パラグラフごと、あるいは節ごとに(発表を聴かずに、あるいは、発表を聴きながら)内容をまとめ(て原稿の欄外にメモして行き)、発表原稿の論旨が形式的、論理的に整合的であるかどうかを批判的に吟味することであり、飛躍や矛盾が認められる場合、発表が終わったあとに、質問の形でこれを指摘することである。(これは、学会ばかりではなく、大学の演習等で行われる学生の発表に対しコメントする場合の基本的な技術でもある。)

 だから、個人の研究発表のあとでよく耳にする質問は、「○○ページには……と書いてあるのに、××ページでは……となっているが、どうして前者が後者の根拠になっているのかわからないし、むしろ、……という可能性が排除できないのではないか」(←このような細かい質問は、発表者が手にしているのと同じ原稿を聴衆が持っていなければ不可能である)という形式を具えていることが多い。また、このような質問には、発表内容に精通していなくても、発表者の原稿に寄生する形でもっともらしいコメントをすることができるという利点もある。

[2]研究発表の細部がわからなければ、一般的な了解と比較する

 とはいえ、発表の内容に不案内であるとしても、ここで使われるテクニカルタームや固有名詞について最低限の観念を持っていなければ、オーソドックスな質問はできない。それでも、発表者に何か質問したいのなら、一般的な概念あるいは了解に訴えることにより、大抵の場合、質問することが可能である。

 人文系の学会における研究発表では、表向きのテーマが具体的な人物や作品であるとしても、このような具体的なものは、必ずそれなりに普遍的なトピックとの関連において取り上げられる。

 したがって、発表者が標的とする普遍的なトピックがわかるなら、発表の細部が理解不可能でも、発表者がこのトピックに関して提示した了解(=結論)と、一般的に通用している了解を比較することにより、「あなたの結論は……だが、この問題は、一般には……と考えられており、また、それには相応の理由があると思うのだが、この点についてどう考えるか」という形式で質問することができる。

質問せず、黙って坐っている方が発表者には親切

 ただ、発表者にとっては、未知の聴衆からの、しかも好意的とは言えない質問は、決してありがたいものではない。また、上記の[2]のスタイルの質問は、形式的には必ず問われねばならない重要な問いではあっても、現実の発表の場では、必ずしも生産的な議論への刺戟とはならない。(専門分野が過度に細分化されているからであろう。)

 だから、発表者と面識があるのでなければ、基本的には黙っている方が発表者のためになることは間違いないように思われる。

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会葬者に歌を聴かせたいと思う人間の気持ちを想像してみたが

 「自分が死んだら、葬式で自分の好きな歌を流してもらいたい」という希望を持つ人が少なくないようである。もちろん、好きな歌なら何でも流すことができるわけではなく、歌によっては著作権との関係で、会場で流すと対価を要求されることがある。しかし、今は、著作権のことは話題にしない。話題にするのは、「好きな歌を流してもらいたい」という希望そのものの意味である。

 ところで、「自分の葬式で好きな歌を流してもらいたいか」という問いに対する私自身の答えは「否」である。だから、自分の葬式に集まってきた会葬者たちに好きな歌を聴かせたいという希望を持つ人の気持ちが、私にはわからない。

葬式の主役は故人ではなく遺族

 もちろん、会葬者たちに自分の好きな歌を聴かせることを求めるのには、それなりの理由があるのであろう。だから、このような希望が不当であると言うつもりはない。

 ただ、葬式というのは、本来、死者のためのイベントではなく、本質的に生者のためのイベントである。私が世を去ったときに行われるかもしれない葬式は、「〔私の名前〕の葬式」ではあっても、私は決して主役ではなく、葬式の主役は遺族なのである。だから、私の好きな歌が遺された親族の希望によって流されるのなら、これには何ら問題がないけれども、これが私の意向にもとづくものであってはならないように思われる。


この世は死者のためではなく生者のためにある : AD HOC MORALIST

Pierrick Le Cunff  以前、次のような記事を投稿した。死者との対話 : AD HOC MORALIST歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の


葬式が大規模になるほど、故人の人となりを知らない会葬者が増える

 会葬者が全部で10人くらいしかいない小規模な葬式では、会場にいる者の大半が親族や友人であり、このような状況のもとでは、故人について立ち入った情報があらかじめ共有されているに違いない。だから、故人が好きな歌は、故人を偲ぶよすがになる可能性がある。

 これに反し、会葬者が1000人を超えるような大規模な葬式では、会葬者の大半は、故人の一面しか知らず、また、未知の側面を葬式の場で知ることを望んではいないと考えるのが自然である。そもそも、会葬者の中には、故人と面識がない者すら珍しくないはずである。そして、このような状況のもとでは、「好きな歌」に代表される故人の人となりに関する情報は、会葬者にとり単なるノイズにすぎぬものとなる。(遺族と面識のない会葬者にとっては、遺族の存在すらノイズとなりうる。)

 葬式で自分の好きな歌を流すことを望むのなら、葬式の規模にはおのずから制限が設けられねばならない。つまり、歌がノイズにならない範囲の親しい者たちによる閉じたイベントとすべきである。

死者の記憶は生者の負担になる

 故人のことをよく知らない会葬者の多くが葬式に集まるのは、故人を偲ぶためであるというよりも、むしろ、故人のことを忘れ、記憶の負担を軽減するためであると言えないことはない。私のことを何らかの仕方で知るほぼすべての者たちの耳に、私が世を去ったという知らせは、私を忘れてもかまわないという合図として届くはずである。

 私が誰かの記憶に残るとするなら、それは、葬式で聴かされた歌によってではなく、私が生前に世のために成し遂げた何ごとかによって、おのずから残るものではなければならないように思われるのである。

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