AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年07月

あなたの希望を満たす条件を具えた「普通」の男性が女性に最初に求めるのは「メシを食うインテリア」であること

 婚活中の男性は、女性に何を期待するのか。

 この記事を読んでいるあなたが30代後半以上の女性で、かつ、お洒落な小型犬を飼っているなら、あなたが標的とするクラスターの男性の大半があなたに求めることは、さしあたり、あなたが自分の飼い犬に求めることとほぼ同じであると考えてさしつかえない。つまり、婚活中の男性が自分の妻となる可能性のある女性を評価する第一の基準は、自宅では「メシを食うインテリア」となり、外では「外出するときのアクセサリー」としてふさわしいかどうかである。

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 あなたが標的とするクラスターの男性は、結婚することで発生する多少の金銭的な負担には耐えられるかもしれないが、結婚生活を維持するために時間的、体力的な負担が増えることは基本的に望まないはずである。言い換えるなら、金銭的に余裕がある男性には、時間や体力に関して余計な負担を抱え込んでまで結婚しなければならない理由は見当たらないと考えるのが自然である。

 だから、男性に対してアピールしうる特別な長所が見当たらず、それにもかかわらず、何が何でも結婚するつもりであるなら、「メシを食うインテリア」になる覚悟が必要である。この覚悟がないまま男性との対等な関係を望んでも、これが実現する見込みはゼロにかぎりなく近い。自分が希望する条件を満たす「普通」の男性と結婚することを望むのなら、「メシを食うインテリア」になりきる意志がなければ何も始まらないに違いない。

男性には、他に評価の基準を持つことができない

 30代後半以上の女性が結婚相談所やネットを使って婚活する場合、「メシを食うインテリア」「外出するときのアクセサリー」になる覚悟がなければ、結婚に辿りつくことは難しいはずである。しかし、このように主張することによって、私は、決して女性を貶めているわけではない。というのも、冷静に考えるなら、婚活中の女性の多くが「普通」として想定するような男性には、少なくとも初対面の時点では、女性に対して他に何かを求める余地がないからである。

 男性でも女性でも同じであろうが、相手の人となりを知るには、それなりの時間が必要となる。人間というのは、一人ひとりが多面的な存在であり、また、かぎりなく個性的だからである。したがって、相手の人となりを知るのに費やされた年月は、その分、相手に対する印象に深みを与える。これは、以前に投稿した次の記事で述べたとおりである。


人が家族の顔に読み取るもの : AD HOC MORALIST

若いころからの知り合いであることは決定的に重要 しばらく前、次のニュースを目にした。阿川佐和子さんが結婚 私は、阿川佐和子氏が独身だったことすら知らなかった。(正確に言うなら、既婚かどうか考えたこともなかった。)だから、上のニュースについて、特別な感慨や


 残念ながら、30代後半の時点であなたに初めて会う男性は、あなたの家族や友人とは異なり、10代のあなたも20代のあなたも知らない。男性にとって、あなたは、目に映るとおりの存在であり、それ以上でもなく、それ以下でもないのである。

 あなたの面白さやすばらしさ――これを理解させるには、ながい時間が必要である――がわからない以上、「身近に置いて邪魔ではなく、不快ではないかどうか、メインテナンスにコストがかからないかどうか」という点以外に確認しうるポイントがないのである。

 だから、あなたの趣味が何であろうと、年収がどのくらいあろうと、特技が何であろうと、「メシを食うインテリア」として不十分と見なされるかぎり、婚活を先に進めることはほぼ不可能であることになる。

「メシを食うインテリア」であるとは「ばばあ」にならず、現世に踏みとどまること

 しかし、見方を変えるなら、「メシを食うインテリア」でありさえすれば、それ以上を女性に対し望まない男性は少なくない。

 そもそも、多くの男性が理解する「メシを食うインテリア」は、物理的な「若さ」とは直接には関係がない。むしろ、「メシを食うインテリア」としての女性の質は、人生経験によって決まるものであり、年齢を重ねるほど、個人差が大きくなると言うことができる。(60代、70代、80代でも、「メシを食うインテリア」として男性の注意を惹きつける女性はつねに一定数いる。)

 30代後半以降の女性が「メシを食うインテリア」であるためにもっとも大切なことは、「ばばあ」にならないことである。


「ばばあ」の世界 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

私が日本の女性についていつも不思議に感じていることの1つに、年齢を重ねることへの極端な恐怖あるいは嫌悪がある。 これは、外国との比較において初めてわかることではない。一方において、年齢を重ねた女性のアンチエイジングへの執着、他方において、自分よりも少し


 これは、「若作り」のすすめではない。上の記事に書いたように、「ばばあ」にならないとは、「若さ」が参入の前提となる領域から退却して「異界」――「丁寧な暮らし」など、「普通」の男性にとっては異界そのものである――へとみずからを連れ出すことなく、また、「中性化」することなく、年齢にふさわしい魅力を模索する努力が――男性から見ると――必要であるにすぎない。

結婚相手は、「昔からの知り合い」から選ぶのが無難

 これは、30代後半以降の女性にとっては、ことによると、つらい作業であるかもしれないが、残念ながら、「市場調査」にもとづいてターゲットを定め、このターゲットが好むよう、自分自身の「商品」としての価値を上げる以外に道はないのである。

 また、「メシを食うインテリア」となって「普通」の男性と結婚することができたとしても、その後に明るい楽しい生活が保障されているわけではない。特に、男性は、目の前にいる女性について、「自分と結婚したいのか、それとも、自分の『スペック』と結婚したいのか」という点に特に敏感であるのが普通であるから、結婚したからと言って、「メシを食うインテリア」である努力をやめるわけには行かないはずである。これは、あなたが飼っている「メシを食うインテリア」としての小型犬の身になって考えてみれば明らかであろう。


飼い犬の孤独 : AD HOC MORALIST

夕方、近所を散歩していると、犬を連れた主婦や老人とすれ違うことが多い。以前に投稿した下の記事に書いたように、私は、血統書のある純血種の犬をあまり好まない。ペットを「買う」ことへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST愛玩動物に占める純血種の割合が増え


 過去のあなたを知らない男性に自分のことをアピールするには、つらい思いをしなければならないことが少なくない。だから、結婚相手を探すなら、あなたの若いころのことを少しでも知っている男性をまず検討するのが無難でもあり、また、精神衛生上も好ましいように思われる。このような男性なら、あなたが努力しなくても、若いころのあなたの姿を現在のあなたの姿のうちに認めてくれるはずだからである。

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少し「せこい」ことは確かである

 10日ほど前から、タレントの「グッチ裕三」氏が、みずからが出演した番組内で複数回にわたり宣伝した東京のメンチカツ専門店が氏自身の親族によって経営されていたものであることがわかり、ネットニュースやSNSで繰り返し批判的に取り上げられている。

「グッチ裕三」紹介のメンチカツ屋、自身がオーナーだった 周囲からは苦情 | デイリー新潮

グッチ裕三「ステマ騒動」でタレント活動に危険信号 NHKから干される可能性も? - エキサイトニュース

 自分の親族が経営にかかわっているという事実を隠して店を宣伝することが、テレビの視聴者のあいだで「ステルス・マーケティング」に相当すると見なされたからである。


浅草メンチ

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 たしかに、「グッチ裕三」氏の親族が経営する店であるという事実が伏せられていたことは、視聴者にとっては、決して気持ちのよいものではないであろう。

 ただ、そうであるからと言って、「グッチ裕三」氏の発言をただちに「ステマ」として批判することが許されるわけではないように思われる。

 理由は2つある。

〔第1〕「ペニーオークション」とは異なる

 私たちが「ステマ」という言葉を耳にしてただちに連想するのは、今から5年前、2012年に明らかになった「ペニーオークション詐欺事件」であろう。少なくとも日本の場合、これが「ステマ」の典型と見なされていることは確かである。

 それでは、「『ペニーオークション詐欺事件』で明らかになったようなもの」と「ステマ」を定義するなら、今回の「グッチ裕三」氏の事件は、「ステマ」に含まれるであろうか。答えは、明らかに「否」である。今回の件をこの意味における「ステマ」に分類することはできない。なぜなら、今回の問題はただ一つ、「グッチ裕三」氏が自分が紹介した店の経営に親族がかかわっていることを明らかにしなかった点だけだからであり、

    1. 氏が紹介した店で商品を購入するため代金を支払ったが、商品を受け取ることができなかったわけではなく、
    2. 不当に高額の代金を要求されたわけでもなく、
    3. 購入した商品の品質が氏の紹介よりもいちじるしく劣っていたわけではなく、
    4. 問題の店で購入された商品が原因で健康被害が発生したわけでもないからである。

 つまり、ここでは、法律の範囲内における普通の商行為が成立していたのであり、消費者が客観的な証拠をともなう何らかの損害を被ったわけではないのである。

〔第2〕ブログやSNSではなく民放のテレビ番組内での紹介であった

 第二に、民放の番組内で出演者が何らかの「店」や「商品」を紹介するときには、誰がどのような文脈で紹介するものであるとしても、(ニュースやドキュメンタリーを除き、)最低限のメディア・リテラシーを具えた視聴者なら、これを何らかの意味における「宣伝」として受け止めているはずである。旅行ガイドブックに掲載されている飲食店や土産物屋の記事が基本的にすべて広告であるのと同じことである。

 民放のテレビドラマなど、基本的には「動くファッションカタログ」であると言うことができるけれども、もちろん、放送局がテレビドラマを勝手に「動くファッションカタログ」に仕立て上げたのではない。テレビドラマを「ファッションカタログ」として視聴する傾向が視聴者の側にもともとあり、放送局は、視聴者の需要に応えているにすぎないのである。

 今回の場合、問題の店が紹介されることになったのは、氏の親族が経営にかかわっている店以外に、番組で宣伝するのに適当な店が見当たらなかったからにすぎないと考えるのが自然である。

 たしかに、「グッチ裕三」氏がみずからブログやSNSで店を紹介していたなら、これは「ステマ」(厳密には「ネイティヴ広告」と呼ぶべきであろう)に当たる。ブログやSNSは、「広告媒体として使うことができる」だけであり、民放のテレビ番組とは異なり、それ自体は広告媒体ではないからである。それでも、視聴者がブログやSNSを使って「グッチ裕三」氏の紹介を拡散させたとしても、それは、視聴者の責任であり、「グッチ裕三」氏とは関係がない。

 民放の番組が全体として「広告的」であることを知らずに視聴している者には、「グッチ裕三」氏を批判すべきではない。批判する前に、最低限のメディア・リテラシーを身につける努力をまずすべきであろう。

民放のテレビ番組にそこまでの「潔癖」を求める理由がわからない

 そもそも、私には、視聴者が民放のバラエティ番組にそれほどの「潔癖」を求める理由がわからない。

 たしかに、問題の店の客の大半が、メンチカツを購入するためだけに「グッチ裕三」氏の親族が経営する店に遠くから足を運び、何時間も待って商品を手に入れるのであるなら、店の商品の価格や品質は、移動や行列のために費やした時間、体力、交通費などに見合うものであるのかどうか、厳しく吟味されるであろう。

 けれども、今回の件で問題になったのは、商品を購入するために遠くからわざわざ足を運ぶような店ではない。店が想定するのは、主に観光地を訪れた旅行者の買い食いであるはずである。つまり、客の大半は、現地を訪れた「ついで」にメンチカツを購入するのである。(だから、メンチカツを食べることをそれ自体として目的とする客のために、問題の店は、商品の通信販売を実施している。)

 したがって、もともと問題のメンチカツの品質が旅行者一人ひとりの「観光」に与える影響は大きいものではなく、上述の「ペニーオークション詐欺事件」とは異なり、「『グッチ裕三』の紹介」であることに引きずられて「買わされてしまった」ことがあとからわかったとしても、今度は、この事実が、旅行を形作る経験の一つになるはずである。(メンチカツが非常に不味かったとしても、同じことである。)

 今回の件で「グッチ裕三」氏を非難している視聴者というのは、氏のことがもともと嫌い――私も、別に好きではない――であるか、あるいは、民放のバラエティ番組が「公正中立」(?)であるという幻想を抱いているかのいずれかであるように思われるのである。

 夕方、近所を散歩していると、犬を連れた主婦や老人とすれ違うことが多い。以前に投稿した下の記事に書いたように、私は、血統書のある純血種の犬をあまり好まない。


ペットを「買う」ことへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

愛玩動物に占める純血種の割合が増えているような気がする これまでの人生の中で、私は、何種類かのペットを飼ってきた。特に期間が長かったのは犬とネコであり、犬とネコのそれぞれとは、10年以上暮らした経験がある。 ただし、私が一緒に生活した犬とネコはいずれも、直


 私の目には、純血種の小型犬の飼い主の多くは、自分の飼い犬を「メシを食うインテリア」と見なしているように映る。飼い犬に対する飼い主の愛情を数値で表現するなら、この数値は、何十年か前とくらべ、明らかに小さくなっているはずである。

 たしかに、飼い主は、「犬は家族の一員」と言うであろう。しかし、多くの飼い主、特に比較的若い飼い主にとっては、犬が「家族の一員」であるのは、犬が迷惑や面倒を飼い主にかけないかぎりであるにすぎない場合が多いように思われる。(散歩するときの犬に対する態度を観察すれば、この点は容易に確認することができる。若い飼い主の中は、自分が連れている犬に注意を向けず、場合によっては、スマートフォンを無心でいじっている者が少なくない。犬を散歩に連れ出すのは、面倒な雑用の一つにすぎないのであろう。ことによると、家庭内の雑用を確実に一つ増やす犬に対して知らずしらずのうちに憎悪を抱いている飼い主すらいる可能性がある。)

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 このような家庭で飼われる犬の身になり、その日常を想像してみたことがあるが、それは、途方もなくさびしく、また、途方もなくわびしいものである。

 飼い犬の多くは、生まれたときに一緒だった親や兄弟から自分の意向に反して引き離され、何の縁もない飼い主のもとに、しかも、場合によっては金銭との交換で連れて来られたものである。新しい飼い主は、もとの飼い主と知り合いであるわけでもなく、自分の身の回りには、かつての生活を想い出す縁など何もない。たしかに、物理的な生活環境は、さしあたり快適であるかもしれないが、天涯孤独であり、将来にわたり、飼い主に生殺与奪の権を握られることになる。もちろん、飼い主が飼い犬を本当の意味で「家族の一員」と見なしてくれるのなら、まだ救いはあるであろうが、飼い主に少しでも面倒をかけると、飼い主の機嫌が途端に悪くなったり、時間の経過とともに飽きられたり、ぞんざいに扱われたりするようになる可能性がないとは言えない。これは、犬にとっては、非常につらい状況であろう。私は、「メシを食うインテリア」として購入されたであろう小型犬を街で目にするたびに、その暗澹たる未来を想像し、思わず目をそむけてしまうことが少なくない。

 「犬の気持ちがお前にわかるものか」と言われれば、たしかに、そのとおりである。私は、犬が置かれた状況にもとづいて、その気持ちを人間の視線で想像しているだけである。それでも、犬が天涯孤独であることは確かであり、天涯孤独の存在に寄り添う覚悟がないかぎり、犬を(少なくとも一匹で)飼うべきではないと私はかたく信じている。

Manuel Domínguez Sánchez - El suicidio de Séneca

 この1年か2年、ふと思い立ってセネカを手にとることが多い。愛読書というほどではないかもしれないが、気持ちが追いつめられたとき、セネカを読むと、少し安心するのである。

 セネカは、紀元後1世紀のローマで活躍したストア主義の哲学者である。皇帝ネロの家庭教師兼ブレーンでもあった。このセネカは、政治的な活動に忙殺されながらも、相当な分量の著作を遺している。それは、倫理学、自然学、そして、悲劇の3つに大別される。(この他に、皇帝クラウディウスを風刺する物語「アポコロキュントシス(カボチャ化)」を遺している。)

 私は、20代のころには、ストアの倫理学など、どこが面白いのかまったくわからなかった。東海大学出版会からそのころ刊行されたばかりの『セネカ道徳論集』(茂手木元蔵訳)など、退屈きわまるお説教の連続であり、まったく心に響くことはなかった。

 しかし、それから30年近く経ち、あるきっかけから、セネカを手にとったところ、人生で誰もが出会う普通の悩みがそこで取り上げられていることに気づいた。今から2000年近く前にラテン語で書かれた文章とは思われないリアリティを感じた。

 ストア主義がわかるためには、それなりの人生経験を必要とするのかもしれない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 「ストア主義」という言葉を耳にして、「禁欲」という言葉を反射的に想起する人は少なくないはずである。

 たしかに、ストア主義は、理性による自己支配こそ幸福への唯一の道であることを強調するから、セネカがたとえば相田みつをのような「にんげんだもの」などという安易な開き直りを許容することはない。

しかし、若いころにはわからなかったけれども、セネカは、現実離れした禁欲を説くわけではなく、目の前にある平凡な問題、心の中に起こる平凡な動きから目を逸らすことなく、これを丁寧に一つずつ乗り越えて行くことを読者に勧めているのである。このかぎりにおいて、セネカは、格調のきわめて高い自己啓発書の著者であると言えないことはない。

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 今日は2017年7月17日、つまり「海の日」である。私の職場では、普段と同じように授業があったため、最寄り駅で電車に乗るまで、今日が祝日であることに気づかなかった。国民の祝日の数が多すぎるのである。


「国民の祝日」が多すぎる 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

祝日は単なる休みの日ではない 2016年1月1日現在、わが国には「国民の祝日」が16日ある。すなわち、「元日」「成人の日」「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」「


 大学生と大学の教師にとって特にありがたくないのは、海の日、体育の日、成人の日のような移動祝日である。というのも、祝日が月曜日に集中すると、月曜日の授業回数が減り、授業回数を確保するため、これらの祝日が「授業実施日」となってしまうからである。今日は、全国のほぼすべての大学で授業が行われていたはずである。

 今日、授業が行われなかった大学があるとするなら、そのような大学は、たとえば、いずれかの土曜日か日曜日に、休みにした月曜日の授業を振り替えて実施するか、あるいは、8月に入ってから授業回数が不足した曜日の授業をまとめて実施するか、いずかの措置を講じることになっているはずである。

 そもそも、このような「惨状」が発生したのは、「半期に90分×15回の授業を必ず実施せよ、実施しなければ補助金を減らす」と文部科学省が全国の大学を脅しているからである。たしかに、文部科学省の省令である「大学設置基準」を文字どおりに受け取るなら、大学は、学生に単位を与えるために、90分×15回の授業を実施しなければならない。しかし、この大学設置基準は、1956(昭和31)年に定められてから何十年ものあいだ、厳格には守られてこなかった。私が学生のころなど、授業は半期に10回程度しか行われていなかったと思う。

 ところが、20世紀の終わりごろから、文部省の締めつけが少しずつ厳しくなり、そのため、大学の教師は、にわかに「教育労働者」化することになった。試験を含め、1年52週のうち32週を授業で拘束されてしまったら、本業である研究活動に深刻な遅滞が生じることは明らかである。

 文部科学省によれば、「授業回数が少ない」ことが「学生が勉強せず、学力が低下している」ことの原因であるらしい。だから――論理的にはまったく「だから」ではないのだが――「授業を大学設置基準どおりに実施する」ことで「学生が勉強し、学力が向上する」はずであった。

 けれども、授業回数を増やしたくらいで学生が勉強するようになるはずはなく、おそらく、そのせいであろう、文部科学省は、その後も、大学を「学校化」するため、謎としか思われないような措置を大学に次々と要求してきた。たとえば、「出席点」を学生に与えることを禁止してみたり(←学生が教室に来るのは当たり前だから、教室に身体を運んでくることに対して点を与えるのはおかしい、平常点は授業への貢献に応じて与えるべき、という理屈)、第1回の授業の内容をシラバスで「ガイダンス」と表記することを禁止してみたり(←「ガイダンス」は授業じゃない、という理屈)……。

 これらはすべて、余計なお世話である。大学というのは研究機関であるから、誰に何を教え、どのように教育するかは、各大学の完全な裁量に委ねられるべきであると私自身は考えている。「教授の自由」とは、キャンパスにおける教育の形態を含むはずだからである。大学の教師の大半は、同じように判断するに違いない。

 そもそも、これだけ長時間にわたり学生を教室に縛りつけていては、自分の知的関心を自由に追求する気分的な余裕が学生に生まれるわけはない。文部科学省が次に各大学に何を要求するのか、予想してみるのは面白いけれども、本当は、教室ばかりが学生の学ぶ場所ではなく、教室は、学生が学ぶ主な場所ですらない。私が学生時代に手に入れた知識のうち、その後に活かされたものの多くは、図書館や自宅での読書、他人との交流、映画館で過ごした時間などから与えられたものである。制度に従順な会社員を作ることを目的とするのでないかぎり、文部科学省が大学に要求することは、基本的にすべて、学生にとっても教師にとっても有害なことであるように思われるのである。

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