AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年07月

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 数日前から、まったく元気が出ない。

 そこで、私は、この体調不良の原因が暑さにあるに違いないと推測し、パソコン――私は、スマートフォンのいわゆる「フリック入力」が何年使っていてもうまくできない――で「夏バテ」を検索した。そして、検索でヒットしたページを開き、「水分と電解質を摂りましょう」とか「体温調節を心がけましょう」とか「睡眠を十分にとりましょう」とか「ビタミンB1が重要です」とか、このようなありがたいアドバイスをいただいてから、「もう全部やってるよ」とつぶやきブラウザーを閉じる。

 そのときに思い出したことがある。それは、去年もまた、まったく同じ操作をパソコンを前にしていたということである。それどころか、少なくとも10年近くのあいだ、毎年6月から8月までのどこかの時期に、必ず同じ「夏バテ」というキーワードでネットを検索し、ありがたいアドバイスをいただき、そして、「もう全部やってるよ」とつぶやきながらブラウザーを閉じることを繰り返してきたということが曖昧な記憶から蘇ってきたのである。

 これを記憶力の低下を証する格好のよくない話として受け止めるか、それとも、自分で覚えていることから解放されたインターネット時代にふさわしいふるまいと考えるかは人によって異なるであろうが、少なくとも私自身は、前者のように理解した。つまり、暑いときには、自分の体調不良の原因を暑さのせいにして「夏バテ」を調べるが、暑さが終わってしまうと、夏バテのことをきれいに忘れてしまう、「夏バテ」の検索が夏ごとの恒例になっている自分にいくらか呆れたのである。

 年中行事のように検索しているキーワードは、「夏バテ」以外にもあるに違いない。しかし、自分の馬鹿さ加減が検索の動向からわかるというのは、ありがたいことではない。ことによると、検索履歴のデータを呼び出し、「去年の今ごろ検索していたキーワードはこれです」など教えてくれるお節介なサービスが生まれるかもしれないが、たとえこのようなサービスがあっても、私自身は、絶対に利用しない。去年の今ごろ、「夏バテ」を検索していたことがわかっても、悔しいことに、今年もまた「夏バテ」を検索しないわけには行かないからである。

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黙っていればよかったのに

 しばらく前、次の記事を読んだ。

不倫をブログで自慢して炎上の女、正体は大学教員?勤務先も判明 | 探偵Watch(探偵ウォッチ)

 私の心に最初に浮かんだ感想は、「すべて黙っていればよかったのに」である。

 自分の浮気――「不倫」であって「浮気」ではないというのが本人の理解のようであるが――をブログで継続的に公表することがどのような反応を「ネット世論」に惹き起こすか予想していなかったとするなら、それは、もはや「かわいい無邪気」の段階を超えた「迷惑きわまる無知」であると言わなければならない。

小学校から高校までの教師は道徳の模範でなければならない

 一般に、小学校、中学校、高等学校の教師が浮気したり、愛人を作ったりすることは、決して好ましいことではない。それは、これらの学校が本質的に「教育機関」であり、社会は、「世間で正しいとされていること」の標準を児童や生徒に示すことをこれらの学校に求めているからである。

 だから、小学校、中学校、高等学校の教師の息子や娘が非行に走ったり、教師本人あるいは配偶者の浮気が原因で家庭が破壊されたりすると、「自分とその家族すらコントロールすることができない人間に、児童や生徒にものを教える資格があるのか」という疑念が関係者の心に生まれるはずである。

大学の教師には、模範的な生活を送ることは要求されてはいないが……

 もちろん、大学の教師の場合も、あまりにも破廉恥なふるまいや違法行為は許されない。(だから、学内における各種のハラスメントは厳しく取り締まられるようになっている。)ただ、大学というのは、本質的に「教育機関」ではなく「研究機関」である。(大学が「大学校」と呼ばれないのは、そのためである。)

 小学校、中学校、高等学校とは異なり、大学には「学問の自由」(または「教授の自由」)が認められている。言い換えるなら、大学は、「世間で正しいとされていること」を教えるところではなく、「現在進行中の学術研究」の現状を学生に開示し――少なくとも理想としては――研究に学生を参入させ、(ある意味において道徳からも自由になって)批判的に研究を進める主体を育成するところである。もちろん、大学は就職予備校などではない。

 当然、大学では、道徳を疑うことすら許されているのであり、このかぎりにおいて、大学の教師が道徳の模範でなければならない積極的な理由は見当たらないのである。むしろ、大学の教師に模範的な生活を送るよう求めることは、「学問の自由」の侵害に当たる可能性がある。(ただ、宗教系の大学、学部と教員養成系の大学、学部については、このかぎりではないかもしれない。)

 実際、大学に入学してから現在までのおよそ30年を振り返ってみると、浮気、不倫、三角関係などのトラブルを抱えた大学関係者の一人か二人は、つねに私の視野の内部に見つけることができた。それでも、学会や学内の業務に支障がないかぎり、このような事実が問題として公式に取り上げられることはなく、すべて本人の善処――できず、大問題になることは少なくないけれども――に任されるのが普通である。(もちろん、上の記事が取り上げている女性の目指すところが、不倫相手と一緒になることではなく、不倫を実況中継することであるなら、これは、別の大問題であるに違いない。)

 だから、上の記事で紹介されている事件についても、本人が黙って「不倫」を実行しているかぎり、そして、授業や会議などの校務を普段どおりにこなしているかぎり、背後で進行していることに皆が何となく気づいていたとしても、誰も何も言わなかったはずである。(誰とも結婚していない女性の教師が妊娠、出産することは、小学校から高等学校までの場合には問題になる可能性があるけれども、大学なら、普通であるとは言わないが、何も問われることはない。)

やはり、ブログで「不倫」や「妊娠」を公開するのは控えるべきだった

 この女性のふるまいは、「不倫」と「妊娠」をネットで実況中継したこと以外は――道徳的に決して好ましいわけではないことは確かであるとしても――大学の世界では、特に珍しいものではない。しかし、世間の人々は、大学とこれを支配する暗黙の掟や雰囲気について、知識にも理解にも乏しいのが普通である。今回のような自由すぎるふるまいについては、大学関係者以外の目に決して触れないよう、細心の注意を払うことが必要であったに違いない。

 もっとも、無精者の私などには、そもそも浮気など面倒くさく、まして、浮気をネット上で実況中継するなど、考えるだけで気が遠くなりそうであるが……。私が道徳的にふるまっているのは、道徳的に微妙なふるまいが面倒だからである。道徳的に微妙なふるまいは、体力を必要とするのである。

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 最近、同じ著者による次の2冊を続けて読んだ。ここでは、チェーンの飲食店の紹介、現代日本の外食産業の歴史、そして、著者の半生の3つが重ね合わせて描かれている。雑誌への連載がもとになっているとは思えぬほどの一体感が認められる不思議な本である。

気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている (講談社文庫)

それでも気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている (散歩の達人)

 これら2冊の本の著者ほどではないけれども、私もまた、最近は、外出先で飲食店を探すときには、チェーン店ばかりを選んでいる。私自身は、外で食事することは滅多にないから、使うのは主に喫茶店である。つまり、お茶を飲んで時間を過ごすことが必要なとき、使うのはチェーンのコーヒー店ばかりなのである。

 チェーンのコーヒー店で時間を過ごすようになったということは、チェーンではない普通の喫茶店に近づかなくなったことを意味する。

 理由は単純である。街の普通の喫茶店には、ながく坐っていたいと思えるような店が少ないのである。古い店でも新しい店でも、回転率を上げるためであるのか、あるいは、居心地を無視したインテリアへの過剰な執着のせいなのか、私にはよくわからないけれども、腰かけていることに5分も耐えられないような坐り心地の悪い椅子が置かれていることが少なくない。

 最近、外出先で時間を調整するために都心の喫茶店に入ったことがある。この店のコーヒー一杯の値段は、スターバックスの約2倍、それにもかかわらず、椅子の坐り心地の悪さがあまりにも悪く、私は、これに耐えかねて5分でその店を飛び出し、近くにあったチェーンのコーヒー店に入りなおした。

 居心地の点では、チェーンのコーヒー店の方が全体としてすぐれていることは確かである。少なくともスターバックスやタリーズのように、客単価がそれなりに高い――とは言っても、街の喫茶店よりは安い――店では、椅子に関してもまた、それなりの坐り心地を期待することができる。また、時間の調整のために何十分か店にとどまっていても、店員から嫌な顔をされることはない。これもまた、チェーンのコーヒー店のすぐれた点である。

 本来、喫茶店というのは、注文した飲食物を腹に入れたらすぐに立ち去ることを求められるところではない。喫茶店は、パリでもヴィーンでもロンドンでも、客が何時間でも滞留し、思い思いの文化的、社会的活動に従事する空間となることにより発展してきたのである。

ウィーンのカフェ

 しかし、残念なことに、現代の日本では、街の喫茶店の多くは、この本来の役割を放棄してコーヒーを胃に流し込むためだけの貧しい空間へと転落しつつあるように見える。今のところ、この喫茶店の本来の役割は、チェーンのコーヒー店によって限定的に担われている。ことによると、未来の日本文化は、伝統的な喫茶店ではなく、チェーンのコーヒー店で生まれることになるのかもしれない。

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ゆるやかに悪化する環境にとどまると「茹で上がる」

 「茹でガエル」とは、生きたままゆっくりと茹でられるカエルを用いた「たとえ話」である。

 カエルは、最初から高温の湯に入れられると、すぐに跳び出すが、低温の水の中にいるカエルは、少しずつ加熱されても、逃げ出すことなくこれに適応しようと努力し、そのせいで、最終的には茹で上がって死んでしまう。同じように、最初から劣悪な環境に放り込まれると、誰でもそこから逃れようとするのに反し、周囲の環境が少しずつ悪化して行くと、私たちは、ここから逃げ出すのではなく、むしろ、その場にとどまって環境に適応することを目指し、そのせいで、最終的に逃げ遅れて命を落とす。これが「茹でガエル」のたとえ話である。

 実際には、カエルは、低温からゆっくり加熱されても、水温が限度を超えて上昇すると逃げ出してしまうようであるけれども、人間の場合、環境がゆるやかに悪化して行くときには、ここに止まることを選択することが多いのであろう、このたとえ話に不思議な説得力が認められることは確かである。

逃げ足が速さが大切

 自分が属している組織の居心地が悪くなったり、組織の環境が悪化したりするとき、居心地や環境を改善するというのは、私たちが最初に試みることである。問題は、この努力に関し、限度を見きわめるのが難しいことである。「茹でガエル」から学ぶことができるのは、このような事実である。

 以前、次の記事を投稿した。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 私たちが「茹でガエル」にならないために重要なことは、困難を解決するアイディアを産み出すことなどではなく、環境の悪化を素早く察知し、身をひるがえしてすみやかに逃げ出す能力であることになる。

逃げ出す者は孤独である

 とはいえ、環境の悪化に気づきながら、ここにとどまって環境を改善する努力を放棄し、身をひるがえして逃げ出す者は、つねに孤独である。というのも、少なくとも日本では、「みなと一緒に苦労を分かち合う」ことが好まれるからである。周囲の人々が悪化しつつある状況を改善しようとするとき、ひとりだけこれを見捨てて新たな場所へと逃れる者は、残る者たちから冷たいまなざしを投げられるかもしれない。また、冷たいまなざしを浴びることがないとしても、少なくとも、逃げ出す自由を行使する者が、自分の責任において、ただひとりで行動しなければならないことは確かである。

 だから、危機を察知し、そして、何らかの意味において好ましくない環境から逃れる能力というのは、孤独に耐える能力と一体であると言うことができる。少なくとも、孤独に耐えられず、「みなと一緒」に固執する者にとり、「好機」(カイロス)を捉えて逃げ出す可能性は、永遠に閉ざされたままであるに違いない。

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国民全員が景気回復を「実感」するなど、ありえない

 統計上は景気が回復、拡大しているのに、「国民」には「実感」がないと言われる。これは、1990年代の初めにバブルが崩壊してから現在まで、少なくとも月に1度はマスメディアが報じてきたテーマである。

 データの面での景気の回復と「国民」の「実感」のあいだの乖離が飽きるほど繰り返し取り上げられてきたのは、次のように信じられているからであるに違いない。すなわち、本当の意味における景気の回復とは、「景気が回復した」と全国民が「実感」するものでなければならず、計算上の景気がどれほど拡大しても、国民が「実感」しないかぎり、景気が回復したことにはならない、このように信じられてきたのである。

 たしかに、高度経済成長期には、全国民が景気の拡大や経済の成長を実感していたからもしれない。そして、このような状況を景気の回復と見なすかぎり、たしかに、現在のわが国の景気は、決して「よい」とは言えないであろう。

 しかし、長期にわたる高い経済成長というのは、決して正常な状態ではない。むしろ、わが国の高度経済成長がのちの時代に与えた影響は、決して好ましいものではなく、むしろ、時間の経過とともに、「負の遺産」の方が目立つようになっているように見える。

 だから、全国民が景気の拡大の恩恵に与らないかぎり景気が回復したことにならない、というのは幻想であり、むしろ、国民の「実感」なるものを指標にして景気を語ることは、経済の現状を、そして、政府の経済政策、財政政策、金融政策を誤らせることになる危険な態度である。そもsも、景気の「実感」など、各人が置かれた状況によってまちまちであり、全「国民」が「実感」を共有するなど、ありうべからざることであるに違いない。

「実感」の方が間違っている

 以前、次の記事を投稿した。


「人手不足」と言うけれど 日本の企業はバブルとその崩壊から何も学ばなかったのか : AD HOC MORALIST

最近、人口の減少のせいなのか、人手不足に関連するニュースをよく見かける。コンビニエンスストアやファミリーレストランが24時間営業をやめることが、しばらく前に大きな話題になっていた。私も、しばらく前、この話について、ブログに記事を投稿した。テレビがまず24時


 1980年代の終わりから1990年代の初めのいわゆるバブル期には、すべてのものが――私にとっては不当に――高く、私にとっては、決して暮らしやすい時代ではなかった。悪夢のような時代であったと言ってもよい。あのころのような状況を「景気がよい」と呼ぶのなら、私は、「景気がよい」ことなど望まない。むしろ、「国民」の多くが景気の回復を「実感」しない現在の方がよほど好ましい時代であると思う。そもそも、現在(2017年)のGDPは、バブル期のGDPのおよそ1.3倍あると言われている。これは、いわゆる「国民」のいわゆる「実感」なるものから大きくへだった事実であるかもしれないが、むしろ、「実感」の方を疑うべきなのではないかと私は考えている。(景気の状況に関する「実感」の比較など不可能であり、この単純な事実は、すでにそれ自体として、「実感」が景気回復の指標とはなりえないことを示している。)政府は、「国民」の景気の「実感」を改善して国民を甘やかすのではなく、むしろ、日本の経済や社会制度が抱え込んでいる構造的な問題の解決に手間と時間をかけるべきであるように思われるのである。

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