AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年07月

hand-565588_1920

「雑用」の定義:本来の仕事の邪魔になる「やむをえざる」仕事

 私は、大学の教師である。大学の教師の本来の仕事は、第一に研究である。大学の専任教員になるための最低限の必要条件が「研究業績があること」であり、研究業績がなければ、どれほど教えるのが上手でも、どれほど人柄がよくても、大学の専任教員にはなることができない。当然、雑用処理能力の有無は――ペーパーワークの能力に深刻な欠陥があることがあらかじめ明らかではないかぎり――採用の可否に影響を与えない。

 とはいえ、大学の教師には雑用が少なくない。この場合の雑用とは、「せずに済ませることが望ましい用事」であり、本来の仕事を妨害する「やむをえざる労働」である。そして、大学の専任教員の場合、拘束される時間の点において雑用の多くを占める雑用は、各種の会議への出席である。私の場合、雑用の80%が会議への出席、残りの20%が各種の試験の監督と採点である。

雑用は「有能」な者のところに回ってくる

 とはいえ、私が職場で課せられている雑用の量は、必ずしも多い方ではない。それは、私の「雑用処理能力」があまり高くないことを周囲が承知しているからである。

 そもそも、重要な、大学や所属する部署の利害に直結するような、したがって時間も手間もかかる雑用は、高度な「雑用処理能力」を具えた教員、しかも、雑用を引き受ける意欲を具えた教員(=学内政治家)のところに回ってくる。このような雑用は、失敗や遅滞が許されないのが普通だからである。私のところに回ってくる雑用は、その場かぎりの単純作業であることが多く、私は、忙しそうに動いているときでも、大抵の場合、ほぼ上の空である。

 雑用から逃れたいと思うのなら、雑用ができない人間であると周囲に信じさせるのが一番である。(もちろん、雑用処理能力の不足が度を超えており、「あいつに任せるととんでもないことになる」と思われることは慎重に避けなければならない。)

人を動かすタイプの雑用はつねに厄介

 ところで、大学での雑用には、人を動かすタイプの雑用と、モノを動かすタイプの雑用の2種類を区別することができる。そして、これら2種類のうち、面倒なのは前者、つまり、人を動かすタイプの雑用である。

 誰かと交渉する、誰かの意見に耳を傾ける、誰かを採用する、誰かに命令したり依頼したりする……、このような仕事の首尾は、相手次第であり、自分の都合で処理することが不可能であるばかりではなく、雑用に注意をつねに向けていなければならない。私のような能力の低い者には、到底つとまらない仕事である。(そもそも、人を相手にするなど、すでに教育で十分である。)

 だから、私は、人を動かす雑用を避け、モノを動かす――決まった書類を処理する、規則を変更する、何かを買うなど――雑用ばかりを選んでたくさん引き受けている。私が引き受けている雑用は、量の点では、周囲と大して違いはないけれども、その実質は、誰にでもできるルーチンばかりである。

 なお、大学の場合、組織の規模が小さいほど雑用の負担が重いのが普通である。だから、小規模な大学に在職している教員は、雑用に対する適性を欠いていても、面倒な雑用を押しつけられ、その結果、本来の仕事(=研究)が悪影響を受ける危険が高くなる。雑用の総量は、大学の規模に比例しないようである。

mac-459196_1920

グーグルのアルゴリズムは「公平」であるが、決して「中立」ではない

 ネットで検索機能を使う者なら誰でも知っているように、すべての「検索エンジン」は、サイバースペース上にあるウェブページを閲覧し、検索エンジンごとに異なる「アルゴリズム」によって評価している。何らかのキーワードが検索されるたびに、それぞれのキーワードとの関連が強い順にウェブサイトのリンクを表示するわけである。だから、自分の作ったウェブサイトやブログを少しでも多くの人に閲覧してもらいたいと思うなら、検索結果として表示される場合の順位を上げることが必要となる。この努力のことを一般に「検索エンジン最適化」(search engine optimization, SEO) と呼ぶ。

 ところで、検索エンジンのうち、利用者のシェアが全世界でもっとも大きいのはグーグルである。(日本ではYahoo!の方がグーグルよりもシェアが大きいけれども、Yahoo!の検索サービスは、グーグルのアルゴリズムを採用しているから、Yahoo!のシェアの問題は、無視しても差し支えない。)

 したがって、検索結果として表示される順位を上げるSEOは、グーグルのアルゴリズムを標的として進められることになる。

 ただ、グーグルは、検索結果として表示されるウェブサイトの順位を決めるアルゴリズムをたえず小幅に――しかも、当然のことながら予告なしに――変更しているらしく、SEOは、この変更をあとから追いかけるものとならざるをえない。

 もちろん、グーグルのアルゴリズムを変更するのは人間であるけれども、これを個別のウェブページに適用し、検索結果に表示する順位を決めるのは機械である。このかぎりにおいて、グーグルのアルゴリズムは「公平」であると言うことができる。

Google ウェブマスター向け公式ブログ

 ただ、アルゴリズムをどのように変更するか決めるのは、機械ではなく人間である。この点に関し、上の「ウェブマスター向け公式ブログ」には、次のように記されている。

検索ユーザーが素晴らしいサイトを見つけて情報を得る、その手助けのために Google は多くの検索アルゴリズム変更を行っています。私たちはまた、検索アルゴリズムだけの為でなく、ユーザーの為に優れたサイトを作っている方々の努力が、きちんと報われてほしいと考えています。

 「ユーザーの為」の「優れたサイト」が検索結果の上位に表示されることは、それ自体としてはつねに好ましいことである。問題は、「ユーザーの為」の「優れたサイト」の基準をグーグルが決めている点である。言い換えるなら、インターネットにおける検索サイトの使い方を決め、優先的に「手助け」を受けるべきユーザーを決め、これにより、インターネットの使い方自体を決めているのがグーグルである。このかぎりにおいて、グーグルは、「公平」であるとしても「中立」ではないのである。

 しかし、当然のことながら、アルゴリズムが導き出す評価は、結果としては人間による評価と似たものとなるとしても、検索結果を決定する手順は、人間による評価の手順とは似ても似つかないものである。どれほど人工知能が発達しても、アルゴリズムユーザーがネットに求めているものを正確に予測することは不可能であるように思われる。

ネットでカネを稼ごうと思うなら、「アルゴリズムの奴隷」となる以外に選択肢はない

 それでも、ウェブサイトやブログで小遣いを稼いだり、生活の糧を得たりすることを望むのなら、グーグルのアルゴリズムがどれほど頻繁に変更されようとも、また、グーグルがどれほど横暴であるとしても、これに不満を漏らすべきではない。あくまでも「アルゴリズムの奴隷」として、グーグルの顔色をうかがいながら、アルゴリズムの変更に怯えながら日々を過ごす他に選択肢はないと考えるべきである。

 なぜなら、ブログやウェブサイトを見つけるときには、閲覧者の大半(おそらく80%以上)がグーグルの検索結果を頼りとするからである。グーグルのアルゴリズムを考慮せず、SEOを怠るなら、検索エンジンに導かれた閲覧者が減少し、その結果、アフィリエイトに代表される収入が減ることを避けられないはずである。

 ネット上には、「SEOが成功した」「SEOはこうすれば上手く行く」などの自慢話が溢れている。しかし、このような自慢話は、「奴隷の鎖自慢」と本質的に同じものであり、見方によっては痛々しくない。インターネットが作るサイバースペースは、本質的には自由であるけれども、そこにもやはり、奴隷はいるのである。

 なお、「奴隷の鎖自慢」という表現は、もともと、アメリカの詩人であり劇作家であったリロイ・ジョーンズ(LeRoi Jones)(別名アミリ・バラカ(Amiri Baraka))(1934-2014) の言葉「鎖は奴隷の自慢の種である」(the chain is slave's boast) に由来する。

 ネット上で本当に自由になりたいと思うなら、グーグルのアルゴリズムを考慮することなく、SEOに煩わされることなく、誰が見ようと――あるいは、見るまいと――関係なく、書きたいことを書き、発表したいことを発表すべきであろう。検索結果の順位が高くなるとしても、それは、やりたい放題やったことに附随する結果にすぎないと考え、一喜一憂しないのがネット上で何かを発信する際の理想であるに違いない。

New sit-stand workstation for my office

 世間の常識は、立ったままものを食べたり飲んだりするのが避けるべきふるまいであることを教える。だから、大都市の駅の構内にある立ち食い蕎麦屋や立ち飲み屋は、飲食店としては決して高級と見なされることはない。

 同じように、読書に代表される知的な作業もまた、着席した姿勢で行われるのが普通である。たとえば、戦前に全国の多くの小学校に設置されていた二宮尊徳像は、柴を背負って歩きながら読書する少年を模ったものであり、歩きながら読書する少年の姿は、寸暇を惜しんで勉強する勤勉と、読書に当てられる時間が移動中にしか確保することのできない窮状の表現である。

 ただ、歩きながら読書することは、危険であるかも知れぬとしても、少なくとも行儀が悪いとは見なされていない。だから、立ったまま本を読む――朗読するのではない――ことの可能性が追求されても悪くはないように思われる。

 実際、ヨーロッパでは、起立した状態でデスクワークを行うための立ち机(standing desk)が広く使われてきた。ブッシュ政権時代の国防長官だったラムズフェルドが立ち机の愛好者であるというのは、よく知られた事実である。

Famous Standing Desk Users in History

 実際、私自身、図書館で本を探すときには、立ったままの姿勢で本を読む。また、自宅でも、壁に寄りかかって本を読むことがある。私も、立ち机を使いたいとは思うけれども、これは、普通のデスクと異なり、身長に応じて脚の長さが変わる――つまり、椅子で調節できない――から、基本的には、「自分専用」とならざるをえず、そのため、まだ手に入れてはいない。

 「立ったまま」であることの最大の効用は、知的作業と歩行がシームレスになる点である。椅子に腰をかけたり立ち上がったりする作が不要であり――おそらく腰にもやさしい――本を閉じたら、あるいは、パソコンを閉じたら、すぐにその場を離れて移動することができる。

 ウィキペディアの英語版によれば、立ち机は、カロリー消費、および心臓病と糖尿病のリスクの軽減という点で普通のデスクでの作業よりもすぐれているけれども、それとともに、静脈瘤のリスクが高くなったり、妊娠中の女性が長時間立っていると、新生児の出生時体重が減少することになるようである。

cocktail-party-552937_1920

立食パーティーでは何も食べないと決めた

 私は、立食パーティなるものが苦手である。理由は2つある。

 第一に、誰かと話をしていると食べることができず、食べてばかりいると、誰とも話をすることができないからである。

 第二に、他の参加者と自然な形でコミュニケーションを成り立たせるのに苦労するからである。

 この数年、私は、立食パーティーに参加せざるをえなくなったら、基本的には何も食べず、他人と話すことに時間のすべてを使うことにしている。

 上の第一の問題は、「立食パーティーでは何も食べない」と割り切ることにより解決する。飲み物――私は酒が飲めないから、当然、アルコールの入っていないもの――を片手に会場を歩き回り、ひたすら誰かと話す。私の場合、立食パーティーは基本的にすべて、「仕事」または「仕事の延長」であるから、会場で誰かとコミュニケーションすることは、職場での居心地や仕事のやりやすさに直に影響を与える。だから、本当は、何かを食べている余裕など――まして、酔っ払っている余裕など――もともとなかったと言うことができる。

知らない者ばかりの立食パーティーで話し相手を見つける困難

 しかし、さらに厄介なのは、上の第二の問題、つまり、他の参加者と自然な形でコミュニケーションを成り立たせるのが難しいという点である。この困難は、さらに2つに区分することができるように思われる。

 第一に、参加者に知り合いがいないか、あるいは、ほとんどまったくいない場合、知らない人に声をかけて話することは非常に困難である。この困難を克服する数少ない方法として考えられるのは、(参加者が名札をつけているなら、)名札を見て、コミュニケーションが成り立ちそうな相手を探すことである。あるいは、ホストあるいは主賓に話しかけるのもまた、1つの選択肢である。それでも、参加者の大半が小さなグループを作り、しかも、あなたがそのどれにも属していなければ、あなたは、身の置きどころのない気持ちになるかもしれない。

同時に2人以上と、明確な始まりも終わりもなく会話する困難

 第二に、立食パーティーでは、参加者が自由に移動するため、パーティーにおけるコミュニケーションは、一対一での安定した対話ではなく、3人以上の当事者による――また、当事者の交替の可能性を含む――不安定な雑談とならざるをえない。しかし、このタイプのコミュニケーションには、これを得意とする者と苦手とする者がいるはずである。(私は、大の苦手である。)

 この困難を克服するには、とにかく――音量を抑えながら――できるかぎりたくさん話し続けることしかない。私の乏しい経験の範囲では、グループで話しているときには、話した言葉が多いほど、誰か相手を見つけて話し続けることができる場合が多いように思われる。話し続けているうちに、目の前の相手が交替するかもしれないが、相手を見て、ときには質問しながら、途切れることなく話を続けることは、立食パーティーにおいて基本的な戦術であろう。

 もちろん、明確な脈絡もなく、とりとめのない話題について、短時間で入れ替わる相手とひたすらしゃべり続けるなど、知的な人間のすることではないように見えるかもしれない。また、(私を含め、)このような会話に慣れていない場合、疲れることは確かである。

 それでも、パーティに楽しさではなく実利を期待するのなら、私たちには、覚悟を決めて会話に飛び込んで行く以外に道はないように思われるのである。

girl-1034421_1920

 私は大学の教師である。大学の教師の本来の仕事というのは、教室で教えることではないが、生活の糧は、教室で教えることによって得ている。おそらく、「大学」と名のつくところで授業を担当するようになってから現在まで、すでに合計で5000時間近くを教室で過ごしているはずである。

 ところで、大学の教師の中には、成績を評価するために、「レポート」と呼ばれる類の提出物を学生に求める者が少なくないようである。私自身は、学生時代、この「レポート」でずいぶん悩まされた。だから、レポートは、自分で書きたくないし、学生にも提出させたくないと思っている。

 とはいえ、教室に長期間滞留しているせいか、私は、レポートに苦しむ学生をこれまでたくさん見てきた。そこで、レポートを書くには何が必要なのか、あるいは、何さえあればよいのか、簡単にまとめてみたい。

授業の内容に積極的な関心がなければ、レポートを課す授業は避けるのが無難

 少なくとも文系、特に人文科学系の授業で課せられるレポートというのは、その授業で扱われている分野について、ある程度の数の文献を自主的に読み、自分なりの立場や解釈を形作る努力を日常的に続けていることを前提として課せられる。つまり、(学期末だけではなく、普段からの)授業時間外の勉強が必須である。だから、普段は教室に坐っているだけで、あるいは、教室にすら行かないままで、学期末にレポートだけを書くのはまず無理である。

 そして、レポートというものがこのような継続的な努力を前提とするものであるかぎり、授業内容に対する積極的な関心がなければならない。レポートを課す授業とペーパーテストで成績を評価する授業を比較するなら、前者では、授業に対する学生のコミットメント(≒授業の内容を理解したいという意欲)が後者よりもはるかに強く求められていると考えるのが自然である。

 また、当然のことながら、レポートを書くには、最低限の時間と手間が必要になる。必要になる時間と手間は、各人の置かれた状況によってまちまちであろうが、情報の蓄積がゼロの状態から始めて3000文字のレポートを1日で完成させるのが不可能であることは明らかである。

レファレンス類を上手に使うと、無駄な努力を回避することができる

 ただ、教室で提示されたり、読むよう指示されたりするものの他に、文献を自発的に探し出すことは容易ではない。図書館に行き、関連しそうなキーワードで蔵書を検索すると、何百件もヒットすることがある。しかし、当の分野に不案内な状態で、ヒットした文献の山の中から優先的に読むべき少数のものを見つけることは困難であろう。大抵の場合、学生は、「諦めて何も読まない」(←圧倒的多数)か「根性を発揮して全部読む」(←圧倒的少数)かのいずれかを選ぶに違いない。

 しかし、このような不幸を回避する手段がある。それは、レファレンスを上手に使うことである。レファレンスとは、大雑把に言うなら、辞典、事典、資料集のようなものであり、多くの図書館では、出入り口と同じ階にまとめて配架されている。授業で提示された以外の文献を見つけたり、授業では暗黙の前提となっているような事項に関する情報を集めたりするには、専門的な事典で授業に関係ありそうな項目を拾い読みするのが捷径である。

 専門的な事典というのは、国語辞典や百科事典ではなく、その分野に特化した事典類である。社会学事典、法律学事典、あるいは『国史大事典』のような学問分野の全体についての事典もあれば、『ロンドン事典』『パリ歴史事典』『ギリシア・ローマ神話事典』『相撲大事典』『欧米文芸登場人物事典』『現象学事典』などのように、学問分野の一部をテーマとして編集されたものもある。もちろん、時間をかけて項目を拾い読みすべきなのは、主に後者である。(どの事典を手に取ればよいのかということすらわからないのなら、大学図書館には必ずある「レファレンス・カウンター」で司書に教えてもらえばよい。大学図書館で調べものをするのにレファレンス・カウンターを活用しないというのは、非常にもったいないことである。)

図書館に訊け! (ちくま新書)

 これらの事典をいくつも開き、授業に関連する項目を索引から探して拾い読みするうちに、レポートを書くための前提となる情報の全体を大雑把な形で把握することができる。何十項目かを読んだ段階で、レポートの構成はおのずから決まってくるに違いない。いくつもの項目を拾い読みして行くうちに、点としての情報が結びついてネットワークを形成し、項目を読み進んでも、新しい情報にほとんど出会わなくなる段階に到達する。これが、事典の拾い読みの完了のサインである。(特定の項目を丸写ししてはいけない。)

 しかし、このような専門的な事典の項目を拾い読みすることには、さらに大きなメリットがある。それは、(大抵の場合、各項目の末尾に)参考文献が掲げられている点である。ウィキペディアとは異なり、専門的な事典の項目は、その分野の専門家が執筆したものである。したがって、項目の末尾に文献が掲げられているとするなら、それは、その分野の専門家から見て信頼に値する文献であり、優先的に目を通すに値する文献、つまり、提出されたレポートに引用/参考文献として挙げられているとポイントが高くなるような文献である。

 また、事典の項目の末尾に掲げられる文献は、初心者が手に取る可能性を考慮して選択されるのが普通であるから、レポートに利用することができるものが少なくないはずである。(なお、社会科学や自然科学の場合、事典も文献も、データが更新されている可能性があるから、原則として最新の事典を読まなければならないが、人文科学については、内容の根幹にかかわるようなデータの更新は滅多にないから、必ずしも「最新」にこだわる必要はない。)

 事典の項目を読み、レポートの構成を決めたら、事典に掲げられた文献を拾い読みして、典拠を明示しつつ内容を引用したり要約したりしながら、すでに決めたレポートの構成の細部を埋めることにより、最小限の時間と手間でレポートを仕上げることが可能となるはずである。

 ただ、レファレンス類を拾い読みする作業は、レポート提出のデッドラインが視界に入ってから始めるべきものではなく、本来は、授業を履修するかどうか決める前に済ませておくべきものではあるのだが……。

↑このページのトップヘ