AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年07月

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家族はリスクヘッジのためにある

 家族というものが何らかの意味を持つとするなら、それは、本来は、リスクヘッジのためであるに違いない。病気のとき、職を失ったとき、あるいは、その他の困難な状況に陥って途方に暮れたとき、家族がいることによって、援助や励ましや助言を期待することができる。少なくとも、心細い思いをしなくて済むのである。

 同じように、家族の誰かが危機に陥ったとき、私もまた、大切な誰かのために援助を惜しまないであろう。

 親や子を選ぶことは、誰にも原則としてできないけれども、配偶者や姻戚を選ぶことは許されている。家族がリスクヘッジのためのものであるなら、選ぶことが許される家族に関し、危機においてどの程度まで助け合えるかという観点からこれを評価することは、決して不適切ではないように思われる。(もちろん、私は、「結婚相手は金持ちに限る」と言いたいわけではない。)

 兼好法師は、『徒然草』において、「家のつくりやうは、夏をもって旨とすべし」と語っているが、これに倣うなら、「家族のつくりやうは、危機をもって旨とすべし」ということになる。家族の姿というのは、本質的に非常時への対処に最適化されていなければならないはずなのである。

リスクを前にして解体する家族

 ところが、現実には、危機というものは、家族の結びつきを強固にするのではなく、反対に、これを解体してしまうことが少なくないようである。しばらく前、次のような記事を読んだ。

「がん離婚」なぜ妻ががんになったら夫は別れたがるか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

 家族がガンに罹るというのは、家族の危機の典型の一つであるに違いない。そして、家族は、このような状況のもとで団結して助け合うためにあらかじめ形作られてきたはずである。しかし、実際には、配偶者の病気はストレスとして把握され、家族の解消の正当な理由になってしまうようである。

「金の切れ目が縁の切れ目」であってもよいのか

 しばらく前、次の記事を投稿した。


「この世はすべてカネで動く」わけではないが、大抵の問題は「カネさえあれば何とかなる」ものではある : AD HOC MORALIST

Nik MacMillanカネの有無が勝負を決することがある 外交交渉では、武力において劣る国は、相手から足元を見られるのが普通である。(だから、憲法を改正しないかぎり、わが国は外交で負け続ける運命から逃れられない。)同じように、他人とのあいだの交渉では、いざというと


 カネの有無が生活の質を決するというのは、ある程度まで普遍的な法則であるのかもしれない。しかし、それとともに、家族の存在は、この法則に対する異議申し立てであり、カネの有無に関係なく生活に最低限の品質を保証するためにあると考えることが可能である。(カネを無尽蔵に持っている者には、家族を持つ必要がないのかもしれない。)家族の誰かが困難な状況に陥ったとき、これをストレスと見なして忌避するとするなら、それは、「金の切れ目が縁の切れ目」という残念な法則が、この法則に対する異議申し立てとしての家族を圧しつぶしたことを意味する。

 たしかに、家族の看病や介護は、途方もなく大きなストレスになる。体力や家計に与えるダメージもまた、決して小さくはない。だから、家族がリスクヘッジのために作られる集団であるかぎり、新しい家族を作るときには、このリスクを負う覚悟をみずからに必ず問わなければならないであろう。

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By Rob Hooft from The Netherlands - Car Free Ginza, CC 表示-継承 2.0, Link

 「歩行者天国」と呼ばれている措置がある。これは、公道から自動車を排除し、ある区間の公道全体を歩行者専用のスペースとするものである。(また、この措置によって車輌の進入が規制された空間もまた、同じ「歩行者天国」の名で呼ばれるのが普通である。)

 私は、東京の西の方で暮らしているから、「歩行者天国」という言葉を目にして最初に連想するのは新宿であり、次に連想するのは銀座であり、三番目に連想するのは原宿――現在は実施されていない――である。

 休日に所用があって新宿や銀座に行くと、街の一部が歩行者天国になっていることがある。歩行者天国が実施されているという理由でわざわざこれらの繁華街に赴くことはないけれども、普段は自動車が往来しているスペースを自由に歩き、普段は身を置くことができない地点に立ち、普段は眺めることができない視点から街を眺めることが刺戟となることは確かである。

 ところで、歩行者天国となった道路に立つとき、心に浮かぶ疑問がある。それが、この記事のタイトルに掲げた問いである。「歩行者天国が実施されているとき、その路上にあるものは公道上にあることになるのか」。しかし、私は、この問いに対する答えを持っていない。

 東京の繁華街で歩行者天国が実施されるときには、特定のエリアへの車輌の進入が規制される。この規制は、どのような法的根拠があるのかわからないけれども、警察によって行われるのが普通である。

 国道、都道、区道など、車輌の進入が規制される道路の種類はまちまちであるとしても、歩行者天国となる空間がもともとは公道である点については、すべて同じである。

 しかし、現実には、歩行者天国では、車道があるにもかかわらず、車輌の通行ができないのであるから、この空間は、都会の公道としての役割を失っている。車道に椅子が置かれ、歩行者が坐っているのは、この空間が公道としての役割を一時的に失っているからであると考えることができないわけではない。

 歩行者天国は、道路というよりも、むしろ、本質的には、仮設の公園と見なされるべき空間であるに違いない。

原宿、1970's。竹の子族→ホコ天バンド→カワイイの変遷【画像集】

 いや、原宿で歩行者天国が実施されなくなった理由が雄弁に物語るように、歩行者天国というものは、万人が出入り自由であるという意味では公共の空間であるとしても、共通のルールのもとで万人によって共同で使用される空間という意味における公共の空間ではないのかもしれない。

 実際、いわゆる「愛犬家」の中には、飼い犬を連れて歩行者天国に出向き、犬を係留せず自由に運動させる者がいるようである。もともと、いわゆる「愛犬家」には、公共のルールもマナーも守ることのできない者が少なくないけれども、歩行者天国に対し「ドッグラン」としての役割まで期待されているとするなら、歩行者天国は、決して「天国」のような理想の場所ではなく、むしろ、不快な刺戟と危険に満ちた場所になるおそれがある。

 私自身は――自分で自動車を運転しないからなのかもしれないが――都心の繁華街への車輌の進入を厳しく規制するのがよいと考えている。けれども、歩行者が主役となるような繁華街が生まれるためには、歩行者天国が道路であるのか、公園であるのか、あるいは、他の何らかの性格を具えた特殊な空間であるのか、この点に関する社会的な合意の形成が必要であるに違いない。

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十分な睡眠時間を物理的に確保することができないのなら、それは、睡眠不足の問題ではなく生活環境の問題である

 十分な睡眠をとることは、健康にとって大切なことである。だから、各人にとって必要と思われる睡眠時間を確保することは、私たちにとって最優先の課題となる。

 もちろん、健康を維持するのに必要な睡眠時間は、人によりまちまちである。適切な睡眠時間は、実際に眠って確かめるしかないのであろう。

 とはいえ、睡眠時間を確保することが必要であるとわかってはいても、さまざまな事情のせいで、健康の維持に必要であるはずの睡眠をとることができない人は少なくない。日本人は、世界の他の国々と比較して、寝不足であるようであるけれども、それは、日本人が特に宵っ張りであり、漫然と夜更かししているからであるというよりも、むしろ、やむをえざる事情によって睡眠時間を削ってきたからであると考えるのが自然である。仕事、育児、介護などは、睡眠から時間を奪う代表的な活動である。

 だから、「あなた、寝不足ですよ、これ以上睡眠時間が不足する状態が続くと健康を損ねることになりますよ」などと医者に言われても、寝不足を指摘された人の多くは、「そんなことはわかっているけれど、好きで睡眠時間を削っているわけじゃない」と反論するであろう。

 そして、睡眠時間を十分に確保することができるためには生活環境を改善するか、あるいは、現在の生活環境から逃げ出す以外に道はないとするなら、睡眠時間の不足が健康を損ねることに危機感を持つ医者が何よりもまずなすべきであるのは、睡眠時間を確保するよう説教することではなく、各人が望むだけの睡眠をとることができるよう、社会を変えるために努力することであるに違いない。睡眠というのは、狭い意味における「公衆衛生」の問題であり、本質的には生活環境の問題であり、したがって、広い意味における政治の問題なのである。

社会を治療するものとしての医療

 以前、次のような記事を投稿した。


100年後の死因第1位について考える : AD HOC MORALIST

人間が人間であるかぎり「不死」ということはありえない 以前、次のような記事を書いた。脳の老化と「寿命」の再定義 : アド・ホックな倫理学「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かの


 医療と医学は、人間の健康――あるいは病気の治療――を目標とする活動の一種である。各人の健康が各人の心がけのみによって完全にコントロール可能なものであるなら、健康管理の責任は私たち一人ひとりが負うべきものであろう。しかし、現在では、上に述べた睡眠の問題を始めとして、健康を損ねる原因が社会にある場合が少なくない。そしえ、社会のあり方が病を惹き起こし、生命を奪うなら、医療や医学は、健康管理を個人に求めるよりも、社会を変えることをまず課題として引き受けるべきであるように思われる。実際、生活を支える物理的な条件が改善されるとともに、社会のあり方が健康に与える影響は増大しつつあるように思われる。したがって、健康的な生活を送ることができるよう社会を変革するための努力は――単なる社会運動ではなく――医療の不可欠の一部として認められに含められるべきであると私は考えている。医療というのは、個人を治療するものであるととともに、また、社会全体の治療へとシフトして行かねばならないものであるように思われるのである。

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ライブは出演者のためのものか、それとも、客のためのものか

 以前、次のような記事を投稿した。


寄席で笑えなかったらどうしよう 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

トークイベントでスピーカーが冗談を言ったら、面白くなくても笑うべきか しばらく前、あるトークイベントを見物に行った。そして、行かなければよかったと深く後悔した。理由は簡単である。あまり面白くなかったのである。 いや、正確に言うなら、「あまり面白くなかった


 トークイベントに行ったら、スピーカーの冗談に笑えなくても、冗談に付き合って無理に笑顔を作るべきなのか、また、寄席に行って笑えないときにもまた、無理に笑い声を立てるべきであるのか、それとも、面白くなければ仏頂面していてもかまわないのか。上の記事では、この問題を取り上げた。これらはいずれも、答えのない問いであり、唯一の現実的な解決策は――非常に窮屈な話ではあるが――「スピーカーが意図したように反応する自信がないのなら、ライブには行かない」ことに尽きるように思われる。

ライブが「信者」の集会になる危険

 しかし、出演者が望むように反応することに自信がある者だけがライブに行くことになると、ライブの会場に集まるのは、出演者の機嫌をとる信者ばかりになってしまう。これでは、ライブというのは、客のためのものではなく、出演者のためのものとなってしまうのである。そして、客が払う代金は、一種のお布施になる。実際、信者がスピーカーを満足させる集会と化したイベントに、私は、一度ならず行ったことがある。もちろん、このようなイベントがいくら積み重ねられても、それは、信者のあいだで消費されるばかりであり、出演者自身の「芸」の上達を促すことはないように思われる。

ビデオが「芸」の自由な吟味を可能にする

 しかし、出演者の機嫌はとりたくないが、出演者の芸は見てみたいという欲求を満足させることができないわけではない。録音されたものや録画されたものを再生し、これを鑑賞すればよいのである。

 舞台で演じられる芝居や歌舞伎なら、ビデオ(具体的にはDVDやブルーレイ)を観て、気に入らないところがあれば、画面に向かってケチをつけることができる。また、冗談が面白くなければ、無理をして笑う必要などない。「つまらねえ」とか「ひっこめ」とか叫ぶことが許されている。

 もともと、すべての客には、出演者に対し「つまらない」と意思表示する権利があるはずであるけれども、なぜか、最近のライブは、このような健全な批評を許さない信者の集会へと堕落していることが多い。(場合によっては、映画もまた同様である。)だから、自分の好きなように落語や芝居やイベントを自由に享受することを望むのなら、ライブからは距離をとり、録音や録画を利用すべきなのであろう。そして、出演者の芸が録音や録画による鑑賞に耐えなかったら、それは不十分なものであると考えるのが適当であるように思われる。

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知事にチャンスを与えることは必要

 今日(2017年7月2日)、都議会議員選挙があった。私は、期日前投票を済ませており、今日は投票所には行かなかった。

 選挙の結果は、明日には確定するであろうが、速報の範囲では、特に驚くようなことは何も起こらなかった。

 「知事は就任してから1年のあいだ、何もしなかったじゃないか」と言う人がいるかも知れないが、今回の選挙前の都議会の構成では、都知事の意向が政策の大半に正常な形で反映されるはずはない。だから、都知事が去年の知事選で公約として掲げていた政策を残りの任期のあいだに実現するかどうかを見きわめるためには、少なくとも一度は知事の与党が過半数を占めるような議会の構成を作り、知事にチャンスを与えることが必要であったと私は考えている。

 公約が実現されなかったり、都民の生活環境が悪化したりするようなら、次回の都知事選挙で現職に投票しなければよいだけの話である。投票というのは、白紙委任状を渡すことではなく、期限つきの信認を与えることにすぎないのである。

1970年代の「革新系」の候補者たちの亡霊かと思う

 とはいえ、今回の選挙で驚いた――というよりも呆れた――ことがあった。それは、候補者たち、特に民進党、共産党、さらに、これによりも左の過激派系(?)の候補者たちのわかりやすい「先祖返り」である。

 たしかに、現在の自民党政権には、冷静に吟味されるべき問題が少なくない。しかし、私には、たとえば、いわゆる「加計学園問題」の本質がどこにあるのか、何が明らかにされるべきであるのか、すべての国民が理解しているようには思えない。実際、たしかに今回の選挙で自民党は大敗したけれども、だからと言って、国政のレベルで自民党を追求していた野党が勝利したわけでもないのである。私たちは、この点を勘違いしてはいけないと思う。

 ただ、自民党や政権の問題はすべて、基本的に国政の問題である。それは、都政の問題ではなく、都議会の問題でもない。東京には東京なりの、東京に固有のローカルな問題が無数にある。高齢化の問題、待機児童の問題、オリンピックの費用の問題、さらに、こまごまとした諸問題……。このような諸問題の解決策こそ、候補者たちによって大声で語られるべきであった。

 ところが、私の見るところ、民進党や共産党、そして、過激派系(?)などは、都政のこまごまとした問題には目もくれなかった。東京は、日本でもっとも大きな都市であり、当然、この都市が抱えるローカルな問題は、日本中のどの都市よりも深刻である。それにもかかわらず、これらの政党の候補者たちは、自民党批判、政権批判に明け暮れたように見える。

 特に、「憲法九条」の問題が都政と何の関係があるのが、共産党は、誰にでも納得することができるよう明らかにすべきである。都政と何の関係もないのに、九条を話題にして有権者の注意を惹こうとしているのであるなら、それは、都民を愚弄しているのと同じことである。

地方政治の空洞化

 しかし、これは、左翼系の特に目新しい戦術ではない。

 1970年代から80年代、私がまだ選挙権を持っていなかったころ、地方議会の選挙というのは、しかし、これと似たような状況であった。本来なら重要なテーマになるはずのローカルな問題はすべて無視され、特に「革新系」の候補者たちは、選挙期間中、その時点での自民党と政権の批判を飽くことなく続けていた。都政と関係のないテーマについて自説を連呼し続けて議席が獲得できると候補者たちが信じていることが、私には不思議でならなかった。

 そして、今回の都議会議員選挙では、同じような光景がいたるところに見出された。左翼系の選挙戦術の大規模な先祖返りが起ったのであり、私は、40年前の選挙の候補者の亡霊が選挙を戦っているかのような感じに襲われた。

 自民党系の地方議員のあり方に深刻な問題があり、これは、それ自体として解決されねばならない。ただ、しばらく前から、都議会自民党の議員の資質やガバナンスの問題が批判されているけれども、これは、地方議会の空洞化、地方議会選挙をの空洞化、地方政治の空洞化、そして、民主主義の空洞化の「結果」にすぎない。そして、このような一連の空洞化の「原因」は、東京に関するかぎり、やはり、都政の問題には目もくれず、自民党と政権の批判に明け暮れてきた「革新系」の候補者であり、「革新系」の勢力であったように思われるのである。

 今回の選挙では、幸いなことに、今の時点での情報に従うなら、民進党や共産党や過激派が議席を増やすようなことはなかったようである。これらの勢力には、議席を増やす何の理由もない以上、これは当然の結果であり、東京の有権者の選択は、全体として穏当なものであったと言うことができる。

 都政の問題に関して現実的な政策を提示し、その上で議席を増やすのなら、私には何の文句もないが、今回のような粗末な選挙によってこれらの勢力の議席が増えるようなことがあったら、地方議会選挙の堕落は取り返しがつかないことになるところであった。今回のような不毛で低級な選挙は、二度と見たくないものである。

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