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「事実に反している」だけでは偽ニュースにはならない

 以前、偽ニュースについて、次のような記事を書いた。


虚偽の拡散と心理戦 : アド・ホックな倫理学

11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。偽ニュース、小児性愛、ヒラリー


 言うまでもないことであるかも知れないが、「偽ニュース」というのは、普通には、虚言の一種と見なされている。もちろん、ある文が虚言であるためには、それが事実に反しているだけでは十分ではない。実際、事実に反する情報というのは、身の回りにいくらでもあり、私たちは、これと共存している。

 たとえば、一般に「時代小説」と呼ばれているものの内容は、事実に反する情報ばかりであるかも知れない。そこでは、架空の登場人物の言動が、あたかも実際に見てきたような仕方で語られる。これは、明らかな虚言である。また、実在の人物が作品に登場する場合でも、この人物の語る言葉が事実のとおりであったはずはない。池波正太郎は、江戸時代に生きていたわけではない。当然、彼の作品に登場する田沼意次が語る言葉は、池波自身がその場に立ち会って耳にしたことの再現であるはずはない。また、時代小説を読むとき、読者は、その都度あらかじめこのような事情を承知している。すなわち、読者は、第1に、現実の田沼が何を語ったかを知らなくても、池波が語っていることが事実のとおりではないことを理解し、それとともに、第2に、事実に反する情報が含まれているからという理由によって『剣客商売』を虚言のかたまりとして斥けることはないのである。これが、事実に反する情報との共存である。

虚言が罪かどうかは、相手が「真実を聴く権利」を持つかどうかによる

 アウグスティヌス以来、ある文が虚言と見なされるには、2つの条件が必要であると考えられてきた。すなわち、事実に反していることと、他人を欺く意図にもとづいて発せられていること、この2つの条件を同時に満たすとき、虚言は虚言となり悪となるとアウグスティヌスは理解する。つまり、他人を欺く意図の有無が虚偽と真実を分けると考えられてきたことになる。(誠実であることは、神に対しても人に対してもひとしく義務であるという了解が前提となっている。)

 文学作品の場合、そこに含まれる情報が事実に反するものであるとしても、虚言とはならないのは、他人を欺く意図が見出されないからである。つまり、事実に反する情報と同時に、この情報が事実ではないことを読者に知らせる何らかのサインがどこかで示されているのである。事実に反する情報を事実に反する情報として提示するかぎり、これは、虚言とはならない。

 このかぎりにおいて、他人を欺く意図というのは、明瞭な標識であるように見える。とはいえ、ここには、ある重大な問題がある。たとえば、不治の病に侵されている患者を励ますため、「大丈夫ですよ、きっと治りますよ」と言うのは、厳密に考えるなら、嘘をついていることになる。しかし、この嘘は悪であるのか。あるいは、誘拐犯を逮捕するため、身代金を渡すと偽って犯人を呼び出すのも、犯人に本当のことを隠しているという意味では、虚言に当たる。

 これは、アウグスティヌスが虚言を定義したのと同時に提起した問題である。つまり、2つの条件によって虚言を規定することにより、善意ないし必要によって嘘をつくことは悪であるのか、という問題が惹き起こされるのである。

 近代以降、この問題を取り上げた人々のあいだで正統的とされてきた解決策は、次のようなものである。すなわち、私たちは誰でも、「真実を言う義務」を負っているが、この義務を果たさなければならないのは、「真実を聴く権利」を持つ者に対してだけである、これが、善意ないし必要にもとづく嘘について受け容れられてきた枠組みである。この考え方に従うかぎり、犯罪者、敵国、幼児、精神疾患を患っている者などには、「真実を聴く権利」がないから、嘘をついてもかまわないことになる。

偽ニュースは「真実に耐える力」を試練にかける

 事実に反することを欺く意図をもって述べると虚言になり、このかぎりにおいて、虚言はさしあたり悪であるが、「真実を言う義務」は、「真実を聴く権利」に対応するものであるから、「真実を聴く権利」を持たない者には、嘘をついてかまわない。しかし、これが虚言に関する基本的な枠組みであるなら、偽ニュースを流布させることは、それ自体としては罪には当たらないかも知れない。

 たしかに、偽ニュースが誤って(虚偽から区別された)真実として受け取られ、偽ニュースにもとづいて何らかの行動が惹き起こされるということがないわけではない。そして、これは、「真実を聴く権利」の侵害に当たるから、このとき、偽ニュースは、斥けられるべき虚言となる。

 しかし、偽ニュースは、虚言からは根本的に区別されねばならない。一般に、虚言は、真実として通用するかぎりにおいて虚言である、という根本的な特徴がある。言い換えるなら、虚言が虚言であることが露呈するとともに、虚言はその力を失い、「破綻した虚言」あるいは「虚言の残骸」となる。虚言は、みずからの正体を偽ることにおいてのみ虚言なのである。「真実を聴く権利」なるものが意味を持つのは、そのためである。

 ところが、偽ニュースの場合、これが事実に反するものであることが具体的な証拠によって明らかにされても、偽ニュースとしての力を失うことはない。虚言が「真実として」伝えられて行くときにのみ虚言でありうるのに反し、偽ニュースは、偽ニュースとしての素姓が明らかになっても通用し続ける。偽ニュースというのは、事実に反しているといくら指摘されても消滅しないのであり、この意味において、抗生物質が効かない多剤耐性菌のようなものである。

 したがって、問題は、偽ニュースを作る者にあるのではなく、これを受け容れ、伝播させ、流布させる者の側にある。虚言が罪に当たるかどうかを判定する場合、もっとも重要であったのは、「真実を聴く権利」であり、「真実を聴く権利」を持つ者に嘘をつくことは罪に当たる。しかし、偽ニュースは、真実を聴く「権利」ではなく、むしろ、「真実に耐える力」を試練にかけ、人間にみずからの弱さを自覚させることにより、「真実に耐える力」が、「真実を聴く権利」や「真実を言う義務」よりもさらに根源的な仕方で人間の人間らしい生存を支えるものであることを教えているように思われるのである。