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 最近、齢をとったと感じることが多い。純粋な体力が落ちたわけではないし、誰かに何かを言われたわけでもない。齢をとったと感じるのは、野心に囚われ、心が波立つことが少なくなってきたからである。

 大学院生のころから長い間、1本でもたくさんの論文を書き、1冊でも多くの著書を出さねばという焦りに突き動かされてきた。私の自由にならない形で誰かが設定した到達目標を自分の現状とたえず比較しながら、上を向いて――というよりも、上から釣り糸で引っ張られているような状態で――仕事に追い立てられる期間が長く続いたのである。

 もちろん、今でも、さらなる上昇とさらなる前進への渇望が心に生まれ、居ても立ってもいられなくなることがまったくないわけではない。また、怒り、嫉妬、羨望、恨み、憎悪などに心が振り回されることがなくなったわけでもない。しかし、野心にもとづくそのような心の動揺は、最近、少しずつ減っているような気がする。

 以前、次のような記事を投稿した。


「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という心の声に耳を傾けると不幸になる : AD HOC MORALIST

人生に対する積極的な態度と消極的な態度 私は、これまでの人生の中で何度か、人生を諦めそうになったことがある。 人生を諦めるというのは、自分が置かれた環境を見限り、新しい環境――それがどのようなものであるとしても――へと逃れて行くことではない。下の記事に書


 「人生を諦める」ことは決してしてはならないことであるというのが上の記事の内容である。現在、私自身は、決して人生を諦めたわけではない。人生を満足の行く仕方で仕上げることへの意志は、誰にとっても、どのような状況のもとでもきわめて大切なものであると私は考え、生活の充実のために必死に努力している(つもりである)。

 幸いなことに、今のところ、私は、大学院生のころに学会で見て「ああはなりたくない」と思ったようなタイプの大学の教師にはならずに済んでいるけれども、それとともに、私の現状が、大学院生のころに思い描いていた今の年齢になったときの自分の姿とはいくらか異なっていることもまた、確かである。

 しかし、最近は、なりたい自分のようなものを心に描いても、あまり楽しくないし、目標に向かって努力しなければならないという焦燥感に襲われることも少なくなった。(ただ、このブログをもう少したくさんの人に読んでもらいたいとは思っている。)この意味で、10年前、20年前とくらべ、心はやや穏やかになり、そして、周囲に目を向ける余裕も少しだけ生まれたような気がする。少なくとも、これまで腹を立てていたことに対し、あまり腹が立たなくなってきたことは大きな成長なのではないかと考えている。