old-woman-917608_1920

 私が日本の女性についていつも不思議に感じていることの1つに、年齢を重ねることへの極端な恐怖あるいは嫌悪がある。

 これは、外国との比較において初めてわかることではない。一方において、年齢を重ねた女性のアンチエイジングへの執着、他方において、自分よりも少しでも年齢が上の同性を「ばばあ」(または「おばさん」)と呼んで見下す傾向、年齢を重ねることへの怖れは、この二つによって容易に確認することができる。

 以前、私は、アンチエイジングに関し、次のような記事を投稿した。


年齢を重ねてよかったと思えること 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

単なる「老い」から区別された年齢を重ねることの意義を哲学的に考える。


 年齢を重ねることは、単なる老化ではない。単なる老化以上の意味を年齢に見出さない者は、みずからの内面が空虚であることを告白していることになる。上の記事では、このようなことを書いた。

 同じことは、「ばばあ」(または「おばさん」)という語の使用についても言うことができる。「ばばあ」という語は、本来は高齢の女性に適用されるものであるけれども、ここでは、相対的な意味における「高齢」の女性が「ばばあ」と呼ばれる場合を考える。たとえば若者向けの洒落た衣料品店、コンサートの会場、あるいは、「婚活市場」のような抽象的な空間に身を置く女性のうち、年齢が比較的高い女性が「ばばあ」と呼ばれる。「ばばあ」と呼ばれた女性たちは、このような空間にふさわしくない存在、「齢甲斐もなく」そこにとどまっている存在であり、排除されるべき存在なのである。

 実際、30代の女性は、40代の女性を「ばばあ」と呼び、20代の女性は、30代の女性を「ばばあ」と呼ぶ。それどころか、高校生が大学生を「ばばあ」と呼ぶのを耳にすることもある。自分よりも年齢が上の女性のことをあえて侮蔑的に「ばばあ」と呼ぶことにより、自分の縄張りを確認しているに違いない。

 とはいえ、アンチエイジングが向かうのが自分自身の皮膚であったのに対し、「ばばあ」という語は、他人に適用されるものであり、この意味において、この言葉が与える影響は複雑である。

 形式的に考えるなら、日本の女性は、生まれたときから経過した時間に比例して(同性を中心として)他人から「ばばあ」と言われたり、「ばばあ」に分類されたりする危険が高くなる。そして、ある年齢を超えると、他人から「ばばあ」と見なされる場合の方が普通となり、「若さ」が参入の前提となっているような空間からは完全に締め出される。

 若さを参入の前提とする空間から締め出されると、しかし、不思議なことに、このような女性は、自分自身を「ばばあ」と規定するようになる。「ばばあ」であるという理由である空間から締め出されたからと言って、自分を「ばばあ」と見なさなければならないわけではなく、自分が好きなようにふるまえばよいはずであるのに、自分を「ばばあ」と見なし、いわば「『ばばあ』の世界」と呼ぶことのできるような世界へとみずからを閉じ込めてしまう。このような女性に対し若者と同じようにふるまうことを求めるあらゆる試みは、「もうおばさん/ばばあだから」という説明とともに即座に斥けられる。

 「『ばばあ』の世界」が日本の女性にとって居心地のよいものであるのかどうか、私にはわからない。ただ、これが、男性の目には「中性的」な――男性性も女性性も失われた――世界であり、若い女性が上の年齢の女性を排除しながら作り上げる若者向けの空間以上に理解することの困難な世界であることは確かであるように思われる。(高齢の女性の服装が幼児の服装にかぎりなく似たものになることは、「『ばばあ』の世界」の特徴が性別を示すものの剥落にあることを雄弁に物語る事実である。)

 私自身は、どれほど年齢を重ねても、女性にはこのような「異界」に足を踏み入れてほしくはないと考えている。年齢を重ねるとともに、日本人の女性の多くが自発的に「『ばばあ』の世界」の住人となり、急激に「中性化」して行くことは、多くの男性の目に、不気味なものと映るからである。