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会いたくないと思う相手に限って会ってしまう

 学部生のころ、ある先生のところに質問に行き、そのついでに、世間話をしていたとき、何がきっかけだったのかよく覚えていないけれども、私の親類の職業のことが話題になり、私が、親類の一人の職場の名をその先生に告げたことがある。すると、その先生は、御自分の奥様の親類でその同じ職場に勤めている者がいると言い、その親類の方の名前を私に教えてくれた。

 しかし、私は、顔には出さないようにしたが、ひそかに凍りついた。というのも、先生の口から出たその親類の方の名前というのは、同じ職場で働く私の親類からすでに何度も聞かされていた同僚の名前であり、しかも、つねに悪口とともに聞かされていた名前だったからである。その職場では、私の親類と先生の親類の方は犬猿の仲であり、一触即発の状態だったのである。

 私は、その場では何も言わず、そのまま退散したけれども、その後、その先生とのあいだには、何となく気まずい空気が生まれ、私は、その先生にはできるかぎり近づかないようにした。

 自分に対し必ずしも好意的ではないことがあらかじめ分かっているような人物、あるいはその関係者と、思わぬところで、思わぬときに遭遇する、このようなことは、少なくとも私の場合、決して珍しくない。(自慢ではないが、現実的な敵と可能的な敵を併せると、私には相当な数の敵がいるに違いない。)だから、誰かとある程度以上親しくなる可能性があるときには、相手の生活、背景、信条などを私の力の及ぶ範囲で調べてから慎重に接近することにしている。これまで、不用心に近づいてひどい目にあったことが何回かあるからである。どのような会合に顔を出しても、できれば会いたくないと思う相手を少なくとも一人は発見する。そして、そのたびに、世間が狭いものであることを実感する。

逃げ回っていても仕方がない

 とはいえ、会いたくない相手を忌避して逃げ回っていると、行動範囲が次第に狭くなってくる。嫌な相手と近距離で顔を突き合わせるような状況は避けるとしても、そうでなければ、適当にやり過ごしたり無視したりする度胸は、やはり必要であろう。気が重く感じられる場面にも、できるかぎり顔を出すよう心がけてはいる。

 そもそも、世間を構成するのは、私に敵意を抱いている者や、私に必ず敵意を抱くはずの者ばかりではあるまい。未知の誰かが私のことを好意的に評価してくれるかもしれない。私と親しくなることを望む者がどこかにいるという想定もまた、必ずしも不自然ではないように思われる。

 実際、私の知らない誰かがどこかで私のことを気に入ってくれるかもしれない、新しい出会いがあるかもしれないと思わなければ、ブログなど書き続ける気にはならないであろう。

 だから、初対面の人、しかも、挨拶以上の何か意味のあるコミュニケーションの相手となる可能性のある人には、最大限の笑顔とともに礼儀正しく愛想よく接し、相手の神経を逆撫でしないよう心がけている。この戦術が成功しているかどうかはよくわからない。まったく効果のない相手がいることは確かであるけれども、出会いがしらに見ず知らずの相手から不快な言葉を浴びせられるようなことは、最近ではずいぶん少なくなった。私がそれなりに年齢を重ねたおかげでもあるかも知れない。