edwin-andrade-153753

 私は、イベントとしての学会が好きではない。学会で研究発表を聴くのも好きではないし、自分で研究発表するのも好きではない。もちろん、「総会」など、何のためにあるのかほとんど理解することができないし、「懇親会」の三文字にいたっては、もはや「この世の地獄」の同義語でしかない。

 それでも、年に何回かは、学会に参加し、会場になったどこかの大学の教室の片隅で冷や汗を流しながら何時間かを過ごすことがある。

 とはいえ、ただ発表を聴くのは、退屈でもあり、苦痛でもある。そもそも、研究者の仕事は、他人の話を聴くことではなく、みずからが何かを公表することである。当然、他人の研究発表を聴くのが好きな研究者は多くはない。だから、何か質問をひねり出して発表者にぶつけることで、苦痛を紛らわせることがある。(人文系の学会で個人の研究発表に対して行われる質問の大半は、黙っていることの苦痛から逃れることを動機とするものであるような気がしてならない。)

人文系の学会での個人の研究発表の実質は、発表原稿の「読み合わせ」

 社会科学や自然科学についてはよく知らないが、人文科学(歴史を除く)の場合、学会では、研究発表の前に要旨または発表原稿が事前に(あるいは会場で)配布され、発表者は、要旨または原稿に従って発表するのが普通である。

 要旨や原稿が配布されるのは、これが発表の内容を聴衆に理解させるのに有効だからというよりも、むしろ、発表に続く質疑応答や討論の資料として必要だからである。(要旨も原稿も配布せずに発表すると、聴衆から苦情が出ることがある。)

 自然科学上の新しい発見があると、テレビのニュース番組で、パワーポイントによるスライドを背にして学会の会場で何かを説明する発表者の姿が画面に映し出されることがあるけれども、人文科学系の学会(歴史を除く)では、個人の研究発表でパワーポイントが使われることは滅多になく、したがって、あのような光景に出会うことは稀である。そもそも、人文系の場合、何か新しい発見があっても、研究発表という形でこれが公になることはないということもある。(「研究の成果」ではないからである。)

 人文科学系の学会での普通の研究発表では、どこかの大学の教室で、教卓の前に発表者が立ち、聴衆がこれに向き合うように学生の席に陣取り、事前に配布された発表原稿の「読み合わせ」を全員で行い、その後、この発表――というよりも原稿――について参加者が討論することになる。日本人でも外国人でも、この点に関し違いはない。

[1]専門外のテーマの研究発表で質問するオーソドックスな方法

 研究発表を聴き、そして、質問する手順としてもっとも正統的なのは、発表原稿を受け取ったら、パラグラフごと、あるいは節ごとに(発表を聴かずに、あるいは、発表を聴きながら)内容をまとめ(て原稿の欄外にメモして行き)、発表原稿の論旨が形式的、論理的に整合的であるかどうかを批判的に吟味することであり、飛躍や矛盾が認められる場合、発表が終わったあとに、質問の形でこれを指摘することである。(これは、学会ばかりではなく、大学の演習等で行われる学生の発表に対しコメントする場合の基本的な技術でもある。)

 だから、個人の研究発表のあとでよく耳にする質問は、「○○ページには……と書いてあるのに、××ページでは……となっているが、どうして前者が後者の根拠になっているのかわからないし、むしろ、……という可能性が排除できないのではないか」(←このような細かい質問は、発表者が手にしているのと同じ原稿を聴衆が持っていなければ不可能である)という形式を具えていることが多い。また、このような質問には、発表内容に精通していなくても、発表者の原稿に寄生する形でもっともらしいコメントをすることができるという利点もある。

[2]研究発表の細部がわからなければ、一般的な了解と比較する

 とはいえ、発表の内容に不案内であるとしても、ここで使われるテクニカルタームや固有名詞について最低限の観念を持っていなければ、オーソドックスな質問はできない。それでも、発表者に何か質問したいのなら、一般的な概念あるいは了解に訴えることにより、大抵の場合、質問することが可能である。

 人文系の学会における研究発表では、表向きのテーマが具体的な人物や作品であるとしても、このような具体的なものは、必ずそれなりに普遍的なトピックとの関連において取り上げられる。

 したがって、発表者が標的とする普遍的なトピックがわかるなら、発表の細部が理解不可能でも、発表者がこのトピックに関して提示した了解(=結論)と、一般的に通用している了解を比較することにより、「あなたの結論は……だが、この問題は、一般には……と考えられており、また、それには相応の理由があると思うのだが、この点についてどう考えるか」という形式で質問することができる。

質問せず、黙って坐っている方が発表者には親切

 ただ、発表者にとっては、未知の聴衆からの、しかも好意的とは言えない質問は、決してありがたいものではない。また、上記の[2]のスタイルの質問は、形式的には必ず問われねばならない重要な問いではあっても、現実の発表の場では、必ずしも生産的な議論への刺戟とはならない。(専門分野が過度に細分化されているからであろう。)

 だから、発表者と面識があるのでなければ、基本的には黙っている方が発表者のためになることは間違いないように思われる。