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 本を読みすぎると、ものを考える力が損なわれる。これは、古代から現代まで、多くの知識人が繰り返し強調してきた点である。

 書物というのは、他人の思索の成果である。だから、読書とは、他人の思索の成果をそのまま受け容れることを意味する。しかし、私にどれほど似ている他人であるとしても、やはり、他人の思考の枠組みは、私の思考の枠組みとは異なる。著者が考えたことを著者の身になって理解することは、精神の力を消耗させるとともに、自分にもともと具わっていた枠組み、つまり「本当の自分」のようなものを掻き消してしまう……、読書を否定的に評価する人々の見解の最大公約数は、このように表現することが可能である。

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 この「本の読みすぎ」の最大の犠牲者として文学史に登場するのが、セルバンテスの長篇小説『ドン・キホーテ』の主人公である。彼は、中世を舞台とする騎士道物語を来る日も来る日も読み続け、そのせいで、自分の本当の姿を見失い、自分が騎士「ドン・キホーテ」であると思い込むようになった人物である。騎士道の世界に完全に憑依され、狂気の世界に迷いこんだ主人公には、目に映るもののすべてが騎士道物語を構成する要素となる。これは、読書の過剰が惹き起こす、滑稽でもあり悲惨でもある一つの症例であると言うことができるかもしれない。

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 それでは、読書の害悪から逃れるにはどうしたらよいのか。

 もっとも簡単な、そして、基本的には唯一の方法は、本を読むのをやめ、(もちろん、スマホをいじるのをやめ、)他人の言葉に耳を傾けるのをやめることである。そして、掻き消されてしまった「本当の私」が私の内部で声をあげるようになるのをじっと待つことである。

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 この「待つこと」とは、何かを待ってはいるが、何を待っているのかよくわからない「待つこと」である。もちろん、私が待っている相手は、私――「本当の私」――以外ではありえないのだが、その私の正体は、さしあたり、私にはわからない。また、いつ私が姿を現すのかも、私にはわからない。この意味において、私は、不安に満ちた待機――ただ待つだけ――の時間を経験することになるはずである。