Concerned

 私たちは誰でも、他人とのコミュニケーションを避けることができない。また、職業や社会的な立場によって割合に多少の違いはあるであろうが、普段の生活の中で出会われる他人のかなりの部分について、私たちは、「あらかじめ完全に知っている」とは自信をもって言うことができないはずである。初対面であるとか、親しいわけではないとか、このような相手と向き合うときには、相手にどのような態度を示すのが適切であるのか、決められないことが少なくない。

 もちろん、たとえば、ツイッター上で独善的な態度で誰かに罵声を浴びせることが目的であるなら、相手の適切な遇し方に関し悩むことはないであろう。ネット上の私刑にコミットする者は、対人関係ではなく娯楽を求めているにすぎないからであり、これは、動物虐待と基本的には同じことだからである。あるいは、セールスを目的とする電話や戸別訪問を試みる場合にも、応対に出た者によって言葉遣いを変えるようなことはないはずである。自分が向き合っている相手が誰であるかに関係なく、同じセリフを機械のように口から繰り返し吐き出し続けることがセールスにおいて重要である――本当は違うと思うが――と一般に考えられているらしいからである。

 しかし、このような特殊な状況を除けば、対人関係において、定型的で機械的な「処理」が通用することは多くはない。たしかに、普段から顔を合わせている他人が相手であるなら、そして、これまで繰り返し身を置いてきたような状況のもとにおいてであるなら、相手との接し方に悩むことはないであろう。相手とのコミュニケーションの文脈があらかじめ設定されており、相手との向き合い方は、この文脈が自然な仕方で決めてくれるからである。

 しかし、初対面であっても、あるいは、昔からの知り合いであっても、具体的な状況のもとで、相手への態度を個別に決めなければならないことがある。どのような敬意を相手に示せばよいのか、自分が相手に示しているつもりの敬意が相手に正しく伝わっているのかどうか、頭を悩ませることがあるはずである。

 このような相手は、あなたにとって、何らかの意味において大切な存在であり、大切な存在であるからこそ、あなたは、相手に対し何らかの敬意を抱いていると考えることができる。しかし、上司であれ、家族であれ、恋人であれ、あなたにとって相手が大切であれば、それだけ、あなたは慎重な態度をとらざるをえない。場合によっては、取り返しのつかないことになる可能性があるとあなたが考えているからである。

 あなたは、敬意をめぐる緊張と不安をあなたに強いるような相手、雑な言い方をすれば「気を遣う」相手が大切な存在であると信じている。あなたは、相手が気を遣うに値する存在であると判断しているのである。しかし、このような他人があなたにとって本当に大切な存在であるのかどうか、相手と距離を置き、冷静に考えてみることは、決して無駄ではないように思われる。

 一回かぎりの人間関係であるなら、どのような仕方で敬意を示せばよいのかわからず、悩むことがあってもかまわないであろう。しかし、両親や配偶者や上司のような、普段の生活において、長時間、長期間にわたって空間を共有する他人の場合、相手への敬意の表し方についてたえず悩み続けることがあるとするなら、それは、多くの人にとって苦痛であるに違いない。このような息苦しさを覚えるとしても、もちろん、その原因は、大抵の場合、あなたにあるわけではないし、相手にあるわけでもない。

 この場合、あなたが相手に対して抱いているのは、敬意ではなく、むしろ、恐怖であるかも知れない。他人に対して抱く感情のうち、敬意と恐怖は、「相手があなたに対して何をするのか完全には予想できない」という認識を基礎とする点において一致しており、この意味で、兄弟の関係にある感情である。また、特に恐怖については、あなたが相手に何かを期待しているときに発生する感情であると言うことができる。だから、あなたが敬意をめぐる緊張と不安を強いられるとしても――相手があなたを操ろうとしているサイコパスでないかぎり――原因は、相手ではなくあなたにあると考えるのが自然である。

 だから、あなたの身の回りに、非常に気を遣わなければならないとあなたが考える他人がいるなら、あなたがその他人に対して抱いている感情が敬意であるのか、それとも恐怖であるのか、冷静に考えてみることは無駄ではない。相手に何かを期待して気を遣っているのなら、あなたが相手に対して抱いている感情は、敬意ではなく恐怖であり、その場合には、あなたが相手に期待しているものの正体を確認し、その正体の価値を批判的に吟味すべきである。また、それが、相手に期待するのが適切な何ものかであるのかどうか、みずからに問うことも必要であろう。

 世の中には、あなたが何一つ期待してはないが、それでも、自然な仕方で敬意を抱くことができるような他人というものがいるはずである。また、そのような相手の前では、敬意が適切であるかどうか、などという悩みがあなたの心に生まれることはないに違いない。私たちにとって理想的な対人関係にふさわしいのは、あなたに気を遣わせ、敬意をめぐる緊張を不安をあなたに強いるような相手ではなく、むしろ、あなたが自然な仕方でふるまうことを許すような相手であるに違いない。