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SNSと狂信の深化

 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制約があった。空間のへだたりを超えて「同志」が結びつくことは稀であり、このかぎりにおいて、現在と比較するなら、狂信は散発的、局所的であったと言うことができる。

 しかし、このような制約はSNSによって取り除かれ、今や、狂信者は、ネット上で同志と結びつき、みずからの狂信を強く、そして深いものにしている。狂信者はますます狂信的になり、独善的になって、自分が真実と信じるものにしがみつくようになっているのである。狂信というものの本来の姿が見えるようになったということなのかも知れない。

 狂信は、宗教の専売特許などではない。私たちは、健康情報から政治まで、社会のあらゆるところで狂信に出会う。ただ、あらゆる種類の狂信者は、自分の意見を絶対に変えないことにより、言論空間の「デッドスペース」となることを避けられない。狂信者たちというのは本質的に全体主義的だからであり、意見の多様性というものを少しも認めないからである。だから、立場をいくらか異にする狂信者たちのあいだで話題になりうることがあるとするなら、それはただ1つ、「どちらが『正統』であるのか」という非生産的な問題だけである。

 狂信者を周囲から隔てるのは、「友ではない者はすべて敵」という原則である。「自分の主張は完全に正しい、だから、自分と違う意見の持ち主はすべて悪であり敵である」、このように主張する者の周囲には、同じ意見の持ち主ばかりが集まり、外部に対し暴力的かつ威嚇的な態度をとることが少なくない。また、このような態度は、周囲とのあいだの壁を高く厚くすることになる。たしかに、あなたが「友ではない者はすべて敵」と公言したら、あなたがどのような意見の持ち主であっても、あなたの周囲にいる人間の大半はあなたから離れ、敵陣へと駆け込むはずである。

思いやりの遮断

 もちろん、自分に同意しない者がいるという事実を謙虚に受け止め、自分の意見が完全に正しいわけではないかも知れないということに思いいたるなら、そして、みずからの立場を冷静に吟味することができるなら、狂信に陥ることは簡単に避けられる。そして、幼稚な思い込みから抜け出し、複雑で多面的な現実へと分け入ってこれを承認することが、本当の意味における人間的な成長なのである。それは、「敵ではない者はすべて友」という原則を引き受けることに他ならない。

 この意味において、狂信というのは、想像力の欠落の裏面であると言うことができる。たしかに、想像力や他人への思いやりをあえて捨て、幼稚な状態にあえてとどまることで、目の前に広がる複雑な世界を単純かつ粗雑に二色に塗り分けることが可能となる。SNSは、同志ばかりを周辺に集めることにより、想像力を動員して複雑な現実とほどよい距離をとる労苦から狂信者を解放することになったのである。SNSが社会にもたらしたのは、一種の野蛮であったと言うことができる。

 公共の空間において表明された言論の価値は、この言論において、どの程度まで反対意見が考慮され、反対意見の持ち主を説得する努力が認められるかによって決まる。合意形成を目標として公表されたものだけが、価値ある言論である。完全に正しい意見など、この世にあるはずがない以上、自分の意見が絶対に正しいことを前提として、信じたいものだけを信じ、意見を異にする他人を非難するだけの言論は、単なるノイズとして斥けられるべきであると私は考えている。「偽ニュース」というのは、信じたいものだけを信じる狂信者が産み出し、流通させているものである。したがって、「偽ニュース」を駆除するもっとも効果的な方法は、事実をチェックすることではなく、むしろ、言論空間のノイズを断固として排除し、狂信者の言葉に耳を貸さないことであるように思われるのである。