And a time to share

 何か新しいものが私の思惑とは無関係に身の回りに出現すると、恐怖を感じることがある。これは、老化の徴候であると一般に考えられている。人間は、年齢とともに、新しいものにすぐには適応することができなくなって行くものだからである。だから、なじみのある環境を構成している無数の要素のうち、何か1つでも変化すると、平静を失うことすらある。

 しばらく前、年長の、しかも、長年にわたる知り合いの一人が引っ越しをしたらしい。正月に届いた年賀状の片隅に、引っ越した理由と新しい住所が小さく印刷されていた。私が覚えているかぎり、その知り合いが引っ越したことは一度もない。それどころか、私が聞き及んでいる範囲では、私が知り合いになる前から、この人物は何十年も同じところで暮らしていたのである。だから、私の生活環境を形作る無数の情報のうち、この知り合いの住所は――「三越が日本橋にある」というのと同じくらい――変化とは無縁の固定的な事実であり、この知り合いの住所を書くのに、住所録を見る必要はなかった。

 ところが、この固定的な事実、決して変化することがないと信じていたものが、ある日、事実ではなくなり、そして、私は、この変化に少し慌てた。「1人の知り合いが引っ越したくらいで、何を慌てているのだ」といぶかる人がいたら、その人の精神はとても若々しいと言ってよい。あるいは、それは、「人生とはそういうものだ」という達観をすでに獲得した人である。残念ながら、私は、これら2つのいずれでもない。だから、新しい要素が生活の中に意のままにならない仕方で出現するたびに、これがどれほどつまらないように見えるものであっても、みっともない仕方で小さく慌てる。さらに、新しい要素に完全には慣れないうちに、さらなる新しい要素が日々の暮らしに闖入するかも知れない……。私にはまだよくわからないけれども、このようなことが積み重ねられて行くうちに、私にとり、世界は少しずつよそよそしいものになり、現実の変化への対応がさらに難しくなって行くのであろう。

 以前、次のような記事を投稿した。


老いのきざし : アド・ホックな倫理学

どれほど頑張っても、若者には老人のものの見方を理解することができない 髪が薄くなったり、疲れやすくなったり、食欲がなくなったりすると、齢をとったなと感じる。また、若いころにはなかったようなタイプの身体の不調を覚えるときにも、年齢を感じることがある。 しか

 上の記事で、私は、老人というものが時間をかけて作られるものであり、疑似体験セットのような装置によって老いを先取りすることが不可能であることを書いた。もちろん、齢をとることは、決して悪いことばかりではない。この点は、次の記事に書いたとおりである。

年齢を重ねてよかったと思えること 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

現代は、若さが異常に高く評価される時代である。若くないことに積極的な価値が認められることはなく、年齢を重ねることは、単なる若さの喪失であり、「老化」にすぎぬものと捉えられることが少なくない。「アンチエイジング」なるものに狂奔する女性が多いのは、そのせい


 人間を動物の一種と見なすかぎり、新しいものへの不適応は好ましくないことであり、一種の不幸であるには違いない。しかし、おそらく、年齢をしかるべき仕方で重ねるなら、老人は、この動物的な不幸を乗り越え、むしろ、環境を自分にとって都合のよい仕方で解釈し再編成し、環境への不適応すら飲み込んでこれを知的生産への刺戟に変えてしまう強力な「造形力」を獲得し発揮することが可能であり、このかぎりにおいて、若いときよりも幸福になることができるように思われる。実際、ゲーテやカントのように当時としては驚異的に長生きであった天才たちの知的生産性は、晩年になってから衰えることはなく、彼らが老年の不幸をしきりに嘆いたという話を聞いたこともない。ことによると、彼らは、例外的少数であるのかも知れないが、それでも、このような例外的少数を模範として努力することは決して無駄ではないに違いない。