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老年と老害のあいだに必然的な結びつきはない

 年長者の何らかのふるまいが社会集団の健全な変化を阻碍したり、社会集団の姿に歪みを与えるように見えたりすることがある。このようなとき、私たちは、そこに排除すべき何ものかを認め、そして、これを「老害」と呼ぶ。

 「老害」というのは、老人を主体とする迷惑な言動全般を指す言葉ではない。たとえば、杖をついた老人が通勤時間帯の混雑した電車に乗ることは、通勤客にとっては迷惑であるけれども、これは、「できれば遠慮してもらいたいふるまい」であるにすぎず、決して「老害」ではない。(ただし、これから述べることからわかるように、このような老人が大量に現われ、電車の利用に関するルールを自分たちに有利に変更するよう鉄道会社に集団で圧力をかけるようになれば、これは老害と見なされる。)

 さらに、老害は、物理的な年齢によって惹き起こされるものですらない。集団全体に影響を及ぼすような意思決定に関与する立場にない者は、年齢には関係なく、老害とは無縁である。

 老害は、ある輪廓を具えた社会集団の内部において相対的に老人と見なされうる者が重要な意思決定に与るときに観察されることが多いものであり、老害の主体は、必ずしも高齢者ではない。たとえば、大学生が学内で作るサークルにおいて、相対的な年長者のふるまいがサークル全体の利益を損なう専横として年少者の目に映るとき、年長者のふるまいは老害と認められる。このようなとき、老害によって集団の利益を毀損する者の年齢は、20代前半であろう。

 言葉のこの使用法を前提とするなら、老害の主体となる者のうち、本物の高齢者がむしろ少数であること、「老人」と呼ばれる年齢に達していない者の特殊な形態の専横が老害として注意を惹くことがわかる。老害を産み出すのは、物理的な年齢ではなく、社会集団における相対的な地位なのである。

老人的な専横の本質は怠惰である

 とはいえ、もちろん、特殊な形態の専横が「老害」と呼ばれ、何らかの意味における老化と結びつけられてきたことに理由がないわけではない。というのも、みずからの個人的な経験の過大評価が老害の根本的な原因だからである。

 経験の蓄積、この経験の過大評価、そして、経験の過大評価に由来する不当な自信、そしてこの不当な自信と一体となった視野の狭窄、視野の狭窄が原因で起こる判断の歪み……、このようなものが、全体として、年齢にふさわしくない精神的な「老い」の徴候と見なされ、そのため、「老害」と呼ばれることになったと考えるのが自然である。老害の原因は精神的な怠惰、つまり、自分の経験の地盤をたえず掘り崩す努力の忌避にあると言うことができる。

 したがって、年齢に関係なく、自分が周囲に影響を与えうる立場にあると信じるすべての者が老害に囚われる危険にさらされていると言うことができる。実際、私の見るところ、上記のような老害の特徴は、年長の人間に見られるばかりではなく、むしろ、人生経験の量が相対的に少ない若い世代において明瞭な形で確認することができる。

 たしかに、自分と同じ年代の人間、自分と同じ職場の人間、自分と同じ業界の人間……、生活のパターン、使う言葉などを共有している人間たちのあいだで支配的な価値観を唯一のものと信じ、まったく異質な考え方、まったく異質なライフスタイルを認めようとしないことは、狭い集団の内部では老害とは認められず、むしろ、高度な「コミュニケーション能力」の前提となりうる。それでも、広い世間を全体として1つの集団と見なすなら、これは、社会における意思決定を歪める老人的な専横となり、精神の老化の徴候として受け止められねばならないに違いない。

経験は、懐疑の試練を経て本当の意味での経験となる

 実際、年齢に関係なく、自分の狭い個人的な経験のみにもとづいて得られた自信はつねに不当である。というのも、本当の意味における自信あるいは自己信頼の前提となるような経験とは、薄っぺらな「成功体験」によって作り出されるのではなく、反対に、徹底的な懐疑の試練を経て生まれるものだからである。

 本当の意味において豊かな経験は、人間の精神を老化させるのではなく、むしろ、これを若返らせるはずである。つまり、人間は、経験を積み重ね、大人になるほど、それと同時に、個人の狭い経験から自由になり、この意味において子どもになる。(現実の子どもには、子どもの本質である「無垢」(イノセンス)が認められない。このかぎりにおいて、現実の子どもは、偽りの子どもであると言うことができる。

 大人になるとは子どもになることなのである。