Breakup

「みんないなくなっちゃった」

 「会者定離」という言葉がある。仏典に由来する表現である。これは、知り合いになった者とは別れるのが必然であることを意味する。

 たしかに、どれほど愛着のある相手でも、いつかは別れなくてはならない。生に死が内在しているのと同じように、「知り合う」ことのうちには「別れ」が内在しているのである。このかぎりにおいて、「知り合うとは別れることである」と言うことが可能である。

 不思議なことに、誰かと知り合いになるとき、私たちは、新たな「つながり」や「絆」を寿ぐばかりであり、別れは必ずやって来るのに、この相手との別れを最初から心に浮かべることは滅多にない。

 しかし、別れという観点から人生を冷静に振り返るなら、私たちは、知り合いになった他人のほぼすべてと別れていることがわかる。今のところ身の回りにいる他人はすべて、まだ別れていない相手であるにすぎないのであり、やはり、別れを避けることはできないのである。

 子どもや若者の場合は事情が違うかも知れないが、すでに私くらいの年齢になると、祖父母を見送り、両親を見送り、叔父や叔母を見送り、師を見送り、同僚を見送り、飼っていた犬や猫を見送ってきたのが普通である。また、同じくらいたくさんの人々と喧嘩別れし、さらに、その何倍もの人々が私の視界から勝手に姿を消した。

 私の場合、私が生まれた時点で存命だった親族は、もはや一人もこの世にはいない。だから、私の現在の対人関係を形作っている人々は誰も、私の生まれたときのことを知らない。それどころか、私の周囲にいる人々の大半は、この10年くらいのあいだの新しい知り合いである。

 私はときどき、昔のことを思い出し、そして、次のようにつぶやく。「ああ、みんないなくなっちゃった」。これは、20年くらい前、親しい知り合いの葬儀の席である親類がつぶやいた言葉であるが、最近、私の口からも同じセリフが口から出てくるようになった。

他人とともにあるとは、別れとともにあること

 人間はつねに他人とともにあることによって本当の意味における人間となる。あるいは、完全に孤立して生きることは不可能である。これは、古代から現代まで、人間的な存在の意味を問う哲学者たちが繰り返し語ってきたことである。

 人間的な生存には他人が必要である。そして、他人との付き合いには、必ず明瞭な端緒があり、端緒があるかぎり、その付き合いには必ず終わりが来る。つまり、人間は、人間であるかぎり、別れを避けることができないのである。

 これは、人間が人間であるかぎり死を避けることができないという以上に重要な真理であるように思われる。(もちろん、死の規定によるけれども、)死は、生に内在しているかぎりにおいて、人間に固有のものではない。これに反し、他人との付き合いが人間を動物から区別する標識であるなら、別れから逃れることができない点、いわば「別れへの存在」である点に人間の人間である所以を求めることは不可能でもなく不自然でもないことになる。

 そして、他人とともにあることによって人間が人間であるなら、人間は、別れとともにあること、他人との別れに対して何らかの態度をとることによって初めて人間であると言うことができる。

 たしかに、別れには、私のあり方の喪失という意味がある。特に、親しい他人、付き合いの長い他人との死別は、共有するものが大きいだけに、残された者にとってつねに大きな傷となる。けれども、別れによって負うかも知れぬ傷を、私たちは決して避けてはならず、むしろ、これを静かに受け止め、そして、後ろを決して振り返ることなく、力強く先に進むべきであり、また、先に進まざるをえないのであろう。