AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 雑談

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 私の自宅からもっとも近い繁華街は、新宿か吉祥寺である。特に、都心方面に出かけるときには新宿を必ず通過するため、乗り換えるついでに食事することがある。

 何年か前、夕方の早い時間に、新宿駅の近くの、乗り換えに便利な場所にある飲食店に入り、夕食をとったことが2回ある。(それは東京を中心とするチェーン店らしいのだがが、私は、他の店には入ったことがない。)

 そして、この店で、私は、強烈な違和感に襲われた。料理がまずかったのではない。また、値段が不当に高かったわけでもない、むしろ、新宿の飲食店としては、安い方なのではないかと思う。しかも、少食の私にはあまり関係ないけれども、ご飯のお代わりが無際限に可能になっており、食べ方によっては非常に割安ですらあるかもしれない。(ここまで説明すれば、どの店のことであるか、おおよそ見当がつくのではないかと思う。)

 私に違和感を与えたのは、店員の言葉遣いである。いや、正確に言うなら、ただ1つの表現である。それは、私が、あるいは、他の客が何かを注文すると、そのたびに、注文を聞いた店員が厨房に向かって「○○(←注文したメニューの名前)いただきました!」と叫ぶのである。私の注意は、この「いただきました!」に否応なく惹きつけられ、私の脳の中では、赤い警告灯が点滅を始めた。これは、「いただきました」という表現の明らかな誤用だからである。

 私たちの日本語の常識に従うなら、(助動詞としてではなく)独立の動詞として使われる「いただく」は、「貰う」の待遇表現である。しかし、私は、店員に対して料理を与えたわけではない。反対に、この状況のもとで何かを与えているのは、私ではなく店員の方でなのである。店員が叫ぶ「○○いただきました!」が誤用と見なされなければならない理由である。

 とはいえ、「○○いただきました!」が誤用であるという主張には、次のような反論が可能であるかもしれない。すなわち、この場合の「いただきました!」は、「御注文いただきました!」の短縮形であって、「○○を御注文いただきました!」と叫ぶと長くなるから、「を御注文」の部分を省略しているのである、したがって、ここでの「いただく」は動詞ではなく助動詞として理解されるべきである、云々。


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 私は、この反論について、次のように考える。つまり、「を御注文」を省略することは許されない。なぜなら、省略することが許されるのは、省略しても意味が基本的な変化を被らないかぎりにおいてであるが、この場合、「いただく」の意味が完全に変化してしまうからである。

 結局、私がこの飲食店を訪れたのは2回だけであった。店の看板を見るたびに、店員の「○○いただきました!」という日本語として正しくない叫び声が耳に蘇り、間違った日本語を聞きたくないという単純な理由で、その店には足が向かなくなってしまった。(店に入って注文し、「○○いただきました!」という叫び声が聞こえたら、私の方が「出た!」と反射的に叫んでしまうかもしれない。)

 なお、この「いただきました!」に対する違和感について、すでに誰かがネット上で発言していないかどうか、検索してみたけれども、この問題には、まだ誰も注意を向けていないようである。それなりに興味深い問題であるはずなのだが……。

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 親族が亡くなって遺品を整理していると、日記が見つかることがある。これは、処理の難しいタイプの遺品である。故人と親しくなければ、親しくないなりに、しかし、親しければ親しいなりに、扱いに困るのではないかと思う。

 日記に記された情報には、大きく2種類を区別することができる。1つは「今日は……をした」「今日は……に会った」というような単純な事実の報告、もう1つは、意見や感想や決意表明などである。ほぼすべての場合において、両者は1人の日記に混在しているけれども、混合の比率により、おのずから日記の性格が決まってくる。

 日記がブログと異なるのは、基本的に公開を前提とするものではなく、したがって、日記をつけている本人に理解可能であることしか記されていない点である。だから、記されているのが事実の報告であるとしても、見ず知らずの読者の目に触れることは想定されていないし、意見や感想や決意表明などについては、もちろん、その背景が説明されているわけでもない。それどころか、他人に読まれる可能性があるなら決して記されなかったようなことが日記には書きとめられていることすらある。

 また、故人がパソコンやスマートフォンで日記をつけていたのでなければ、日記は、ノートというブツの形で遺されることになる。故人が手で書きつけていたものというのは、しかし、どこか生々しく、手に取ることをためらわせる。これもまた、ブログとは異なる点である。

 それでも、事実だけが淡々と書きとめられている日記――いわば「外面の日記」――は、まだよい。問題は、自分の心情が切々と綴られた日記である。日記を書いた本人をあらかじめ知っている場合、単純な事実ではなく、感想、印象、決意表明などによって埋め尽くされた日記――いわば「内面の日記」――を見つけると、どのように反応すればよいのか、途方に暮れてしまうことがある。日記の主と親しく、かつ、本人の印象が日記の文面を連想させるようなものではなかったとき、故人の思い出が決定的に、かつ不可逆的に変質してしまう可能性がある。


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 私自身、もう何年も前、比較的近い親類が亡くなったとき、つけていた日記を見る機会があった。残念ながら、これは、客観的な事実の報告をほとんどまったく含まない「内面の日記」であり、2ページか3ページ読んだところで、私は、軽い吐き気に襲われた。その日記は、今では私の手もとにあるけれども、それ以来、一度も手に取ってはいない。吐き気に襲われたのは、他人には決して覗かれたくない部分、しかも、決して美しいとは言えない部分を覗いてしまったからであり、覗かなければよかったという後悔の念で心が満たされたからであり、さらに、故人との関係がそれによって変質してしまったからであるに違いない。

 日記の主が故人であり、日記が自分の手もとにあるなら、これを読むことは誰によっても禁止されてはいない。しかし、故人の日記を読むことは、故人と自分との距離によっては、自分の人生の大切な思い出を変質させる危険な試みであり、故人の日記は、何らかの仕方で公刊するというようなことでもないかぎり、読まない方が無難であるように私には思われる。

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少し「せこい」ことは確かである

 10日ほど前から、タレントの「グッチ裕三」氏が、みずからが出演した番組内で複数回にわたり宣伝した東京のメンチカツ専門店が氏自身の親族によって経営されていたものであることがわかり、ネットニュースやSNSで繰り返し批判的に取り上げられている。

「グッチ裕三」紹介のメンチカツ屋、自身がオーナーだった 周囲からは苦情 | デイリー新潮

グッチ裕三「ステマ騒動」でタレント活動に危険信号 NHKから干される可能性も? - エキサイトニュース

 自分の親族が経営にかかわっているという事実を隠して店を宣伝することが、テレビの視聴者のあいだで「ステルス・マーケティング」に相当すると見なされたからである。


浅草メンチ

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 たしかに、「グッチ裕三」氏の親族が経営する店であるという事実が伏せられていたことは、視聴者にとっては、決して気持ちのよいものではないであろう。

 ただ、そうであるからと言って、「グッチ裕三」氏の発言をただちに「ステマ」として批判することが許されるわけではないように思われる。

 理由は2つある。

〔第1〕「ペニーオークション」とは異なる

 私たちが「ステマ」という言葉を耳にしてただちに連想するのは、今から5年前、2012年に明らかになった「ペニーオークション詐欺事件」であろう。少なくとも日本の場合、これが「ステマ」の典型と見なされていることは確かである。

 それでは、「『ペニーオークション詐欺事件』で明らかになったようなもの」と「ステマ」を定義するなら、今回の「グッチ裕三」氏の事件は、「ステマ」に含まれるであろうか。答えは、明らかに「否」である。今回の件をこの意味における「ステマ」に分類することはできない。なぜなら、今回の問題はただ一つ、「グッチ裕三」氏が自分が紹介した店の経営に親族がかかわっていることを明らかにしなかった点だけだからであり、

    1. 氏が紹介した店で商品を購入するため代金を支払ったが、商品を受け取ることができなかったわけではなく、
    2. 不当に高額の代金を要求されたわけでもなく、
    3. 購入した商品の品質が氏の紹介よりもいちじるしく劣っていたわけではなく、
    4. 問題の店で購入された商品が原因で健康被害が発生したわけでもないからである。

 つまり、ここでは、法律の範囲内における普通の商行為が成立していたのであり、消費者が客観的な証拠をともなう何らかの損害を被ったわけではないのである。

〔第2〕ブログやSNSではなく民放のテレビ番組内での紹介であった

 第二に、民放の番組内で出演者が何らかの「店」や「商品」を紹介するときには、誰がどのような文脈で紹介するものであるとしても、(ニュースやドキュメンタリーを除き、)最低限のメディア・リテラシーを具えた視聴者なら、これを何らかの意味における「宣伝」として受け止めているはずである。旅行ガイドブックに掲載されている飲食店や土産物屋の記事が基本的にすべて広告であるのと同じことである。

 民放のテレビドラマなど、基本的には「動くファッションカタログ」であると言うことができるけれども、もちろん、放送局がテレビドラマを勝手に「動くファッションカタログ」に仕立て上げたのではない。テレビドラマを「ファッションカタログ」として視聴する傾向が視聴者の側にもともとあり、放送局は、視聴者の需要に応えているにすぎないのである。

 今回の場合、問題の店が紹介されることになったのは、氏の親族が経営にかかわっている店以外に、番組で宣伝するのに適当な店が見当たらなかったからにすぎないと考えるのが自然である。

 たしかに、「グッチ裕三」氏がみずからブログやSNSで店を紹介していたなら、これは「ステマ」(厳密には「ネイティヴ広告」と呼ぶべきであろう)に当たる。ブログやSNSは、「広告媒体として使うことができる」だけであり、民放のテレビ番組とは異なり、それ自体は広告媒体ではないからである。それでも、視聴者がブログやSNSを使って「グッチ裕三」氏の紹介を拡散させたとしても、それは、視聴者の責任であり、「グッチ裕三」氏とは関係がない。

 民放の番組が全体として「広告的」であることを知らずに視聴している者には、「グッチ裕三」氏を批判すべきではない。批判する前に、最低限のメディア・リテラシーを身につける努力をまずすべきであろう。

民放のテレビ番組にそこまでの「潔癖」を求める理由がわからない

 そもそも、私には、視聴者が民放のバラエティ番組にそれほどの「潔癖」を求める理由がわからない。

 たしかに、問題の店の客の大半が、メンチカツを購入するためだけに「グッチ裕三」氏の親族が経営する店に遠くから足を運び、何時間も待って商品を手に入れるのであるなら、店の商品の価格や品質は、移動や行列のために費やした時間、体力、交通費などに見合うものであるのかどうか、厳しく吟味されるであろう。

 けれども、今回の件で問題になったのは、商品を購入するために遠くからわざわざ足を運ぶような店ではない。店が想定するのは、主に観光地を訪れた旅行者の買い食いであるはずである。つまり、客の大半は、現地を訪れた「ついで」にメンチカツを購入するのである。(だから、メンチカツを食べることをそれ自体として目的とする客のために、問題の店は、商品の通信販売を実施している。)

 したがって、もともと問題のメンチカツの品質が旅行者一人ひとりの「観光」に与える影響は大きいものではなく、上述の「ペニーオークション詐欺事件」とは異なり、「『グッチ裕三』の紹介」であることに引きずられて「買わされてしまった」ことがあとからわかったとしても、今度は、この事実が、旅行を形作る経験の一つになるはずである。(メンチカツが非常に不味かったとしても、同じことである。)

 今回の件で「グッチ裕三」氏を非難している視聴者というのは、氏のことがもともと嫌い――私も、別に好きではない――であるか、あるいは、民放のバラエティ番組が「公正中立」(?)であるという幻想を抱いているかのいずれかであるように思われるのである。

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 数日前から、まったく元気が出ない。

 そこで、私は、この体調不良の原因が暑さにあるに違いないと推測し、パソコン――私は、スマートフォンのいわゆる「フリック入力」が何年使っていてもうまくできない――で「夏バテ」を検索した。そして、検索でヒットしたページを開き、「水分と電解質を摂りましょう」とか「体温調節を心がけましょう」とか「睡眠を十分にとりましょう」とか「ビタミンB1が重要です」とか、このようなありがたいアドバイスをいただいてから、「もう全部やってるよ」とつぶやきブラウザーを閉じる。

 そのときに思い出したことがある。それは、去年もまた、まったく同じ操作をパソコンを前にしていたということである。それどころか、少なくとも10年近くのあいだ、毎年6月から8月までのどこかの時期に、必ず同じ「夏バテ」というキーワードでネットを検索し、ありがたいアドバイスをいただき、そして、「もう全部やってるよ」とつぶやきながらブラウザーを閉じることを繰り返してきたということが曖昧な記憶から蘇ってきたのである。

 これを記憶力の低下を証する格好のよくない話として受け止めるか、それとも、自分で覚えていることから解放されたインターネット時代にふさわしいふるまいと考えるかは人によって異なるであろうが、少なくとも私自身は、前者のように理解した。つまり、暑いときには、自分の体調不良の原因を暑さのせいにして「夏バテ」を調べるが、暑さが終わってしまうと、夏バテのことをきれいに忘れてしまう、「夏バテ」の検索が夏ごとの恒例になっている自分にいくらか呆れたのである。

 年中行事のように検索しているキーワードは、「夏バテ」以外にもあるに違いない。しかし、自分の馬鹿さ加減が検索の動向からわかるというのは、ありがたいことではない。ことによると、検索履歴のデータを呼び出し、「去年の今ごろ検索していたキーワードはこれです」など教えてくれるお節介なサービスが生まれるかもしれないが、たとえこのようなサービスがあっても、私自身は、絶対に利用しない。去年の今ごろ、「夏バテ」を検索していたことがわかっても、悔しいことに、今年もまた「夏バテ」を検索しないわけには行かないからである。

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ライブは出演者のためのものか、それとも、客のためのものか

 以前、次のような記事を投稿した。


寄席で笑えなかったらどうしよう 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

トークイベントでスピーカーが冗談を言ったら、面白くなくても笑うべきか しばらく前、あるトークイベントを見物に行った。そして、行かなければよかったと深く後悔した。理由は簡単である。あまり面白くなかったのである。 いや、正確に言うなら、「あまり面白くなかった


 トークイベントに行ったら、スピーカーの冗談に笑えなくても、冗談に付き合って無理に笑顔を作るべきなのか、また、寄席に行って笑えないときにもまた、無理に笑い声を立てるべきであるのか、それとも、面白くなければ仏頂面していてもかまわないのか。上の記事では、この問題を取り上げた。これらはいずれも、答えのない問いであり、唯一の現実的な解決策は――非常に窮屈な話ではあるが――「スピーカーが意図したように反応する自信がないのなら、ライブには行かない」ことに尽きるように思われる。

ライブが「信者」の集会になる危険

 しかし、出演者が望むように反応することに自信がある者だけがライブに行くことになると、ライブの会場に集まるのは、出演者の機嫌をとる信者ばかりになってしまう。これでは、ライブというのは、客のためのものではなく、出演者のためのものとなってしまうのである。そして、客が払う代金は、一種のお布施になる。実際、信者がスピーカーを満足させる集会と化したイベントに、私は、一度ならず行ったことがある。もちろん、このようなイベントがいくら積み重ねられても、それは、信者のあいだで消費されるばかりであり、出演者自身の「芸」の上達を促すことはないように思われる。

ビデオが「芸」の自由な吟味を可能にする

 しかし、出演者の機嫌はとりたくないが、出演者の芸は見てみたいという欲求を満足させることができないわけではない。録音されたものや録画されたものを再生し、これを鑑賞すればよいのである。

 舞台で演じられる芝居や歌舞伎なら、ビデオ(具体的にはDVDやブルーレイ)を観て、気に入らないところがあれば、画面に向かってケチをつけることができる。また、冗談が面白くなければ、無理をして笑う必要などない。「つまらねえ」とか「ひっこめ」とか叫ぶことが許されている。

 もともと、すべての客には、出演者に対し「つまらない」と意思表示する権利があるはずであるけれども、なぜか、最近のライブは、このような健全な批評を許さない信者の集会へと堕落していることが多い。(場合によっては、映画もまた同様である。)だから、自分の好きなように落語や芝居やイベントを自由に享受することを望むのなら、ライブからは距離をとり、録音や録画を利用すべきなのであろう。そして、出演者の芸が録音や録画による鑑賞に耐えなかったら、それは不十分なものであると考えるのが適当であるように思われる。

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