AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 雑談

Subway

 電車に乗っていると、バックパック、書類鞄などを床に直接置く乗客が少なくない。それどころか、買ったばかりの高価な衣類が入っていると思われる専門店のロゴが印刷された紙製のショッピングバッグや、生鮮食品が入ったプラスチック製のショッピングバッグ(=いわゆる「レジ袋」)を床に無造作に放り出したり、これを床に引きずったりしている客を見かけることもある。

 しかし、荷物を直に床に置くことは、2つの意味において避けるべき行動であると私は考えている。

衛生面での上と下

 床あるいは地面は、どれほど掃除が行き届いているとしても、途方もなく不潔であり危険に満ちていると考えるのが自然である。少なくとも、これは、人間の手や舌と接触することは想定されていない領域であるはずである。(だからこそ、人間は、靴を履いて足の裏を保護するのである。)

 スーパーマーケットで購入した食品が入ったショッピングバッグを電車の床に置く者は、自宅に戻ったら、これをどこに置くのであろうか。屋内の床に置くのであろうか。あるいは、大胆にも、電車の床に長時間接触していたショッピングバッグをそのまま台所の天板の上に置いてしまうのであろうか。私には、そのようなことは、恐ろしくてとてもできない。

 私は、ショッピングバッグを地べたに置くなど決してしないけれども、万が一ショッピングバッグの底面が地べたに接触してしまったら、私なら、自宅では、ショッピングバッグは玄関の三和土に置き、食品だけを台所に運ぶか、あるいは、ショッピングバッグを手に持ったまま台所に行って食品を取り出し、ショッピングバッグの方はどこにも置かずに捨てる。

 電車の床は、無数の足によって踏まれている。そして、これらは、電車の床と接触する以前に、何を踏んでいるかわからない足である。ゴミや犬の糞、有害な物質を踏んだ足が、そのまま電車の床を踏んでいる可能性は高いと考えるのが自然である。電車の床や地面に接触したショッピングバッグの底面が台所の天板にそのまま接触することは、有害な化学物質、雑菌、ゴミなどがそのまま台所に移転することを意味する。「除菌」に狂奔している主婦が地べたに置いた鞄やショッピングバッグによって台所を汚染することは頓着しないとするなら、それは実に不思議な事態であると言わざるをえない。

清潔感における上と下

 しかし、荷物を床に無造作に置く客に違和感を覚えるのは、その姿が私の物理的な衛生感覚を逆撫でするからであるというよりも、むしろ、本質的には、彼ら/彼女らのふるまいに「清潔感にもとづく位置の区別」がまったく認められないように見えるからである。地べたに鞄やショッピングバッグを置くことは、私の清潔感に従うなら、ただ不潔であるばかりではない。それは、本質的に「すべきではない」ことに属する。なぜなら、雑菌や有害物質の有無には関係なく、日本人の常識は、上方は清潔なものであり、下方は不潔なものと見なされるべきであると私たちに教えてきたはずだからである。

 靴を履いたまま屋内に上がらないこと、椅子に坐り、目の前にあるテーブルに足を乗せないこと、床に落ちた食べものはそのまま口に入れないこと、雑巾と衣類を一緒に洗濯しないこと……、これらがルールまたはマナーとして認められてきたのは、上/下が清潔/不潔に対応すると考えられているからであり、清潔/不潔――あるいは清浄/不浄――を空間的な上下と対応させて理解することは、日本人の行動を統制する伝統的な美意識の核心をなすフレームワークの1つである。地べたにものを無造作に置く者たちの姿を目にするたびに、動物的なものを感じるとするなら、それは、このようなふるまいによって傷つけられているのが、物理的な衛生感覚ではなく、むしろ、美意識だからであるに違いない。


Master Control 02

 昨日、NHKで次のような番組を観た。

続ける?やめる? "24時間型社会"ニッポン - 放送内容まるわかり! - NHK 週刊 ニュース深読み

 最近、24時間営業をやめるコンビニエンス・ストア、ファストフード店、ファミリーレストランなどが増えてきたというニュースが取り上げられ、「24時間型社会」の功罪が論じられていた。私自身は――自宅のすぐ裏に24時間営業のコンビニがあるのだが――24時間営業の店を深夜に訪れたことがなく、そのありがたみが実感としてはわからないのだが、それなりの需要があるということなのであろう。

 しかし、夜というのは、常識的には、人間が活動せず、休息や睡眠をとるべき時間帯であるから、この時間帯には、休むわけには行かない特別な施設(警察署、消防署、発電所、気象台など)を除けば、さしあたり業務を中断するというのが自然である。小売店、民間企業、官公庁、公共の交通機関など、日の出とともに順次業務を始め、日没とともに順次業務を終えることにすれば、健康的な社会が出来上がるように思われるのである。

 しかし、これら以上に無駄であるのは、テレビの24時間放送である。21世紀になるまで、テレビ局は、必ずしも番組を24時間放送してはいなかった。だから、昔は、深夜から早朝にかけての何時間かは、テレビのスイッチを入れると「サンドストーム」(砂嵐)――正確には「スノーノイズ」と言うらしい――が画面に現れた。(デジタル放送ではこのノイズは生まれないようである。)


 午前0時から午前5時までは、すべての局が一斉に放送をやめればよい。深夜にどうしても必要なのはニュースだけであり、大きな事件や事故があったときに臨時で放送されれば十分であると私は考えている。テレビが24時間放送をやめれば、製作しなければならない番組の数が減り、その分、番組の質が向上するに違いない。番組を放映する時間を確保するためにチャンネルを増やしたり放送時間を延長したりするのならばともかく、現状では、チャンネルと放送時間を埋めるために、番組を作らざるをえないようになっているはずだからである。

 いや、これだけたくさんのチャンネルがあるのだから、テレビの放送は、どの局も1日8時間程度に制限すればよい。すべての番組の視聴率は上がるであろうし、番組の質もまた向上するであろう。当然、広告料も上がるに違いない。

 テレビの放送時間が減少しても、ネットに視聴者を奪われるのではないかという懸念は杞憂である。不思議なことに、ネット上のコミュニケーションの話題は、今の私がそうしているように、その多くを――ネット上に直に流された情報ではなく――テレビ番組、特に地上波のテレビ番組に仰いでいるからである。テレビ番組の質は、ネット上のコミュニケーション、特にSNSのトラフィックに大きな影響を与える。だから、それぞれの放送局が放送時間を短縮し、番組の質を向上させるなら、それは、社会全体に好ましい影響を与えることになるはずである。


Retrospective Dining

 21世紀に入ってからもう16年になるが、この間、「昭和レトロ」、あるいはこれに似た表現を耳にする機会が増えた。「昭和レトロ」として再現されるのが具体的にどの時代であるのか、明確なことはわからないが、おそらく、それは、現在60代後半、つまり団塊の世代とその前後の人々にとっての「昭和」なのであろう。すなわち、昭和30年代末までに子ども時代を経験し、昭和40年代後半から50年代前半に社会に出た人々が懐かしく回顧する過去が「昭和レトロ」として生産され消費されている記号であると考えることができる。

 しかし、昭和というのは、足かけ64年間も続いたきわめてながい時代であり、生まれた年が数年違うだけで、「昭和像」はまったく異なるはずである。昭和という年号が使用されていた時代に共通のものというのは、決して多くはないように思われるのである。

 たとえば、昭和10年前後に生れた人々は、小学校高学年で敗戦を迎え、黒塗りの教科書を使った時代を経て、昭和20年代後半から昭和30年代前半の騒然とした雰囲気の中で社会に出て、高度経済成長期に働き盛りの時期を過ごし、そして、バブルの崩壊からしばらくして社会の第一線を退いたはずである。このような人々が思い描く昭和は、団塊の世代の考える「昭和レトロ」とは異なり、よく言えば過去の時代の延長上に位置を占める昭和であり、悪く言えば、キナくさい政治と戦争の時代としての昭和である。この世代にとって、「昭和レトロ」は、自分たちが詳しく知らない若者たちの昭和であるに違いない。

 これに対し、同じ昭和生まれとは言っても、平成になってからの人生の方が長い私のような者――オイルショックは小学校入学前の出来事である――の場合、ものごころがついたときにはすでに東京オリンピックは終わり、東海道新幹線が開通し、人類は月に到達していた。小学校のころに「およげ!たいやきくん」(日本でもっとも売り上げ枚数が多いシングルの記録を持つ)が大ヒットし、「スターウォーズ」が公開された。


 20歳前後で元号が昭和から平成になり、「平成1桁」の時代がほぼ20歳代と重なり、1990年代のいずれかの時期に社会に出たこの世代にとり、記憶にハッキリと残っている昭和というのは、昭和の最後の約10年間であり、その痕跡は、現在でも身の回りにいくらでもある。昭和は、「レトロ」と呼ばなければならないほど古びたものとは思われないのである。(実際、私が卒業した小学校の校舎は、私が通っていた時期に完成し、今もまだそのまま使われている。)

 もちろん、私よりもさらに下の世代から見ると、1980年代など、古色蒼然とした時代――スマホもパソコンもインターネットもなかった――にしか見えないかも知れない。だから、私が直接知る昭和が古くないなどと言うつもりはないし、また、あと20年くらい経つと、「平成1桁レトロ」などという名のもとに、バブル前後の風俗に光が当てられたりするのかも知れないが、あたかも団塊の世代とその前後が昭和生まれを代表するかのように語られることは、他の世代にとり少なからず迷惑であることは確かである。

 ところで、数日前、テレビを観ていたとき、Y!mobileのCMで次の歌の替え歌を耳にした。1983年のヒット曲である。私自身は、聴こうと思って聴いたことは一度もないけれども、当時、街中にこの曲が溢れ、嫌でも耳に飛び込んできたことは、今でもよく覚えている。(ただ、この曲を聴いても、心に浮かぶ感想は、「ああ、懐かしい」ではなく「ああ、あのころは辛かったなあ」である。私の性格が悪いのか、それとも……。)


Drugstore

 2、3日前から体調がよくなかったが、どうも、しばらくぶりに風邪を引いてしまったようである。喉が痛くて声が出ないのは少々つらい。今日は休日だが、午後から仕事がある。出かけなければならないことを考えると、気が重い。

 よく知られているように、風邪に関しては、これを治す薬というものがない。風邪の症状を惹き起こす原因となるウィルスは無数にあるからである。同じように、風邪を引くたびに、個別のウィルスに対する免疫が作られ、そのおかげで、同じウィルスを原因とする風邪にはかからないようになるけれども、ウィルスが無数にあるため、風邪を引かなくなるということは決してない。

 また、風邪を引いたら、基本的にはおとなしくしている以外に回復の道はない。たしかに、薬を飲めば、症状を抑えることはできるが、喉の痛みや発熱などの症状は、異物に対する身体の正常な反応であるから、この反応が起こらないようにしてしまうと、回復がその分遅くなる。だから、早く治りたければ、薬を使うのは最低限にとどめなければならないことになる。


kokuto manju - wagashi

田舎とは郊外である

 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。

 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を運転せず、公共の交通機関と徒歩以外の移動手段を持たない私のような者が地方で実際目にするのは、「田舎」というよりも「郊外」や「片田舎」と呼ぶのにふさわしい空間であり、残念ながら、私には、緊張感を欠いた、しかも――よそ者の私にとっては当然のことながら――よそよそしいその空間の価値がよくわからない。したがって、(世間には、「田舎暮らし」に憧れる人がいるようであるが、)少なくとも今の私には、「田舎暮らし」というのは、あまり魅力的には思えない。自宅から1時間以内の場所に大型の書店があるわけでもなく、もっとも近いスーパーマーケットに行くのにすら自動車を使わなければならない生活というのが人間的であるようには思われないのである。

「田舎風」という居直り

 また、これも東京に住む者の偏見かも知れないが、私は、「田舎」と名のつく商品も好まない。実際、食品の名称で「田舎」の二文字が含まれているものには手を出さないようにしている。たとえば、田舎風の汁粉、田舎風の弁当、田舎風の蕎麦……。「田舎風」という表現は、製品の「おざなり」で洗練を欠いた仕上がり、完成度の低さに対する居直りの表現であり、このような居直りは、いわゆる「民芸品」にも同じように認めることができる。製品の仕上がりがおざなりであることの自覚が作り手自身にあるにもかかわらず、これをあえて「田舎風」と名づけて販売し対価を得ようとするという態度に、私は、何か気持ちのよくないものを感じるのである。

 同じ理由によって、私は、餡を用いた和菓子について「漉し餡」か「つぶし餡」か、いずれかを選ぶことができる場合には、必ず「漉し餡」、つまり小豆の皮が取り除かれたものを選ぶことにしている。というのも、餡の完成形態は「漉し餡」だからあり、「漉し餡」を標準とするとき、「つぶし餡」というのは完成度の低い田舎風のものと見なされねばならないからであり、さらに、「つぶし餡」には、完成度の低さに対する居直りが認められるような気がしてならないからである。

 なお、私は、(関東風の)「ぜんざい」に関し「栗(くり)ぜんざい」と「粟(あわ)ぜんざい」から選ぶことができるときには、断然「粟(あわ)ぜんざい」を選ぶ。(関西風の「ぜんざい」は、東京では「汁粉」と呼ばれている。)家族から「『栗(くり)ぜんざい』を有り難がるのは田舎者」と言われるの聞いて育ったせいもあるのかも知れないが、「栗(くり)ぜんざい」は、つねに何となく魅力に乏しいように感じられるのである。(とはいえ、なぜ「栗(くり)ぜんざい」が田舎風なのか、よくわからないのだが。)もっとも、東京でただ「ぜんざい」と呼ばれているのは、ほとんどの場合、「栗(くり)ぜんざい」であり、「粟(あわ)ぜんざい」が食べられるところは、決して多くはない。


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