AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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エゴサーチには中毒性がある

 以前、次の記事を投稿した。


エゴサーチはやめた方がよい : AD HOC MORALIST

エゴサーチには中毒性がある 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思


 エゴサーチの結果として私たちが目にするものの約80%はネガティヴな内容である。それにもかかわらず、私たちがエゴサーチするのは、これが承認欲求を歪んだ形で満足させるからである。エゴサーチに中毒性があり、エゴサーチすることで不快な思いをすることがわかっていても、自分の名前をキーワードにして検索してしまうのである。エゴサーチというのは、かゆい湿疹をかきむしり続けるようなものであると言うことができる。上の記事では、このようなことを書いた。

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エゴサーチはネットを使ってすることが他にないから

 とはいえ、エゴサーチしてしまうのには、このような内的な事情のほかに、もう1つ、外的な事情もあるように思われる。エゴサーチによって不快な思いをするのがわかっていながら、これをやめることができないのは、「退屈だから」であると考えることができるのである。

 エゴサーチを日課としている――私もそうである――としても、「ネットの主な利用目的がエゴサーチである」という人は稀であるに違いない。むしろ、大抵の場合、日常的なエゴサーチは、主となる仕方でのネット利用のあとで、あるいは、その合間に試みられるはずである。

 そして、この事実から、次のことが明らかになる。

    1. すなわち、エゴサーチすることを思い立つとき、大抵の場合、手持ち無沙汰であり、スマートフォンやパソコンをネットに接続し、あちこちをタップしたりクリックしたりして暇つぶしをしていること、
    2. しかし、スマートフォンやパソコンをいじっているうちに、必要でもないのにこれがやめられなくなる――このようなときには、脳波が睡眠時のような状態になっているようである――と、エゴサーチを思いつくこと、
    3. つまり、ネットに長時間接続している者が辿りつく究極の「ネット遊び」がエゴサーチであること

がわかるのである。


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 もちろん、少し冷静に考えるなら、ネットを使った生産的な活動がいくらでも可能であることは明らかである。しかし、ネットに長時間接続し、頭が朦朧とした状態では、思いつくことの幅が狭くなり、気がつくと、半分眠ったようになって画面をこすったり、キーを叩いたりしていることになる。

 エゴサーチは、脳の活動がもっとも低下した状態で私たちが思いつくネットの使い方であり、エゴサーチを思いつくことが、それ自体として、精神の健全な活動が阻碍されている証拠であると言うことができる。(だから、エゴサーチするときには、大抵の場合、「エゴサーチでもするか」と考えているはずである。)

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グーグルのアルゴリズムは「公平」であるが、決して「中立」ではない

 ネットで検索機能を使う者なら誰でも知っているように、すべての「検索エンジン」は、サイバースペース上にあるウェブページを閲覧し、検索エンジンごとに異なる「アルゴリズム」によって評価している。何らかのキーワードが検索されるたびに、それぞれのキーワードとの関連が強い順にウェブサイトのリンクを表示するわけである。だから、自分の作ったウェブサイトやブログを少しでも多くの人に閲覧してもらいたいと思うなら、検索結果として表示される場合の順位を上げることが必要となる。この努力のことを一般に「検索エンジン最適化」(search engine optimization, SEO) と呼ぶ。

 ところで、検索エンジンのうち、利用者のシェアが全世界でもっとも大きいのはグーグルである。(日本ではYahoo!の方がグーグルよりもシェアが大きいけれども、Yahoo!の検索サービスは、グーグルのアルゴリズムを採用しているから、Yahoo!のシェアの問題は、無視しても差し支えない。)

 したがって、検索結果として表示される順位を上げるSEOは、グーグルのアルゴリズムを標的として進められることになる。

 ただ、グーグルは、検索結果として表示されるウェブサイトの順位を決めるアルゴリズムをたえず小幅に――しかも、当然のことながら予告なしに――変更しているらしく、SEOは、この変更をあとから追いかけるものとならざるをえない。

 もちろん、グーグルのアルゴリズムを変更するのは人間であるけれども、これを個別のウェブページに適用し、検索結果に表示する順位を決めるのは機械である。このかぎりにおいて、グーグルのアルゴリズムは「公平」であると言うことができる。

Google ウェブマスター向け公式ブログ

 ただ、アルゴリズムをどのように変更するか決めるのは、機械ではなく人間である。この点に関し、上の「ウェブマスター向け公式ブログ」には、次のように記されている。

検索ユーザーが素晴らしいサイトを見つけて情報を得る、その手助けのために Google は多くの検索アルゴリズム変更を行っています。私たちはまた、検索アルゴリズムだけの為でなく、ユーザーの為に優れたサイトを作っている方々の努力が、きちんと報われてほしいと考えています。

 「ユーザーの為」の「優れたサイト」が検索結果の上位に表示されることは、それ自体としてはつねに好ましいことである。問題は、「ユーザーの為」の「優れたサイト」の基準をグーグルが決めている点である。言い換えるなら、インターネットにおける検索サイトの使い方を決め、優先的に「手助け」を受けるべきユーザーを決め、これにより、インターネットの使い方自体を決めているのがグーグルである。このかぎりにおいて、グーグルは、「公平」であるとしても「中立」ではないのである。

 しかし、当然のことながら、アルゴリズムが導き出す評価は、結果としては人間による評価と似たものとなるとしても、検索結果を決定する手順は、人間による評価の手順とは似ても似つかないものである。どれほど人工知能が発達しても、アルゴリズムユーザーがネットに求めているものを正確に予測することは不可能であるように思われる。

ネットでカネを稼ごうと思うなら、「アルゴリズムの奴隷」となる以外に選択肢はない

 それでも、ウェブサイトやブログで小遣いを稼いだり、生活の糧を得たりすることを望むのなら、グーグルのアルゴリズムがどれほど頻繁に変更されようとも、また、グーグルがどれほど横暴であるとしても、これに不満を漏らすべきではない。あくまでも「アルゴリズムの奴隷」として、グーグルの顔色をうかがいながら、アルゴリズムの変更に怯えながら日々を過ごす他に選択肢はないと考えるべきである。

 なぜなら、ブログやウェブサイトを見つけるときには、閲覧者の大半(おそらく80%以上)がグーグルの検索結果を頼りとするからである。グーグルのアルゴリズムを考慮せず、SEOを怠るなら、検索エンジンに導かれた閲覧者が減少し、その結果、アフィリエイトに代表される収入が減ることを避けられないはずである。

 ネット上には、「SEOが成功した」「SEOはこうすれば上手く行く」などの自慢話が溢れている。しかし、このような自慢話は、「奴隷の鎖自慢」と本質的に同じものであり、見方によっては痛々しくない。インターネットが作るサイバースペースは、本質的には自由であるけれども、そこにもやはり、奴隷はいるのである。

 なお、「奴隷の鎖自慢」という表現は、もともと、アメリカの詩人であり劇作家であったリロイ・ジョーンズ(LeRoi Jones)(別名アミリ・バラカ(Amiri Baraka))(1934-2014) の言葉「鎖は奴隷の自慢の種である」(the chain is slave's boast) に由来する。

 ネット上で本当に自由になりたいと思うなら、グーグルのアルゴリズムを考慮することなく、SEOに煩わされることなく、誰が見ようと――あるいは、見るまいと――関係なく、書きたいことを書き、発表したいことを発表すべきであろう。検索結果の順位が高くなるとしても、それは、やりたい放題やったことに附随する結果にすぎないと考え、一喜一憂しないのがネット上で何かを発信する際の理想であるに違いない。

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 教室に行くと、そこにいる学生の90%以上がスマートフォンをいじっている。

 電車に乗ると、乗客の90%以上が、やはりスマートフォンをいじっている。

 喫茶店では、客の90%以上がスマートフォンの画面と向かい合っている。

 これは明らかに異常である。人間の文明は、スマートフォンによって滅ぼされるのではないかとすら私は考えている。

 実際、下の記事を俟つまでもなく、スマートフォンが人間の知能の低下にさまざまな観点から貢献していることは、すでに各種のデータにより明らかな事実である。

読解力が危ない(3)~SNS没頭 長文読まず

 しかし、残念ながら、「スマートフォンを持つべきではない」「スマートフォンの使用を制限すべきだ」などという主張は、「核兵器廃絶」と同じくらい困難でありナンセンスである。ひとたび開発され、使用されるようになったものを「なかったこと」にするなど不可能だからである。

 火も、蒸気期間も、電気のエネルギーも、自動車も、原子力も、飛行機も、コンピューターも、いずれも無視することのできない害悪を人間に与えた。それでも、これらを「なかったこと」にはできなかった。

 それでも、これを拒絶するのではなく、可能なかぎり上手にコントロールすることは可能となった。現代では、火をコントロールする技術は高度に発達し、日常生活では、裸の火を目にする機会は非常に少なくなっている。この意味において、火の危険は抑え込まれていると言うことができる。

 スマートフォンについても、事情は同じである。スマートフォンが使われているという事実を前提として、この害悪を可能なかぎり抑えるスキルを身につけなければならない。

 ただ、残念ながら、スマートフォンに代表されるコンピューターとの付き合い方に関し、人類は、有効なスキルを何一つ産み出してはいないように見える。そもそも、「歩きスマホ」すら解消されていないのであるから、事態は全体としてまったく改善されていないと考えるべきであろう。(問題の最終的な解決は、「歩きスマホをやめさせる」ことではなく、「歩きスマホが危険ではないような街づくり」によって実現されることになるような気がしてならない。)





 スマートフォンが社会から姿を消すのは、スマートフォンを一挙に時代遅れにしてしまうような新たなライフスタイル(とその小道具)が作り出され、そして、広く受け容れられるようになるときである。それまでのあいだは、スマートフォンを煩わしいと思う者にできることは、他人に向かって「スマホを使うな」などと叫ぶことではなく、一人ひとりが「覚醒した者」として、個人的な技術を身につけることであろう。スマートフォンとの関係で言うなら、現代は、ライフスタイルの冒険の時代であり、一種の修行の時代なのである。

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SNS上のコミュニケーションは文字から動画へと移りつつある

 最近、次のような記事を見つけた。


 インターネットの使用が拡大し始めたころには、ネット上でのコミュニケーションの大半は、文字を主な手段とするものであった。

 それは、今から振り返るなら、一度に転送することのできる情報量に限界があり、画像を用いることに制約があったからであるのかも知れない。

 このかぎりにおいて、通信速度が向上するにつれて、文字を手段とするコミュニケーションの質が低下し、誹謗中傷や罵詈雑言に代表される文字の破綻した使用が目立つようになったのは、そして、InstagramやPinterestに代表される静止画や動画を主な手段とするコミュニケーションへとSNSの重心が移って行ったのは、特に驚くべきことではないと言うことができる。

 実際、最近では、動画よりもさらに簡単なGIFによるアニメーションがネット上のコミュニケーションの中心になりつつあるという意見もある。


文字では表現することができるが、動画では伝えられないものがある

 しかしながら、文字によって表現することができるものと、動画や音声によって伝えることができるものとのあいだには、大きな隔たりがある。

 たとえば、上の場合のように、殺人を記録して投稿するなど、文字では到底不可能である。リアルな仕方で何かを一度に提示する点において、文字が動画に及ばないことは確かである。何かの「作り方」全般には、動画による表現の方が向いていることになる。

 しかしながら、反対に、文字では表現することができるが、動画では伝えることができないものがある。たとえば、このブログに投稿された記事の大半は、動画にすることが不可能である。というのも、私がブログで記事を公開するのは、事実の紹介のためではなく、問題の解決法を提示するためではなく、何かの作り方を教えるためでもないからであり、むしろ、どちらかと言うと見過ごされがちな、しかし、重要な問題を指摘し、考えることを促すためだからである。

 文字によって構成された記事の場合、読者は、文字とのあいだにある程度の距離を設定し、間接的な仕方でこれを受け止める。記事の内容を受け容れるかどうかを決める前に、自分自身の考え方の枠組みを再確認し熟慮する時間が――数秒かも知れぬとしても――与えられるのである。

 しかし、同じ記事の内容が動画で伝えられるとき、「視聴者」と動画のメッセージのあいだに距離がなく、「視聴者」は、自分の態度を決めるための数秒の熟慮の時間を奪われて内容とのあいだに距離を奪われ、承認するか拒絶するか、即座に反応することを強いられる。そして、動画の内容に同意しない視聴者にとり、動画は、押しつけがましく不快なものとならざるをえない。(実際、このブログの記事のいくつかを動画に「翻訳」してみたが、出来上がった動画は、作った私自身が見ても、押しつけがましいものになった。)複雑な事柄を伝えるのに動画が向いていない理由である。

サイバースペースの荒廃

 とはいえ、ネット上、特にSNS上において、時間の経過とともに読まれる文字数が次第に減少することは必然であり、ネット上のニュースやブログは、文字が中心であるかぎり、次第に読まれなくなって行かざるをえない。遠くない将来、SNS上には画像や動画や音声が氾濫し、わずかに残る文字情報は、嘘、噂、偽ニュース、誹謗中傷ばかりになるはずである。サイバースペースにとり、荒廃した知性の廃墟になるのが運命であるのかどうか、これはよくわからない。ただ、少なくとも私は、動画や画像を用いた刹那的、脊髄反射的な承認/拒絶から距離をとり、文章を読みながら考える「公衆」の存在を想定して、文字による伝達の可能性をしばらくは追求したいと考えている。

Young Cell Phone Addict Man Awake At Night In Bed Using Smartphone

エゴサーチには中毒性がある

 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。

 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思っている。しかし、パソコンの前に坐っている時間が長いせいか、どうしても「エゴサーチ」してしまう。エゴサーチには中毒性があり、タバコやアルコールと同じように、一度習慣になってしまうと、やめることが難しいようである。

 エゴサーチに中毒性が認められるのは、それが、きわめて歪んだ仕方であるとしても、「承認欲求」を満足させるものだからであろう。私の名前が検索の結果としてヒットするのは、誰かが私に注意を向け、私の名前を含む文章をネット上に投稿したからである。エゴサーチでヒットした件数は――自動的に収集された情報が機械的にコピーされたページでないかぎり――私に向けられた注意の量を反映するものとして受け止めることができる。エゴサーチを始めると、やめることが難しいのはそのためであるに違いない。

ネット上の評価の8割以上はネガティヴなもの

 ただ、エゴサーチにより私が目にする検索結果は、大抵の場合、決して好ましいものではない。というのも、私は、職業柄、本名で著書や論文を公表しているけれども、ネット上、特にSNS上で出会う私への言及の大半が批判または誹謗中傷によって占められており、多少なりとも好意的なものは、全体の1割にも満たないからである。だから、エゴサーチするたびに、そして、新しい検索結果を見つけるたびに、私は意気阻喪することになる。

 とはいえ、これは、私の場合が特別なのではなく、ネット上、特にSNS上に公表された誰かに関する評価の8割以上はネガティヴなものであると言われている。
NEWSポストセブン|ネットの書き込みは8割が悪口 エゴサーチやめるのが吉の声│
 エゴサーチを試みると、サイバースペースが恨み、怒り、妬みなどの悪意によって満たされた空間であることがよくわかる。

エゴサーチは、かゆい湿疹をかきむしるようなもの

 エゴサーチは、私の承認欲求を歪んだ仕方で満たしてくれるものである。だから、検索結果を表示するページが誹謗中傷や罵詈雑言によって埋め尽くされているとしても、そして、検索するたびに汚らしい誹謗中傷や罵詈雑言を必ず目にするとわかっていても、エゴサーチをやめることができない。そして、実際に、エゴサーチするたびに、私の心は少なからず傷つき、生活の質は間違いなく損なわれて行く。

 たしかに、ネットの世界には、みずからが「打たれ強い」ことを公言し自慢している人々がいる。このような人々がどのような気持ちで自分に対する誹謗中傷や罵詈雑言を眺めているのかわからないけれども、決して「打たれ強い」方ではない私などにとり、エゴサーチは一種の自傷行為である。

 不特定多数の目に触れるような仕方で作品を公表したり、発言したり、行動したりする人々にとり、エゴサーチの習慣は、一種の嗜癖である。かゆい湿疹のかゆみを解消するため、これをかきむしり、かきむしることで血が流れても、さらにかきむしり続け、これがさらなるかゆみを惹き起こす……、エゴサーチは、これに似た悪循環を私たちの心の中に産み出しているように思われるのである。

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