AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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あまりにも透明なUberEATS

 UberEATSというサービスがある。これは、飲食店のメニューを宅配するサービスである。アメリカでは何年か前からあったようであるが、日本で始まったのは去年(2016年)の秋のことである。

UberEATS、東京で開始!

 サービスの内容は、LINEが”LINE NOW”という名称でごく短いあいだ行っていたのと似たようなものである。

 ただ、LINEのサービスとUberEATSのあいだには、1つの決定的な違いが認められる。それは、LINE NOWの場合、配達するのが専門の業者であったのに対し、UberEATSでは、料理を運ぶのが、主にアプリで業務を受注する素人であるという点である。そもそも、Uberというのは、素人の運転する自動車を使ったタクシー配車サービスであり、この技術を料理の宅配に応用したのがUberEATSである。素人に料理を運ばせることにより人手を安く簡単に確保する点をUberEATSがみずからの武器としていることは明らかであろう。

 しかし、あらかじめ言っておくなら、私は、これを使ったことがない。というのも、”UberEATS”をキーワードにして検索すると、料理を提供する飲食店、配達する人々、そして、利用者の苦情、不満などの記事がいくつもヒットするからである。また、このような記事の中には、配達する者の質や企業のガバナンスについて懸念を抱かせるようなものもある。この点で、UberEATSは、きわめて「透明」なサービスであると言うことができる。(企業の経営方針や戦略が明確であるという意味で「透明」なのではない。)

 たしかに、どのようなサービスでも、開始してまもない時期には、トラブルを避けることができないに違いない。しかし、トラブルが発生するのがやむをえないとしても、このトラブルが万人の目に触れるような仕方でネット上に公表されてよいわけではない。UberEATSのように、ライフスタイルの変革を訴える「近未来的」なサービスが成功するためには――ディズニーランドと同じように――何よりもまず、利用者がサービスに「夢」を抱くことができなければならない。しかし、今のところ、ネットで”UberEATS”を検索し、これを実用的と見なす人はそれなりにいるとしても、これが夢のあるサービスであるという印象を持つ人は、必ずしも多くはないように思われる。とはいえ、現在では、「裏側」が部外者の目にさらされるのは、秘密結社のような特殊な集団でないかぎり、避けられないことであるのかも知れない。

SNSが見せる「裏面」と社会の亀裂

 ただ、この点に関し、1つだけ確実なことがある。それは、サービスの裏側に光が当てられたからと言って、UberEATSから報酬を受け取っている人々に対する同情や共感が心に生まれるとはかぎらず、UberEATSを使ってみたいと思うようになるわけでもないという点である。

 たとえば料理の配達を請け負っている人々の苦情や不満が正当なもの、切実なものであることを決して否定しないけれども、それとともに――婉曲な表現を使うなら――何か理解しがたいもの、気持ちのよくないものを感じる。「こういう形で苦情や不満をあからさまに表明する人たちに料理を届けてもらうのはいやだな」と思ってしまうのである。

 苦情や不満を表明する手続きは、その人の社会的な地位や「社会観」を反映する。UberEATSの場合、料理の配達を委ねられている人々の社会的な地位、あるいは、この地位から見える社会には、SNSを使って不満や苦情を拡散させることを思いとどまらせ、他の合理的な手段に訴えるよう促す力はなかったのであろう。

 同じ日本で暮らしていても、あるいは、同じ東京で暮らしていても、私の目に映る社会の姿は、これらの人々の眺めているものとは大いに異なるかも知れない。社会のどこに位置を占めるかにより、1つの同じ社会が異なる姿のもとで一人ひとりの前に姿を現すのは当然である。けれども、この事実を形式的に理解してはいても、かつては、普段の生活において、これをリアルな仕方で突きつけられ、それによって、利害も立場も異なる人間たちに自分が囲まれていることを否応なく実感する機会は決して多くはなかったように思う。

 私たちが精神的な安定を維持していられるのは、ものの見方、利害、関心などに関し、その多くを共有している人々とのあいだでゆるやかなネットワークが形作られ、このネットワークによって生活が「包まれている」かぎりにおいてであろう。しかし、SNSは、一方において、このようなネットワークを強固なものにする――いわゆる「フィルターバブル」――とともに、他方において、その彼方に、自分とは異質な人々、場合によっては敵意のある人々の存在をリアルな仕方で遠望させ、違和感や敵意を増幅させる役割を担っているように思われるのである。

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 「フェイスブック」か「ブログ」か、と問われたら、私自身は、躊躇なく「ブログ」と答える。

 フェイスブックとブログのあいだには、いくつもの違いがある。たとえば、ブログはグーグルの検索でヒットするのに対し、フェイスブックに投稿されたものは、原則としてグーグルの検索の対象とはならない。あるいは、「友達」との「つながり」がフェイスブックの使用の前提となるのに対し、ブログでは記事を万人に対して公開することができる。フェイスブックが時間の経過とともに流れ去って行く「近況報告」のためのプラットフォームであるのに対し、ブログというのは、記事の蓄積による「ログ」(ウェブログ)になるように設計されている……。しかし、このような点は、この記事に辿りついた人たちにとって自明のことであろう。

 私は、フェイスブックのアカウントを持っていない。以前は、アカウントがあったのだが、フェイスブックを使う機会はほとんどなく、1年くらい前にアカウントを削除した。フェイスブックというのは、何が面白いのか、あるいは、何の役に立つのか、私にはよくわからないサービスであった。

 最近、フェイスブックがブログの代用品として使われることが多いようであるが、私は、フェイスブックのアカウントを持っていないから、フェイスブックに何か記事を投稿している人がいても、私には読むことができない。フェイスブックの記事は、(アカウントで使われている氏名以外は)グーグルの検索でヒットせず、したがって、どれほど有名な作家が書いた重要な記事でも、フェイスブックに投稿されているかぎり、私にとっては存在しないのと同じである。

フェイスブックにはCEOがいるが、ブログにはCEOがいない

 しかし、私がブログを好む最大の理由は次の点である。すなわち、フェイスブックが他との互換性のない独自の規格によるサービスであるのに対し、ブログは、「ブログ」を称するものであるかぎり、規格について最低限の互換性があるという点である。

 ブログに記事を投稿する場合、無料や有料のサービスを使うこともできるし、レンタルサーバを使うこともできる。たしかに、両者にはいくつかの細かい差異があり、完全にシームレスではないけれども、乗り越えることが不可能なほど大きな障壁が異なるサービスのあいだにあるわけではない。

 だから、どこかの企業が提供するブログのサービスが嫌になったら、別のサービスに乗り換えたり、レンタルサーバに何らかのCMS(コンテンツ・マネジメント・システム、contents management system)をインストールし、データをインポートしたりして、ブログをそのまま続けることができる。実際、どのブログ・サービスにも、データのインポート、エクスポート、バックアップなどの機能は必ず具わっている。

 私自身、いくつかの企業のサービスやレンタルサーバを渡り歩き、最終的に、今の場所に落ち着いた。現在のところ、ブログを引っ越す予定はないけれども、たとえ引っ越すことになっても、これは、大した手間ではない。

 これに対し、フェイスブックに情報を預けることには、大きなリスクがある。というのも、フェイスブックをブログ代わりに使っている人には、たとえフェイスブックが嫌になっても、別のサービスに乗り換えるという選択肢がないからである。フェイスブックに「類似したサービス」はあるけれども、規格に互換性がないから、フェイスブックに投稿された記事をエクスポートして、競合するサービスへとこれを引き継ぐことができない。(フェイスブックがSNSである以上、これは当然のことである。)

 この意味において、ブログの場合とは異なり、フェイスブックをブログ代わりに使う者は、フェイスブックによって完全に囲い込まれ、データを人質にとられていると言うことができる。フェイスブックの記事がグーグルで検索できないようになっているのも、囲い込みのためであると考えることができる。1つの企業に全部のデータを囲い込まれ、外部への逃げ道がないというのは、釣り堀の魚と同じようなものである。私がフェイスブックについて危うさと鬱陶しさを感じるのはこの点である。

 フェイスブックは1つの企業であるから、当然、そこにはCEOがいる。しかし、ブログは、現在ではすでに「枯れた」プラットフォームであり、したがって、ブログについては、複数の企業が似たような規格を採用し、同じようなサービスを提供している。当然、「ブログのCEO」などというものはいない。私がブログを好む理由である。

互換性のないサービスを使ってテータを蓄積するのは危険

 だから、フェイスブックがどれほど便利である――私自身はそうは思わないが――としても、フェイスブックを従業員のあいだの情報共有の主な手段として用いている企業はほとんどないはずである。フェイスブックに基幹の情報伝達手段をおさえられた状態では、情報の漏洩の危険があるばかりではなく、万が一フェイスブックが経営破綻したり解散したりするようなことがあれば、会社の存続が脅かされる可能性があるからである。

 同じ理由によって、私はLINEを使わず、電子メールを使う。なぜなら、LINEにはCEOがいるが、電子メールにはCEOがいないからである。グーグルが提供するGmailがどれほど多くの人々に使われているとしても、Gmailの規格が独自であるわけではなく、他のメールサービスを使っている者とのあいだでメールの交換ができないわけでもない。Gmailが嫌になり、使うのをやめても、メールの送受信ができなくなるわけでもない。この意味において、メールの方がLINEよりも安全な、風通しのよい、逃げ場のあるサービスなのである。一社だけが提供するサービスに依存することには、大きな危険がある。いつでも別の場所に逃れられること、場合によっては、最初から情報を分散することができるような態勢を作ることは、ネット上の活動におけるリスクを回避するためのコツの1つであるに違いない。

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酒とスマホと、どちらが有害か

 携帯電話、タブレット型端末、ゲーム機などのデジタル機器を未成年に持たせるべきではないと私は考えている。未成年にとって、このようなデジタル機器は有害だからである。未成年に酒や煙草が禁じられているのと同じ理由で、このような機器も禁止すべきなのである。

 飲酒や喫煙は、健康を損ねるおそれがあるという理由で、未成年には認められていない。大人になり、自分の健康を自分で管理することのできる(ということになっている)年齢に達してから、自分の責任において酒や煙草を手に入れればよいのである。

 実際、酒と煙草に関する規制は、社会において広く受け容れられているはずである。少なくとも、未成年の飲酒と喫煙を禁じる法的な規制に対する露骨な異議申し立てというものを私は知らない。たしかに、次のような主張がまったく見出されないわけではない。

酒や煙草の依存症が生まれるのは、成人に達するまでこれらにアクセスできず、酒や煙草に対する幻想を抱くからである、したがって、子どものころから酒や煙草に慣れさ、酒や煙草との正しい付き合い方を覚えさせれば、酒や煙草について余計な幻想を持たずに済むから、大人になってから酒や煙草に溺れて健康を損ねるリスクを減らすことができる。

 しかし、多くの日本人は、このような主張を極端な少数意見、考慮するに値しない意見と見なすであろうし、実際、そのとおりであろう。

 ところが、デジタル機器については、事情は正反対である。デジタル機器、特にインターネットに接続可能なものについては、これらが依存症を惹き起こすことが20年以上前から実験や観察によって繰り返し確認され、この事実が社会において広く共有されているにもかかわらず、したがって、未成年の精神的、身体的な健康を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、未成年のデジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという声は驚くほど小さい。(少なくとも、私自身は耳にしたことがない。)

 デジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという主張を耳にすると、多くの人は、次のように反論するであろう。

現代社会では、デジタル機器を使いこなすことができなければ生産的な活動に従事することができない。デジタル機器に早くから慣れさせ、ネットとの正しい付き合い方を覚えさせれば、デジタルやネットについて余計な幻想を持たずに済むから、デジタル・デバイドになったり情報弱者になったりネット中毒になったりするリスクを減らすことができる。

 驚くべきことに、これは、子どものころから酒や煙草に親しむことを推奨する上記の極論と同じ論法であるにもかかわらず、多くの日本人がこれを受け容れている。これは、実に不思議なことである。

未成年のデジタル機器の使い方は「子ども英語」と同じ

 もちろん、子どものころからデジタル機器に親しんでいれば、現代社会において生産的な活動に従事することができるのという相関関係が明瞭であり、大きなメリットがあるのなら、未成年のデジタル機器には少なからぬ危険があるとしても、いわば「ホメオパシー」のようなものとして、デジタル機器を子どもに使わせることは、現実的な選択となりうる。しかし、もちろん、子どもにデジタル機器を持たせてもよいのは、この相関関係を確認することができるかぎりにおいてである。

 それでは、子どものころからネットに接続した機器を使っていれば、社会に出たときに、これを使いこなして生産的な活動に従事することができるようになるのであろうか。両者のあいだに相関関係を認めることができるのであろうか。もちろん、私たちがよく知る事実が示しているように、この問いに対する答えは「否」である。

 スマートフォンやタブレット型端末を自由自在に使いこなしている(ように見える)若者でも、就職してから、パソコンによるデータの処理、資料の作成、メールの送受信などの基本的かつ初歩的な作業すらできないことが少なくない。そもそも、そのため、30歳以上年長の、社会人になって初めてパソコンに触れたような世代から「情弱(=情報弱者)」などと呼ばれているのである。

情報の「捨て方」 知的生産、私の方法

 上の本において、著者の成毛眞氏は、若者の大半がデジタル機器を使いこなすことができない情報弱者であるという意味のことを語っているけれども、これは、私の印象に合致するばかりではなく、私の世代のサラリーマンの多くが日々実感していることでもあるに違いない。実際、次のような記事をネットで見ることができる。

日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル

NEWSポストセブン|パソコンを使えない新入社員増 スマホネイティブの弊害│

「PCを使えない学生が急増」の問題点 (1/5)

 ただ、少し冷静に考えてみれば、デジタル機器に早くから親しむことと、大人になってからの生産性とのあいだには何の関係もないことは、実験や観察によらなくても、誰にでもわかるはずである。というのも、社会に出る以前の(大学生を含む)子どもが日常生活おいて必要とするデジタル機器のスキルは、社会に出てから要求されるスキルとはまったく異なるからである。スマホをダラダラといじったりゲームに興じたりしていても、生産性を向上させるためのスキルが身につくわけではないのである。

 子どものころに英語圏で何年か生活し、表面的には英語がペラペラに喋ることができるように見える大人がいる。しかし、このようないわゆる「帰国生」(最近は「帰国子女」と呼ばれなくなっている)の英語は、ネイティヴ・スピーカーからは必ずしも評価されない。なぜなら、子どものときに現地で習得した英語というのは、基本的に「子ども英語」だからである。帰国生が現地で身につけてきた英語は、子どものあいだでの会話に最適化された英語であり、大人の耳には、舌足らずで幼稚で乱暴な英語と響く。帰国生であるとしても、英語力のアップデートを普段から心がけ、「大人英語」を身につけないと、ある程度以上フォーマルな場面で通用する英語にはならないのである。

 デジタル機器の使用についても、事情は同じである。大人として社会に出たときにデジタル機器を使いこなして生産的な活動に従事することができるかどうかは、大人の社会に最適化されたデジタル・スキルを身につけたかどうかによってのみ決まるのであって、子どものときからデジタル機器に親しんでいることは、子供の将来にとって何の役にも立たない。それどころか、スマホやゲームによって貴重な時間が奪われているにすぎず、この意味では、子どもにデジタル機器を持たせるなど、害しかないように私には思われる。


Metropolis (making off).

 ※注意:以下の文章は、道具一般の本質と性別の関係をテーマとするものであり、女性に対する差別を肯定、助長することを意図して書かれたものではない。

人工知能には、人間一般の模倣ではなく女性の模倣が期待されている

 人工知能というのは、それ自体としては生命を持たない機械を動かす技術またはその仕組みである。当然、人工知能の機構自体に性別はない。

 しかし、人工知能の開発や改良の方向、あるいは、人工知能に人間が期待する役割を考慮するなら、つまり、人間との関係という観点から眺めるなら、人工知能には明らかに性別があり、それは、女性であると考えることができる。

 人間にとっての何らかの利益が想定されているのでなければ、人工知能が開発されることはなく、これが使われることもないはずである。そして、人工知能に関しあらかじめ想定されていた利益とは、忠実な道具が人間に与えるはずの利益、つまり、手間を省き、労働を代行することにより、人間の生活を便利なものに変えることである。レンブラントの贋作を描かせたり、囲碁やチェスで名人と対戦させたりするというのは、人工知能の性能を確かめるための実験であり、また、面白い遊びであるかも知れないとしても、社会が人工知能に対し本当に期待していることではない。

 そして、人工知能のこの道具としての性格は、本質的に「女性的」である。というのも、現在では――幸いにも事情は変化しつつあるけれども――この何十年かの社会が女性に期待してきたことは、便利な道具であることだったからである。

女性的なものは、現実への密着を特徴とする

 実際、男性中心の伝統的な社会の性的役割分業において、特に生産の場面において、「女性的」なるものの本質は「器用」にあると考えられてきた。つまり、女性に求められてきたのは、現実に密着することにより、男性から受け取った大雑把な略画の細部を埋め、これを密画へと変換する作業だったのである。このような作業では、知識や意欲に「ムラ」がなく、すべてを満遍なく処理する能力が絶対に必要である。実際、女性は、製品の仕上げと点検、給仕、運転、経理、校正など、好き嫌いに関係なく、中程度の技術と知識を浅く広く持つことが要求されるような作業に従事することが多かったように思われる。そして、まさにこのような作業、中程度の技術と知識を浅く広く満遍なく持ち、社会の生産活動に関してあらかじめ描かれた略画を密画へと仕上げて行くような役割を、現代の社会は機械、コンピューター、そして、人工知能に期待するようになっているのである。

 これは私の単なる偏見かも知れないが、人工知能、あるいは、人工知能を具えたアンドロイド(人造人間)を具体的に心に描くとき、女性が想起される場合が多いのではないかと思う。「アンドロイド」(android) は、古代ギリシア語で成人男性を意味する名詞aner(アネール)をもとに作られた言葉であり、語源に忠実に日本語に訳せば「大人の男っぽい生き物」となるから、アンドロイドの性別は、本来は男性でなければならないのであるが、実際には、女性のアンドロイドが想起されることが少なくない。現代の社会では、女性の仕事の多くが人工知能によって置き換え可能であると誰もが漠然と感じているからであるに違いない。

 今から2年ほど前、人工知能学会の機関誌の表紙に女性のアンドロイドが描かれ、これがネット上に否定的な反応を惹き起こしたことがある。この表紙と女性蔑視との関係については、私は判断を差し控えるが、人工知能の活用により、性的役割分業において女性に割り当てられてきた仕事、特に、多くの女性にとっては不本意な仕方で割り当てられてきた仕事の多くが人工知能によって置き換えられるようになる可能性が高いことは確かである。

「ロボットは奴隷ではない」擁護する意見も

 ところで、女性の場合と同じように、伝統的社会の性的役割分業では、男性に期待されている役割がある。ただ、この役割の多くは、産業革命以降、20世紀ある時期まで、機械によって積極的に置き換えられてきた。というのも、男性に固有とされてきた仕事の大半は、いわゆる「力仕事」だったからである。実際、21世紀前半の現在、機械によって置き換え可能であったものの大半は、すでに機械によって置き換えられている。しかし、それだけに、男性に固有の役割のうち、機械によって置き換えられなかった部分に人工知能が進出することは困難であるように思われる。というのも、機械化を免れた男性の男性らしさとは、「好い加減」である点だからである。

 好い加減であること、あるいは、ほどほどに手抜きすることが可能となるためには、現実世界を「雑」に眺めることができなければならないが、これは人工知能にはできない。「雑」には尺度がないからである。人工知能にできることは、現実に密着し、これを一切の手抜きなしにトレースし、これを丁寧に制御することだけである。(だから、「雑」の基準を定めれば、人工知能にも世界を「雑」に眺めることができるようになる。ただ、この場合の「雑」は、「密画をある観点から省略することにより作られた略画の雑」、つまり「精密な雑」(?)であり、本当の意味での「雑」ではない。)人類の未来を担うのが人工知能の丁寧な仕事であるのか、それとも、機械によって削り取られた男性らしさの残滓としての「好い加減」であるのか、これはよくわからない。しかし、人工知能によって制御される社会が、好い加減を許さない鬱陶しい社会となることは間違いないように思われるのである。


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 人工知能が発達することにより人間の仕事が奪われるかも知れないという予想は、社会の中で広く受け容れられているものの1つである。

 たしかに、社会の中には、機械の性能が向上するとともに姿を消す可能性のある仕事は少なくない。実際、歴史を振り返るなら、技術の進歩とともに不要となった仕事はたくさんある。単純な肉体労働や事務作業というのは、「今は機械にはできない」仕事であるにすぎず――遠いか近いかは仕事の内容によって異なるとしても――将来のいずれかの時期に同じ作業に従事する機械が開発され、人間の仕事ではなくなるはずである。

 しかしながら、「今は機械にはできない」のではなく、「機械には決してできない」仕事というものがある。それは、直接に他人に対して責任をとるタイプの仕事である。

 もちろん、たとえば建設現場で足場を組んだり、オフィスで書類をコピーしたりするような作業に従事する者は、間接的には他人に対して責任を負っている。しかし、それは「業務を指示どおりに遂行する」責任であり、この意味において限定的な責任である。

 これに対し、社会には、「どう責任をとればよいかは相手により異なる」というタイプの仕事がある。たとえば、民間企業の場合、製品開発や市場調査、単なる広告や宣伝については、そのかなりの部分を人工知能に代行させることができる。また、医療や法律の分野でも、単なる情報の整理や書類の作成は、機械でも担うことができる。また、「グーグル・ニュース」がすべて機械によって編集されているという事実が雄弁に物語るように、新聞についても、近い将来、記事を配列し整理し配布する作業は、人間を必要としなくなるはずである。

 しかし、もっとも狭い意味での「営業」は、人工知能には担うことができない。これは、企業活動を構成する要素の中で、最後まで人間によって担われるはずである。それは「今はまだ」人工知能には無理なのではない。営業の本質が他人の話に耳を傾け、他人を説得することにあるかぎり、これは、人工知能には「決して」担うことができない。なぜなら、これは、人間の反応、具体的には満足/不満足に責任を負うものだからである。営業の仕事を人工知能に置き換えるなら、今度は、営業の成否についいて、人工知能を開発した者が責任を負うことになる。

 同じように、小学校から高等学校までの教員――さらに、幼稚園の教諭、あるいは保育士など――もまた、人工知能が代わることのできないものである。教員の仕事が「知識を提供すること」に尽きるのであれば、人工知能が教師の役割を担うことは容易であろう。しかし、実際の教員の仕事は、生徒や児童に対する「指導」であり、これは、子ども一人ひとりを観察し、いつ、どのような状況のもとで、誰に対し、どのような態度をとるか、その場で個別に決断することによってしか成り立たないものである。(人工知能にできることがあるとすれば、膨大な量のアドバイスをティップスとして蓄積し、状況に応じてこれを「提案」することであろうが、これは「指導」でも「教育」でもない。)そして、その「指導」は、指導する側が最終的な責任を負う。最終的な責任を負う仕事は、人工知能がどれほど発達しても、決してなくなることはない。(そもそも、人工知能には「人格」がないから、責任は一切負うことができない。)

 とはいえ、最終的な責任を負う者には仕事を人工知能に奪われるおそれがないことは確かであるとしても、このような仕事がつねに非常に大きなストレスを与えることもまた事実である。たとえば、教員なら、自分の指導に従わない生徒一人ひとりに向かい合い、関係を作って行くことがストレスになるばかりではない。上司、同僚、保護者などが突きつける要求を考慮することからも逃れることができない。実際、最近20年のあいだに新任の教員が少なくとも10人自殺しているようである。

新人教員 10年で少なくとも20人が自殺 | NHKニュース

 また、文部科学省は、2015年の1年間に精神疾患で休職した教員が5009人になるという調査の結果を公表している。この事実は、学校における教員のストレスの大きさを示している。

文科省調査:精神疾患で休職教員5009人 15年度 - 毎日新聞

 当然、民間企業で営業に従事する者もまた、客の気まぐれや手違いに振り回され、自分の予定や計画が狂い、これがストレスの原因になることがあるであろう。

 人工知能によって奪われない仕事は、最終的な責任を負う仕事である。しかし、それは、対人関係に由来する烈しいストレスにさらされる仕事であり、ことによると、給与に見合わない仕事、好んで就きたいと思う者が少ない仕事ということになるのかも知れない。


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