AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 政治とその周辺

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 先週、次のニュースを見た。

パナマが台湾と断交 中国と国交樹立 - BBCニュース

 中米のパナマが中華人民共和国と国交を結び、同時に、台湾と国交を断絶したという非常に残念なニュースである。

 1970年代までは実質的にどうであったかわからないが、少なくとも、現在では、台湾は、形式的にも実質的にも民主主義国家である。自由と民主主義に意義を認め、この認識とわが国と共有する国家と協同することが日本人と日本政府の原則であるかぎり、台湾は、東アジアの諸国の中で、日本の支援にもっともふさわしい国家であると言うことができる。

 日本の国内に「中共びいき」がどのくらいいるのか知らないが、また、そもそも、「中共びいき」なるものがありうるのかどうかもまた、私にはわからないが、中華人民共和国か台湾かの二者択一を迫られたら、日本人はほぼすべて、心情的には台湾の味方につくことになるのではないかと思う。日本は目に見える形で台湾を積極的に支援すべきであると私は考え、台湾をめぐる環境の悪化、具体的には、台湾に対する中華人民共和国の不正な攻撃が明白であるにもかかわらず、これを不正と明言することも非難することもないわが国の政府の態度には少なからぬいらだちを覚えている。

 特に、今回のパナマについては、台湾から長期間にわたり各種の援助を受けてきたにもかかわらず、カネに転んだのであり、カネに公然と転ぶことがそのまま許されるような国際秩序を放置することは、日本とっても世界にとっても有害であるように思われる。

 実際、上の記事には、次のように記されている。

台湾の外交部(外務省に相当)は声明で、パナマが「北京当局の経済的利害に屈した」と非難した。

声明はさらに、パナマが両国間の「長年にわたる友好関係を無視した」とし、台湾は「北京当局の金銭による外交と競争することはしない」と述べた。

 もちろん、国際政治の現実の場面では、カネが意思決定を左右することが少なくないことはよく承知している。それでも、たとえばアメリカは、中華人民共和国とは異なり、自国の対外政策のすべてに(レトリックを用いて)「正義」の名を与えるだけの手間はかけている。(日本政府は、今回の出来事に関し、パナマに対して経済制裁を課してもよいのではないかとすら私は考えている。)

 台湾は、わが国の周辺諸国の中では唯一の親日国であり、現在では、わが国が台湾から攻撃される事態は想定されていない(はずである)。しかし、それだけに、台湾が中華人民共和国に呑み込まれるようなになれば、わが国の安全はいちじるしく脅かされることになる。沖縄の安全保障上の役割は、今の何倍も大きくなるであろうし、沖縄に駐留するアメリカ軍の規模もまた、縮小されないばかりではなく、反対に、必ず拡大されるはずである。

 日本人の平均的な価値観を基準とするなら、台湾の方が中華人民共和国よりも「よい」国であることは明らかである。だから、台湾を応援することが政府にはできないのなら、私たち一人ひとりが――大したことはできないとしても――台湾を訪れたり、台湾製のものを積極的に購入したり、台湾人を支援したりすることにより、台湾を応援しなければならない。私自身、普段から、選ぶことができるものについては、”made in Taiwan”の製品を購入するようにしている。

 大切なことは、台湾に注意を向け続け、台湾を国際社会の孤児にしないように手を差しのべ続けることであり、そのために何ができるかを私たち一人ひとりが模索し続けることであるように思われる。

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「うちの嫁」の強烈な違和感

 自分の妻のことを第三者に語るのに「うちの嫁」という表現を使う男性を私が初めてテレビで見たのは、もう10年以上前のことであったと思う。そして、この「嫁」という語の用法は、私に強烈な違和感を与えた。

 そもそも、「うちの嫁」という表現が指し示すのは、男性の場合、自分の息子の配偶者でなければならない。したがって、「うちの嫁」という言葉が有意味であるためには、自分に息子がいること、そして、この息子が既婚であることが必要である。なぜ自分の配偶者を「うちの嫁」と呼ぶことが許されるのか、私にはまったく理解することができなかった。今でも理解することができない。

 私は独身であり――そのせいなのかどうかわからないが――私の周囲にも独身者が多い。自分の配偶者のことを話題にすることができる者が周囲に少ないのだから、「うちの嫁」などという言葉に出会う機会は、幸いなことに、さらに少ないことになる。しかし、世間では、「嫁」のこの誤用は、かなり広い範囲に蔓延しているようである。

既婚の女性が自分の夫を指し示すのに「うちの婿」という表現を使ったら

 「嫁」という語のこのような使用が不適切であることは、反対の場合を心に描くことにより、ただちに明らかになる。すなわち、既婚の女性が「うちの婿」という表現を用いて自分の夫を指し示すなら、「婿」という語のこの用法は、明らかな誤りとして受け止められるに違いない。

 男性は自分の妻を「うちの嫁」と呼んでもかまわないが、女性が自分の夫を「うちの婿」と呼ぶのは、誤用と見なされる。「うちの嫁」と「うちの婿」の用法のあいだに認められるこの差異は、生活における男女の役割の非対称性を雄弁に物語る。

正しい意味での使用の減少

 現在では、「お」という接頭辞も「さん」という接尾辞もともなわない単なる「嫁」という言葉が本来の意味において使われる機会は多くはないであろう。この言葉が使われる典型的な場面は、舅や姑が他人に対して息子の配偶者のことを語るときであるけれども、息子の配偶者を「嫁」の一言で片づけることを自然と受け止める舅や姑というのは、現在では少数派に属するはずだからである。

 さらに、少し冷静に考えるなら、「嫁」のこの本来の用法は、独立したものではなく、舅や姑の「嫁観」(?)の反映として受け取られるべきものであることがわかる。たとえば、息子の配偶者を「嫁」と表現するような舅や姑なら、当然、自分の息子の配偶者、つまり言葉の本来の意味における嫁の名を呼ぶとき、「花子さん」などとは言わず、「花子」と呼び捨てにするはずである。息子の配偶者の名を呼び捨てにするというのは、息子の配偶者に対するある態度の反映であり、特定の「家庭観」の反映なのである。だから、舅や姑が減少し、これとともに、「嫁」という語もまた、本来の意味において使われなくなってきたと考えるのが自然である。

「うちの嫁」が前提とする家庭観は「江戸しぐさ」のようなもの

 単独で使われる「嫁」という語がこのような古い家庭観を背負うものであるとするなら、「うちの嫁」という表現を妻に関して用いるとき、男性は、何らかの古い家庭観の枠組みの内部における「嫁」の位置や役割を自分の妻に対し――大抵の場合、不知不識に――期待していることになる。

 とはいえ、「うちの嫁」などという表現によって妻を指し示す男性がこの表現の背後に漠然と認めているのは、歴史的な「古い家庭観」ではない。妻を「うちの嫁」と呼ぶ夫が漠然と心に描く家庭とは、夫と妻の役割分担が明瞭な空間、妻を中心として家庭が整然と組織され、妻の役割や権限が夫によって十分に尊重されている空間である。そして、「うちの嫁」という表現が妻の位置や権限を尊重する文脈において用いられることが多いという事実は、この表現を使う男性が、「嫁」の語の使用が前提とする家庭の姿を「かつては日本のどこにでもあった古きよき家庭」の姿と見なしていることを教える。

 ただ、このような家庭は、皆無であったわけではないとしても、少なくともわが国の歴史では、「かつては日本のどこにでもあった」ものなどではなく、わざわざ探さなければ見つけることなどできない例外的少数である。「うちの嫁」という表現を支える家庭観が支配的になったことは、わが国の歴史では一度もないはずである。この意味において、「うちの嫁」という表現の使用が前提とする家庭観は、歴史に根拠を持たぬもの、あの「江戸しぐさ」に似た一種のフィクションであると言うことができる。

 既婚の女性は、「うちの嫁」として語られるたびに、架空の家庭観をソフトな仕方で押しつけられていることになる。だから、この押しつけに不満を覚えるのなら、そのような女性は、自分の夫のことを「うちの婿」と表現することでこれに抵抗すればよいと私は考えている。「うちの婿」という表現が使われることにより、「うちの嫁」の四文字からなる記号は不透明なものとなり、この記号が担う枠組みのフィクティシャスな性格を否応なく明らかにするはずである。

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この問いに対する答えには、答える者の素姓が映し出される

 「100兆円あったら何に使うか」。この問いは、想像力を刺戟するばかりではない。この問いに対する答えは、答えた者がどのような人間であるかを正確に教えてくれるものであるように思われる。ブリア=サヴァランの格言を模倣し、次のように言うことができるであろう。「100兆円あったら何に使うかを言ってみろ、そうしたら、私は、君が誰であるかを言ってやる」。

 とはいえ、この問いに対する答えはほぼすべて、次の3種類のいずれかに分類されるはずである。

(1) 個人的な贅沢のための無駄遣い

 「100兆円あったら何に使うか」と問いかけ、そして、1日かけて答えを出すよう求められたとき、私たちが最終的に辿りつく使い道は、どのようなものであろうか。100兆円というのは、現在のわが国の一般会計の予算の総額とほぼ同じであり、個人の家計の規模からは乖離した途方もなく巨大な金額である。だから、100兆円に見合う支出とはどのようなものであるのか、直観的にはわからないのが普通である。だから、100兆円の使い道として多くの人の心に最初に浮かぶのは、普段の生活の延長上にあるもののための無駄な支出である。つまり、度を超えた贅沢である。たとえば、無人島を買って別荘を建てる、プライベートジェットを買う、高額なブドウ酒を大量に買い、これで風呂を沸かす、宇宙旅行する、競馬やカジノで散財する、などがこれに当たる。

 日常生活における贅沢というものには、おのずから限度がある。人間の生理的な欲求に明瞭な限度が認められるからである。しかし、100兆円は、この限度をはるかに超える贅沢を可能にする。だから、個人的な贅沢のために100兆円を使う場合、その大半は、単なる無駄遣いとなり、札束をゴミ箱に捨てるのとほぼ同じことになるのを避けられない。これは、想像力の貧困の帰結であると言うことができる。

(2) 貯金や運用

 「100兆円あったら何に使うか」という問いに対する答えとして、もっとも無難な、また、もっとも安直な答えは、「貯金する」あるいは「運用する」というものである。貯金したり運用したりすることにより、使い道を決めるのを先送りすることが可能となるとともに、それなりの利息を手に入れることができる。年利0.001%で運用するとしても、年に10億円の利益が得られるはずであり、これは、平均的な日本人にとっては十分すぎる収入であろう。

 ただ、この場合、100兆円は、ただ利息を産み出しているだけであり、本当の意味において使われたことにはならない。「100兆円あったら何に使うか」と問われ、貯金あるいは運用と答えた者は、100兆円を必要としてはいないのであろう。

(3) 世界(または社会)の変革のための資金

 そして、この問いに対する答えの第3のグループは、使い道を世界あるいは社会の変革に求めるものである。もちろん、この場合の変革とは、NPO法人を作って貧困家庭を救済したり、希少金属をゴミから取り出す技術を開発したりすることから、中国の民主化運動を支援したり、スナイパーを大量に雇用し外国の独裁者や有害な政治家を暗殺したりすることまで、途方もない広がりがあるに違いない。しかし、「100兆円あったら何に使うか」と問われ、この第3のグループに分類される使い道を答えた者は、自分が理想とする社会を心に描くだけの想像力を具えた者であり、第1、第2のグループとは異なり、理想の実現のために100兆円を本当に必要としている点において共通していることは確かである。(また、100兆円があれば、大抵のことは実現可能であるか、少なくとも、実現の目途をつけることができるはずである。)

100兆円の使い道の問題とは、理想とする社会の姿の問題

 100兆円の使い道に関する問いは、理想の社会をめぐる問いに置き換えることができる。だから、「あなたにとって理想の社会とは」「理想の社会を実現するために克服されるべき困難は」などの問いに適切な答えを与えることができない者には、100兆円を使う「能力」が欠けているのであり、したがって、民主主義社会を構成する責任ある主体としての資格が欠けているかも知れないと考えることは、決して不可能ではないように思われる。

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男性に対する嫌がらせを「家事ハラ」と呼ぶのをやめさせても、嫌がらせの事実がなくなるわけではない

 今から3年前に、「家事ハラ」という言葉を頻繁に目にしていた短い時期がある。発端となったのは、旭化成のコマーシャルである。


 このコマーシャルが「ありがちな状況」を再現しているのかどうか、私にはよくわからないが、少なくはない数の既婚男性がこのコマーシャルにリアリティを感じたのであろう。このような事実がなければ、これが放映されることはなかったはずである。

 しかし、このコマーシャルは、なぜか「炎上」した。このコマーシャルを気に入らない視聴者が特に女性に多いということは誰でも予想できるけれども、わざわざ文句をつけるほどのことでもあるまいと私は考えていた。今でもそう考えている。

 このコマーシャルにおいて「問題」とされる論点をまとめた記事はネット上にいくつもある。批判の大半に私は同意しないけれども、少数ながら考慮するに値するものもあったと思う。したがって、ここでは、どのような仕方で実際に批判されたのかは一々記さない。

「妻の家事ハラ」広告はなぜ集中砲火を浴びたのか?世間が納得できない家事・労働シェアの空論と現実

 「家事ハラ」という言葉は、「家事労働ハラスメント」の短縮表現であり、この「家事労働ハラスメント」の意味は、次の本に記されているとおり、「家事労働を貶めて、労働時間などの設計から排除し、家事労働に携わる働き手を忌避し、買いたたく」ことである。だから、主婦による夫への嫌がらせを「家事ハラ」と呼ぶのは不適切であるという意見は、それ自体としては間違いではない。

 ただ、この意見が適切であるとしても、嫌がらせの事実がなくなるわけではない。いわゆる「家事ハラ」について語られることがなくなったとするなら、それは、「言葉狩り」のおかげであり、事実が隠蔽されているにすぎないのである。

家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)

 なすべきことは、上のコマーシャルで紹介されたような事態が――どのような名で呼ばれようとも――惹き起こされる理由を明らかにすることに尽きることになる。

男性が家事を「手伝う」という表現が怪しからんと言うが……

 とはいえ、「なぜ主婦が家事を手伝う夫に対し嫌がらせするのか」という問いが発せられるなら、この疑問文が最後まで声にならないうちに、一部の主婦やフェミニスト(男性を含む)は、次のように絶叫するに違いない。つまり、「そもそも『手伝う』とは何ごとだ」「家事は女がやるものだと思っているのは時代錯誤の差別主義だ」……。

 たしかに、夫婦が公平に家事を担うというのは理想である。実際、少なくとも40歳代より下の世代では、「家事は女がやるものか」という問いに肯定的に答える男性はもはや少数派であるに違いない。だから、夫に対する主婦の嫌がらせに対して疑問を持つ男性がすべて性差別主義者であるわけではなく、むしろ、大半の男性は、「性差別主義者」などという安直なレッテル貼りを警戒し、慎重な言動を心がけているはずである。

 問題は、このような「信条」の問題とは別のレベル、表面的なコミュニケーションのレベルにある。

家事の「水準」を勝手に決めない

 これは完全な想像になるが、いわゆる「家事ハラ」が起こることには前提がある。すなわち、家事の「水準」と呼ぶべきものに関し夫と妻のあいだに明確な合意がなく、妻が夫と相談せずにこの「水準」をひとりで決めているはずである。

 家事の「水準」とは、たとえば

    • 「家全体はどの程度まできれいに掃除されているべきか」
    • 「洗濯ものはどの程度まできれいに整頓、収納されているべきか」
    • 「食事はどの程度まで整ったものにすべきか」

など、家事の完成度のレベルを意味する。

 もちろん、妻がこうした点をひとりで決めているのは、あるいは、よく考えることなく自分にとって自然なレベルにこれを設定しているのは、大抵の場合、夫が意思決定に関与することを妻が妨害しているからではない。夫がこの問題に対する関心を欠いており、そのせいで、妻が自然と考える水準が、吟味を受けることなくそのままその家庭の家事の水準になってしまう場合は少なくないに違いない。

 したがって、妻が家事の水準を自分で決め、夫のする家事がこの水準に到達しないことに腹を立て、これが結果として嫌がらせを惹き起こしているのなら、つまり、自分の思いどおりに夫が動かないことにいら立っているのなら、家事の水準を見直す――具体的には引き下げる――ことが絶対に必要である。そして、そのためには、この問題について話し合い、当事者が合意することのできるレベルを明確な形で設定することもまた避けられないであろう。

 実際、家事の水準に対し夫が明確な同意しているのならばともかく、そうでないのなら、やはり、夫にとって、家事は、「やらされている」もの以外ではありえず、最大限に好意的に表現しても「手伝い」以上の意味をそこに見出しえないことは明らかである。

 たとえば、洗濯物にアイロンをかけ、きれいに畳んだ上で収納するのには、相当な手間と時間が必要となる。夫婦共働きの家庭にそのような余裕などあるはずはない。水準を引き下げ、たとえば、アイロンがけは最大限省略する。皺ができては絶対に困るもの以外は収納は適当にする、あるいは、洗濯の回数自体を減らす、などの変更をすべきであろう。

 同じように、塵一つ落ちていない床が理想であり、風呂場の掃除は毎日行われるに越したことはないとしても、時間と体力に限界があるのなら、また、夫がこだわらないのなら、生活に支障がない範囲で手を抜くことは好ましいことですらある。(夫だけがピカピカの家にこだわるのなら、自分で掃除させればよいのである。)

 食事についても事情は同じである。家族の健康を損ねることがない範囲において、食卓に並ぶのが冷凍食品であっても、宅配であっても、中食であっても、家族の同意があれば、何ら問題はない。

 私の場合、子どものころの家の中は、決してピカピカではなかった。また、出てくる食事は冷凍食品ばかりであった。(1970年代の冷凍食品は、悪夢のように不味かった。)シャツは、誰が着るものもおしなべてヨレヨレであった。収納が雑だったからである。(「シャツの皺なんて着ているうちにのびる」が母の口癖であった。)それでも、家族全員がこの状態に同意を与えていたから、誰も家事の水準に不満を持つようなことはなかった。当事者が満足しているかぎり、家事の水準など、家庭によってまちまちであって一向にさしつかえない。自分の家庭の家事の水準をよその家庭と揃えなければならないと考えるべきではないのである。

 夫婦で、あるいは、家族で、家事の水準に関する明確な合意を形成することができるなら、いわゆる「家事ハラ」が発生する可能性は、ゼロにかぎりなく近くなるはずである。

家事について夫が低い水準しか求めないのなら、妻もこれに合わせるべき(合わせられないのなら、ひとりでがんばるしかない)

 妻が専業主婦であり、「丁寧な暮らし」を望んでいるのなら、夫もまた「丁寧な暮らし」を望んでいるのかどうか、意向を確認することが絶対に必要である。

 「丁寧な暮らし」を妻が趣味として実践する分には、夫がこれに文句を言う理由はあまり見当たらない。しかし、みずから「丁寧な暮らし」の当事者になり、「丁寧な」家事の分担を望む夫は、圧倒的な少数派のはずだからである。

 だから、妻は、夫の意向を無視して家事に高い水準を求めてはならない。夫の目には、それは、妻の単なる自己満足と映るはずである。(反対に、夫が家事について高い水準を求め、かつ、家事の分担を嫌がるようなら、妻は「ふざけるな」「自分でやれ」と言えばよい。)共同生活である以上、それぞれの家庭の家事の水準は、家族で折り合うことのできるレベルとせざるをえないのである。

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 日本の社会は、飲酒に対して驚くほど寛大である。酒を飲まないせいか、私には、これが理解できない。

 酒を製造したり販売したり購入したりすることに制限を設ける必要はないとしても、飲食店に代表される公共の空間での飲酒は、全面的に禁止されるべきであると私はひそかに考えている。

喫煙者に囲まれていると

 私はタバコを吸う習慣がない。また、過去にタバコを吸ったこともない。しかし、子どものころ、私の家族は、私以外は全員タバコを吸っていた。

 私の家の中は、いつもタバコの煙が充満していた。朝、窓のカーテンを開けると、太陽の光がタバコの煙を通して差し込んでくる。そして、タバコが屋内で分厚い雲のようになっているのがよく見えた。換気のために窓を開けると、雲のような煙の塊が屋外に吸い出されるように排出されて行くのも観察することができた。当然、窓ガラスやカーテンはヤニだらけであった。(ただし、私の家族には、肺がんが原因で亡くなった者は一人もいない。)

 このような環境で育ったせいか、近くで誰かが喫煙していても、あまり気にならない。最近、受動喫煙の健康への害がよく取り上げられており、たしかに、喫煙に制限が必要であることはわかるけれども、個人的には、喫煙者に少しだけ同情している。私は、喫煙には比較的寛大なのである。

喫煙と飲酒と、どちらが有害か

 喫煙者が身近にいない人なら、喫煙は制限されるのではなく、むしろ、全面的に禁止すべきであると考えるかも知れない。たしかに、本人にとっても周囲にとっても、喫煙が健康によくないことが明らかである以上、禁止することには何の問題もないように見える。

 しかし、酒の害と比較するなら、タバコの害など、大したことはない。何といっても、酒の場合、摂取することにより、ほぼ確実に思考能力や判断能力が損なわれることは、誰にとっても自明のことである。自動車と自転車の飲酒運転が禁止されているのは、当然のことなのである。「喫煙運転」なるものの法的な規制が試みられたことがないという事実は、飲酒が喫煙とは比較にならないくらい有害であることを雄弁に物語る。

 さらに、喫煙が原因でニコチン中毒になる可能性がないわけではないとしても、飲酒によってアルコール依存症になる可能性の方がはるかに高く、さらに、周囲に対して与える害悪も大きい。これもまた、誰でも知っていることである。

 また、喫煙の害が周囲に及ばないようにするには、煙が拡散して受動喫煙が発生しないようにすればよいだけであるのに対し、飲酒の害が周囲に及ばないようにするには、アルコールを摂取する者をどこかに隔離することが必要となる。

 このような点を考慮するなら、公共の場所においてまず制限、禁止が検討されるべきであるのは、喫煙ではなく飲酒であり、2020年までに公共の空間からアルコールを一掃することができるなら、(そして、街頭から酔っ払いを消去することができるなら、)それは東京という都市の価値を大いに向上させることになるのではないか、私はこのように考えている。

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