AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 政治とその周辺

Intolerance_PRStill4ヘイトスピーチ:選挙中は野放し 政治活動との線引き課題 - 毎日新聞

 今日、ネット上に次のような記事が流れていた。

 私自身は、そもそも、ヘイトスピーチ対策法の意義に懐疑的である。この法律がそれ自体として憲法が保証する「表現の自由」を侵害しているとは思わないが、在日外国人に対する誹謗中傷を規制することにより、「いくら努力しても、日本人は外国人と共生できないのではないか」「外国人と一緒に1つの社会を作って行くのはとても難しい」などの発言まで間接的に規制されてしまう危険がある。ヘイトスピーチ対策法を根拠にこれらの発言まで規制されるようなことになれば、これは、政府による価値観の押しつけであり、明らかな憲法違反である。

 私自身、同じ日本人の隣人や同僚とのあいだですら意見の違いを乗り越えるのが難しいのに、まして、外国人とのあいだでの合意形成など、絶望的に困難なのではないかと感じている。共生の努力を放棄するつもりはないが、それでも、外国人との共生に諸手を挙げて賛成する度胸はない。

 念のために言っておくが、私は、在特会の活動には賛同していない。在日韓国人、在日朝鮮人が嫌いであるとしても、自分の意見を表明するために、品性を疑わせるような言葉を使う必要はまったくない。また、在日韓国人、在日朝鮮人の存在が、日本の安全にとり、あれほど挑発的で攻撃的な言葉を使って攻撃しなければならないほど差し迫った脅威であるとも思われない。それは、薄っぺらな陰謀論でしかないであろう。

 また、万が一在日韓国人、在日朝鮮人の存在が本当に脅威であるなら、痙攣したような演説を街頭で繰り返すよりも、霞が関や永田町でのロビー活動に時間と手間をかけるべきであろう。彼らの理想の実現には、そちらの方が捷径のはずである。

 それでも、選挙期間中には、不快な言葉にも耳を傾けることは私たちの義務である。立候補者の発言を耳にして、これをヘイトスピーチだと判断したら、その候補者には投票せず、また、投票しないよう他人を説得すればよいだけの話である。これは、民主主義社会に生きるすべての者が引き受けなければならない義務である。

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 民意とは、意見を異にする他人を一人ひとり地道に説得するという絶望的な努力の結果として投票に現れるものである。不快な発言を繰り返す立候補者に投票しないよう呼びかけて説得すること、そして、多数派を形成するために努力することは、国民一人ひとりの仕事であり、不快な発言を法律によってまとめて規制するというのは、見当外れの措置であろう。

 だから、不快な発言を繰り返す立候補者に票が集まり、その立候補者が当選するなら、そのときには、残念ながら、それが民意であると考えねばならないのである。民主主義社会においては、民意は、多数決の結果ではなく、合意形成の努力の結果だからである。民意がつねに正しいと言われるのは、そのためである。


Diversity = Beautiful



事件伝える責任を痛感 相模原殺傷、取材した記者の思い:朝日新聞デジタル


 神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件については、すでにいろいろなことが語られている。事件と直接には何の関係もない私などには、事件そのものの詳細、あるいは、上の記事のような、当事者の発言について語りうることは何もない。亡くなった方々およびその関係者の方々に哀悼の意を表すことしかできないと思う。

 ただ、これに関連して、非常に気になることが1つある。SNSを眺めていると、加害者の男性に対する誹謗中傷をいたるところで見かけるのである。たしかに、加害者の行動は、明白な犯罪、しかも、障害者への憎悪にもとづく犯罪であり、法律的にも道徳的にも決して許されることではないであろう。

 しかし、加害者が厳しく処罰されるべきであるからと言って、加害者に罵詈雑言を浴びせかけてもかまわないわけではない。加害者を罵る者は、まず、罵る資格が自分にあるかどうかをよく考えてみた方がよいと私は思う。それは、次のようなことである。

  そもそも、民主主義の社会というのは、多様性を認める社会、考え方の違う人間の存在を認める社会であり、したがって、誰もが寛容を義務として引き受けなければならない社会である。今回の事件の加害者には、自分から見て異質な存在を許容することができなかったことは明らかである。

 ただ、現代の日本では、障害者に対する差別を行動で示したり、直接に貶めたりすることは禁止されているが、「障害者との共生」の持つ意義を全面的に否定する発言は自由であるし、障害者を支援する活動に従事することを拒否する自由もある。障害者との共生に対して誰もが肯定的に発言するよう強制されるとしたら、それは、日本国憲法第21条が保証する「表現の自由」の侵害に当たる。また、障害者に対する支援を強要されるなら、それは、「苦役の禁止」を定めた日本国憲法第18条に反するのである。

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 このように考えてみると、あなたの家の隣には、障害者の問題についてあなたとは正反対の考えを持っている人が住んでいるかも知れず、しかも、あなたもあなたの隣人も、相手が自分とは異なる(しかも、あなたから見えると絶対に間違っている)意見を持つことを許容しなければならないことになる。問題は、この非常に不快な状態にあなたが耐えられるか、ということである。

 意見が分かれるのは障害者の問題ばかりではない。ゴミの分別、騒音、社会保障費の抑制、LGBT、安全保障……、ありとあらゆる問題について、自分には到底同意できないような意見に辛抱強く耳を傾けることは、寛容な社会においては万人に課せられた義務である。

 相模原市の事件の加害者に罵詈雑言を浴びせる者は、自分とはまったく異なる意見の持ち主が自分の目の前で自由に考えを表明しようとするとき、罵ったり遮ったりせずに最後まで聴く自信が自分にあるかどうか、胸に手を当てて自分に尋ねてみた方がよいと思う。(私には、そのような自信はない。)

 しかし、自分と異なる意見を許容する度量を持ち合わせているという自信があるなら、加害者の行動は非難しても、加害者の考え方には辛抱強く耳を傾けることができるに違いない。


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 2016年8月18日のNHKの7時のニュースで取り上げられた貧困女子高生(いわゆる「貧困JK」)の問題について、膨大な意見がネット上にあふれている。ネット上の動きだけではなく、数日までには、「貧困たたき」に抗議するデモまであったらしい。

貧困たたき:新宿で緊急抗議デモ 作家の雨宮処凛さんらも - 毎日新聞

 しかし、この「貧困JK」問題は――少なくとも私が期待するような方向で――立ち入って取り上げられてはいないように見える。

  そこで、この問題が何を問いかけているのかを整理してみると、段階的に三つの論点が区別できることがわかる。

  1. 問題の女子高生は嘘つきなのか。また、 NHKの報道は捏造だったのか。
  2. 女子高生は本当に貧困なのか、それとも、自称「貧困」にすぎないのか。
  3. 貧困対策はいかにあるべきなのか。
 以下、一つずつ取り上げる。

(1)問題の女子高生は嘘つきなのか。また、NHKの報道は捏造だったのか。


 今回の件が話題になってからすぐ、次のような記事を見つけた。

子どもの貧困〜NHK報道の問題点
 この記事を書いたのは、杉田水脈氏である。この記事で杉田氏が記していることが正しく、女子高生が嘘をついているのであれば、 話は非常に単純である。つまり、嘘に対する罰を与え、嘘をつかせた首謀者を特定すれば、問題はすべて解決する。

 しかし、残念ながら、問題は、それほど単純 ではないと私は思う。(なお、高校生をここまでシンプルに「嘘つき」と断定する記事は他に見つからなかった。)常識的に考えて、女子高生が嘘をついているはずはないように思われる。また、杉田氏が暗示しているような「被害者ビジネス団体」の陰謀であるという可能性も低いと思う。
(ただ、今回の件を「被害者ビジネス団体」が利用する可能性は高い。)「女子高生は、自分が貧困ではないと知っていながら、貧困を自称した 」ということは、この女子高生の神経が正常の範囲にあるなら、まずありえないように見えるのである。

 映像は、全国の何百万人もの視聴者の目にさらされる。当然、そこには、悪意のある人間が一定数含まれている。そして、この悪意が閾値を超えると、 アラさがしが始まり、いくらでも叩かれる可能性がある。女子高生であるなら、当然、このくらいのことはわかっているであろう。したがって、自分が貧困であるという点に関して絶対の自信がなければ、NHKのニュース番組に出演するなどありえないと私は思う。女子高生は、自分のことを正真正銘の貧困であるとかたく信じていたはずである。

 しかし、もしそうであるなら、問題は「嘘つきに罰を与えればよい」というような単純なレベルを超えて、きわめて厄介なものになる。というのも、「貧困とは何なのか」という問題に否応なく直面しなければならなくなるからである。

(2)女子高生は本当に貧困なのか、それとも、自称「貧困」にすぎないのか。
  
  念のために言っておくなら、この女子高生が貧困に」陥っているとするなら、その貧困は、いわゆる「相対的貧困」と呼ばれるタイプの貧困である。これは、食うや食わずで生命の維持すらままならない状態を指す「絶対的貧困」からは区別されている。上の記事で杉田氏が「貧困」として想定するのは「絶対的貧困」の方であり、たしかに、今回の女子高生は「絶対的貧困」に陥っているわけではない。

 とはいえ、相対的貧困というのは、 きわめて曖昧な観念であり、これを「貧困」と呼ぶことに抵抗を感じる人は少なくないと思う。携帯電話を所有したり、漫画を購入したり、映画を観たり、外食で散財するだけの余裕があるなら、携帯電話の通信料を引き下げたり、食費を切り詰めたりして節約し、その分を学費に当てるというのが「正しいカネの使い方」ではないかという疑問は、職業を持つ大人の多くが持つはずである。あるいは、少なくとも、この女子高生のようなカネの使い方を続けていたら、カネの使い方が間違っているのではないかという疑問を他人に抱かせることは、職業を持つ大人なら誰でも見当がつくはずである。つまり、相対的貧困の正体は、カネの使い方に関するリテラシーの欠如であり、したがって、相対的貧困に陥っている人間は、貧乏なのではなく、頭が悪いだけであるということになる。

 この点を直截な仕方で指摘したのが次の記事である。

貧乏人は、お金の使い方を知らないから貧乏なのです。 : まだ東京で消耗してるの?

 とはいえ、「リテラシーが足りないから、不必要なことに散財してしまって、必要なことにカネが回らないのだ」という主張が正しいとしても、ここから、次のような問題がさらに生じることを避けられない。

(3)貧困対策はいかにあるべきなのか。

  第三者の目に、女子高生の、あるいは彼女の家族のカネの使い方が間違っているように映ること、言い換えるなら、支出の優先順位が転倒しているように映ることは確かである。

 しかし、カネの使い方に関するリテラシーを身につけさせれば問題が解決するわけではない。というのも、これは私に想像でしかないが、「カネの使い方が間違っているのではないか」「優先順位を考えなおした方がよいのではないか」という女子高生自身に素朴に問いかけても、彼女には、この疑問の意味が決して理解できないだろうからである。その理由は明瞭である。

 携帯電話を維持するために高額の通信費を支払ったり、漫画を買ったり映画を観たり、さらに外食で散財したりすることを、彼女は、贅沢などではなく、優先順位の高い「必要欠くべからざる支出」と判断しているはずからである。

 それは、見栄をはるためであるかも知れないし、「つながり」を維持するためかも知れない。「このような下らないことのためにカネを優先的に使うなんておかしい」と思うかも知れないし、私もそう思うが、本人にとっては、見ず知らずの他人から見たら「下らない」としか思えない支出の優先順位が高いのだから、何ともしようがない。

 したがって、次のツイートのように、女子高生を擁護して「ささやかな贅沢」くらいは認めるべきだと声高に叫ぶ自称リベラルも、「貧困たたき」に狂奔する人々も、女子高生のカネの使い方がつきつめれば合理的ではないという了解については一致しており、したがって、両者は同じ勘違いを共有していることになる。





 繰り返して言うが、女子高生の消費行動は、少なくとも彼女自身にとっては、断じて「ささやかなぜいたく」などではない。生活必需品に対する支出なのであり、パソコンよりも学費よりも優先されるべきものなのである。

 そして、このような事情のもとで姿を現すのは、次のような問題である。すなわち、間違ったカネの使い方が原因で貧困に陥った(と自称する/ように見える)人間は、社会による救済の対象になるのかどうか、 という問題である。

 非合理的な消費行動が原因で貧困に陥った者に必要なのは「カネの使い方に関するリテラシー」であって社会的な救済ではない、と考えることは可能であり、実際、今回の件について、ネット上にこのような主張が散見する。つまり、いわゆる「愚行権」を行使した者は、社会的な救済の範囲から除外してもかまわないということになる。

 しかし、困難な状況にある人々に関し、この状況が、非合理的な行動によってみずから招いたものであるのか、それとも、不可抗力によるものであるのかを判定することは容易ではない。しかも、何をもって愚行と見なすかという点についても、社会的な合意を形成することは困難である。愚行権を行使した者には救済措置はないという原則を適用するなら、たとえば、喫煙が原因で肺がんになった者の治療には健康保険が適用されず、競馬にカネをつぎ込んで破産した者には生活保護が支給されないことになる。だから、困難な状態が惹き起こされた事情について、私たちにはこれを問うことができない。(一旦これを問い始めると、際限のない議論が続くはずである。)

 どのような事情であっても、貧困に陥った者は救済せざるをえないということ、これは、 民主主義社会のコストであり、しかも、ある種の諦めにもとづくコストであるのかも知れない。


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