AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 政治とその周辺


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 昨日、次のような記事を読んだ。

「ガレッジセール」ゴリ テレビからなぜ消えた?(東スポWeb) - Yahoo!ニュース

 私自身は、沖縄には地縁も血縁もなく、基地問題に強い興味があるわけではないが、それでも、時間と体力が許す範囲で情報は集めるように努力している。沖縄に関心を持ち、沖縄について考えることは、沖縄が日本の重要な一部であるかぎり、日本人の義務であると信じているからである。

 しかし、上の記事からわかるように、沖縄の基地に関してどのような意見を持っているかには関係なく、また、文脈にも関係なく、テレビの関係者は、「沖縄+基地」という単語が含まれるすべての発言に対し拒絶反応を示すようである。脳のどこかに「NGワード」のリストがあり、このリストに含まれる単語がヒットすると、脊髄反射が起こるわけである。10年前のコンピューターでも、もう少し柔軟な反応ができたはずである。

 たしかに、沖縄の基地問題については、狂信者が特に多く、合意形成は困難である。だから、狂信者に対する用心はつねに必要であり、いくら警戒しても、警戒しすぎることにはならない。私は、これまで、沖縄の問題をめぐる狂信について、次のような記事を投稿した。


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : AD HOC MORALIST

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお



人間はどこまで思いやりを忘れられるか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相



「友ではない者はすべて敵」か「敵ではない者はすべて友」か : AD HOC MORALIST

SNSと狂信の深化 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制

 けれども、それとともに、沖縄に解決すべき問題、しかも、万人の利害にかかわる問題があることは事実であり、この問題について公然と語ることを禁じ、これを暗い物陰に押し込んでしまうことは――プロ市民の攻撃にさらされるとしても――マスメディアには決して許されないはずである。

 冒頭の記事で取り上げられている芸人の発言は、考えうるかぎりもっとも無色かつ無害なものであり、プロ市民が食いつきそうな「NGワード」がそこに含まれている点を除けば、特に注意を惹くようなものではなかったはずである。(テレビ局は、若干のリスクを負ってでも、芸人の発言を擁護すべきであったと思う。)

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 しかし、このような脊髄反射的な態度は、マスメディアに固有のものではなく、日本の企業社会では普通に観察されるもののようである。

 しばらく前、就職活動中の学生が受ける面接について、次のような話を耳にした。1人の学生が、ある企業での面接で、大学で主に何を研究してきたかと問われ、ナチス時代のドイツ文学について研究していると答え、内容を簡単に説明したところ、「ナチス」という単語が面接者の脊髄反射を促す「NGワード」であったらしく、面接者は、学生に対し、「そういう『後ろ向き』のことを研究しているというのは、他人には言わない方がよい」と真顔で忠告したそうである。これを聞いた私の周辺の(大学関係者の)意見は、この面接者が、文脈や内容を把握する能力を欠いた、コンピューター以下の馬鹿であるという点で一致した。(というよりも、最初は、笑わせるためのネタであるとしか思わなかった。)

 このレベルの見当外れな自主規制は、私たちに、日本の企業社会が深刻な思考停止に陥っていることを教える。たしかに、政治的であることはつねにリスクと一体である。けれども、このリスクから逃れることなく、社会に対してあえてコミットすることにより、社会に寄生し、社会から利益を吸い上げるだけの企業ではなく、社会の不可欠の一部としての役割を担う責任ある企業になることができるはずである。「企業の社会的責任」とは、同じ名前で誤って呼ばれている生ぬるい社会貢献などではなく、むしろ、ときには政治的なリスクを負いながら、社会の新しい可能性を切り拓くことでなければならないように思われるのである。

cooking

 昨日、地下鉄副都心線に乗り、ドアの上に設置されている液晶ディスプレイ(LCD)に映る動画の広告をボンヤリと眺めていたとき、強い違和感を覚えた。

 私が見たのは、次の動画である。

 この動画では、専業主婦と思われる女性が外出し、知人とどこかで会う。そして、この女性は、外出先で、小学生の子どもの居場所をスマホで把握し、その後、子どもを駅で迎えて一緒に帰宅し、帰宅したあと、宅配で届いた食料品を調理して家族で食事する。

 ここで紹介されているのは、動画の説明によれば、

イッツコムの「インテリジェント ホーム」、

東急セキュリティの「エキッズ」、

東急ベルの「ホーム・コンビニエンスサービス」、

東急パワーサプライの「東急でんき」

の4つのサービスであるらしい。

 私は、この動画で紹介されているサービスに何か不満を持っているわけではない。(そもそも、東急線沿線の住民ではないから、副都心線に乗り、動画を見るまで、東急電鉄にこのようなサービスがあることすら知らなかった。)

 私に違和感を与えたのは、この動画の最後の方、47秒あたりに登場する男性である。この男性は、「おなかすいちゃったね」という一見無邪気なセリフとともに、子どもと一緒にソファーに腰をかけてテレビを見ている。つまり、この男性の妻が食事の用意をするのを待っているわけである。

 この場面を見て、私の心に最初に浮かんだのは、「なぜこの男は手伝わないんだ?」という疑問であり、次に心に浮かんだのは、「なぜ子どもに手伝わせないんだ?」であった。何か別の用事を片づけているのならともかく、(もちろん、たとえば子どもの相手をすることがそれ自体として用事と見なされているのかも知れないが、)手が空いているのなら、ただテレビを見ながら待っているのではなく、男性も子どもも、何かを手伝うべきであろうと私は考えたのである。

 この動画ばかりではない。家族で食事する短い場面を含む(住宅関係のサービスに関する)CMでは、女性が食事を準備し、その夫はリビングルームらしき空間のソファーに坐っている映像をよく見かける。しかし、女性は料理し、男性はソファーに坐ってこれを待つという映像は、性的役割分業を前提としなければ理解することのできないものであり、この意味において古色蒼然とした印象を与えるものである。

 もちろん、性的役割分業が何もかも悪いわけではないであろう。それでも、家事に関するかぎり、これを無邪気に肯定するような映像は、現在では、現実にも常識にも理想にも、もはや必ずしも合致するものではなく、反対に、少なくとも表向きは、性的役割分業に対する否定的な見解の方が支配的であることは確かである。

 したがって、上のようなCMに食事の用意をする場面を含めるのなら、男女が――場合によっては子どもも一緒に――家事を行う映像の方が自然であり、また、このような映像が繰り返し流されることにより、CMは、これを見る者たちに対し新しい生活の形を示すことにより、「教化的」「啓発的」な仕方で影響を与えることになるに違いない。

Honey bee, unedited, iPhone

 昨日、次のような記事を見つけた。

NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│

 ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは、文化の受容に関する恐ろしい無知と不見識の反映として受け取られるべきものであり、文化の生産に従事する著述家が口にしたことが事実とは信じられないような発言であると私は考えている。

 私は、百田氏のこの発言に同意する日本人がゼロにかぎりなく近いと信じている。そもそも、この論法は、百田氏の嫌いな中国で「抗日」や「反日」を声高に叫んでいる活動家の論法と何ら違いはないように思われるのである。

「外国」に由来する文化を受容することは、これに盲従することを意味しない

 そもそも、外国において産み出された文化的な成果を自国に取り入れることは、当の外国の文化的植民地になることを意味するものではない。古代のいくつかの地域を例外として、歴史に姿を現したすべての文化は、同時代または近い過去の「外来」の文化を摂取し、これを自分なりに消化することにより、みずからの姿を作り上げたのである。このかぎりにおいて、文化の個性は、その消化の仕方に現れると言うことができる。

 ハチミツは、ミツバチが集めた花粉のかたまりではない。それは、ミツバチがみずからの体内の酵素を用いて花粉を濃縮、熟成させることにより産み出されるものであり、花粉をいくら寄せ集めてもハチミツにはならない。文化もまた、これと同じである。すなわち、文化の価値は、「何とも似ていないまったく新しいもの」の生産量で測られるのではなく、むしろ、目の前にあるものを変形し昇華させることによって作り上げられるものの普遍的な意義によって測られるものなのである。

 日本人は、1500年近くにわたり、漢文を学んできた。そして、この事実は、それ自体として、中国文化に対する高度に日本的な態度の証である。なぜなら、「漢文を学んできた」ということは、古代中国語が、わが国において――荻生徂徠に代表される少数の知識人を例外として――古代中国語として、つまり、外国語として学習されてきたのではなく、「漢文」として、つまり、日本語の表現形式の一種として受容されてきたことを意味するからである。

 これは、中国語と中国文化の受容に関する日本に固有の形態として高く評価されるべきである。漢文というのは、中国の文化ではなく、中国の文化の日本的な消化の成果であり、純粋に日本的なものなのである。(中国に隣接する他の国にも、漢文と似たような形で中国語を受容する試みがまったくなかったわけではないけれども、日本ほど継続的、系統的なものではなかった。)

漢文学習の伝統がなかったら、「教育勅語」も『学問のすゝめ』も生まれなかった

 したがって、漢文を学ぶことは、日本文化の伝統を学ぶことであり、漢文は、日本の文化の不可欠の一部である。もはや現代では、10代から20代の平均的な中国人には漢文に相当する古代中国語を正しく理解することができないと言われている。だから、百田氏の要求が実現して漢文の授業が廃止されることになれば、その措置は、日本人の知的水準を中国人と同じ程度にまで引き下げることに役立つはずである。

 表面的に見るなら、日本人が漢文をまったく勉強せず、ただ外国語としての古代中国語を一部の知識人が学習するだけであったなら、古代から現代まで、わが国の文学史を形作る作品は大半が生まれていなかったであろう。万葉集、古事記、日本書紀に始まり、源氏物語、今昔物語集、枕草子、平家物語、太平記などを経て、夏目漱石(漢詩人でもあった)や森鴎外を始めとする明治の文豪まで、すべてが文学史から姿を消す。当然、「漢文訓読体」なるものも存在せず、いわゆる「教育勅語」も福沢諭吉の『学問のすゝめ』も書かれることはなかったであろう。

 古代中国語を漢文として受容し、これが遅くとも江戸時代中期までに国民の広い範囲に普及していたからこそ、明治以降、「漢語」を媒介とする欧米文化の導入が速やかに進められ、韓国を始めとする他のアジア諸国とは異なり、自国語のみによる高等教育が可能になったのである。そもそも、現代の知的世界においてテクニカルタームとして用いられている漢語の大半は、西周を始めとする明治の知識人たちが漢文の伝統の中から生み出したものであり、中国語に由来するものではないのである。

漢文学習と中国への親近感が無関係であることは、歴史が証明している

 日本には、どの時代にも、「中国かぶれ」と呼ぶことのできる人々が必ずいた。しかし、このような人々が少数派の「中国かぶれ」と受け止められていたという事実は、大半の日本人が「中国かぶれ」ではなかったことを物語る。

 漢文を勉強し、漢文を巧みに操る能力を身につけることと、中国が好きになることとのあいだには、おのずから距離が認められる。実際、日清戦争において重要な役割を担った陸奥宗光や伊藤博文が漢文の学習のために費やした時間は、現代の平均的な日本人の漢文学習時間の何百倍にもなるはずであるけれども、彼らが決して「親中派」でも「媚中派」でもなく、百田氏が言うところの「中国への憧れ」などはなく、当然、「中国は『歴史ある偉大な国』『文明的ないい国』だという誤解」などに囚われてもいなかった。

 それどころか、同時代の中国に対し親近感や敬意を彼らが抱いていたかどうかすら怪しいことは、歴史的な事実から明らかである。漢文を勉強することと中国に対する警戒感が無関係であることは、歴史によって証明されているのである。

 むしろ、現代の教育において問題なのは、漢文学習の比重が相対的に低下していることである。多くの大学は、入試の国語の問題作成に当たり、漢文を出題範囲から除外している。これが原因の1つであるのかどうかわからないけれども、現在の平均的な高校生の学習において漢文が占める位置はきわめて低く、むしろ、私自身は、現代の社会生活をわが国の伝統に接続させるためには、国語教育における古文と漢文の比重を大きくすることが必要であると考えている。

 ことによると、百田氏は、「日本人の『中国への漠然とした憧れ』」という言葉を使うに当たり、『史記』マニアや『三国志』マニアや『水滸伝』マニアを想定しているのかも知れないが、そうであるなら、まず百田氏が主張すべきなのは、漢文の授業を廃止することではなく、これらの歴史書を題材とするゲームの製作と販売を制限することであろう。


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Wine, beard, hat and newspaper. That's all!

なぜマスコミは「マスゴミ」と言われてしまうのか

 発行部数の多い全国紙やNHKなどのマスコミのことを貶める表現に「マスゴミ」がある。この言葉を使う人は、「コ」に濁点を加えることにより、マスコミがゴミのように無価値であること、あるいはゴミとして斥けられるべきものであることを言いたいのであろう。

 私自身、現在のマスコミのあり方に何の問題もないとは思わない。実際、朝日新聞による慰安婦に関する捏造記事を例に挙げるまでもなく、新聞やテレビの報道には大小の誤報、虚報が多く含まれているばかりではなく、ニュースとして取り上げる出来事の選択、論評や評価の観点に違和感を覚えることも少なくない。

 しかしながら、このような点に注目し、これをマスコミの犯罪と見なして「マスゴミ」などという汚い言葉を使う前に、3つの事実に注意する必要があると私は考えている。

1. 統計は、平均的な日本人がマスコミに対し最低限の信頼を寄せていることを示す

 第1に、マスコミに認められるこのような問題にもかかわらず、次の記事が示すように、平均的な日本人は、マスコミに対しておおむね信頼を寄せている。

新聞一番テレビが二番...メディアへの信頼度、テレビと新聞の高さ継続(2016年)(最新) - ガベージニュース

 なぜ伝統的なメディアである新聞やテレビがこれほど高い信頼を獲得しているのか、この点については、いろいろな解釈が可能であるけれども、少なくとも、次の2つの点は間違いないように思われる。

1.1. マスコミは「事実とされていること」の標準を示す役割を担っている

 まず、マスコミを信頼するとは、その報道姿勢を全面的に肯定し盲信することを意味しない。むしろ、マスコミに対する信頼とは、報道が、国の将来や国民の生活にかかわる重大な出来事に関し一人ひとりがみずからの意見を獲得するための最初の手がかりであること、つまり、雑に言うなら、「世間では一応正しいされていること」「議論の前提になる情報」が新聞やテレビにあるという意味であると考えるのが自然である。

 実際、ネット上の言論、特に右寄りの言論は、「マスゴミ」などという表現を使ってマスコミを貶めているけれども、現実には、みずからが「マスゴミ」と呼ぶ全国紙やテレビの報道に全面的に寄生している。「マスゴミ」が姿を消してしまったら、ネット上の言論は、偽ニュースと噂話の無秩序な堆積、つまり、みずからが文字通りの「マスゴミ」になってしまうに違いない。

1.2. 中立公正は、媒体の1つひとつが目指すものではなく、マスコミが全体として目指すもの

 また、マスメディアは、全体として「事実とされるもの」の輪廓を公衆に提示すればよいのであり、たとえば産経新聞や朝日新聞などの具体的な媒体の1つひとつが中立公正であることは必要ではない。実際、このようなことは不可能であろう。

 大切なことは、ある媒体がある方向へと偏った報道を試みるとき、このような媒体とともに、これを批判し是正する役割を担う媒体が言論空間に併存しうることである。言論空間の内部で働く引力や斥力が全体として報道を中立公正へと向かわせるものであるかぎり、マスコミは全体として十分に信頼に値するものであると言うことができる。

 もちろん、報道の中立公正が引力と斥力のバランスの結果として目指されるべきものであるとするなら、この意味における中立公正には、言論の自由と多様性が絶対に必要となる。ジョン=スチュアート・ミルは、『自由論』において、言論の自由が保証され、多様な言論が許されているかぎり、正しい報道とすぐれた意見だけが選択されるはずであることを主張している。私は、言論の自由の力をここまで無邪気に信じる気にはなれないけれども、それでも、慰安婦に関する朝日新聞の捏造報道が典型的に示すように、偽ニュースは――時間はかかるとしても――やがてその正体を露呈することを免れられないに違いない。そして、このかぎりにおいて、日本のマスメディアの相対的な健全性に信頼を寄せて差し支えないと私は考えている。

2. マスコミについて国民が感じる「偏向」は、言論の自由が認められた社会に共通のもの

 第2に、報道に対する基本的な信頼は、日本にのみ認められるものではなく、たとえばアメリカでも同じである。たしかに、去年の大統領選挙においてドナルド・トランプに投票した有権者の多くは、メディアの報道に偏向を感じとっていた。この点は、日本と同じであるかも知れない。実際、マスメディアの報道を信頼する国民の割合は、アメリカでは32パーセントしかいない。表面的には、これは日本に比べていちじるしく低い数値である。

Americans' Trust in Mass Media Sinks to New Low

 それでも、アメリカでは、(どれほど偏向しているように感じられるとしても、)公共の利益にかかわる重大な出来事に関するメディアの発信が根本的に虚偽である――つまり、偽ニュースである――とまで考える者は少数派にとどまる。国民がマスコミに認める問題というのは、日本に固有のものではなく、言論の自由が基本的に認められているすべての社会に共通するものであると考えるべきである。

3. 「マスゴミ」という言葉を使う者にかぎってメディア・リテラシーが欠けている

 そして、第3に、「マスゴミ」という言葉を使う者たちのメディア・リテラシーの問題がある。マスコミについて、「信用できない」「マスゴミである」などと公言する者のすべてを知っているわけではないが、少なくとも、私が直接あるいは間接に知る範囲では、このような仕方でマスコミに対する不信感を表明する者のメディア・リテラシーはかなりお粗末なのが普通である。

 そもそも、彼ら/彼女らは、記事を1本書くために記者が何をどのように取材するのか、あるいは、取材した記者が書いたものがどのようなプロセスを経て記事として完成し、紙面に組み込まれて私たちの目に触れるのか、このような点について何も知らないまま、偏向を批判したり、「外国政府がマスメディアを操っている」などという憶測を口にしたりしているように見える。私自身、報道の現場で働いたことは一度もないけれども、また、報道機関がニュースに認める価値と事実としての重要度が決して一致しないことは何となくわかるけれども、それでも、報道機関がみずからの公的性格を完全に忘れ、ただ「反日」を煽り視聴率を狙うなどありえないことくらいは、私にもわかる。

 おそらく、ネット上で右寄りの言論にコミットしている者たちのうち、少なくはない部分は、自分のカネで新聞を購読してはいないであろう。以前、新聞の購読料について、次のような記事を書いた。


新聞の購読料は公論の形成のための献金である : AD HOC MORALIST

「ニューズウィーク」でアムウェイの記事広告を見つける 昨日、ニューズウィーク日本版のウェブサイトを見ていたら、次のようなページが目にとまった。人々に選ばれる製品を生む「アムウェイ」の哲学 ツイッターを見ると、このページを見た人の多くが、これを「ニューズウ

 新聞の購読料は、情報の代金なのではない。それは、公論を形成するために国民がなすべき献金なのである。

 新聞の報道姿勢について納得することができない――そのような偉そうなことを言えるほどのメディア・リテラシーを具えた日本人は全部で千人もいないであろうが――としても、複数の全国紙や地方紙、週刊誌や月刊誌などを実際にある期間購読し、比較しながら吟味したことがない者には、メディアについて何か意味のある(とみずから信じる)ことを語る資格などないと考えるべきである。朝日新聞から産経新聞まで、あるいは、赤旗から世界日報まで、多種多様な新聞を読んだ経験がなければ、「マスゴミ」への批判は、浅薄な偏向批判や陰謀論となり、公共の言論空間をノイズで満たすことになるばかりであろう。

 当然、NHKの受信料の支払いを公然と拒絶する「愛国無罪」など、許されるわけがない。


NHKに文句があるなら、まず受信料を支払うべき 「愛国無罪」など通用しない : AD HOC MORALIST

受信料を支払わない者に文句を言う資格はない NHKに受信料を支払わず、これを滞納し続けたり、あるいは、確信犯的に支払いを拒否したりする者がいる。しかし、このような行動は、私にはまったく理解することができない。 20年以上前、まだNHKが受信料を集金していたころ、

The War of Wealth by C.T. Dazey, Broadway poster, 1895

「預金封鎖」がよく知られるようになったのは、21世紀になってから

 私が「預金封鎖」という言葉に初めて注意を向けるようになったのは、今から15年近く前、2003年のことである。この年の秋、私は、次の本の広告を新聞で見つけた。

預金封鎖 「統制経済」へ向かう日本 / 副島隆彦/著 - オンライン書店 e-hon

 この本では、政府が富裕層を主な標的とする預金封鎖を実施して財政赤字を解消するに違いないという予測が語られている。私の記憶と理解に間違いがなければ、この本は、当時、広い範囲に反響を惹き起こし、これがきっかけとなり、日本の言論空間で預金封鎖の問題が繰り返し取り上げられるようになった。この意味において、上の本には重要な意義があるはずである。

政府は、敗戦直後に預金封鎖を実施したことがある

 もっとも、この本のタイトルに敏感に反応したのは、わが国の財政問題にもともと関心があった人々ではなく、むしろ、どちらかと言うと年齢が高い人々であった。わが国では、敗戦直後の1946年に預金封鎖が実際に行われたことがある。この預金封鎖をリアルタイムで経験し、自分や両親が財産のかなりを失って苦労した人々は、政府に対する信頼が特に薄いのであろう、上の本のタイトルを見て、「ああ、そういうことがまた起こっても不思議じゃないな」という感想を持ったようである。

そして預金は切り捨てられた 戦後日本の債務調整の悲惨な現実――日本総合研究所調査部主任研究員 河村小百合 | DOL特別レポート | ダイヤモンド・オンライン | ダイヤモンド社

 実際、私の周辺では、この本のことを話題にしていたのは高齢者ばかりであった。当時は小泉政権の時代であり、弱者に痛みを強いるはずの「構造改革」がなぜか弱者によって支持されているという不思議な状況のもとで、何が起こってもおかしくないと感じていた高齢者が少なくなかったこととも関係があるのかも知れない。

次の預金封鎖は、前回の預金封鎖を知る世代が少なくなったころにやってくる

 現在の安倍政権の財政政策は、本質的に国家社会主義的であり、財産権を無際限に保証するのではなく、むしろ、財産権は、社会全体の福祉のために制限されることもありうるものと見なされているようである。実際、相続税の対象拡大に代表される富裕層への課税強化がすでに進められている。

 したがって、このような政策の延長上において預金封鎖を実施し、富裕層の資産の大半が政府に吸い取られる可能性はゼロではない。もちろん、預金封鎖が実施されるなら、現在の日本の財政赤字は、その大半が解消され、プリマリーバランスが黒字化されるばかりではなく、財政全体があらゆる観点から一瞬で健全化されることになる。

 もちろん、預金封鎖というのは、予告も予兆もなしに実施されるのでなければ効果を発揮しないから、国民にとっては、つねに「突然」でしかありえない。この意味では、預金封鎖が今日実施されても不思議ではない。

 それでも、あと何年かは――政府がこれを必要と判断しても――預金封鎖が実施されることはないであろう。というのも、敗戦直後に実施された預金封鎖とその影響を直接に知る世代、つまり、戦前生まれの世代が預金封鎖に対しリアルな警戒感を持っているからであり、この世代に知力と体力があるかぎり、政府が徹底的な批判にさらされ、並行して進められるべき他の政策に支障が出ることが避けられないからである。

 したがって、預金封鎖が実施されるとしても、それは、戦前生まれの世代がほぼ姿を消し、団塊の世代が75歳を超え始める2025年ころよりもあとなのではないか……、素人の私は、このように勝手に予想している。

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