AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 政治とその周辺

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 最近、人口の減少のせいなのか、人手不足に関連するニュースをよく見かける。コンビニエンスストアやファミリーレストランが24時間営業をやめることが、しばらく前に大きな話題になっていた。私も、しばらく前、この話について、ブログに記事を投稿した。


テレビがまず24時間放送をやめたらよい : アド・ホックな倫理学

昨日、NHKで次のような番組を観た。続ける?やめる? "24時間型社会"ニッポン - 放送内容まるわかり! - NHK 週刊 ニュース深読み 最近、24時間営業をやめるコンビニエンス・ストア、ファストフード店、ファミリーレストランなどが増えてきたというニュースが取り上げら

 たしかに、企業にとっては、特に、非正規雇用の従業員に労働力を依存している業界にとっては、人手不足は、深刻な問題ではあるに違いない。しかし、このような業界の人々には申し訳ないけれども、私自身は、非正規雇用の従業員を低賃金で使ってきた業界が人手不足に悩むのを見ても、同情したり、経営者の身になったりする気にはどうしてもなれない。むしろ、「ああ、バカだな」という感想がどうしても心に浮かんでしまう。

 1980年代末から1990年代初めのバブル景気の時代は、私が大学生であった時代と正確に重なる。大学に入学してまもなく、景気の拡大が始まって物価が上昇し、社会全体に成金が溢れ、一種の狂乱状態が出現した。そして、大学を卒業してからしばらくして、景気が急激に後退し始めた。そこにもまた、狂乱状態はあった。それは、ケチと安売りに狂奔する者たちが作り出す狂乱状態であった。

 1980年代も90年代も、私のような職業の人間には、決して楽しい時代ではなかった。それでも、本を読みながら、視界の隅で社会の大きな変転をリアルタイムで観察し続けたせいか、その後、いくら景気の変動があっても、まったく驚かなくなった。これは、実に貴重な経験であったと思う。景気の変動に翻弄される人間の愚かさや悲哀は、1980年代末から90年代初めにすべて見てしまったような感じがするのである。だから、人手不足の話を聴いたとき、私は、既視感に襲われた。

 現在、人手不足に悩んでいるということは、日本の企業経営者が、バブルとその崩壊から何も学ばなかったことを意味する。たとえ人口が減少しないとしても、景気が拡大することがあるとするなら、労働力は必ず不足し、アルバイトに代表される非正規雇用の従業員の賃金は上昇する。実際、バブルのころ、多くの企業はこれに苦しめられたはずである。そして、(みっともないことに、)人件費の上昇を抑えるため、正社員を必死になってかき集めていたはずである。

 これが、「フリーター」という言葉が生まれ、フリーターという「職業」が成り立った時代背景である。当時は、時給に換算すると、アルバイトとして働く方が正社員になるよりも多くの賃金を得ることが可能であった。「正社員など、なろうと思えばいつでもなれる」ことを前提に、あえてフルタイムの仕事には就かず、好きなことを積極的に追求する者が、もともとは「フリーター」と呼ばれたのである。「フリーター」が「正規の職に就くことができない貧乏人」を意味するようになったのは、バブル崩壊後のことである。

 それにもかかわらず、バブル崩壊後、外食や小売の業界では、多くの企業が人件費を抑制し、短期的な利益を上げるため、非正規雇用の従業員の労働力に依存するようになった。私などにくらべれば、はるかに現実感覚のあるはずの企業の経営者たちには、景気がふたたび拡大するとき、アルバイトの賃金が急激に上昇し、経営が成り立たなくなることが予想できなかったはずはないのであるが、実際には、彼らの考えは、バブルが過熱していたころの苦い経験を忘れないという単純なことにすら及ばなかったようである。

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「事実に反している」だけでは偽ニュースにはならない

 以前、偽ニュースについて、次のような記事を書いた。


虚偽の拡散と心理戦 : アド・ホックな倫理学

11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。偽ニュース、小児性愛、ヒラリー


 言うまでもないことであるかも知れないが、「偽ニュース」というのは、普通には、虚言の一種と見なされている。もちろん、ある文が虚言であるためには、それが事実に反しているだけでは十分ではない。実際、事実に反する情報というのは、身の回りにいくらでもあり、私たちは、これと共存している。

 たとえば、一般に「時代小説」と呼ばれているものの内容は、事実に反する情報ばかりであるかも知れない。そこでは、架空の登場人物の言動が、あたかも実際に見てきたような仕方で語られる。これは、明らかな虚言である。また、実在の人物が作品に登場する場合でも、この人物の語る言葉が事実のとおりであったはずはない。池波正太郎は、江戸時代に生きていたわけではない。当然、彼の作品に登場する田沼意次が語る言葉は、池波自身がその場に立ち会って耳にしたことの再現であるはずはない。また、時代小説を読むとき、読者は、その都度あらかじめこのような事情を承知している。すなわち、読者は、第1に、現実の田沼が何を語ったかを知らなくても、池波が語っていることが事実のとおりではないことを理解し、それとともに、第2に、事実に反する情報が含まれているからという理由によって『剣客商売』を虚言のかたまりとして斥けることはないのである。これが、事実に反する情報との共存である。

虚言が罪かどうかは、相手が「真実を聴く権利」を持つかどうかによる

 アウグスティヌス以来、ある文が虚言と見なされるには、2つの条件が必要であると考えられてきた。すなわち、事実に反していることと、他人を欺く意図にもとづいて発せられていること、この2つの条件を同時に満たすとき、虚言は虚言となり悪となるとアウグスティヌスは理解する。つまり、他人を欺く意図の有無が虚偽と真実を分けると考えられてきたことになる。(誠実であることは、神に対しても人に対してもひとしく義務であるという了解が前提となっている。)

 文学作品の場合、そこに含まれる情報が事実に反するものであるとしても、虚言とはならないのは、他人を欺く意図が見出されないからである。つまり、事実に反する情報と同時に、この情報が事実ではないことを読者に知らせる何らかのサインがどこかで示されているのである。事実に反する情報を事実に反する情報として提示するかぎり、これは、虚言とはならない。

 このかぎりにおいて、他人を欺く意図というのは、明瞭な標識であるように見える。とはいえ、ここには、ある重大な問題がある。たとえば、不治の病に侵されている患者を励ますため、「大丈夫ですよ、きっと治りますよ」と言うのは、厳密に考えるなら、嘘をついていることになる。しかし、この嘘は悪であるのか。あるいは、誘拐犯を逮捕するため、身代金を渡すと偽って犯人を呼び出すのも、犯人に本当のことを隠しているという意味では、虚言に当たる。

 これは、アウグスティヌスが虚言を定義したのと同時に提起した問題である。つまり、2つの条件によって虚言を規定することにより、善意ないし必要によって嘘をつくことは悪であるのか、という問題が惹き起こされるのである。

 近代以降、この問題を取り上げた人々のあいだで正統的とされてきた解決策は、次のようなものである。すなわち、私たちは誰でも、「真実を言う義務」を負っているが、この義務を果たさなければならないのは、「真実を聴く権利」を持つ者に対してだけである、これが、善意ないし必要にもとづく嘘について受け容れられてきた枠組みである。この考え方に従うかぎり、犯罪者、敵国、幼児、精神疾患を患っている者などには、「真実を聴く権利」がないから、嘘をついてもかまわないことになる。

偽ニュースは「真実に耐える力」を試練にかける

 事実に反することを欺く意図をもって述べると虚言になり、このかぎりにおいて、虚言はさしあたり悪であるが、「真実を言う義務」は、「真実を聴く権利」に対応するものであるから、「真実を聴く権利」を持たない者には、嘘をついてかまわない。しかし、これが虚言に関する基本的な枠組みであるなら、偽ニュースを流布させることは、それ自体としては罪には当たらないかも知れない。

 たしかに、偽ニュースが誤って(虚偽から区別された)真実として受け取られ、偽ニュースにもとづいて何らかの行動が惹き起こされるということがないわけではない。そして、これは、「真実を聴く権利」の侵害に当たるから、このとき、偽ニュースは、斥けられるべき虚言となる。

 しかし、偽ニュースは、虚言からは根本的に区別されねばならない。一般に、虚言は、真実として通用するかぎりにおいて虚言である、という根本的な特徴がある。言い換えるなら、虚言が虚言であることが露呈するとともに、虚言はその力を失い、「破綻した虚言」あるいは「虚言の残骸」となる。虚言は、みずからの正体を偽ることにおいてのみ虚言なのである。「真実を聴く権利」なるものが意味を持つのは、そのためである。

 ところが、偽ニュースの場合、これが事実に反するものであることが具体的な証拠によって明らかにされても、偽ニュースとしての力を失うことはない。虚言が「真実として」伝えられて行くときにのみ虚言でありうるのに反し、偽ニュースは、偽ニュースとしての素姓が明らかになっても通用し続ける。偽ニュースというのは、事実に反しているといくら指摘されても消滅しないのであり、この意味において、抗生物質が効かない多剤耐性菌のようなものである。

 したがって、問題は、偽ニュースを作る者にあるのではなく、これを受け容れ、伝播させ、流布させる者の側にある。虚言が罪に当たるかどうかを判定する場合、もっとも重要であったのは、「真実を聴く権利」であり、「真実を聴く権利」を持つ者に嘘をつくことは罪に当たる。しかし、偽ニュースは、真実を聴く「権利」ではなく、むしろ、「真実に耐える力」を試練にかけ、人間にみずからの弱さを自覚させることにより、「真実に耐える力」が、「真実を聴く権利」や「真実を言う義務」よりもさらに根源的な仕方で人間の人間らしい生存を支えるものであることを教えているように思われるのである。

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 わが国は、一応、民主主義国家であり、また、法治国家でもある。さらに、国民は、ほぼ完全な言論と表現の自由を与えられ、政治的な発言が取り締まりの対象になることは原則としてない。

 しかし、日本の現状は、世界的に見るなら、例外に属する。世界では、民主主義も法治主義も言論の自由もない国の方が多数である。つまり、私たちが社会生活の当然の条件と見なしていることのかなりの部分は、世界の多くの国では通用しない。ただ、念のために言っておくなら、私は、ここで、「だから、日本はすばらしい」と主張したいわけではない。

 日本人は、このような状況のもとで、ある自由を与えられている。それは、広い意味における精神の自由、内面の自由である。それは、たとえば次のようなことである。

 私たちは、直接税や間接税の形で、さまざまな税金(や社会保険料)を国や自治体に納める。(厳密に言うと、社会保険料は税金ではないが、支払う側にとっては、同じようなものである。)たしかに、これは、法律で定められた義務である。とはいえ、私たちは、納付期限までにただ税金を払えばよいのであり、「よろこんで、まっさきに納税する」ことを要求されているわけではない。

 同じように、法律に従うことが必要である場合にも、求められているのは法律に従うこと、あるいは、法律に違反しないことであり、「法律によろこんで従う」ことは必要ではない。自動車を走らせていて交差点で信号が赤になったとき、要求されているのは、ただ「停止すること」であり、「よろこんで停止すること」ではない。これは、誰が考えても明らかであろう。

 官僚や政治家に陳情するとき、相手の神経を深刻な仕方で逆撫でしたら、あなたは話を聴いてもらえないかも知れない。そして、本来なら得られたはずの利益を逸する可能性がある。それでも、相手を脅迫したり侮辱したりするようなことがないかぎり、あなたが逮捕されることはない。(せいぜい、役所から追い出される程度である。)わが国では、法律に忠実であればよいのであり、権限を越える範囲において官僚や政治家に忠実である必要はないからである。

 あなたが何かの理由でわが国の総理大臣に面会し、その席で、総理大臣があなたに何か冗談を言い、しかし、その冗談が面白くなかったため、あなたが即座に「その冗談は面白くない」と総理大臣に直に言ったとする。もちろん、総理大臣は、大いに気を悪くするであろうが、だからと言って、あなたが逮捕されたり射殺されたりする危険はない。なぜなら、総理大臣に与えられている権利や権限はすべて、法律で定められており、下らない冗談にあなたが同調しなかったからと言って、あなたを逮捕したり射殺したりするなど、法律が許さないからである。あなたは、総理大臣を前にして緊張することはあっても、相手が総理大臣としてふるまっているかぎり、あなたと対等の存在であり、したがって、総理大臣に恐怖を覚えることはないはずである。法を逸脱した形であなたに危害が及ぶ可能性がないからである。

 しかし、独裁者あるいは独裁国家においては、事情は異なる。独裁国家の法律は「よろこんで」従うべきものである。また、独裁者には「よころんで」従わなければならない。だから、ある独裁者が口にした冗談がどれほど下らないものであっても、これに同調しなければ、その場で逮捕されたり射殺されたりする惧れがある。(いや、反対に、独裁者の下手な冗談に同調したことが理由になって逮捕されたり射殺されたりすることもありうる。)だから、わが国の総理大臣とは異なり、独裁者は、あなたの心に恐怖を惹き起こすはずである。

 独裁国家においてもっとも優先的に知るべきことは、誰が権力を持っているのかということであり、もっとも重要なのは、権力を持つ者の機嫌を取ること、あるいは、少なくとも、相手を怒らせないことである。独裁者(たち)が「何をするかわからない」以上、そこには、対等な関係は成り立たないのである。(だから、体制に対する忠誠を言動によって示すよう「自発的に」「駆り立てられる」ことになる。)

 しかし、独裁者(たち)の側から見ると、この「何をするかわからない」自由を手に入れ、民衆がこれに恐怖を抱くこと、そして、自分のことを怒らせないようにしたり、機嫌を取ったりするために努力することが、独裁の魅力となる。この魅力は、麻薬のようなものであり、この麻薬が、権力の上層から下層に向かって浸透し、社会を腐敗させてゆくのである。

 日本でも、「ミニ独裁者」は、社会のいたるところにいる。ただ、幸いなことに、明治以降、社会全体が長期間にわたり独裁的な体制のもとにあったことはなく、また、現在のことろ、わが国が独裁国家になる兆候はない。(北朝鮮や、最近のアメリカを見るにつけ、)これは、わが国にとり、とても幸運なことであるように思われる。


Waste separation wall in Cologne/Germany

ゴミの分別は大雑把な方がラクである

 私は、東京都杉並区に住んでいる。杉並区では、ゴミの収集は、「可燃」「不燃」「古紙・ペットボトル」「びん・缶・プラスチック製容器包装」の4種類に分けて収集される。可燃ゴミが週に2回、不燃ゴミが月に2回、あとはそれぞれ週に1回である。ただし、杉並区の場合、これらとは別に、資源としてリサイクルされるような金属等を含む製品については、区内の指定された回収場所に自分で持って行かなければならない。

 以前に何年か住んでいたことのある西日本の某政令指定都市では、分別の指定がもっと細かく、非常に苦労した。東京は、全国の中では、分別が大雑把な方であるのかも知れない。次の本によれば、ゴミを34種類に分別することを住民に求めている自治体もあるようである。(無精な私は、この本を読んだとき、このような自治体の住民ではないことの幸運を実感した。)

ゴミ分別の異常な世界 リサイクル社会の幻想

 狭いアパートに独り暮らしの場合、ゴミの分別の指定が細かいというのは、あまりありがたくない。ゴミとして出す予定のものを分別し、部屋の中に置いておかなければならず、これがかなりの場所を占領するからである。ゴミ袋に入れて集積所に出すのではなく、ヨーロッパの一部の国のように、ゴミの種類ごとに分かれた大きなダストボックスが集積所に常時設置されていれば、ゴミを家の中で管理する必要がない分、分別がもっと楽になるのに、といつも思っていた。(安全面や衛生面で予想される問題があるのであろう。)

分別の徹底と「開封調査」がまず惹き起こすのは「コスト」の問題

 実際、誰が考えてもわかるように、ゴミの分別の指定が細かくなれば、それだけ、ゴミの分別のために住民一人ひとりが負担しなければならないコストは増大する。

 この場合の「コスト」が意味するのは、カネばかりではない。むしろ、ゴミの分別には、体力、手間、時間、そして、収集日を待つゴミが住居の内部で占有するスペースが必要であり、これらがゴミの分別にとって避けることのできないコストとなる。

 もちろん、暇とエネルギーを持て余した「意識が高い」分別マニアにとっては、ゴミの分別は、いかなる意味でも「コスト」ではないかも知れないが、他にもなすべきことがたくさんあり、しかも、ゴミの分別の生活における優先順位が決して高くはない人間、つまり普通の人間にとっては、ゴミの細かい分別はコスト以外の何ものでもないように思われる。

 多くの自治体は、住民に対し、ゴミの分別を徹底するよう平然と要求するし、さらに、いくつかの自治体では、ゴミの分別が正しく行われているかどうか、「開封調査」なるものが行われているようである。(ゴミの分別は、それ自体としては法的な義務ではないから、自治体は、開封調査を実施し、分別に協力しない者を「晒し者」にすることで、分別を徹底させようとしているわけである。)

 また、「開封調査」を行うと公表してはいなくても、ゴミを回収したあと、最終的に処分する前に、全部のビニール袋を開けて中身を目視で点検し、分別し直す自治体は少なくないようである。私が住んでいたことのある西日本の某政令指定都市が発行するパンフレットには、回収したゴミ袋をすべて開封し、内容物をベルトコンベアーで移動させながら、防護服のようなものを身につけた職員が手作業でゴミを分別し直している写真が掲載されており、私は、この写真を見て、背筋が凍る思いがした。

 たしかに、他人事として考えるなら、ゴミの分別が好ましくないはずはない。ただ、分別の意義は、無条件の絶対のものであるはずはなく、あくまでも「分別のコスト」との関係で決まるはずである。ゴミの分別を徹底するよう住民に要求することは、分別のコストを負担するよう住民に要求するのと同じことである。

 自治体は、分別の徹底を求めるのなら、分別のメリットを住民に明示すべきであろう。それは、当然、「環境にやさしい」とか「資源のリサイクルになる」などといった抽象的なものであってはならない。資源のリサイクルへの貢献を名目として家庭から排出するゴミを自主的に分別することは、住民にとっては何のメリットもない単なる「勤労奉仕」だからである。

 ゴミの分別を徹底させよることを望むのなら、目に見える形の費用対効果(住民税が安くなるとか、開封調査に自発的に応じるたびに100円分の金券がもらえるとか、首長が表彰するとか)――つまり「餌」――を提示することは、自治体の義務である。そして、この義務を前提として、ゴミの厳密な分別のコストを住民に対し公然と要求する権利が初めて発生すると考えるべきである。

 ゴミの分別の徹底と「開封調査」について、憲法違反や違法の疑いを投げかける人がいる。私は、このような人々の声が間違いであるとは思わない。(というよりも、この点に関し、今は判断を控える。)

 たしかに、上に述べたように、「開封調査」は、違反者を「晒し者」にすることで住民を威嚇し、自治体の意向に従わせようとするものであるから、このような措置に何らかの問題を指摘することはいくらでも可能であるには違いない。ただ、ある自治体に住み、その地域の暮らしの当事者であるかぎり、憲法で認められた権利の一部を自発的に放棄したり制限したりすることはつねにありうる。だから、ゴミの分別と「開封調査」に関するかぎり、法律上の問題があるとしても、それは、ゴミの分別を要求したり、「開封調査」を実施したりすることの意義をただちに損なうわけではない。むしろ、根本的なのは、ゴミの分別が住民に強いるコストの問題である。ゴミの分別のコストばかりを要求され、それに対する見返りが何もないから、ゴミの分別が徹底されないのである。分別のコストを自発的に負いたくなるような「餌」が提示されないかぎり、ゴミの分別が徹底されることはないに違いない。


ティンダハナタ

 しばらく前、NHKで次のような番組を見た。

「南西諸島防衛 自衛隊配備に揺れる国境の島」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

 南西諸島の防衛を目的とした自衛隊の部隊の配備計画によって地元の住民のあいだに対立が生れていることが取り上げられ、(国政を担う)政治家は、安全保障とともに、地域の安定にも目を向けるべきであるという意味のことが語られていた。

 しかし、私は、外部の人間が、地元の住民のあいだの対立や分断の解消のために努力することにはあまり意味がないと考えている。つまり、対立や分断は、さしあたり放置する他はないように思われるのである。

 いわゆる「ネット右翼」は、プロ市民、外部から来た活動家、外国政府のせいで分断が起っていると主張するかも知れないが、意見の対立が解消されないのは、プロ市民や活動家や外国政府が暗躍しているからではない。(もちろん、何者かが暗躍している可能性はつねにあるけれども、たとえ誰も暗躍していないとしても、)そもそも、何か新しいことが発生すれば、この新しいことをめぐり意見が分かれるのは当然だからであり、安全保障の問題に関するかぎり、「自衛隊を配備するか、それとも配備しないか」の二者択一しかなく、万人が同意するような「落としどころ」など見出すことができようはずはないからである。沖縄の歴史を辿るなら、安全保障をめぐり、このような意見の対立や分断が500年以上にわたり飽きるほど繰り返されてきたことがわかる。だから、私は、上のような番組を見たとき、デジャヴュの感覚に襲われた。このようなことを報道するのは、もう終わりにした方がよいような気もする。

 残念ながら、これまでの歴史の範囲では、沖縄が主体性を発揮して安全保障上の問題を自力で解決したことは一度もない。沖縄には、主体性を発揮するための力の前提となるような人口も面積も産業もない。沖縄が外部の勢力と交渉しようにも、取引材料が何もなく、対等な相手と見なされないのだから、自力では何も解決できないのは――沖縄が無能だからではなく――離島の寄せ集めという沖縄の性格上、また、中国という覇権主義的で帝国主義的な独裁国家がすぐ隣にある以上、仕方のないことである。(この意味において、今の政府は、沖縄県の声によく耳を傾けていると私は考えている。)

 だから、与那国町、宮古市、石垣市などにおいて市民のあいだに意見の深刻な対立があるとしても、これは必然であり、放置するしかない。やがて、時間の経過とともに、自衛隊が地元にいることが事実として承認されるようになれば、分断は自然に解消されて行くはずである。安全保障の問題は、市町村や都道府県の問題ではなく、政府の問題であり、基礎自治体には、大きな枠組みを自分で変更する力がない。地元の住民にとって考える意味があるのは、「受け容れるか/受け容れないか」ではなく、受け容れた場合、その損害――があるとしてーーをどのようにしたら最小限に抑えることができるのかという技術的な問題だけであろう。

 上の番組では、次のようなことが語られていた。

元防衛官僚で官房副長官補を務めた柳沢協二氏は、先月、石垣市で講演し、「最前線に地対艦ミサイルのようなパワーがあれば、相手を拒否する力にはなる。ただ、相手側に本当に戦争をする意思があれば、最初にここが攻撃されるだろう。その覚悟があるのか」と語っていました。

 「その覚悟があるのか」などという脅迫するような表現が使われていることから、この人物がミサイルの配備に反対なのだということはよくわかる。(そもそも、「覚悟がない」としても、だからと言って、何もしないで済ませることが許されるとでもいうのであろうか。)けれども、現実には、覚悟の有無というのは、どうでもよい話である。なぜなら、万人にとって何よりも必要なのは、次のような事実を認識することだからである。

 すなわち、地元の住民に覚悟があってもなくても、また、自衛隊の部隊がいるかどうかにも関係なく、さらに、自衛隊の配備が中国を「刺激」するかどうかにすら関係なく、石垣市、宮古市、与那国町などは、最初から中国に狙われているという事実、その上で、自衛隊なりミサイルなりの配備が、中国が侵略を実際の行動に移す確率を抑えるのに間違いなく効果があるという事実を認識することであるように思われるのである。


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