AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 政治とその周辺

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 しばらく前、下のような記事を見つけた。

男性保育士に「女児の着替えさせないで!」 保護者の主張は「男性差別」か

 保育園には、女性帆の保育士だけではなく、男性の保育士もいる。しかし、男性の保育士に女児の着替えをさせたくないという保護者がいるため、保育園は、男性の保育士をこのような仕事から外している。このような措置の是非が問題になっているというのである。

 この問題については、形式的な観点から、最初に2つの事実を確認しておかねばならない。

    • 第一に、男性の保育士も保育士であるという点、そして、
    • 第二に、子どもを保育園に預けるのにリスクがゼロということはありえないという点である。

男性の保育士は保育の専門家である

 まず、最初の点に関して言うなら、保育園内で保育士に着替えを手伝ってもらうというのは、路上で見ず知らずの通行人に着替えを手伝ってもらうのとはわけが違う。

 保育園で働く保育士というのは、子どもとの付き合い方について、どれほど短くても数年の教育と訓練を受け、性別に関係なくある程度以上の品質の業務を遂行する能力があるという認証を国から受けている専門家であり、信頼するに足る存在であるはずである。そして、そうであるからこそ、保護者は自分の子どもを保育園に預けているはずなのである。

 だから、保育園は、保護者が上のようなことを要求したら、雇用する者の責任として、要求を断固斥けるべきである。男性の保育士に着替えをさせないという措置を講じることは、みずからが雇用する男性の保育士の専門家としての資質や能力を信用していないことを意味する。上の記事では、ある男性保育士が次のように語っている。

「こうした意見が保護者から寄せられると、すぐに男性保育士の持ち場は変わってしまいます。こちらとしては『イヤ、そうじゃない』と否定して欲しいんですよ。これでは、同じ保育士なのに男性だけが『専門職として認められていない』と感じてしまいます」

 実際、保育士になるための教育や訓練を何のために受けてきたのか、これではわからないであろう。

保育園に預けることがそもそもリスク

 そもそも、子どもを保育園に預けることには、それ自体としてリスクがある。個人情報を含む自分のデータをクラウド上に保管するのと同じように、大切なものを他人の管理に委ねる以上、預けたものが毀損されるリスクはゼロではない。そもそも、下の本にも記されているように、生きているかぎり、リスクを100%避けるなど不可能であり、つねに何がしかのリスクにさらされてはいると考えるべきである。

「ゼロリスク社会」の罠 佐藤健太郎 | 光文社新書 | 光文社

 もちろん、保育園に子どもを預けるリスクは、見ず知らずの他人に路上で面倒を見てもらうこととは比較にならないほど小さい。子どもに害が及ぶリスクは、資格を持つ専門家に、また、しかるべき環境で保護を受けることにより、考えうるかぎり最小限まであらかじめ抑え込まれているのである。性犯罪者の9割が男性であるからと言って、男性の保育士の9割が性犯罪者であるわけではない。いくら人手不足であるとは言っても、専門家として訓練を受けた男性の保育士が性犯罪者である確率は、公道上ですれ違う見ず知らずの男性が性犯罪者である確率よりもはるかに低いと考えるのが自然である。(だから、保育園に子どもを預けられるわけである。)男性の保育士を忌避する保護者は、自分の要求が合理的であるかどうか、胸に手を当てて冷静に考えてみるべきであると思う。

 しかし、それでもなお、男性の保育士に着替えをさせることに抵抗感があるなら、あるいは、合理的な手段によってあらかじめ抑え込まれているリスクを非現実的なレベルにまで抑え込みたいのなら、道は2つしかない。すなわち、

    • 保育園に子どもを預けるのをやめ、どれほど多くの犠牲を払っても、自宅でひとりで子どもの面倒を見るか、
    • 保育園が認めるなら、割増料金のようなものを支払って女性の保育士に着替えをさせるか、(美容院での美容師の指名料のようなものである)

いずれかを選ぶしかないであろう。

 当然のことながら、自分ひとりで自宅で子どもの面倒を見るかぎり、保育園に子どもを預けることよるリスクを全面的に回避することが可能となる。ただ、子どもを保育園に預けている保護者の大半にとって、この選択肢は現実的ではないであろう。そして、その場合には、男性の保育士がいない保育園や、男性の保育士には着替えをさせないことを保護者に約束している保育園や、割増料金を支払えば着替えを女性の保育士に着替えを任せられる保育園などを見つけて、そこに子どもを押し込む他はない。だから、このような余分な(しかも、おそらくは相当な)コストをかけてリスクを回避したいと本当に考えているのかどうか、保護者は検討すべきであろうし、時間や手間をかけて保育園を探したり、割増料金を支払ったりする覚悟がないのなら、男性の保育士をリスクと見なして忌避してはならないであろう。


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 しばらく前、次のようなニュースを見つけた。

移民を蹴り転ばせた女性カメラマンに有罪判決 ハンガリー - BBCニュース

 セルビアとの国境からハンガリーに入国しようとしたシリアの難民を撮影していたハンガリーの女性カメラマンが、子ども2人を蹴り、子どもを抱えて走っていた男性を足でひっかけ転倒させた容疑で起訴され有罪になった事件である。(なお、記事に注記されているように、BBCは、原則として「難民」(refugee) という言葉を使わず、すべて「移民」(migrant) と表現しているようである。)

 日本人の多くは、難民や移民について、同情すべき存在であると考えているであろうが、(私の情報が不足しているのでなければ、)難民や移民との共生については、どちらかと言うと否定的に評価しているように見える。難民や移民の認定や受け入れに対する政府の消極的な態度は、社会全体の空気の反映にすぎないように思われるのである。(もちろん、「労働力として役に立つから歓迎する」という意見がないわけではないが、ここでは、このような即物的で功利主義的な思惑はさしあたり無視する。)

 外国人に対する日本人の関係というのは、日本文化論や日本人論において飽きるほど繰り返し取り上げられてきたトピックである。ただ、日本人を外国人との関係において規定するのが日本人論、日本文化論の課題であるなら、これは、当然のことであるかも知れない。

 多種多様な日本文化論、日本人論から最大公約数的な見解を取り出すなら、おおよそ次のようになるであろう。すなわち、「日本人は、外国に由来するものは何でも『舶来』のものとして積極的に受容し珍重するが、人間だけは例外であり、外国人を社会に受け入れ同化を促すことには消極的であり、外国人は『よそ者』として隔離される。」そして、「外国人の意見は、日本人の意見よりも尊重されることが多いが、それは、あくまでも外国人が『よそ者』だからである。」

 外国の場合、外国人嫌い(xenophobia) には露骨な人種差別が重ね合わせられることが多い。だから、人種差別の要素が希薄である点で、日本の外国人嫌いはやや特殊であるかも知れないが、それでも、外国人嫌いは、それ自体としては日本に固有の傾向ではない。どのような社会でも、よそから来た者を無際限に受け容れるようなことはないはずである。

 難民や移民の受け容れに対する積極的な態度は、それ自体としては合理的であるのかも知れない。しかし、難民や移民を受け容れる前に必ず承知しておくべきことがある。それは、難民や移民が日本に来るとするなら、それは、生存のためであり、日本人と「共生」し、日本人の社会に同化するためではないという点である。日本人との共生、日本社会への同化が実現するなら、それは、難民や移民の側からすれば、やむをえざる共生と同化であるにすぎない。なぜなら、彼ら/彼女らは、本国が平和で安定していれば、(彼ら/彼女らにとっては得体の知れない)日本人などと接触するストレスとは無縁でいられるはずだからである。この点は、決して忘れてはならないであろう。

 さらに重要なのは次の点である。難民や移民は、それ自体として「よい人々」でもなく「ならず者」でもない。難民キャンプの映像を見ると、そこで暮らす人々がボロボロの服を身につけ、最低限の食料で日々を過ごしていることがわかる。そのため、日本人が親切にしてあげれば、彼ら/彼女はさぞ喜ぶであろう、日本人は大いに感謝されるであろうと考えがちであるが、現実には、そのような肯定的な反応はほとんど期待することができないであろう。そもそも、彼ら/彼女らは、難民になる前からボロボロの服を身につけ、最低限の食料で日々を過ごしていたわけではなく、その生活水準は、大雑把に言えば、平均的な日本人と大して違わなかったはずだからである。

 また、難民キャンプについて、「かわいそうな人々が集まっているところ」であると信じている日本人は少なくないかも知れない。しかし、私自身、難民キャンプを実際に訪れたことがあるわけではなく、詳しいことを知っているわけではないけれども、少なくとも、そこが、決して安全な避難所なのではないことは知っている。むしろ、難民キャンプというのは、大抵の場合、ありとあらゆる犯罪が発生する空間、安定した社会を支配する道徳や法の通用しない一種の無法地帯であり、何としてでもそこから逃れて安全な場所に身を置きたいと考えるようなところである。(アフリカに作られた難民キャンプでは、部族間の抗争が発生し、「ミニ内戦」のような状態になったところもある。)シリアからの難民が、考えうるかぎりのさまざまなルートを辿ってヨーロッパへと向かうのも、そのためである。難民は、ヨーロッパ好きなのではない。ヨーロッパの社会に溶け込みたいと考えているのでもない。彼らの切実な要求は、本来の水準に近い生活を取り戻すことだけである。上の記事が紹介した事件で有罪判決を受けた女性カメラマンは、押し寄せる難民に「恐怖」を覚えたと語っているが、これは、難民を迎え撃つ側が抱く自然な感情であろう。何と言っても、「自分たちのことしか考える余裕がない」ほど追い詰められた人々、「生存のためなら犯罪もいとわない」人々が大量に押し寄せてくるのであるから、これが個人にとっても社会にとっても脅威にならないはずはないのである。

 (可能性は低いとしても、)難民や移民が日本に大量に上陸することがあるとすれば、彼ら/彼女らが日本に期待するのもまた、日本人との共生でも交流でもなく、単純に自分たちの生活の回復であるに違いない。外国人の受け容れにあたり、このあまりにも当然の事実を認識することは絶対に必要である。

 難民を受け容れ、移民を受け容れるのなら、彼らの第一の要求、もっとも切実な要求が何であるのかをよく承知することが必要である。日本人が彼ら/彼女らに期待しているものと、彼ら/彼女らが日本人に期待しているものとのあいだに途方もなく大きな隔たりがあることを理解しないまま、難民や移民を受け容れても、幸せな結果は決して期待することができないように思われるのである。


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 以前、次のような記事を投稿した。


「手段としての男女共同参画」――功利主義的に考える : アド・ホックな倫理学

「男女共同参画」の両義性 もう何年も前から、「男女共同参画社会」という言葉を繰り返し目にするようになった。内閣府男女共同参画局のウェブサイトには、次のような説明が掲げられている。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって



 この記事の内容を簡単に要約するなら、次のようになる。現代の社会、少なくとも日本の社会では、「男女共同参画」というものに関し、2つの必ずしも相容れない理解が併存し、ときに干渉し合っている。すなわち、「目的としての男女共同参画」と「手段としての男女共同参画」である。前者は、男性と女性が対等の立場で社会を作って行くことをそれ自体として普遍的な価値のあるものと見なす。後者に従うなら、女性の人権や生き方への配慮は、その「効用」(utility) という観点から評価されるべきであることになる。言い換えるなら、男女共同参画が社会全体の生産性を向上させ、民間企業の収益を増加させ、日本のGDPを押し上げる効果があるかぎりにおいて、女性の人権や生き方は優先的に考慮されることが必要であるというのが「手段としての男女共同参画」の内容である。

 今のところ、これら2つの立場は、明瞭に区別されてはおらず、むしろ、一方が達成されるなら、他方もまたおのずから現実のものとなるに違いないという期待が広い範囲において受け容れられているように見える。しかし、これは、甘い幻想である。形式的に考えるなら、両者のあいだに幸福な調和が生れる保証はどこにもない。反対に、少し冷静に考えるなら、「男女共同参画」が手段であるなら、それは、あくまでも限定的なものであり、したがって、男女の平等を損う可能性がつねにある。

 むしろ、この考え方に従うかぎり、人間の存在にはそれ自体としては価値はなく、人間は、「使える」「リソース」であるかぎりにおいて大切にされるべきものであるから、特定の状況のもとで男性よりも女性を優遇することが好ましい結果を産むという予想に何らかの妥当性が認められるなら、そのときには、男性の方が不当な不利益を被ること、つまり「逆差別」(reverse discrimination) が発生することもまた許容される。平等なるものの価値もまた、効用という観点から評価されねばならないからである。

 現実の社会では、「目的としての男女共同参画」のための政策と「手段としての男女共同参画」にもとづく政策が雑然と混在している。そして、そのおかげで、女性に対する差別は、少しずつではあるが、是正されている。また、「逆差別」は、それが認められる場面があるとしても、ある限度を超えると、何らかの仕方で抑止されるのが普通である。この意味では、法制度がそれなりに役割を担っていると言うことができる。たしかに、女性が生産性の極大化のために動員されるリソースであるにすぎないような社会というのは、考えようによっては、悪夢のような社会であるかも知れない。

 しかし、私たちが最終的に目指すところは、生産性の極大化でもなく、男女の形式的な平等でもなく、さらに別の何らかの福祉であり利益であり幸福であるはずである。そして、このような別の到達点から眺めるとき、「男女共同参画」なるものは、上に述べたのとは別の意味における「効用」を実現するための手段として私たちの前に姿を現すことになるであろう。


220/365+1 Tax Return

個人番号制度は、表向きは税負担の公平のために導入されたもの

 「マイナンバー」というのは、2015年から国民に割り当てられるようになった「個人番号」に政府が与えた「愛称」(?)である。

 忘れている人が多いかも知れないが、この個人番号制度は、1980年代に導入が検討され、しかし、烈しい反対に遭って姿を消した国民総背番号制度が形を変えて実現したものである。国民総背番号もマイナンバーも、国民一人ひとりを確実に識別することにより、税負担の公平を実現するのが制度の趣旨であり、具体的な仕組みが作られるに当たり、最優先で考慮されてきたのは税制との関係であった。このかぎりにおいて、制度には何ら問題はない。

 普段は個人番号のことなど考えていなくても、何らかの職業に就いている人なら、勤務先に個人番号を開示するため、1度はこれを使ったことがあるはずである。(もっとも、今のところは、個人番号を開示することを拒否しても、法律上の罰則はない。)

 とはいえ、個人番号がすべての国民に割り当てられても、政府が導入を目指している「マイナンバーカード」は、あまり普及していない。しばらく前、次のような記事を見つけた。

マイナンバー導入1年 カード取得伸び悩み8% - 共同通信 47NEWS

 私自身は、マイナンバーカードを取得したけれども、ブツとしてのカードを使ったことは、これまで一度もない。個人番号を必要に応じて開示すれば十分であり、カードをわざわざ使う機会はない。また、税制との関係では、個人番号がカードの形になっていることに必然的な理由はないように思われる。個人番号に対する関心が薄く、マイナンバーカードを取得しようと思う人が少ないのは、当然であると言うことができる。

「カードがあれば便利」は「カードがなければ何もできない」にいつでもすり替わる

 しかし、中には、個人番号に対して無関心であるというよりも、これを積極的に警戒している人もいるかも知れない。私自身も、政府が目指しているマイナンバーやマイナンバーカードの「普及」を強く警戒している。マイナンバーカードの「普及」というのは、行政サービスにおけるマイナバーの使用範囲の拡大に他ならず、それは、公共セクター(=政府や地方公共団体)において、個人番号にアクセスする権限を持つ者が増える増えることを意味するとともに、政府が税制以外の広い範囲において国民を監視することを可能にするものでもあるからである。

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 現在、政府は、マイナンバーカードで「できる」ことの範囲を広げ、「利便性」を高めることにより、カードの「普及」を目指しているように見える。しかし、私は決して「陰謀論者」ではないが、これは明らかな罠であるとひそかに信じている。

 現在のところはまだ、「カードを使って受けられる行政サービス」は、カードを使わなくても受けることができる。つまり、個人番号をいちいち開示しなくても行政サービスを受けることが可能である。しかし、たとえば、マイナンバーカードが保険証を兼ねるようになったら、私たちは、医療機関――これは、「公共セクター」ではない――に対し個人番号をさらすことになる。

病院でもマイナンバーカード、保険証代わりに

 保険証とマイナンバーカードの両方を持つ必要がなくなることは、たしかに「利便性」を促進するかも知れないが、その代償として、私たちは、医療機関の受診に関するプライバシーを失うことになる。また、マイナンバーカードの交付をコンビニエンスストアで可能にするなど、個人番号が取り扱いに最高度の注意を必要とするものであることを考えるなら、問題外であろう。

マイナンバーカードで住民票など交付 コンビニや郵便局での扱い、総務省が働きかけ

 個人番号を国民に割り当てることは、それ自体としては、私は好ましいことであると考えている。しかし、現在は、「利便性」を「餌」にして個人番号の運用の範囲がなし崩し的に拡大しつつあり、この事態には強いおそれを抱いている。今はまだ「カードがあれば便利」であるかも知れないが、それほど遠くはない将来のある日、気づいてみたら、「カードがあれば便利」が「カードがなければ何もできない」にすべてが変わっていた、ということになるに違いない。

 行政サービスの多少の不便、多少の煩雑さは、プライバシーを守り、自由を守るためのコストであると私は考えている。「カードがあれば便利」という甘い言葉に乗せられ、マイナンバーカードを使うことは、「携帯電話とテレビとネットをまとめればお得になります」などという宣伝に乗せられ、1つの事業者に囲い込まれ、そこから逃げ出すことができなくなることと同じように、賢明に自由に生きたいのであれば、決して近づいてはならない罠なのである。


Rich - Poor

 昨日、次のような記事を見つけた。

「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている

 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見ているか、理解することができなくなっていること、学歴が再生産させ、階層が固定化しつつあることがこの記事には記されている。

 このような指摘は、それ自体としては特に珍しいものでもなく、新しいものでもない。学歴による社会の分断は、遅くとも20年前にはすでに言論空間において繰り返し指摘されてきた事実である。

 とはいえ、縦横に走る壁によって社会が細かい階層に分かれ、しかも、階層のあいだの交流が失われつつあることは、周囲を観察するなら、誰でも容易に確認することが可能であるに違いない。学歴は、階層を隔てる高い壁の1つであるかも知れないが、出身地、信仰、職業などによっても壁は作られる。そして、この壁が高く厚くなるほど、人々の交流は、狭くて均質な集団の内部にとどまることになり、社会に変化を惹き起こすような刺戟が生まれにくくなることは確かである。

 しかし、階層を隔てる壁が消滅した社会、ある意味において流動的な社会は、私たちにとって好ましいものなのであろうか。たしかに、別の階層に属する人々の見方を理解し、これを受け容れることは、理想としてはつねに好ましいことであるが、これが大きな苦痛を惹き起こす可能性があることもまた事実である。ものの見方が決定的に異なる他人と向き合い、1つの空間を共有することは、誰にとっても避けたいことである。ときには自分にとって不快きわまるような意見、自分の神経を逆撫でするような意見に耳を傾け、不快きわまる、神経を逆撫でする言葉を吐き出す人間たちと折り合って行かなければならないからである。多くの属性を自分と共有している人々に近づき、周囲に壁を作ること、あるいは、民主主義的な合意形成を諦め、暴力によって異なる意見を抑圧することは、自分の身を守る手段となる。階層を隔てる壁は、精神衛生上の必要悪であると言うことができる。

 実際、考え方の違う人間が共存することが困難であることは、仕事を求めて日本に来た外国人と地域の住民とのあいだのトラブルにより、容易に確認することができる。いや、19世紀初め、ユダヤ人が解放され、ヨーロッパ社会に進出するとともに反ユダヤ主義が激化したという古典的な事実を想起するだけで、異なる階層に属する者たちからなる社会には「属性を共有する集団がたがいが隔てられている」ことが絶対に必要であることはただちに明らかになるであろう。均質で流動性の高いだけの社会というのは、悪夢以外の何ものでもないのである。

 たしかに、目の前にいるのが異なる意見の持ち主であっても、相手と折り合う必要がなければ、無関心という緩衝材のおかげで、対立や憎悪がある限界を超えることはない。相手のことがよくわからないからであり、自分たちが正しく、相手が間違っているという思い込みに囚われていても、この思い込みを修正する必要がないからである。

 かつて、インターネットに対し、このような壁を平和的な仕方で解消する手段を期待した人々がいた。しかし、現実には、次の本が指摘するように、インターネット、特にSNSは、この壁を高く厚くし、むしろ、自分と異なるパースペクティヴで社会を眺めている人々の姿を視界から消去し、決定的に見えなくするという役割を担っている。

フィルターバブル | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン

 (下は、この本の著者によるTEDでの講演であり、本のサワリの部分に相当することが語られている。)


 同じような属性の人々とのあいだで合意を形成したり、協力したり、競争したりしているとき、そのようなふるまいが拓く場面は、夢想と虚偽意識の産物にすぎないのかも知れない。しかし、この夢想と虚偽意識を解消したとき、私たちの目の前に真実として姿を現すのは、誹謗中傷によって満たされ、誰もが自分と異なる意見の持ち主を殲滅することを望む悪夢のような世界であることもまた、十分に考えられることであるように思われる。


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