AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 人生論

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集団の利益を代弁する役割は苦手

 給料をもらって働いていると、自分が所属する小さな集団を代表して他の組織の誰かと交渉し、交渉の場面において、自分が所属する集団の利益を代弁して何かを主張しなければならないことがある。これは、私がもっとも苦手とするところであり、これまで、ながいあいだ、集団の利益を代弁しなければならないような仕事からは逃げ回ってきた。今でも逃げ回っている。

 私は、自分のことにしか関心がないのであろう、あるいは、集団への帰属意識に乏しいのであろう、自分の利害にはそれなりに敏感であるけれども、集団の利益という抽象的なものに関心を向けるのには、特別な努力を必要とする。だから、集団の利益を代弁する席に着くと、交渉を最短で終わらせることを目標に、万事において簡単に妥協してしまうことになる。これは、集団にとっては大きな損害となるに違いない。

家族の利益を代弁することができるかどうか自信がない

 このような私であるから、職場の利益を代弁することが苦手であるばかりではなく、家族の利益を代弁するような立場に身を置くこともまた、できることなら避けたいと思っている。というのも、家族の利害にかかわることに関し、簡単に妥協してしまうのではないかという懸念を自分自身について抱いているからである。家族の利益を守ることが面倒になったら、家族を捨ててしまう虞があるわけである。

 職場の利益を守るのが面倒になったら、仕事をやめればよいけれども、家族の利益を守るのが面倒になったからと言って、家族を捨てて逃げてしまうわけには行かない。家族のために泣いたり怒鳴ったりすることができるというのは、私にとっては、決して当たり前のことではなく、「どんなことがあっても君(たち)を守る」などと家族のメンバーに約束するなど、恐ろしくて私にはとてもできない。家族というのは、職場とは異なり、自由に加入したり脱退したりすることができる集団ではない。だから、家族に関しては、利益を代弁せずに済ませるなど、いかなる場合にも許されないことになる。だから、いずれかの家族に属することは、すでにそれ自体として、私の目には大きなリスクと映る。

自分の利害すらどうでもよくなるのではないかという懸念

 しかし、さらに反省を進めて行くと、本当は、自分の利益すら、私にとってはどうでもよいことであり、最終的には、私にとって是が非でも守らなければならないものなど何もないことが明らかになってしまうような、嫌な予感がしてならない。「本当に大切なものとは何か」「何が何でも守らなければならないものは何か」……、自分に対しこのように問いかけても、明瞭な答えが得られないからである。これは、非常に恐ろしいことである。守るべきものが何もない、大切にすべきものを何も持たないことは、人生において寄る辺がないことを意味するばかりではなく、それ自体が悲惨なことでもある。それは、信仰を失ったキリスト教徒の悲惨と重ね合わせることができるような性質の何ものかであり、ニヒリズムないし絶望へと差しかけられた者の悲惨であるように思われるのである。このように考えるたびに、私は、さらに自分自身の空虚さを自覚し、そして、愕然とする。

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カネの有無が勝負を決することがある

 外交交渉では、武力において劣る国は、相手から足元を見られるのが普通である。(だから、憲法を改正しないかぎり、わが国は外交で負け続ける運命から逃れられない。)同じように、他人とのあいだの交渉では、いざというときには、所持金ないし財産の有無が勝負を決することが少なくない。

 もちろん、核保有国が核兵器を気前よく使うことなどないのと同じように、いくら金持ちでも、いわば「札束で顔をはたく」ような仕方で問題を解決するようなことは滅多にない。カネを実際に使うのは、最終的な手段である。

 とはいえ、十分なカネには、気持ちに余裕を作る効果がある。目の前にある問題の解決を可能にするだけのカネがあると思えば、強気に出たることが可能になるのである。もちろん、いざとなれば身を翻して逃げることもできるであろう。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 たとえば、同じ職場で働く場合でも、辞めたら路頭に迷う、あるいは、辞めたら家族を養えない、という気持ちに追い立てられながら働くのと、3年は働かなくても食って行くことができるだけの貯金を作った上で働くのとでは、気分はまったく違うであろうし、職場でのパフォーマンスにも差が生まれるであろう。当然、いざとなったら辞めても食って行けるという前提のもとで働く方が、高い生産性を期待することができるはずである。(だから、サラリーマンは、いつ逃げ出しても大丈夫なように、「脱出資金」をつねに用意しておくのがよいことになる。)

カネを使うことは、問題解決のための現実的な選択肢である

 しかし、カネを実際に使わなければ解決することのできない問題は、いつか私たちの前に現れる。しかし、それは、人生を左右するような問題であるというよりも、むしろ、大抵の場合、何らかの「障害物」を除去する費用としてカネが使われることになる。何かが「障害物」になるのは、問題を解決するために交渉が成り立たないからである。

 カネで解決する以外に道がないのは、主に過去に関する事柄である。過去は変更不可能だからである。裁判における損害賠償は、過去に関する事柄をカネで解決する典型的な事例である。変更することができない過去に対し値段がつけられるわけである。

私たちの生活が直面する困難の大半は、カネがないことに由来する

 カネは、実際に使うかどうかには関係なく、誰にとっても大切なものであり、ないよりはあった方がよいに決まっているものである。カネがあればすべての問題が解決可能であるわけではないけれども、日常生活において私たちが直面する問題の大半は、カネがその都度十分にあれば最初から起こるはずのない問題であると言うことができる。この意味において、私たちは全員、程度の違いはあるとしても、「貧しい」ことに違いはない。

 そして、日常生活において出会われるこまごまとした問題がいずれも、カネで解決可能なものであるなら、反対に、カネでは決定的に解決することのできない問題とは一体何であるのか、つまり、カネがあっても回避することのできない問題は何か、ということを真剣に考えてみることが必要となるであろう。なぜなら、カネがいくらあっても回避することのできない問題こそ、万人が頭を悩ますに値する問題であるはずだからである。


100兆円あったら何に使うか : AD HOC MORALIST

この問いに対する答えには、答える者の素姓が映し出される 「100兆円あったら何に使うか」。この問いは、想像力を刺戟するばかりではない。この問いに対する答えは、答えた者がどのような人間であるかを正確に教えてくれるものであるように思われる。ブリア=サヴァランの格

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 すべてに先立って言っておくなら、私は、人気がない。なぜ人気がないことの証拠に、私の前には、誰もあまり積極的に近づいてこない。「人気がある」という表現が「ファンが多い」と言い換えることが可能であるなら、私にはファンが少ないということになる。

 なぜ私に人気がないのか、原因は不明である。外見のせいなのか、話題に乏しいからなのか、金持ちではないからなのか、話し方や声にクセがあるからなのか、いろいろと可能性を検討してはみたけれども、結局、その正体はわからない。

 確かなのは、私が他人に直に対面するときでも、メールや手紙のような文字ベースのコミュニケーションでも、論文や著書でも、あるいは、このブログのような意見表明でも、「人気がない」点ではすべて同じということである。外見も声も明らかではない状態ですでに人気がないという事実をこう考慮するなら、私が不人気であるのは、私に由来するすべてのものの背後にある私の性格のようなものが忌避されているからであると考えるのが自然である。

 容姿のおかげで人気者になったり、財産があるという理由で人々が身辺に集まったりすることがないわけではないとしても、たしかに、人気というのは、大抵の場合、個人の性格に対する評価と一体のものである。したがって、人気者になるためには、何よりもまず、周囲から評価されるような性格の持ち主になることが必要であることになる。

 とはいえ、性格というのは、人生経験の中で形成された行動や判断の「癖」であるから、これを矯正することは容易ではない。おそらく、性格の矯正には、性格が形成されてきたのと同じくらいの時間がかかるのであろう。人生のどの時期に、どのような状況のもとで、何がきっかけで好ましくない「癖」が形作られたのか、人生を遡って行くとわかることがある。大抵の場合、性格を形作るのは、かなり若いころ、思春期またはそれ以前の時期の生活環境や出来事であり、ある時期以降は、今度は、このようにして形成された性格の方が人生に偏りを作り出すようになる。

 私の性格に由来する行動や判断は、私の生活の不可欠の一部であり、私の生活の枠組みをなすものであるから、これを冷静な吟味や反省の対象とすることは難しい。それでも、自分自身のあり方に注意を向け、これを見つめることにより、私の性格の正体もまた、少しずつ明らかになり、行動や判断の癖もまた少しずつ矯正されて行くのかも知れない。

関連情報

 このブログに昨日投稿した記事で、このブログに投稿した記事が合計で300になっていたことに気づいた。2016年8月25日に最初の記事を投稿してから、一日も休まず毎日1件ずつ記事の投稿を続けてきた。

 今年の3月末に次の記事を投稿してから、状況に大きな変化はない。PV(ページビュー)は驚くほど少ないまま、記事の数だけが多くなった。


ブログを書き続ける力 : AD HOC MORALIST

これまで7ヶ月以上、毎日記事を投稿してきたが...... 最初に自虐的なことを言うと、今日(2017年3月31日)の時点では、このブログは、ほとんどまったく読まれていない。 もちろん、誰にも読まれていないわけではないし、読んでくれる人たちには心から感謝している。それでも


 ただ、性格が矯正されるなら、事情もまた変化するのかも知れないけれども、現状では、私の努力の範囲を超える問題であり、したがって、さしあたり意味のない問題であると考え、なかば諦めている。

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興味のないことについて「やらないことの言い訳」を探すことはない

 何かをやってみたいとき、私は、できないことの言い訳をすぐに探してしまう。できないことの言い訳を見つけることに関するかぎり、私は――そして、おそらく誰でも――天才的な能力を発揮する。

 「やりたい」「やってみたい」という意欲が心に一瞬だけ浮かび、しかし、次の瞬間にはもう、私は、できないことの言い訳を探している。いや、場合によっては、目指す言い訳に辿りついていることもある。だから、ある計画について、本当にやりたいことなのかどうか、見きわめることは容易ではない。

 確実なことがあるとするなら、それはただ一つ、興味のないことについては、やらないことの言い訳をあえて探さないということである。そもそも、興味のないことについては、心に浮かぶことすらないから、「やってみようか」と考える機会すら最初から訪れないのである。

「やらないことの言い訳」は、大抵の場合、合理的である

 もちろん、やらないことの言い訳を探すとき、対象となっている事柄のすべてが私にとってやりたいことであるわけではない。本当にやりたくないこと、あるいは、本当にできないことは誰にでもあるからである。たとえば、私は、酒が飲めない。だから、誰かから酒を飲むよう求められれば、相手によっては、飲まないことの言い訳を探すことになる。相手を説得するためである。

 しかし、言い訳というのはすべて、自分または他人を何らかの意味において説得することを目指すものであるから、当然、それなりに合理的であるのが普通である。そして、この合理的な外観は、言い訳の一つひとつが覆い隠している欲求や関心というものが自分にとってどのくらい価値あるものであるのかを分かりにくいものにしている。

「やらないこと」が手段にかかわる場合、言い訳によって否定された欲求や関心は「かけがえがある」

 言い訳によって覆い隠された欲求や関心が自分の本当の欲求や関心であるのか、本当にやりたくないことであるのか、あるいは、ただ実行の可能性が心に浮かんだにすぎないことであるのか、これを判別する簡単な方法がある。それは、「やらないことの言い訳」に対応する当の事柄が、私にとって何らかの「目的」であるのか、それとも、それ自体は目的ではなく、別の目的を実現するための「手段」にすぎないのかを確認することである。

 私が探しているのが、手段となる何ごとかを実行しない言い訳であるなら、その言い訳は、何らかの目的を実現するためにその手段を選びたくない理由であり、したがって、代案を見出すことができるかぎりにおいて、それは正当である。

 これに対し、私の言い訳が「目的」にかかわるものであるなら、つまり、「やらないことの言い訳」を探している当の事柄が何か別の目的を実現するための手段ではなく、それ自体として私の関心や欲求を惹くものであるなら、「やらないことの言い訳」が覆い隠すのは、私が本当にやりたいことである。この場合、「やらないことの言い訳」を探してはならないことになる。

 もちろん、目的と手段の関係は相対的なものであり、私の欲求や関心の対象となるのは、大抵の場合、目的でもあり手段でもあるような何ものかである。ただ、何らかの目的を実現するための手段にすぎぬものであるとしても、その目的が私にとって必ずしも明瞭ではない場合――つまり、手段としての性格が相対的に希薄である場合――私は、これを目的と見なすことが許される。反対に、何かの手段として、目的との関係が明瞭な仕方で意識に上る場合――つまり、目的としての性格が相対的に希薄である場合――には、「別の選択肢」を検討することが可能であるに違いない。

 「やらないことの言い訳」は、私の心の中から際限なく湧いてくる。そして、この言い訳は、私が新しい一歩を踏み出すことを妨げる。もちろん、言い訳のおかげで危険や破滅を免れることが可能になることがないわけではない。しかし、それだけに、一つひとつの言い訳が斥けようとしているものが何であるのか、これを丹念に吟味することは、私が本当にやりたいこと、本当の欲求、本当の幸福を見出し、幸福な人生を送るために不可欠の作業であるように思われる。

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 以前、次のような記事を投稿した。


「さあて、今日は何をしようかな?」 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

無為の理想と無償の行為について哲学的に考える。


 この記事において、私は、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら、鳥のさえずりとともに目を覚まし、朝食を摂りながらその日の予定を考えるような生活画理想であるという意味のことを書いた。

 それでは、これが私の理想の一日の始まりの光景であるとするなら、その一日は、どのようにして終わるのであろうか。つまり、一日の理想的な始まりに対応する理想的な終わりとは、どのようなものなのであろうか。しかし、この点についてもまた、私には、明確な理想があり、理想の一日がこのようにして終わればよいと考える光景がある。

 この理想的な光景に登場する私は、テレビの前に置かれたソファーに腰を下ろし、テレビをつけたままうたた寝している。テレビを見ながら、居眠りしているようである。理想の一日は、テレビの前でのうたた寝で終わるわけである。

 テレビを見ながらのうたた寝は、もう20年以上前から、私の理想とする老後の一日の終わらせ方であった。原稿の締め切りに追われることもなく、職場での雑用に頭を悩ませることもなく、穏やかにテレビを見ながら眠りにつく……、たしかに、これは、いくらか自堕落な生活ではあるけれども、それでも、かぎりなく心穏やかな生活でもあるように思われる。

 「老後」の生活は、現在の私の心を占領しているいくつもの関心や気がかりからは無縁であるかも知れないが、その代わり、「老後」なりの気がかりや苦労がそこには見出されるには違いない。それでも、(どのような番組かはわからないが)一日をテレビの前で穏やかに終わらせることができる生活を手に入れることができるなら、私としては十分に満足であろうと思う。

 ところで、アメリカのテレビドラマや映画を見ていると、テレビの前に置かれた二人掛けのソファーにカップルが腰を下ろし、男性が女性の肩に腕を回して二人でテレビを見ながらうたた寝する場面にときどき出会う。これもまた、私の理想とするところではあるが……。

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