AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 人生論

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命まで奪われることはないという意味では「やり直しがきく」は正しいが……

 「人生で失敗しても、何度でもやり直せる」という意味の言葉を耳にする機会は少なくない。たしかに、現在の日本に範囲を限るなら、「何かあってても生命まで奪われることはまずない」という意味では、失敗することは、それ自体としては、決定的な破滅を必ずしも意味しない。このかぎりにおいて、失敗してもやり直しがきくという意見は、誤りではないと言うことができる。

 しかし、何かが上手く行かなかったとき、「やり直しがきく」が真であるためには、2つの条件が必要となる。これら2つの条件のうち、いずれか一方でも欠いているとき、失敗は、人生のある範囲ないし局面では決定的な破滅を意味することになるように思われる。

「やり直しがきく」ための条件[1]:自分の本当の目的を知る

 第一に、何かに失敗したときには、失敗した当の事柄をそれ自体として目指していたのかを最初に確認すべきである。具体的に言い換えるなら、(1)何かに失敗したとき、失敗したこと自体が目的であったであったのか、それとも、(2)失敗したことは、別の何かを実現するための手段にすぎず、本当の目的は他にあるのか、この点をみずからの心の中で明確にすることが必要となる。

 実際には、上記の(1)であることは稀であり、ほぼすべての場合において、何かを実現するための手段を獲得することができなかったことが深刻な「失敗」と誤って受け取られている。だから、失敗を振り返り、これを実現することで自分が何を得ようとしていたのかを明らかにし、この目的を実現するための他の合理的な手段を探せばよいだけのことである。

 失敗が破滅と受け止められてしまうのは、(1)最終的な目的について真剣に考えることなく、(2)手段の獲得が自動的に何かを実現してくれるという漠然とした期待のみにもとづいて手段が標的となり、しかも、(3)その手段の獲得に失敗するからである。

「やり直しがきく」ための条件[2]:「やり直し」にはそれなりのコストがかかることを理解する

 第二に、私たちが承知しなければならないのは、「やり直し」、つまり、最終的な目的を別の手段によって実現することは、ほぼあらゆる場合において可能であるとしても、この「やり直し」には、相当な覚悟が必要となるという事実である。場合によっては、途方もなく大きな努力や、途方もなく多額の金銭の負担を避けられないであろう。だから、上で述べたように、本当に実現したいものがあらかじめ明確でないかぎり、この負担には耐えられないはずである。

 そもそも、何かを実現するために最初に選ぶ手段というのは、考えうるすかぎりのべての選択肢のうち、時間、体力、費用などの点でもっとも負担の軽いものであるのが普通であるから、この手段の獲得に失敗し、他の道を行くかぎり、負担が増えるのは仕方がないことである。

視野を広げて自分を見つめなおすことが必要

 会社で出世することであれ、大学入試に成功することであれ、宇宙飛行士になることであれ、プロ野球選手となってジャイアンツでプレーすることであれ、それ自体が目的であるわけではなく、いずれも何か別の目的を実現するための手段にすぎず、また、この目的を実現する手段は、つねに複数、いや、無限にある。他の手段が思いつかず、何かに失敗するとすぐに「破滅」の二文字が心に浮かぶのは、視野が狭くなってしまっているからにすぎないのである。

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会葬者に歌を聴かせたいと思う人間の気持ちを想像してみたが

 「自分が死んだら、葬式で自分の好きな歌を流してもらいたい」という希望を持つ人が少なくないようである。もちろん、好きな歌なら何でも流すことができるわけではなく、歌によっては著作権との関係で、会場で流すと対価を要求されることがある。しかし、今は、著作権のことは話題にしない。話題にするのは、「好きな歌を流してもらいたい」という希望そのものの意味である。

 ところで、「自分の葬式で好きな歌を流してもらいたいか」という問いに対する私自身の答えは「否」である。だから、自分の葬式に集まってきた会葬者たちに好きな歌を聴かせたいという希望を持つ人の気持ちが、私にはわからない。

葬式の主役は故人ではなく遺族

 もちろん、会葬者たちに自分の好きな歌を聴かせることを求めるのには、それなりの理由があるのであろう。だから、このような希望が不当であると言うつもりはない。

 ただ、葬式というのは、本来、死者のためのイベントではなく、本質的に生者のためのイベントである。私が世を去ったときに行われるかもしれない葬式は、「〔私の名前〕の葬式」ではあっても、私は決して主役ではなく、葬式の主役は遺族なのである。だから、私の好きな歌が遺された親族の希望によって流されるのなら、これには何ら問題がないけれども、これが私の意向にもとづくものであってはならないように思われる。


この世は死者のためではなく生者のためにある : AD HOC MORALIST

Pierrick Le Cunff  以前、次のような記事を投稿した。死者との対話 : AD HOC MORALIST歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の


葬式が大規模になるほど、故人の人となりを知らない会葬者が増える

 会葬者が全部で10人くらいしかいない小規模な葬式では、会場にいる者の大半が親族や友人であり、このような状況のもとでは、故人について立ち入った情報があらかじめ共有されているに違いない。だから、故人が好きな歌は、故人を偲ぶよすがになる可能性がある。

 これに反し、会葬者が1000人を超えるような大規模な葬式では、会葬者の大半は、故人の一面しか知らず、また、未知の側面を葬式の場で知ることを望んではいないと考えるのが自然である。そもそも、会葬者の中には、故人と面識がない者すら珍しくないはずである。そして、このような状況のもとでは、「好きな歌」に代表される故人の人となりに関する情報は、会葬者にとり単なるノイズにすぎぬものとなる。(遺族と面識のない会葬者にとっては、遺族の存在すらノイズとなりうる。)

 葬式で自分の好きな歌を流すことを望むのなら、葬式の規模にはおのずから制限が設けられねばならない。つまり、歌がノイズにならない範囲の親しい者たちによる閉じたイベントとすべきである。

死者の記憶は生者の負担になる

 故人のことをよく知らない会葬者の多くが葬式に集まるのは、故人を偲ぶためであるというよりも、むしろ、故人のことを忘れ、記憶の負担を軽減するためであると言えないことはない。私のことを何らかの仕方で知るほぼすべての者たちの耳に、私が世を去ったという知らせは、私を忘れてもかまわないという合図として届くはずである。

 私が誰かの記憶に残るとするなら、それは、葬式で聴かされた歌によってではなく、私が生前に世のために成し遂げた何ごとかによって、おのずから残るものではなければならないように思われるのである。

 夕方、近所を散歩していると、犬を連れた主婦や老人とすれ違うことが多い。以前に投稿した下の記事に書いたように、私は、血統書のある純血種の犬をあまり好まない。


ペットを「買う」ことへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

愛玩動物に占める純血種の割合が増えているような気がする これまでの人生の中で、私は、何種類かのペットを飼ってきた。特に期間が長かったのは犬とネコであり、犬とネコのそれぞれとは、10年以上暮らした経験がある。 ただし、私が一緒に生活した犬とネコはいずれも、直


 私の目には、純血種の小型犬の飼い主の多くは、自分の飼い犬を「メシを食うインテリア」と見なしているように映る。飼い犬に対する飼い主の愛情を数値で表現するなら、この数値は、何十年か前とくらべ、明らかに小さくなっているはずである。

 たしかに、飼い主は、「犬は家族の一員」と言うであろう。しかし、多くの飼い主、特に比較的若い飼い主にとっては、犬が「家族の一員」であるのは、犬が迷惑や面倒を飼い主にかけないかぎりであるにすぎない場合が多いように思われる。(散歩するときの犬に対する態度を観察すれば、この点は容易に確認することができる。若い飼い主の中は、自分が連れている犬に注意を向けず、場合によっては、スマートフォンを無心でいじっている者が少なくない。犬を散歩に連れ出すのは、面倒な雑用の一つにすぎないのであろう。ことによると、家庭内の雑用を確実に一つ増やす犬に対して知らずしらずのうちに憎悪を抱いている飼い主すらいる可能性がある。)

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 このような家庭で飼われる犬の身になり、その日常を想像してみたことがあるが、それは、途方もなくさびしく、また、途方もなくわびしいものである。

 飼い犬の多くは、生まれたときに一緒だった親や兄弟から自分の意向に反して引き離され、何の縁もない飼い主のもとに、しかも、場合によっては金銭との交換で連れて来られたものである。新しい飼い主は、もとの飼い主と知り合いであるわけでもなく、自分の身の回りには、かつての生活を想い出す縁など何もない。たしかに、物理的な生活環境は、さしあたり快適であるかもしれないが、天涯孤独であり、将来にわたり、飼い主に生殺与奪の権を握られることになる。もちろん、飼い主が飼い犬を本当の意味で「家族の一員」と見なしてくれるのなら、まだ救いはあるであろうが、飼い主に少しでも面倒をかけると、飼い主の機嫌が途端に悪くなったり、時間の経過とともに飽きられたり、ぞんざいに扱われたりするようになる可能性がないとは言えない。これは、犬にとっては、非常につらい状況であろう。私は、「メシを食うインテリア」として購入されたであろう小型犬を街で目にするたびに、その暗澹たる未来を想像し、思わず目をそむけてしまうことが少なくない。

 「犬の気持ちがお前にわかるものか」と言われれば、たしかに、そのとおりである。私は、犬が置かれた状況にもとづいて、その気持ちを人間の視線で想像しているだけである。それでも、犬が天涯孤独であることは確かであり、天涯孤独の存在に寄り添う覚悟がないかぎり、犬を(少なくとも一匹で)飼うべきではないと私はかたく信じている。

Manuel Domínguez Sánchez - El suicidio de Séneca

 この1年か2年、ふと思い立ってセネカを手にとることが多い。愛読書というほどではないかもしれないが、気持ちが追いつめられたとき、セネカを読むと、少し安心するのである。

 セネカは、紀元後1世紀のローマで活躍したストア主義の哲学者である。皇帝ネロの家庭教師兼ブレーンでもあった。このセネカは、政治的な活動に忙殺されながらも、相当な分量の著作を遺している。それは、倫理学、自然学、そして、悲劇の3つに大別される。(この他に、皇帝クラウディウスを風刺する物語「アポコロキュントシス(カボチャ化)」を遺している。)

 私は、20代のころには、ストアの倫理学など、どこが面白いのかまったくわからなかった。東海大学出版会からそのころ刊行されたばかりの『セネカ道徳論集』(茂手木元蔵訳)など、退屈きわまるお説教の連続であり、まったく心に響くことはなかった。

 しかし、それから30年近く経ち、あるきっかけから、セネカを手にとったところ、人生で誰もが出会う普通の悩みがそこで取り上げられていることに気づいた。今から2000年近く前にラテン語で書かれた文章とは思われないリアリティを感じた。

 ストア主義がわかるためには、それなりの人生経験を必要とするのかもしれない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 「ストア主義」という言葉を耳にして、「禁欲」という言葉を反射的に想起する人は少なくないはずである。

 たしかに、ストア主義は、理性による自己支配こそ幸福への唯一の道であることを強調するから、セネカがたとえば相田みつをのような「にんげんだもの」などという安易な開き直りを許容することはない。

しかし、若いころにはわからなかったけれども、セネカは、現実離れした禁欲を説くわけではなく、目の前にある平凡な問題、心の中に起こる平凡な動きから目を逸らすことなく、これを丁寧に一つずつ乗り越えて行くことを読者に勧めているのである。このかぎりにおいて、セネカは、格調のきわめて高い自己啓発書の著者であると言えないことはない。

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ゆるやかに悪化する環境にとどまると「茹で上がる」

 「茹でガエル」とは、生きたままゆっくりと茹でられるカエルを用いた「たとえ話」である。

 カエルは、最初から高温の湯に入れられると、すぐに跳び出すが、低温の水の中にいるカエルは、少しずつ加熱されても、逃げ出すことなくこれに適応しようと努力し、そのせいで、最終的には茹で上がって死んでしまう。同じように、最初から劣悪な環境に放り込まれると、誰でもそこから逃れようとするのに反し、周囲の環境が少しずつ悪化して行くと、私たちは、ここから逃げ出すのではなく、むしろ、その場にとどまって環境に適応することを目指し、そのせいで、最終的に逃げ遅れて命を落とす。これが「茹でガエル」のたとえ話である。

 実際には、カエルは、低温からゆっくり加熱されても、水温が限度を超えて上昇すると逃げ出してしまうようであるけれども、人間の場合、環境がゆるやかに悪化して行くときには、ここに止まることを選択することが多いのであろう、このたとえ話に不思議な説得力が認められることは確かである。

逃げ足が速さが大切

 自分が属している組織の居心地が悪くなったり、組織の環境が悪化したりするとき、居心地や環境を改善するというのは、私たちが最初に試みることである。問題は、この努力に関し、限度を見きわめるのが難しいことである。「茹でガエル」から学ぶことができるのは、このような事実である。

 以前、次の記事を投稿した。


脱出万歳 : AD HOC MORALIST

追い詰められないかぎりみずからは決して動かないこと、つまり、ある状況を脱出するためにしか行動しないことは、好ましくないように見えるが......。


 私たちが「茹でガエル」にならないために重要なことは、困難を解決するアイディアを産み出すことなどではなく、環境の悪化を素早く察知し、身をひるがえしてすみやかに逃げ出す能力であることになる。

逃げ出す者は孤独である

 とはいえ、環境の悪化に気づきながら、ここにとどまって環境を改善する努力を放棄し、身をひるがえして逃げ出す者は、つねに孤独である。というのも、少なくとも日本では、「みなと一緒に苦労を分かち合う」ことが好まれるからである。周囲の人々が悪化しつつある状況を改善しようとするとき、ひとりだけこれを見捨てて新たな場所へと逃れる者は、残る者たちから冷たいまなざしを投げられるかもしれない。また、冷たいまなざしを浴びることがないとしても、少なくとも、逃げ出す自由を行使する者が、自分の責任において、ただひとりで行動しなければならないことは確かである。

 だから、危機を察知し、そして、何らかの意味において好ましくない環境から逃れる能力というのは、孤独に耐える能力と一体であると言うことができる。少なくとも、孤独に耐えられず、「みなと一緒」に固執する者にとり、「好機」(カイロス)を捉えて逃げ出す可能性は、永遠に閉ざされたままであるに違いない。

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