AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 人生論

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愛玩動物に占める純血種の割合が増えているような気がする

 これまでの人生の中で、私は、何種類かのペットを飼ってきた。特に期間が長かったのは犬とネコであり、犬とネコのそれぞれとは、10年以上暮らした経験がある。

 ただし、私が一緒に生活した犬とネコはいずれも、直接あるいは間接の知人から譲り受けたものであり、カネを出して購ったものではない。(念のために言うなら、両方とも雑種であった。)

 カネを出してペットを購った経験がないせいなのか、私にとり、ペットはもらうものであり、これを買うものと見なすことはできない。だから、ペットショップのようなところでペットを「買う」ことには強い抵抗を感じる。

 夕方、近所を散歩していると、犬を連れた中高年の男性や女性とすれ違うことが少なくない。このような犬たちのうち、ペットショップで購われたものがどのくらいの割合なのか、私は知らないけれども、私が犬を飼っていた20年以上前とは異なり、街を歩いている犬のかなりの部分が血統書のある純血種であるように思われる。

愛玩動物をカネで購ってよいのか

 純血種の犬(やネコ)の場合、知人や友人からタダで譲り受けるなどという機会は滅多になく、むしろ、このような犬(またはネコ)の大半は、主に利殖を目的として繁殖させられ、販売されているものであろう。このような状況を考慮するなら、ペットを手に入れるにあたり、金銭の授受があることは、現在ではもはや珍しくないのかもしれない。

 しかし、私自身は、犬やネコを「買う」ことに強い抵抗を覚える。対価を支払って「購入」した犬やネコが自宅にいたら、私には、彼ら/彼女らの目をまともに見ることができないのではないかと思う。

 魚類、両生類、鳥類、爬虫類などはこのかぎりではなく、また、犬とネコ以外の哺乳類についてもよくわからないけれども、少なくとも愛玩動物としての犬やネコは、人間にとっては家族の一員であり、家族の一員であるかぎり、彼ら/彼女らは、何らかの程度において擬人化されることを免れないものである。

 少なくとも近代の日本において支配的な平凡な家族観に従うなら、家族というのは、メンバーをカネで買って大きくすることができるような社会集団ではなく、家族を構成する一人ひとりのあいだには、「売買」には還元することのできない引力が認められるのでなければならない。したがって、犬やネコが家族の一員であるかぎり、購入されて私のもとへやってきたという事実は、人身売買に似た後ろめたさを感じさせるはずである。(少なくとも、私には耐えられない。)

 ペットショップの店頭で犬やネコを見かけ、生命あるもの、しかも、擬人化を容易に受け容れる愛玩動物が自宅にいることを想像しただけで、強い憐れみに囚われ、目をそむけてしまう。しかし、おそらく、私は特別気が小さいのであろう。このような小心な人間には、いわゆる「愛犬家」になることなど永遠に不可能であるに違いない。

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 ひとりで食事することができない者が多いらしいという話題がニュースで取り上げられたのは、今から15年くらい前のことであった。今では、同じことを一緒にやってくれる相手がいないことに覚える恐怖や恥ずかしさは、病気のようなものと見なされ、「ランチメイト症候群」「ひとりじゃいられない症候群」などという立派な名前が与えられているようである。

 ひとりで食事することができないのは、周囲から孤独な存在と見られたくないからであるらしい。私には、孤独な存在であること、あるいは、他人の目に孤独な存在と映ることがなぜ忌避されねばならないのか、今も昔も、わからない。私は、どちらかと言うと、ひとりの方が好きな性質のようである。

 ただ、大学の教室や食堂を観察していると、同じ一つの空間を共有する者の顔ぶれがある程度以上の時間にわたって変化しないところでは、ひとりで着席することを何としてでも避けようとする学生が少なくないことがわかる。(電車やバスの車輌の内部のように流動性の高い空間なら、ひとりでいても平気であるはずである。)

 たしかに、私たちは、群れからはぐれた象(rogue elephant) について危惧を抱く。それは、このような像が、暗黙のうちに全体を支配する秩序を尊重しないおそれがあるからである。ひとりでいることができない者たちは、他者のこのようなままざしを先取りして内面化してしまっているのであろう。また、コーヒー店で着席するとき、店の内部に背を向けて壁や窓に対面する座席を選ぶ客が多いのもまた、同じ理由によるのかもしれない。


コーヒー店でどこに坐るか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

店に背を向ける席の不思議 私は、普段は、所用のある場所を最短の経路と時間で移動するよう予定を組んでおり、外出先で「時間をつぶす」ことはあまりない。それでも、この数年は、授業の時間割の関係で、週に1度、早朝に職場の近くのチェーンのコーヒー店(カフェ)に立ち寄


 もちろん、ひとりでいることが平気であるとは言っても、私にも、誰かに近くにいてほしい状況というものがまったくないわけではない。それは、心身に何らかの痛みを覚えるときである。

 誰も近くにいない状況のもとで、急に胃が痛むことが稀にある。そのようなとき、私は、ただひとりで痛みに向き合わなければならない。もちろん、私の傍らに誰かがいてくれたとしても、痛みがそれ自体としてやわらぐわけではないであろう。それでも、(特に真夜中など、)痛みが去るのをじっと待っていたり、痛みを止めるための処置を考えたりするとき、私は、途方もなく深い孤独、いや、正確に言えば、私の社会的な生存が脅かされているかのような底なしの寂しさと恐怖を覚える。

 ひとりでいること、しかも、社会の秩序を担う責任ある主体であることは、内面の緊張を私たちに要求する。この緊張に耐える強さは、しかし、誰もが具えているものではない。「ランチメイト症候群」が社会の広い範囲に認められること、そして、強い同調圧力が社会を支配していることには、個人に課せられるこの緊張を緩和する積極的な役割があるに違いない。

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 最近、齢をとったと感じることが多い。純粋な体力が落ちたわけではないし、誰かに何かを言われたわけでもない。齢をとったと感じるのは、野心に囚われ、心が波立つことが少なくなってきたからである。

 大学院生のころから長い間、1本でもたくさんの論文を書き、1冊でも多くの著書を出さねばという焦りに突き動かされてきた。私の自由にならない形で誰かが設定した到達目標を自分の現状とたえず比較しながら、上を向いて――というよりも、上から釣り糸で引っ張られているような状態で――仕事に追い立てられる期間が長く続いたのである。

 もちろん、今でも、さらなる上昇とさらなる前進への渇望が心に生まれ、居ても立ってもいられなくなることがまったくないわけではない。また、怒り、嫉妬、羨望、恨み、憎悪などに心が振り回されることがなくなったわけでもない。しかし、野心にもとづくそのような心の動揺は、最近、少しずつ減っているような気がする。

 以前、次のような記事を投稿した。


「まあ、俺の人生、こんなもんかな」という心の声に耳を傾けると不幸になる : AD HOC MORALIST

人生に対する積極的な態度と消極的な態度 私は、これまでの人生の中で何度か、人生を諦めそうになったことがある。 人生を諦めるというのは、自分が置かれた環境を見限り、新しい環境――それがどのようなものであるとしても――へと逃れて行くことではない。下の記事に書


 「人生を諦める」ことは決してしてはならないことであるというのが上の記事の内容である。現在、私自身は、決して人生を諦めたわけではない。人生を満足の行く仕方で仕上げることへの意志は、誰にとっても、どのような状況のもとでもきわめて大切なものであると私は考え、生活の充実のために必死に努力している(つもりである)。

 幸いなことに、今のところ、私は、大学院生のころに学会で見て「ああはなりたくない」と思ったようなタイプの大学の教師にはならずに済んでいるけれども、それとともに、私の現状が、大学院生のころに思い描いていた今の年齢になったときの自分の姿とはいくらか異なっていることもまた、確かである。

 しかし、最近は、なりたい自分のようなものを心に描いても、あまり楽しくないし、目標に向かって努力しなければならないという焦燥感に襲われることも少なくなった。(ただ、このブログをもう少したくさんの人に読んでもらいたいとは思っている。)この意味で、10年前、20年前とくらべ、心はやや穏やかになり、そして、周囲に目を向ける余裕も少しだけ生まれたような気がする。少なくとも、これまで腹を立てていたことに対し、あまり腹が立たなくなってきたことは大きな成長なのではないかと考えている。

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「左利き界」では肩身の狭い思いをしている

 私は左利きである。しかし、私の周囲には、私が左利きであることを知る者はあまりいない。私の仕草を眺めていても、私が左利きであることに気づく機会が少ないからである。

 私は、もともとは左利きあるけれども、日常のいくつかの動作については、子どものころ、小学校に入学するころまでに右利きに矯正された。だから、私は、正確に言うと、「矯正された元左利き」である。

 「矯正された元左利き」というのは、「左利き界」(?)では肩身が狭い存在である。右利き/左利きが誰にも明らかになるもっとも目立つ標識は、文字を書くときに使う手であろう。たとえばアメリカのオバマ前大統領のように、公文書に署名するときに左手を使う姿がテレビで放映されれば、誰でも「あの人は左利き」とわかる。しかし、私のような「矯正された左利き」は、文字を右手で書くから、左利きとは気づかれない。「左利き界」における「矯正された元左利き」は、かつてのヨーロッパで迫害を逃れるためにキリスト教に改宗したユダヤ人、あるいは「隠れキリシタン」のようなものである。

それでも左利きであることに変わりはない

 ただ、利き手の矯正というのは、「左利きを右利きに矯正する」ものではなく、「特定の動作を主に右手で行うことができるようにする」ものにすぎない。私の場合、「文字を書く」と「箸を持つ」という2つの場面では右手を使うよう訓練されたけれども、これらに右手を使うようになれば、他の動作にも自動的に右手が使われるようになるわけではなく、右手を使うように訓練されないかぎり、左手が使われ続ける。当然、身体の筋肉の発達、靴の踵のすり減り方などにも、左利きの特徴が現われる。

 私は、野球では「左投げ左打ち」である。ボールを投げたり打ったりする動作は書く動作や箸を持つ動作ほど重要ではないと両親が判断し、利き手を矯正しなかったからである。(しかし、腕時計は、つねに左手につけている。そのため、中学生のころ、野球のボールを投げたとき、腕時計が腕からはずれ、ボールと一緒に飛んで行ってしまったことがあった。私の腕時計は頻繁に故障するが、それは、腕時計を利き手につけているせいかもしれない。)

 また、私は、料理するときには左手で包丁を握る。(だから、和包丁は原則として使わない。)小学校に入学した時点では、まだ自分では料理をしなかったからである。

 私の「右利き」は、1970年代前半の小学校低学年の生活において両親が重要だと判断した活動に最適化されたものであると言うことができる。したがって、これ以降に新たに使うようになった道具はすべて、左手で扱う。たとえば、電話で通話するときには、受話器を左手に持ち、左耳にこれを当てる。同じように、カギを回しドアを開けるのに使うのは左手である。(鍵穴にカギを一度で入れられないことが多い。)鋏を使うのも左手である。テレビのリモコンを操作するときも、使うのは左手だけである。

利き手を「再矯正」するつもりはない

 もちろん、このような右と左のハイブリッドには、目立たない部分で不便がないわけではない。また、最近では、利き手の矯正は必ずしも行われなくなっているようである。この意味において、左利きは、かつてよりは暮らしやすくなっていると思う。

 それでも、私は、自分自身について現状を変え、左手で文字を書いたり食事したりすることを練習するつもりはない。ハイブリッドは、私の個性の一部だからであり、「丸ごと左利き」になることに意義があるようには思われないからである。

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若いころからの知り合いであることは決定的に重要

 しばらく前、次のニュースを目にした。

阿川佐和子さんが結婚

 私は、阿川佐和子氏が独身だったことすら知らなかった。(正確に言うなら、既婚かどうか考えたこともなかった。)だから、上のニュースについて、特別な感慨や感想があるわけではない。60歳を超えて結婚するというのは、ずいぶん大変なことだろうと思っただけである。

 ただ、次の記事を読んだときには、今回の出来事について、考えるところがあった。

曖昧な交際開始時期、阿川佐和子の夫の前妻語る胸の内|ニフティニュース

 不倫がよくないとか、男性の前の奥さんがかわいそうであるとか、そのようなことを言うつもりはない。当事者のあいだの関係は、当事者が決めればよいのであり、第三者が口を出すべきことではないように思われる。

 とはいえ、結婚する時点での年齢には関係なく、やはり、若いころから知り合いであることは、結婚にとって決定的に重要な要素である。今回の場合、30年以上にわたる付き合いがなければ、60歳を過ぎてから結婚することは不可能であったに違いない。

私たちは、家族の顔に昔の面影を重ねる

 私たちは誰でも、顔を1つしか持っていない。しかし、他人の目に映る私の顔は、つねに同じではない。1年前からの知り合い、10年前からの知り合い、30年前からの知り合いは、それぞれ異なる相貌の私を見ているはずである。

 若いころからの知り合いは、現在の私の顔に、若いころの面影を読み取り、これと重ね合わせる。これは、若いころの私を直接には知らない新しい知り合いにはできないことである。

 休日に近所の住宅街を散歩しているとき、驚くほど高齢の夫婦が散歩しているのを見かけることがある。見ず知らずの他人である私に、この2人は、魅力に乏しい老人にしか見えない。けれども、彼らにとり、相手は決して単なる老人ではない。何十年も前から眺めて暮らしてきた相手の顔には、若いころの面影が自然に重なり、途方もない厚みを持つ共有された経験が不知不識に繰り返し想起される。夫婦のそれぞれは、相手の心の中で、相手にしかわからない魅力的な相貌を示すのである。

結婚するなら、若いころの自分を知っている者から相手を選ぶとよい

 したがって、あなたが結婚したいと思うのなら、相手は、若いころの自分を知る者たちのあいだから選ぶのが安全であることになる。

 たとえば40歳を過ぎてから知り合った者たちの結婚では、相手は、あなたの若いころを知らず、同じように、あなたもまた、相手の若いころを知らない。今の相手の姿がどれほど魅力的でも、あなたには、相手の現在の姿に昔の面影を重ね合わせることができず、共有された経験を想起することができないのである。

 昔の写真を眺めても、この欠落を埋めることは不可能である。相手の若いころの写真を眺めるあなたは、昔のあなたではなく、現在のあなただからである。

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