AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 文化と読書

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 本を読みすぎると、ものを考える力が損なわれる。これは、古代から現代まで、多くの知識人が繰り返し強調してきた点である。

 書物というのは、他人の思索の成果である。だから、読書とは、他人の思索の成果をそのまま受け容れることを意味する。しかし、私にどれほど似ている他人であるとしても、やはり、他人の思考の枠組みは、私の思考の枠組みとは異なる。著者が考えたことを著者の身になって理解することは、精神の力を消耗させるとともに、自分にもともと具わっていた枠組み、つまり「本当の自分」のようなものを掻き消してしまう……、読書を否定的に評価する人々の見解の最大公約数は、このように表現することが可能である。

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 この「本の読みすぎ」の最大の犠牲者として文学史に登場するのが、セルバンテスの長篇小説『ドン・キホーテ』の主人公である。彼は、中世を舞台とする騎士道物語を来る日も来る日も読み続け、そのせいで、自分の本当の姿を見失い、自分が騎士「ドン・キホーテ」であると思い込むようになった人物である。騎士道の世界に完全に憑依され、狂気の世界に迷いこんだ主人公には、目に映るもののすべてが騎士道物語を構成する要素となる。これは、読書の過剰が惹き起こす、滑稽でもあり悲惨でもある一つの症例であると言うことができるかもしれない。

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 それでは、読書の害悪から逃れるにはどうしたらよいのか。

 もっとも簡単な、そして、基本的には唯一の方法は、本を読むのをやめ、(もちろん、スマホをいじるのをやめ、)他人の言葉に耳を傾けるのをやめることである。そして、掻き消されてしまった「本当の私」が私の内部で声をあげるようになるのをじっと待つことである。

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 この「待つこと」とは、何かを待ってはいるが、何を待っているのかよくわからない「待つこと」である。もちろん、私が待っている相手は、私――「本当の私」――以外ではありえないのだが、その私の正体は、さしあたり、私にはわからない。また、いつ私が姿を現すのかも、私にはわからない。この意味において、私は、不安に満ちた待機――ただ待つだけ――の時間を経験することになるはずである。

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ヨーロッパの植民地だった国々は、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に直面している

 外国の文化はどのように受容されるべきか。この問に関し、わが国には、ある特別な答えを与える権利があるように思われる。

 近代においてヨーロッパ諸国の植民地となった地域では、それぞれの地域の伝統は、あるいは消去され、あるいは無視された。中南米、東南アジア、サハラ以南のアフリカの諸国がこれに当たる。

 もちろん、これらの国々において、植民地化以前の文化が完全に消滅してしまったわけではないけれども、それは、ヨーロッパ諸国がこれらの国々に無理やり押しつけた言語や文化に特徴を与える「偏り」以上のものではないように見える。ヨーロッパの旧植民地の多くでは、旧宗主国の言語が現在でも公用語であり、この場合、植民地になる前に使われていた言語は外国語と同じである。

 何よりも深刻なのは、多くの地域において、植民地化される以前に用いられていた言語が消去されたという事実である。ヨーロッパの植民地だった国々が、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に苦しめられていることは、V.S.ナイポールの作品群を俟つまでもなく、誰が考えても明らかであろう。

日本は、ヨーロッパの植民地だったことがない

 これに対し、わが国は、ヨーロッパのいずれかの国の支配下に入ったことが一度もない。このことは、古代以来、文化に大きな断絶がなく、また、同じ言語が(変化が激しい言語であるとは言え)使われ続けてきたことを意味する。(さらに、日本語以外の言語が公用語になったこともない。)

 したがって、ヨーロッパ以外の多くの国とは異なり、外国の文化について、日本は、自国の文化に「吸収する」形でこれを摂取してきた。言い換えるなら、外国の文化は、つねにいくらか「日本化」されてきたのである。

 日本が中国の文化を摂取したのは、中国から押しつけられたからではなく、これが日本人にとり役に立ちそうなもの、面白そうなものだったからである。同じように、16世紀以降にヨーロッパと接触するようになってからも、日本人が外国から受け取ったのは、何らかの効用が認められるものだけである。これは、ヨーロッパの植民地だった国々からわが国をへだてる決定的に重要な特徴である。

「いいとこどり」は文化の生産性の証

 これまで、わが国は、外国の文化を、日本人にとって価値あるものであるかぎりにおいて、日本人にとって必要なかぎりにおいて受容してきた。実際、ヨーロッパ諸国の植民地となったことのないわが国には、「外国文化を日本的な仕方で受容する」権利がある。つまり、日本人には、ヨーロッパやアメリカの文化を、現地の人間が受け止めているとおりに受け止める義務などないのである。実際、日本人は、この権利を十分に適切に行使してきた。このことは、古代から現代までの日本文化の歩みを辿ることにより、簡単に確認することができる。

 ある文化の歴史的な価値は、そのオリジナリティにあるのではなく、過去の文化あるいは外国の文化を摂取し、これを新しいものへとまとめ上げる力量にある。この点は、以前に投稿した次の記事に書いたとおりである。


もしすべての日本人が漢文の勉強をやめたら : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│ ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは


 文化が生産的であるとは、外国文化を(見方によってはおざなりな仕方で)「いいとこどり」し、これを完全に消化し同化してしまう力を具えていることである。そして、この意味では、日本文化は、少なくともこれまでのところ、きわめて生産的であり続けたと言うことができる。

 しかし、現在、政府は、英語を小学生に勉強させたり、大学を「グローバル化」したりすることにより、アメリカが全世界に押しつけたものを「丸ごと」引き受けることを国民に求めているように見える。これは、日本に固有の「いいとこどり」の伝統とは相容れない試みであり、明治初期の日本政府による滑稽な欧化政策――その象徴が鹿鳴館である――を想起させるものである。

 幸いなことに、明治の欧化政策は、大した痕跡を日本の社会にとどめることなく終息した。しかし、現在の政府が国民に求める「グローバル化」により、日本文化の健全な生産力は、深刻な仕方で傷つけられるかもしれない。

 日本には、外国文化を自分の好きなように受容する権利がある。この点を再確認し、「いいとこどり」の伝統を全力で守ることは、現代の日本人の課題であるに違いない。

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 以前、次のような記事を投稿した。


「会社員臭」なるものについて考えてみた 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

会社員の不思議な生態 私は、これまでの人生において、普通の民間企業で働いたことがない。つまり――正規であれ、非正規であれ――企業に従業員として雇用され、給与を受け取ったことが一度もない。大雑把に言うなら、会社員であったことがないのである。これは、現在の日

 会社員というのは、社会における圧倒的なマジョリティであり、彼らにとり、自分たちの普通が全体の普通であることを疑う機会は滅多にない。酔っ払いばかりが乗っているエレベーターの中では、誰一人として自分の酒臭さに気づかないのと同じである。しかし、会社員であったことが一度もない私の目には、会社員の生態は、かなり奇妙なものと映る。上の記事において、私は、このようなことを書いた。実際、私にとり、会社員は、つねに一種の謎である。特に、その「読書」の傾向を眺めるとき、私の心には大きな疑問符が浮かぶ。

 現在の日本の人口構成において、会社員がマジョリティであることは事実である。したがって、現在の日本人全体の知的水準に大きな影響を与えるのは、会社員の知的水準であることになる。

 もちろん、会社員に共通するのは、「会社」という組織に属しているという事実だけであるから、一人ひとりの知的水準はまったく異なるはずである。毎日たくさんの本を読み、勉強に多くの時間を費やす会社員がいるとともに、1年間に1冊も本を読まず、「飯を食う無知蒙昧」と表現することができるような会社員もまたどこかにいるに違いない。

 それでも、21世紀初めの現在、東京のオフィス街にある書店に行き、売り場を見渡すことにより、会社員の平均的な知的水準がどの程度のものであるかは、容易に確認することができる。すなわち、売り場の多くを占領しているのは、、そして、多くの客が集まっているのは、新刊書、特に、「ビジネス書」と呼ばれるジャンルの新刊書である。ビジネス書およびこれに関連する書物のレベルが会社員の平均的な知的水準を反映していることがわかるのである。しばらく前、丸善の丸の内本店の新刊書の売り場を訪れたとき、私には完全に未知の著者たちによる、派手な表紙のビジネス書で棚が埋め尽くされているのを見て、いくらか気味悪く感じたことをハッキリと覚えている。

 ビジネス書というのは、私が理解することのできる範囲では、「会社員生活に最適化された自己啓発書」である。私自身は、自分が購入した書物が「ビジネス書」に分類されるものであることをあとから知ることは稀にあるけれども、「ビジネス書」をビジネス書として手に取ったことは一度もない。

 事務作業の効率化の方法、商談を成功させる方法、収入を増やす方法などについての書物にどうしてこれほど需要があるのか、私にはよくわからない。私なら、このような本を手に取ることに対し、若干の恥ずかしさを覚える。私の体面がこのような本を安易に手に取ることを許さないのである。しかし、どうやら、会社員というのは、このような見栄とは縁がない存在のようである。このような点に見栄をはらないことが「デキる」ことの証であると信じられているのかも知れない。しかし、これは、人間の人間らしさをみずから捨て、一種の動物になることを意味するように私には見える。そして、羞恥心のこのような欠落は、読書という行動に「動物臭」を与えることにより、日本人の平均的な知的水準に対し否定的な影響を与えないわけには行かないはずである。

Madame Book

「研究のジャーナリズム化」とは、学界の流行を追いかけること

 最近、「哲学のジャーナリズム化」について考えることが多い。「哲学のジャーナリズム化」というのは、マスメディアに哲学の(自称を含む)専門家が登場する機会が増えることではなく、学界の流行を追いかける研究者が増えることを意味する。

 以前、次のような記事を投稿した。


「哲学の最前線」とは : AD HOC MORALIST

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは

 研究者の多くが追いかけるようになった哲学の最前線というのは、単なる学界における流行の最前線にすぎず、本当の意味における最前線は、思索が遂行される具体的な場面に求められるべきであるという意味のことを上の記事で書いた。

 そして、いわゆる「哲学の最前線」が学界における流行の最前線にすぎないとするなら、この意味における最前線を追いかけることは、本質的にジャーナリスティックなふるまいであると言うことができる。

ジャーナリズム化と植民地化

 哲学における研究者の態度がジャーナリスティックになることにより、何が起こるのか。

 表面的には、これは、ヨーロッパやアメリカの学界を構成する多くの研究者が取り上げる話題を日本の学界に持ち込むことを意味する。すなわち、研究のジャーナリズム化により、彼我の学界の状況が似たようなものになる。これは、好ましい状況のように見える。

 けれども、ヨーロッパやアメリカの学界で流行していることが日本でもそのまま流行すれば、研究者は、何を発言するとしても、ヨーロッパやアメリカの視線を考慮しなければならないことになる。これは、ヨーロッパやアメリカを「研究の中心」と認め、日本を「研究の周縁」と見なす(というヨーロッパやアメリカの研究者のまなざしを引き受ける)ことであり、ヨーロッパやアメリカの研究者に評価されることに研究の最終的な目標を設定することを意味する。

 実際、(おそらく研究者の「数」だけで比較するなら、フランスやドイツよりも日本の方が哲学が盛んなはずなのに、)ヨーロッパやアメリカの研究者は、みずからを永遠の「上流」「中心」と見なしている。彼らは、日本について決して対等の地位を認めないであろう。(実際、日本人の研究者がヨーロッパやアメリカに留学することはあっても、ヨーロッパやアメリカの研究者が日本に留学することはない。)

 このかぎりにおいて、哲学における「研究のジャーナリズム化」とは、日本の学界の自発的植民地化であり、一種のオリエンタリズムであると言うことができる。

哲学は「輸入学問」へと転落するか

 西洋文学や西洋史の研究では、ヨーロッパやアメリカが本場である。日本は、永遠の周縁であり、これらの学問は、日本では「輸入学問」以外ではありえない。

 しかし、哲学の場合、事情は決して同じではない。たしかに、ギリシアから現代まで、西洋には2500年以上の哲学の伝統があるが、この伝統を引き受ける権利は、西洋世界にのみ与えられているわけではない。哲学が普遍妥当的な真理の探究であるかぎり、哲学の研究には、「中心」も「周縁」もないはずなのである。

 ヨーロッパやアメリカを「上流」「中心」と見なし、ヨーロッパやアメリカで話題になっていることを日本に持ち込むこと、あるいは、ヨーロッパやアメリカの研究者に「伍して」(いるつもりで)何かを発言することは、哲学の本質によって要請されることではなく、ヨーロッパとアメリカを中心と見なす研究の秩序を引き受けることにすぎない。研究の「ジャーナリズム化」により、日本における哲学は「輸入学問」へと転落し、日本文化の伝統や日本人の生活感情から乖離したよそよそしいものとなるはずである。

 日本の研究者には、ヨーロッパやアメリカの学界の動向を追いかけ、これを引き受けなければならない義務などない。極端な言い方をするなら、日本の「野球」とアメリカの”baseball”が異なるのと同じ意味において、日本の「哲学」は、西洋の”philosophy”から区別されるべきものであり、西洋の哲学史の伝統を独自の仕方で引き受ける権利がわが国にはある。いや、それどころか、西洋の”philosophy”を強奪し消化して日本の「哲学」を産み出すことは、わが国の近代文化を作った先人たちに対する義務ですらあると私はひそかに考えている。

 ギリシアからローマへ、ローマからアルプス以北のヨーロッパへ、そして、アルプス以北のヨーロッパからアメリカへ……、哲学史には、伝統の強奪の歴史としての側面がある。そして、伝統は、強奪されることにより、さらに豊かな思索への刺戟となってきた。この観点から哲学史を眺めるなら、哲学をわが国に固有の伝統へと強引に取り込むこと、ギリシア以来の哲学の伝統の直系としてみずからを位置づけることは、可能であるばかりではなく好ましいことでもあるように思われるのである。

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作品を鑑賞するのに必要な時間は数秒

 美術館で開催される展覧会というのは、私がもっとも苦手とする空間である。というのも、展覧会の会場で何をすればよいのか、よくわからないからである。

 絵画でも、彫刻でも、書でもよい。目の前に何らかの作品が展示されており、私は、作品へと近づき、これを眺める。しかし、大抵の場合、私は、このような状況に困惑する。作品と向き合っていると、次第にいたたまれない気持ちになる。

 そもそも、絵画の場合、何秒か向き合っていれば、作品の鑑賞にとっては十分であり、いつまでも作品の前に立っていても、退屈なだけである。作品を前にして深い感動らしきものを身振りによって示したり、「ほお」とか「まあ」とかつぶやいている人をときどき見かけるけれども、私自身には、絵画、彫刻、書、あるいは、その他の工芸品を見て感動した経験がなく、これらのオリジナルがどのような仕方で人間を感動させるということが理解できないのである。

 何年か前、京都を旅したとき、京都市美術館で開催中の展覧会に行ったことがある。フェルメールの「青衣の女」が日本で初めて公開された展覧会であったらしく、私が美術館を訪れた日は、平日であったにもかかわらず、大変な人出であったことを覚えている。



青衣の女
By ヨハネス・フェルメール - 不明, パブリック・ドメイン, Link

 ラッシュアワーの時間の新宿駅のような混雑の中の1人となって行列を作り、私は、フェルメールのこの作品の前を通り過ぎた。作品が私の視界の内部にあった時間は、かなり長かったけれども、作品の前で立ち止まることは許されなかったから、私が作品を適切な距離から眺めた時間は、10秒にもならなかったはずである。

美術の素人が展覧会でオリジナルを前にして「ほお」「まあ」などと言っているのは不自然

 しかし、私にとっては、これで十分であった。

 私の鑑賞能力がどのレベルであるのか、これはよくわからない。西洋文化に関連することを研究対象としているから、ヨーロッパの絵画や彫刻が嫌いというわけではないけれども、作品を見て楽しいかという問いに対する答えは曖昧である。いずれにしても、素人の水準を超えていないことは間違いないように思われる。

 そして、オリジナルが見る者に与える何かがあるとしても、それは、私のレベルの素人にはまったくわからない。私にとり、展覧会に足を運んでオリジナルを鑑賞するのは、球場で野球の試合を見物したり、マラソンを沿道で見物したりするのと同じようなものである。だから、展覧会で作品の前に佇み、「ほお」「まあ」などと言っている人を見かけると、私は、そこに何か不自然なもの、わざとらしいもの――オリジナルに心を打たれる自分を演じているような――を感じてしまうのである。

 正直に言うなら、私の目には、オリジナルよりもむしろ、画集に収められた複製の方がよほどすばらしいものと映る。画集で複製を見るのは、テレビ中継でスポーツを観戦するのと同じであり、このような手引きなしに藝術作品を享受することは、素人には無理であると私はひそかに信じている。

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