AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 文化と読書

Namban-17

ヨーロッパの植民地だった国々は、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に直面している

 外国の文化はどのように受容されるべきか。この問に関し、わが国には、ある特別な答えを与える権利があるように思われる。

 近代においてヨーロッパ諸国の植民地となった地域では、それぞれの地域の伝統は、あるいは消去され、あるいは無視された。中南米、東南アジア、サハラ以南のアフリカの諸国がこれに当たる。

 もちろん、これらの国々において、植民地化以前の文化が完全に消滅してしまったわけではないけれども、それは、ヨーロッパ諸国がこれらの国々に無理やり押しつけた言語や文化に特徴を与える「偏り」以上のものではないように見える。ヨーロッパの旧植民地の多くでは、旧宗主国の言語が現在でも公用語であり、この場合、植民地になる前に使われていた言語は外国語と同じである。

 何よりも深刻なのは、多くの地域において、植民地化される以前に用いられていた言語が消去されたという事実である。ヨーロッパの植民地だった国々が、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に苦しめられていることは、V.S.ナイポールの作品群を俟つまでもなく、誰が考えても明らかであろう。

日本は、ヨーロッパの植民地だったことがない

 これに対し、わが国は、ヨーロッパのいずれかの国の支配下に入ったことが一度もない。このことは、古代以来、文化に大きな断絶がなく、また、同じ言語が(変化が激しい言語であるとは言え)使われ続けてきたことを意味する。(さらに、日本語以外の言語が公用語になったこともない。)

 したがって、ヨーロッパ以外の多くの国とは異なり、外国の文化について、日本は、自国の文化に「吸収する」形でこれを摂取してきた。言い換えるなら、外国の文化は、つねにいくらか「日本化」されてきたのである。

 日本が中国の文化を摂取したのは、中国から押しつけられたからではなく、これが日本人にとり役に立ちそうなもの、面白そうなものだったからである。同じように、16世紀以降にヨーロッパと接触するようになってからも、日本人が外国から受け取ったのは、何らかの効用が認められるものだけである。これは、ヨーロッパの植民地だった国々からわが国をへだてる決定的に重要な特徴である。

「いいとこどり」は文化の生産性の証

 これまで、わが国は、外国の文化を、日本人にとって価値あるものであるかぎりにおいて、日本人にとって必要なかぎりにおいて受容してきた。実際、ヨーロッパ諸国の植民地となったことのないわが国には、「外国文化を日本的な仕方で受容する」権利がある。つまり、日本人には、ヨーロッパやアメリカの文化を、現地の人間が受け止めているとおりに受け止める義務などないのである。実際、日本人は、この権利を十分に適切に行使してきた。このことは、古代から現代までの日本文化の歩みを辿ることにより、簡単に確認することができる。

 ある文化の歴史的な価値は、そのオリジナリティにあるのではなく、過去の文化あるいは外国の文化を摂取し、これを新しいものへとまとめ上げる力量にある。この点は、以前に投稿した次の記事に書いたとおりである。


もしすべての日本人が漢文の勉強をやめたら : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│ ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは


 文化が生産的であるとは、外国文化を(見方によってはおざなりな仕方で)「いいとこどり」し、これを完全に消化し同化してしまう力を具えていることである。そして、この意味では、日本文化は、少なくともこれまでのところ、きわめて生産的であり続けたと言うことができる。

 しかし、現在、政府は、英語を小学生に勉強させたり、大学を「グローバル化」したりすることにより、アメリカが全世界に押しつけたものを「丸ごと」引き受けることを国民に求めているように見える。これは、日本に固有の「いいとこどり」の伝統とは相容れない試みであり、明治初期の日本政府による滑稽な欧化政策――その象徴が鹿鳴館である――を想起させるものである。

 幸いなことに、明治の欧化政策は、大した痕跡を日本の社会にとどめることなく終息した。しかし、現在の政府が国民に求める「グローバル化」により、日本文化の健全な生産力は、深刻な仕方で傷つけられるかもしれない。

 日本には、外国文化を自分の好きなように受容する権利がある。この点を再確認し、「いいとこどり」の伝統を全力で守ることは、現代の日本人の課題であるに違いない。

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 以前、次のような記事を投稿した。


「会社員臭」なるものについて考えてみた 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

会社員の不思議な生態 私は、これまでの人生において、普通の民間企業で働いたことがない。つまり――正規であれ、非正規であれ――企業に従業員として雇用され、給与を受け取ったことが一度もない。大雑把に言うなら、会社員であったことがないのである。これは、現在の日

 会社員というのは、社会における圧倒的なマジョリティであり、彼らにとり、自分たちの普通が全体の普通であることを疑う機会は滅多にない。酔っ払いばかりが乗っているエレベーターの中では、誰一人として自分の酒臭さに気づかないのと同じである。しかし、会社員であったことが一度もない私の目には、会社員の生態は、かなり奇妙なものと映る。上の記事において、私は、このようなことを書いた。実際、私にとり、会社員は、つねに一種の謎である。特に、その「読書」の傾向を眺めるとき、私の心には大きな疑問符が浮かぶ。

 現在の日本の人口構成において、会社員がマジョリティであることは事実である。したがって、現在の日本人全体の知的水準に大きな影響を与えるのは、会社員の知的水準であることになる。

 もちろん、会社員に共通するのは、「会社」という組織に属しているという事実だけであるから、一人ひとりの知的水準はまったく異なるはずである。毎日たくさんの本を読み、勉強に多くの時間を費やす会社員がいるとともに、1年間に1冊も本を読まず、「飯を食う無知蒙昧」と表現することができるような会社員もまたどこかにいるに違いない。

 それでも、21世紀初めの現在、東京のオフィス街にある書店に行き、売り場を見渡すことにより、会社員の平均的な知的水準がどの程度のものであるかは、容易に確認することができる。すなわち、売り場の多くを占領しているのは、、そして、多くの客が集まっているのは、新刊書、特に、「ビジネス書」と呼ばれるジャンルの新刊書である。ビジネス書およびこれに関連する書物のレベルが会社員の平均的な知的水準を反映していることがわかるのである。しばらく前、丸善の丸の内本店の新刊書の売り場を訪れたとき、私には完全に未知の著者たちによる、派手な表紙のビジネス書で棚が埋め尽くされているのを見て、いくらか気味悪く感じたことをハッキリと覚えている。

 ビジネス書というのは、私が理解することのできる範囲では、「会社員生活に最適化された自己啓発書」である。私自身は、自分が購入した書物が「ビジネス書」に分類されるものであることをあとから知ることは稀にあるけれども、「ビジネス書」をビジネス書として手に取ったことは一度もない。

 事務作業の効率化の方法、商談を成功させる方法、収入を増やす方法などについての書物にどうしてこれほど需要があるのか、私にはよくわからない。私なら、このような本を手に取ることに対し、若干の恥ずかしさを覚える。私の体面がこのような本を安易に手に取ることを許さないのである。しかし、どうやら、会社員というのは、このような見栄とは縁がない存在のようである。このような点に見栄をはらないことが「デキる」ことの証であると信じられているのかも知れない。しかし、これは、人間の人間らしさをみずから捨て、一種の動物になることを意味するように私には見える。そして、羞恥心のこのような欠落は、読書という行動に「動物臭」を与えることにより、日本人の平均的な知的水準に対し否定的な影響を与えないわけには行かないはずである。

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Madame Book

「研究のジャーナリズム化」とは、学界の流行を追いかけること

 最近、「哲学のジャーナリズム化」について考えることが多い。「哲学のジャーナリズム化」というのは、マスメディアに哲学の(自称を含む)専門家が登場する機会が増えることではなく、学界の流行を追いかける研究者が増えることを意味する。

 以前、次のような記事を投稿した。


「哲学の最前線」とは : AD HOC MORALIST

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは

 研究者の多くが追いかけるようになった哲学の最前線というのは、単なる学界における流行の最前線にすぎず、本当の意味における最前線は、思索が遂行される具体的な場面に求められるべきであるという意味のことを上の記事で書いた。

 そして、いわゆる「哲学の最前線」が学界における流行の最前線にすぎないとするなら、この意味における最前線を追いかけることは、本質的にジャーナリスティックなふるまいであると言うことができる。

ジャーナリズム化と植民地化

 哲学における研究者の態度がジャーナリスティックになることにより、何が起こるのか。

 表面的には、これは、ヨーロッパやアメリカの学界を構成する多くの研究者が取り上げる話題を日本の学界に持ち込むことを意味する。すなわち、研究のジャーナリズム化により、彼我の学界の状況が似たようなものになる。これは、好ましい状況のように見える。

 けれども、ヨーロッパやアメリカの学界で流行していることが日本でもそのまま流行すれば、研究者は、何を発言するとしても、ヨーロッパやアメリカの視線を考慮しなければならないことになる。これは、ヨーロッパやアメリカを「研究の中心」と認め、日本を「研究の周縁」と見なす(というヨーロッパやアメリカの研究者のまなざしを引き受ける)ことであり、ヨーロッパやアメリカの研究者に評価されることに研究の最終的な目標を設定することを意味する。

 実際、(おそらく研究者の「数」だけで比較するなら、フランスやドイツよりも日本の方が哲学が盛んなはずなのに、)ヨーロッパやアメリカの研究者は、みずからを永遠の「上流」「中心」と見なしている。彼らは、日本について決して対等の地位を認めないであろう。(実際、日本人の研究者がヨーロッパやアメリカに留学することはあっても、ヨーロッパやアメリカの研究者が日本に留学することはない。)

 このかぎりにおいて、哲学における「研究のジャーナリズム化」とは、日本の学界の自発的植民地化であり、一種のオリエンタリズムであると言うことができる。

哲学は「輸入学問」へと転落するか

 西洋文学や西洋史の研究では、ヨーロッパやアメリカが本場である。日本は、永遠の周縁であり、これらの学問は、日本では「輸入学問」以外ではありえない。

 しかし、哲学の場合、事情は決して同じではない。たしかに、ギリシアから現代まで、西洋には2500年以上の哲学の伝統があるが、この伝統を引き受ける権利は、西洋世界にのみ与えられているわけではない。哲学が普遍妥当的な真理の探究であるかぎり、哲学の研究には、「中心」も「周縁」もないはずなのである。

 ヨーロッパやアメリカを「上流」「中心」と見なし、ヨーロッパやアメリカで話題になっていることを日本に持ち込むこと、あるいは、ヨーロッパやアメリカの研究者に「伍して」(いるつもりで)何かを発言することは、哲学の本質によって要請されることではなく、ヨーロッパとアメリカを中心と見なす研究の秩序を引き受けることにすぎない。研究の「ジャーナリズム化」により、日本における哲学は「輸入学問」へと転落し、日本文化の伝統や日本人の生活感情から乖離したよそよそしいものとなるはずである。

 日本の研究者には、ヨーロッパやアメリカの学界の動向を追いかけ、これを引き受けなければならない義務などない。極端な言い方をするなら、日本の「野球」とアメリカの”baseball”が異なるのと同じ意味において、日本の「哲学」は、西洋の”philosophy”から区別されるべきものであり、西洋の哲学史の伝統を独自の仕方で引き受ける権利がわが国にはある。いや、それどころか、西洋の”philosophy”を強奪し消化して日本の「哲学」を産み出すことは、わが国の近代文化を作った先人たちに対する義務ですらあると私はひそかに考えている。

 ギリシアからローマへ、ローマからアルプス以北のヨーロッパへ、そして、アルプス以北のヨーロッパからアメリカへ……、哲学史には、伝統の強奪の歴史としての側面がある。そして、伝統は、強奪されることにより、さらに豊かな思索への刺戟となってきた。この観点から哲学史を眺めるなら、哲学をわが国に固有の伝統へと強引に取り込むこと、ギリシア以来の哲学の伝統の直系としてみずからを位置づけることは、可能であるばかりではなく好ましいことでもあるように思われるのである。

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作品を鑑賞するのに必要な時間は数秒

 美術館で開催される展覧会というのは、私がもっとも苦手とする空間である。というのも、展覧会の会場で何をすればよいのか、よくわからないからである。

 絵画でも、彫刻でも、書でもよい。目の前に何らかの作品が展示されており、私は、作品へと近づき、これを眺める。しかし、大抵の場合、私は、このような状況に困惑する。作品と向き合っていると、次第にいたたまれない気持ちになる。

 そもそも、絵画の場合、何秒か向き合っていれば、作品の鑑賞にとっては十分であり、いつまでも作品の前に立っていても、退屈なだけである。作品を前にして深い感動らしきものを身振りによって示したり、「ほお」とか「まあ」とかつぶやいている人をときどき見かけるけれども、私自身には、絵画、彫刻、書、あるいは、その他の工芸品を見て感動した経験がなく、これらのオリジナルがどのような仕方で人間を感動させるということが理解できないのである。

 何年か前、京都を旅したとき、京都市美術館で開催中の展覧会に行ったことがある。フェルメールの「青衣の女」が日本で初めて公開された展覧会であったらしく、私が美術館を訪れた日は、平日であったにもかかわらず、大変な人出であったことを覚えている。



青衣の女
By ヨハネス・フェルメール - 不明, パブリック・ドメイン, Link

 ラッシュアワーの時間の新宿駅のような混雑の中の1人となって行列を作り、私は、フェルメールのこの作品の前を通り過ぎた。作品が私の視界の内部にあった時間は、かなり長かったけれども、作品の前で立ち止まることは許されなかったから、私が作品を適切な距離から眺めた時間は、10秒にもならなかったはずである。

美術の素人が展覧会でオリジナルを前にして「ほお」「まあ」などと言っているのは不自然

 しかし、私にとっては、これで十分であった。

 私の鑑賞能力がどのレベルであるのか、これはよくわからない。西洋文化に関連することを研究対象としているから、ヨーロッパの絵画や彫刻が嫌いというわけではないけれども、作品を見て楽しいかという問いに対する答えは曖昧である。いずれにしても、素人の水準を超えていないことは間違いないように思われる。

 そして、オリジナルが見る者に与える何かがあるとしても、それは、私のレベルの素人にはまったくわからない。私にとり、展覧会に足を運んでオリジナルを鑑賞するのは、球場で野球の試合を見物したり、マラソンを沿道で見物したりするのと同じようなものである。だから、展覧会で作品の前に佇み、「ほお」「まあ」などと言っている人を見かけると、私は、そこに何か不自然なもの、わざとらしいもの――オリジナルに心を打たれる自分を演じているような――を感じてしまうのである。

 正直に言うなら、私の目には、オリジナルよりもむしろ、画集に収められた複製の方がよほどすばらしいものと映る。画集で複製を見るのは、テレビ中継でスポーツを観戦するのと同じであり、このような手引きなしに藝術作品を享受することは、素人には無理であると私はひそかに信じている。

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On The Front Line

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない

 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは、欧米の学術雑誌に発表された最新の論文ばかりに依拠して何かを語ろうとする口頭発表を聴かされることがあるのである。

 以前から、アングロサクソン系の哲学を研究する者たちのあいだでは、この傾向が顕著であったけれども、最近は、大陸系の哲学の研究でも、このような傾向が目立つような気がする。しかし、私自身は、最前線に執着するこのような研究のスタイルには微妙な違和感を覚える。(あまりにもハイコンテクストで付いて行けないこともある。)

 自然科学の場合、研究の最前線に身を置き、トレンドを追いかけるばかりではなく、このトレンドを追い越しみずから作り出さなければ、そもそも「研究」していることにならない。最新の成果がつねに最良のものだからである。

 しかし、人文科学の場合、最新の研究成果が必ずしも最良というわけではない。最前線を追いかけることの意味は、決して自明ではないのである。

 もちろん、たとえば言語学や考古学のような分野では、最前線に重要な意義がある。というのも、このような分野では、最新の研究成果が何らかの意味において必ず最良の研究成果を含むからである。

 しかし、これ以外の分野、特に、哲学と文学における研究の最前線というのは、基本的に「流行」の別名である。(物理学の最前線は、決して物理学の流行の最前線ではない。)それは、人文学に固有の次のような事情があるからである。

 ※ 以下、哲学を例に説明するが、文学についても、事情は基本的に同じである。

人文学は「進歩」と無縁の研究領域である

 そもそも、社会科学や自然科学の多くの分野と異なり、哲学には進歩というものがない。すべての哲学史はプラトンの脚注であると言われる(by ホワイトヘッド)ように、本質的な部分では、古代ギリシア以来、一歩の前進もないのが哲学というものである。

 たしかに、2500年以上におよぶ哲学史を構成する哲学者たちの言葉は、表面的に見るなら、決して同じではない。それどころか、一人の哲学者が語る言葉の中にすら、変化や矛盾が認められることは稀ではない。

 それでも、哲学者たちが遺したテクストは――それが哲学史を構成するものであるかぎり――最終的には同じ一つのものに収束するはずの問題群をめぐるものである。そこに認められる歴史的変化は、「語り方」の違い、あるいは、せいぜいのところ、根本問題のあいだに設定される優先順位の違いによるものにすぎない。

 科学史と科学が截然と分離されるのとは異なり、哲学史と哲学は一体のものである。哲学がテクストの解釈として遂行されるのは、そして、2500年近く前に成立したプラトンのテクストに対しいわば「永遠のアクチュアリティ」が認められるのは、時代や地域に関係ない普遍妥当的な認識が解釈において感得されるからであり、テクストとの対話が与えるこの感得の経験こそ、哲学の核心をなしているからである。

 反対に、哲学史というものを進歩、進化、前進、改良などとは無縁のもの、いわば永遠のものと見なし、2500年間の哲学史を構成するテクストを――哲学史に属するものであるかぎりにおいて――すべて同等に扱うとき、初めて、他から区別された哲学というものが明瞭な輪廓とともに私たちの前に姿を現すと言うこともできる。

 哲学の最前線というのは、実質的には欧米の学界における流行にすぎない。ファッションの流行が他所から到来した何ものかとともに始まるのと同じように、哲学における流行もまた、「舶来」の何ものかを刺戟として産み出されたものである。したがって、現在の欧米の研究の流行にすぎぬ「最前線」にコミットするような研究成果を産み出すことに哲学の遂行の核心を求め、哲学研究を進歩させたり前進させたりすることが可能であると信じている者がいるとするなら、そこに見られるのは、哲学の自己否定であり、人文科学の自己否定に他ならないように思われる。

人文科学の研究成果は、本質的なレベルでは共有不可能なもの

 さらに、自然科学と同じような仕方で最新の研究を追いかけることが無駄であると私が考えるのには、もう1つの理由がある。すなわち、哲学の研究成果なるものは、自然科学の研究成果と同じような仕方では共有することができないものである。

 自然科学の場合、ある分野なりテーマなりに関する最新の研究成果は――もちろん、単なる仮説や思いつきではないことが証明されたら、の話ではあるが――同じ分野なりテーマなりの研究に従事するすべての研究者が受け容れ、これを前提としなければならないものである。そして、このような前提から出発するものであるかぎり、すべての新しい研究成果は、やはり同じような仕方で共有されるはずである。

 ところが、哲学の場合、研究成果を事実と突き合わせて評価することはできない。テクストの読み方に明らかな誤りがある、論旨が破綻しているなどの形式的な問題がないかぎり、すべての研究成果は、(哲学者の具体的な名前が論文に含まれているかどうかには関係なく、)哲学史観の表明である点において等しい価値を認められねばならない。だから、哲学の研究成果は、「正しいか間違っているか」ではなく「私が賛成するか反対するか」によってしか評価されないことになり、万人が受け容れ、前提としなければならないようなものとはならないのである。

 研究者たちのあいだにおいて遂行されうるのは、哲学史上のテクストの解釈において遂行されるのと同じことである。つまり、対話の場を作り上げ、当事者たちの思考を共振させること、そして、思考の共振によって産み出された新しい真理を刺戟として各々の思考を新しい運動へと促すこと、これ以外ではありえない。対話から生まれる真理は、新たなる思考への刺戟としては当事者たちのあいだで共有されるけれども、真理は、それ自体としては、私たち一人ひとりのあり方と一体であり、本質的に実存的、あるいは実存論的な性格のものであるから、これを共有することは、不可能であるというよりも、最初から問題にならないと考えるべきである。

 また、現実の問題として、哲学は、西洋を本場とするものであり、研究の場としての日本は永遠に周縁にとどまらざるをえない。自然科学や社会科学の場合、ある研究分野において日本が周縁にすぎぬとしても、それは、研究者が少ない、研究資金が少ないなどの事情によるものであり、偶然の結果にすぎない。しかし、哲学に関するかぎり、日本が周縁であるのは必然であり、欧米の研究動向をウォッチし続け、欧米と張り合う不毛な努力を続けても、日本が周縁から抜け出し、世界の哲学の新たなトレンドを作り出す可能性はゼロである。

 しかし、哲学というものの本来の姿を考えるなら、欧米の流行の最前線を追いかけることが哲学の最前線なのではなく、むしろ、本当の意味における最前線、つまり、活発な思考により真理が産み出される場が哲学にあるとするなら、それは、テクストと対話しつつ哲学が遂行される場に他ならない。すなわち、哲学が遂行されるとき、そこはただちに哲学の最前線となるのであり、本当の意味における哲学の最前線と哲学は、同じ一つのものなのである。私たちは、哲学を遂行することにおいて、ただちに哲学の最前線に身を置く。哲学の最前線に身を置くとは、日本にいながら欧米の研究動向をウォッチすることではないし、欧米の研究者と張り合うことでもなく、哲学史との対話において自分自身のあり方を深く考えるふるまいのうちにあると言うことができる。

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