AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ: 文化と読書

On The Front Line

いわゆる「哲学の最前線」とは「哲学の流行の最前線」にすぎない

 哲学では、自分が研究対象としている対象の「最前線」を必死で追いかけている研究者をときどき見かける。(若手に特に多い。)学会に行くと、この何年かのあいだに欧米で公刊された最新の研究文献、あるいは、欧米の学術雑誌に発表された最新の論文ばかりに依拠して何かを語ろうとする口頭発表を聴かされることがあるのである。

 以前から、アングロサクソン系の哲学を研究する者たちのあいだでは、この傾向が顕著であったけれども、最近は、大陸系の哲学の研究でも、このような傾向が目立つような気がする。しかし、私自身は、最前線に執着するこのような研究のスタイルには微妙な違和感を覚える。(あまりにもハイコンテクストで付いて行けないこともある。)

 自然科学の場合、研究の最前線に身を置き、トレンドを追いかけるばかりではなく、このトレンドを追い越しみずから作り出さなければ、そもそも「研究」していることにならない。最新の成果がつねに最良のものだからである。

 しかし、人文科学の場合、最新の研究成果が必ずしも最良というわけではない。最前線を追いかけることの意味は、決して自明ではないのである。

 もちろん、たとえば言語学や考古学のような分野では、最前線に重要な意義がある。というのも、このような分野では、最新の研究成果が何らかの意味において必ず最良の研究成果を含むからである。

 しかし、これ以外の分野、特に、哲学と文学における研究の最前線というのは、基本的に「流行」の別名である。(物理学の最前線は、決して物理学の流行の最前線ではない。)それは、人文学に固有の次のような事情があるからである。

 ※ 以下、哲学を例に説明するが、文学についても、事情は基本的に同じである。

人文学は「進歩」と無縁の研究領域である

 そもそも、社会科学や自然科学の多くの分野と異なり、哲学には進歩というものがない。すべての哲学史はプラトンの脚注であると言われる(by ホワイトヘッド)ように、本質的な部分では、古代ギリシア以来、一歩の前進もないのが哲学というものである。

 たしかに、2500年以上におよぶ哲学史を構成する哲学者たちの言葉は、表面的に見るなら、決して同じではない。それどころか、一人の哲学者が語る言葉の中にすら、変化や矛盾が認められることは稀ではない。

 それでも、哲学者たちが遺したテクストは――それが哲学史を構成するものであるかぎり――最終的には同じ一つのものに収束するはずの問題群をめぐるものである。そこに認められる歴史的変化は、「語り方」の違い、あるいは、せいぜいのところ、根本問題のあいだに設定される優先順位の違いによるものにすぎない。

 科学史と科学が截然と分離されるのとは異なり、哲学史と哲学は一体のものである。哲学がテクストの解釈として遂行されるのは、そして、2500年近く前に成立したプラトンのテクストに対しいわば「永遠のアクチュアリティ」が認められるのは、時代や地域に関係ない普遍妥当的な認識が解釈において感得されるからであり、テクストとの対話が与えるこの感得の経験こそ、哲学の核心をなしているからである。

 反対に、哲学史というものを進歩、進化、前進、改良などとは無縁のもの、いわば永遠のものと見なし、2500年間の哲学史を構成するテクストを――哲学史に属するものであるかぎりにおいて――すべて同等に扱うとき、初めて、他から区別された哲学というものが明瞭な輪廓とともに私たちの前に姿を現すと言うこともできる。

 哲学の最前線というのは、実質的には欧米の学界における流行にすぎない。ファッションの流行が他所から到来した何ものかとともに始まるのと同じように、哲学における流行もまた、「舶来」の何ものかを刺戟として産み出されたものである。したがって、現在の欧米の研究の流行にすぎぬ「最前線」にコミットするような研究成果を産み出すことに哲学の遂行の核心を求め、哲学研究を進歩させたり前進させたりすることが可能であると信じている者がいるとするなら、そこに見られるのは、哲学の自己否定であり、人文科学の自己否定に他ならないように思われる。

人文科学の研究成果は、本質的なレベルでは共有不可能なもの

 さらに、自然科学と同じような仕方で最新の研究を追いかけることが無駄であると私が考えるのには、もう1つの理由がある。すなわち、哲学の研究成果なるものは、自然科学の研究成果と同じような仕方では共有することができないものである。

 自然科学の場合、ある分野なりテーマなりに関する最新の研究成果は――もちろん、単なる仮説や思いつきではないことが証明されたら、の話ではあるが――同じ分野なりテーマなりの研究に従事するすべての研究者が受け容れ、これを前提としなければならないものである。そして、このような前提から出発するものであるかぎり、すべての新しい研究成果は、やはり同じような仕方で共有されるはずである。

 ところが、哲学の場合、研究成果を事実と突き合わせて評価することはできない。テクストの読み方に明らかな誤りがある、論旨が破綻しているなどの形式的な問題がないかぎり、すべての研究成果は、(哲学者の具体的な名前が論文に含まれているかどうかには関係なく、)哲学史観の表明である点において等しい価値を認められねばならない。だから、哲学の研究成果は、「正しいか間違っているか」ではなく「私が賛成するか反対するか」によってしか評価されないことになり、万人が受け容れ、前提としなければならないようなものとはならないのである。

 研究者たちのあいだにおいて遂行されうるのは、哲学史上のテクストの解釈において遂行されるのと同じことである。つまり、対話の場を作り上げ、当事者たちの思考を共振させること、そして、思考の共振によって産み出された新しい真理を刺戟として各々の思考を新しい運動へと促すこと、これ以外ではありえない。対話から生まれる真理は、新たなる思考への刺戟としては当事者たちのあいだで共有されるけれども、真理は、それ自体としては、私たち一人ひとりのあり方と一体であり、本質的に実存的、あるいは実存論的な性格のものであるから、これを共有することは、不可能であるというよりも、最初から問題にならないと考えるべきである。

 また、現実の問題として、哲学は、西洋を本場とするものであり、研究の場としての日本は永遠に周縁にとどまらざるをえない。自然科学や社会科学の場合、ある研究分野において日本が周縁にすぎぬとしても、それは、研究者が少ない、研究資金が少ないなどの事情によるものであり、偶然の結果にすぎない。しかし、哲学に関するかぎり、日本が周縁であるのは必然であり、欧米の研究動向をウォッチし続け、欧米と張り合う不毛な努力を続けても、日本が周縁から抜け出し、世界の哲学の新たなトレンドを作り出す可能性はゼロである。

 しかし、哲学というものの本来の姿を考えるなら、欧米の流行の最前線を追いかけることが哲学の最前線なのではなく、むしろ、本当の意味における最前線、つまり、活発な思考により真理が産み出される場が哲学にあるとするなら、それは、テクストと対話しつつ哲学が遂行される場に他ならない。すなわち、哲学が遂行されるとき、そこはただちに哲学の最前線となるのであり、本当の意味における哲学の最前線と哲学は、同じ一つのものなのである。私たちは、哲学を遂行することにおいて、ただちに哲学の最前線に身を置く。哲学の最前線に身を置くとは、日本にいながら欧米の研究動向をウォッチすることではないし、欧米の研究者と張り合うことでもなく、哲学史との対話において自分自身のあり方を深く考えるふるまいのうちにあると言うことができる。

Sputnik, mi amor

読んでいることを他人には報告できない本がある

 何を読んでいるのか、あるいは、何を読んだのかと他人から問われて、返答に窮することがある。

 SNS上では、自分が読んだ本を喜々として公表している人がいるけれども、私にはとても真似することができない。(1)大抵の場合、複数の本を並行して読んでおり、しかも、(2)実際に手に取る本のうち、最初から最後まで通読する本は必ずしも多くはないからである。

 私は、朝から夕方まで、本を読んでいたら片づけることができない仕事がないかぎり、何らかの仕方でずっと本と格闘しているけれども、「読む」ということが「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」ことを意味するなら、おそらく、私は、本をほとんど何も読んではいないことになる。

 そもそも、「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」という読書態度は、私の雑な歴史認識に間違いがなければ、少なくとも西洋では、18世紀後半以降、小説の受容とともに支配的になったものである。トルストイの『戦争と平和』のような超長篇小説を最初から最後まで読み通すというのは、決して普通のことではないように思われるのである(と言いながら、集中力が続かない自分自身を慰めている)。

 しかし、それ以上に大切な理由は、たとえ通読していても、「読んでいる」「読んだ」などと恥ずかしくてとても公言することができない「下等」な本を読むのに、それなりの時間が費やされているからである。

下等な本の方が知的な刺戟に満ちていたりする

 しかも、厄介なことに、このような下等な本を読んでいるときの方が脳が活発に働くせいか、知的な刺戟を与えられることが多いのである。食事になぞらえるなら、読んでいることを他人に報告することができるようなものは、野菜をたくさん使った健康的な料理であり、これに対し、読んでいることを他人には知られたくないような下等な本は、健康を害することが明らかな酒の肴やジャンクフードに当たる。

 だから、著書や論文のネタが最初にひらめくのは、大抵の場合、下等な本を読んでいるときであり、誰でもタイトルを知っているような古典的な著作を読んでいるときに心に浮かんだ思いつきが知的生産の直接のトリガーになることは滅多にない。もちろん、それは、私が下等だからなのかも知れないが……。

本は、隠れて読まないと面白くないのか

 とはいえ、他人に隠れて読む本の方が、白昼堂々と読む本よりも断然面白く感じられることは事実である。

 締め切り間近の仕事を片づけなければならないとき、これを放擲してこっそり読む本は、途方もなく面白く感じられるのに、同じ本を時間に余裕があるときに読み返しても、どこが面白いのかよくわからないことが少なくない。中学生のころ、中間試験や期末試験の直前、本当は真面目に勉強していなければいけないとき、自宅の机の引き出しに忍ばせておいた司馬遼太郎の歴史小説を隠れて読んでいた。小学校6年生の冬には、中学受験の直前だというのに、机の引き出しに――今となってはどこに面白さを感じたのかわからないが――井伏鱒二や志賀直哉の小説を放り込んでおき、これを読んでいたのを覚えている。

 本は隠れて読むことで初めて――場合によっては実力以上に――面白いものとなるという主張が妥当なものであるなら、「読むことが格好よい本」とか「読むことが望ましい本」というのは、決して面白くないことになる。少なくとも、誰かから「読め」と命令された本など、面白く読めるはずがないのである。

 この意味では、恥ずかしくて他人にタイトルを告げることができないような本ほど面白く、読書にふさわしいものであり、読むことを禁じられた書物がない現代の日本では、このような下等な本を読むときにこそ、読書の本来の可能性が拓かれると言うことができないわけではないように思われる。

 以前、次の記事を投稿した。


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、


 この記事において、私は、読書が本質的に密室で遂行されるべきものであり、「読書会」「ソーシャル・リーディング」などの試みが読書の本質と相容れないものであることを強調した。

 しかし、「読書は密室で遂行されるべきものである」という表現は、正確ではないかも知れない。むしろ、密室においてのみ、読書は本来の意味において遂行されるのである。たしかに、書物に関する情報の共有は、それ自体としては好ましいことである。しかし、これを超えて、他人とともに、他人の視線にさらされながら、あるいは、他人に命令されて本を手に取り、文字を目で追いかけることは、もはや「読書」ではない。書物を媒介として誰かと「つながる」など、書物に対する侮辱に当たるのではないかと私はひそかに考えている。

Sunday

研究者には、カネと時間が慢性的に不足している

 自分で調査したことがあるわけではないけれども、大学の教員が口にする苦情の上位2つは、間違いなく「研究資金がない」と「研究時間がない」である。

 これら2つで、大学の教員が口にする可能性のある苦情全体の90%を占めているに違いない。もちろん、「体調がすぐれない」「隣の研究室がうるさい」「学生がバカだ」など、研究生活において出会われる問題は少なくないとしても、カネと時間さえあれば、問題の大半は解消されるということなのであろう。

 実際、授業、会議、書類作り、試験監督などに時間を奪われ、研究テーマに集中することが難しい研究者、あるいは、(特に国立大学の理系の場合、)競争的研究資金が思うように獲得できず、そのせいで研究を進めることができない研究者はいたるところに見出される。このかぎりにおいて、現在の日本の大学の教員は、「労働者」にかぎりなく近づいていると言うことができる。

理系と文系では、必要とするカネの規模が違う

 ただ、時間とカネのあいだには、若干の違いがある。すなわち、時間の不足が専門に関係なく多くの研究者に共通の悩みであるのに反し、カネの方の悩みは、2つの点において研究分野によりその内容を異にしているのである。

 まず、誰でも知っているように、理系と文系では、必要となる研究資金の規模がまったく異なる。もちろん、「理系」「文系」と総称されるそれぞれのグループは、決して一様ではない。「理系」にも、実験の比重が必ずしも大きくない数学のような分野があり、同じように、「文系」と言っても、社会心理学や人類学のようにフィールドワークが必須の分野がある。それでも、全体としては、理系の方が文系よりも多くのカネを必要とすることは確かであり、また、文部科学省と日本学術振興会が配分する科学研究費補助金に代表される競争的研究資金も、大半が理系の研究に配分される。理系の方は、配分先の研究分野が細かく区別されているのに対し、文系の方は、「人文社会科学」という雑な分類にすべてが押し込められているのである。

理系の研究はつねに資金を必要とするが、文系、特に人文科学はそうではない

 しかし、研究分野によるカネをめぐる事情の差異に関し、さらに目立つのは、カネをもっとも必要とする時期である。

 理系の場合、研究資金というのは燃料のようなものであり、研究が進行しているかぎり不足することを許されないものである。理系、つまり自然科学では、「最新」と「最良」が同一であり、「最新」をつねに追求していなければならない以上、これは仕方がないことであるに違いない。研究資金との関係で言うなら、自然科学の研究成果というのは「砂上の楼閣」のようなものなのである。

 これに対し、文系、特に人文科学(伝統的には「哲史文」、つまり哲学、歴史、文学の三分野を指す)では、事情が異なる。必要となるカネが少額で済むばかりではなく、カネがないと研究が完全に停滞してしまうこともないのである。なぜなら、自然科学において研究資金が燃料として消尽されてしまうのとは異なり、人文科学の場合、研究のためにそれまでに投資された資金の多くは、再利用可能な研究成果や資料として蓄積されて行くからである。人文科学に投入された研究資金は、すでに手もとにある資産に新しいものを付加するために使われるのである。一度に投入する金額が少なくても、研究がすぐに滞ることがないのはそのためである。

人文科学では、研究者のキャリアの初期段階でカネがかかることが多い

 私の個人的な経験の範囲では、学部生の時代を文学部で過ごし、そのまま人文系の大学院に進学し、さらにそのままアカデミックな仕事に就くというキャリアパスにおいて、研究資金が一番必要になるのは大学院の博士課程のころである。基本的な研究資料を手もとに揃えることが必要になるからである。

 業績を作るには絶対に必要だが大学の研究室にはない、それどころか、国内の大学のどこにもない資料がある場合、たとえチラッと見れば済むものであるとしても、これを手に入れるには、相当なカネが必要になる。私自身、大学院生の博士課程に在籍していたころには、人生で最初の――そして、今のところ最後の――借金を背負った。各種のレファレンス、全集、叢書、研究文献などを必要な範囲で手に入れるためである。(特に、私の研究対象に関する文献は、大学の研究室にはほとんど何もなく、ゼロからすべて集めなければならなかった。)

 実際、大学院生のころ、ある文献を読んでいたら、有名な研究者が「○○が書いた△△という本があり、××という文献に言及があるが、自分は肝心の△△を見ていないから影響関係について断定的なことは言えない」という意味のことを書いているのを見つけた。

 私は、これを見て、「それなら、△△を絶対に手に入れてやる」と考えた。ところが、図書館で調べたところ、この△△という本は、国内の大学図書館のどこにも所蔵されていないことがわかった。そこで、仕方なく、大学の図書館を経由して、ドイツのある大学図書館からこれを航空便で取り寄せた。もちろん、自費である。そして、業者に頼んで、この本――18世紀の本だった――の全部のページをコピーし製本してもらった。これも自費である。本を取り寄せてコピー、製本するのに、合わせて約10万円の費用がかかった。また、このころは、神田の崇文荘書店や北沢書店に毎月のように通い、たくさんの本を注文していた。カネはいくらでも必要であった。

 ただ、このようにして手に入れた本は、20年以上経った今でも私の書架に収まっており、資料として半永久的に使用することができる。人文科学の場合、どれほど高額なものでも、一度買ってしまえば、多くは、たえず更新しなければ使い物にならなくなる、などということはない。また、更新が必要となる場合でも、古いものに新しいものが付加されて行くのが普通である。したがって、「初期費用」は相当な規模になるけれども、その後は、時間の経過とともに研究資金の「必要最低限度額」は、急速に減少して行く。

 何千万円ものまとまった研究資金が必要になることは、カネを使うことをそれ自体として目的とするような意味不明の共同研究でも企てないかぎり、ほとんどないに違いない。また、何千万円もする高額な資料を必要とする研究がないわけではないけれども、このような資料は、大抵の場合、国内の研究者の誰かがすでに買ってどこかの大学図書館に入れている。所蔵している大学図書館から取り寄せれば、カネは一銭もかからない。

 だから、人文科学については、大学の専任教員になってしまった者よりも、むしろ、どちらかと言うとキャリアの初期の段階にある研究者を手厚く支援することにより、大きな成果を期待することができるはずである。カネをもっとも必要とするのが初期の段階だからである。

Tsutaya Books, Dankanyama, Tokyo

 今日、次のような記事を見つけた。

ツタヤ図書館、ダミー本3万5千冊に巨額税金...CCC経営のカフェ&新刊書店入居 - ビジネスジャーナル/Business Journal | ビジネスの本音に迫る

 山口県周南市は、新たに開設される図書館の運営をCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に委託したところ、CCCは、本の表紙に似せた段ボール製の「ダミー本」3万5千冊分を配架しようとしたというのが上の記事の内容である。

いわゆる「ツタヤ図書館」の図書館にふさわしくない運営の問題点については、すでにいくつかの情報がネット上で流通している。これらの情報の大半がネットニュースのビジネスジャーナルの記事に依拠するものであり、このかぎりにおいて、信憑性に関し若干の疑念がつきまとうけれども、今はこれを度外視するなら、たしかに、ツタヤ図書館の現実は、図書館の理想なるものから遠く離れたところにあると言ってよい。

 日本図書館協会が綱領として定める「図書館の自由に関する宣言」第1条には、次のように記されている。

日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。

 すなわち、図書館、特に公共図書館は、国民が、民主主義社会にふさわしい仕方で「知る権利」と「表現の自由」を行使しうるよう国民を育成する施設であり、社会に対し教化的な役割を担うものなのである。好ましくない仕方で報道されている「ツタヤ図書館」の現状を公共図書館のこのような使命の実現への努力の成果として受け止めることは困難であろう。実際、ネット上、特にSNS上には、「ツタヤ図書館」を非難する大量の書き込みが散見する。

 たしかに、納税者として見るなら、たとえば、利用価値のない古本を大量に購入したり、図書を十進法とは異なる順序で排列したり、上の記事にあるように、ダミー本で書架を埋めたりすることは、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。

 ただ、少し冷静に考えるなら、「ツタヤ図書館」を偉そうに非難する資格を持つ者は、決して多くはないように思われる。というのも、「ツタヤ図書館」が「成功」していることは、疑いの余地のない事実だからである。

 地方公共団体による公共図書館への予算の配分は、入館者数と貸出冊数の増減のみによって決まるのが普通である。つまり、現在では、たとえば、図書館がある分野の資料に関し貴重なコレクションを所蔵しているとしても、このような事実が、図書館の資料をさらに充実させるため予算が増額されるようなことはない。つまり、入館者数が増え、貸出冊数が増えさえすれば、それは、図書館の運営の「成功」を意味するのである。そして、これらの数値のみを指標とするかぎり、「ツタヤ図書館」の試みは、大成功として評価することができるものである。

 2000年、書誌学者の林望氏は、「図書館は無料貸本屋か」(「文藝春秋」2000年12月号)を発表し、新刊のベストセラーを大量に購入して入館者数や貸出冊数を底上げする公共図書館を批判した。けれども、その後、事態が改善されることがなかったばかりではなく、むしろ、公共図書館の理想と現実のあいだの距離は大きくなったように見える。「ツタヤ図書館」は、入館者数至上主義、貸出冊数至上主義の帰結以外の何ものでもないのである。

 「ツタヤ図書館」が入館者数と貸出冊数を増加させたとするなら、それは、その戦略が平均的な日本人の要求に応えるものだったからであると考えるのが自然である。国民は、図書館に対し教化的な役割など求めてはいない。国民は、民主主義社会の担い手にふさわしくみずからを形成する努力など望んではいない。国民は、自治体の単なる「お客」になり下がり、図書館に求めるものは、政治的主体としての自己形成の支援などではなく、罪のない娯楽、気晴らし、暇つぶしにすぎないのである。CCCは、この現実を正しく理解し、誰も信じていない図書館の崇高な使命を切り捨てたのであり、これまで中途半端な仕方で追求されてきた入館者数と貸出冊数の増加を効率のよい仕方で実現したにすぎないのである。

 以前、次のような記事を書いた。


何も印刷されていない本が売られる時代が来るのか : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。【本なんて、もはやインテリア】複合書店は、出版界の救世主になれるか。(五百田達成) - Yahoo!ニュース昨年から、本とそれ以外の商品を並べる「複合書店」の動きが加速しています。  上記の記事は、新刊書店が雑貨屋、カフェ、家電量

 「ツタヤ図書館」は、現在の平均的な日本人が図書館に期待するもの――それは、図書館の理念や使命からは完全に乖離している――の反映である。たとえ全国の公共図書館がすべて「ツタヤ図書館」になるとしても、国民の90%には何の不都合もないであろう。それとともに、このことは、わが国の民主主義を支えているのが、「ツタヤ図書館」に不都合を覚えるわずか10%の国民であることを意味しているに違いない。

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「おすすめの本を教えて」という漠然とした求めには応じない

 職業柄、「どのような本を読めばよいのか」「おすすめの本を教えてください」などという質問や要求に出会うことが少なくない。

 「○○の分野に興味があるから、適当な文献を紹介してほしい」とか「△△関係で××を読んでみたがよくわからなかったから、もっとわかりやすい入門書を」とか、このような具体的な話には応えることにしているけれども、ただ漫然と「面白そうな本」や「おすすめの本」を挙げるよう求められても、これには基本的に応じないことにしている。

 そもそも、以前に投稿した次の記事で述べたように、私は、読書というのが基本的に私的なもの、密室でひそかに営まれるべきものであると考えている。自分が好きな本をむやみに公開するのは、自分が身につけている下着を繁華街の路上で披露するのとあまり変わらないことであるように思われるのである。(私は、露出狂ではない(つもりだ)から、当然、そのようなことはしない。)


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、

面白い本は試行錯誤しながら自分で見つけるものであって、誰かに教えてもらうものではない

 しかし、それ以上に重要なのは、次のような理由である。

 そもそも、面白い本というのは、試行錯誤によってみずから見つけ出すべきものである。これは、ある程度以上の読書経験がある者にとっては自明の真理であるに違いない。あるいは、この自明の真理を感得することが、「読書経験」の証であると言うことも可能である。

 さらに、それなりにたくさんの本を読んできた人なら誰でもわかるように、万人にとって面白い本などというものはない。本を手に取るときに読み手が背負っている人生経験に応じて、一冊の本は、異なる面白さ(あるいは、つまらなさ)を読み手に示す。当然、同じ一冊の本から得られる面白さは、読み手が位置を占める人生行路の地点が異なれば、これに応じて変化することになる。

 たとえば、私が太宰治の『人間失格』を初めて読んだのは、小学校6年生のときであった。私は、これを、ある意味において「面白い」作品として受け止めた。私が次に『人間失格』を手に取ったのは、大学院生のころである。このときにも、私は、この作品に面白さを認めた。しかし、当然、その面白さは、小学生の私にとっての面白さとは性質を異にするものであった。さらに、一昨年、私は、『人間失格』をもう一度読んだ。もちろん、私は、これを面白いと感じたけれども、それは、さらに新しいレベルの面白さであった。読書とは、このようなものであると私は考えている。

 したがって、ただ漫然と「面白い本を挙げろ」と言われても、それは、そもそも無理な相談なのである。

本をすすめることが相手にとって害になることもある

 もちろん、「おすすめの本を教えてください」という要求に出会うとき、私が挙げることを求められているのは、万人にとって面白い本ではなく、「おすすめの本を教えてください」と私に語りかけている当の誰かが「今、ここ」で読んで面白いと思えるような本であるのかも知れないが、相手の経験をそのまま引き受けることができない以上、この求めに応じるのが不可能であることもまた明らかであろう。

 それどころか、私は、このような要求に応えることが決して相手のためにならない場合が少なくないと考えている。そもそも、「おすすめの本を教えてください」などと私に無邪気に求めるような人間は、読書経験がまったくないか、あるいは、ゼロに限りなく近く、そのため、「つまらない本」に対する「耐性」がないからである。

 本を読むことにある程度以上の経験があるなら、つまらない本に出会っても、これに懲りることなく、気持ちを切り替え、次の1冊に手をのばすことが可能である。本の面白さについて自分なりの基準があり、また、この基準を満たす本に過去に実際に出会った経験があるからである。

 これに対し、本を読むことに慣れていない者の場合、つまらない本に遭遇すると、本を読むこと自体への意欲が失われてしまう可能性がある。つまり、次の1冊を試そうとはせず、そのまま読書に背を向けてしまう危険があるのである。私がすすめる本が相手にとって面白いという確信があるなら、話は別であろうが、このような確信がないかぎり――実際、あるはずはない――本をすすめることは、相手を不幸にするおそれがある。人間に許された物理的な経験の量は、時間的、空間的に非常に狭い範囲にとどまる。読書は、経験を他人から買い、みずからの経験を拡張する作業であり、したがって、人間に固有の、人間にふさわしい経験を形作る作業であると言うことができる。しかし、それだけに、私がすすめた本が原因で読書に背を向ける者が現われるようなことは、当人のためにならないばかりではなく、人類にとってもまた損失であるように思われるのである。

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