AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:文化と読書 > 書物のある生活

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 以前、次のような記事を投稿した。


「会社員臭」なるものについて考えてみた 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

会社員の不思議な生態 私は、これまでの人生において、普通の民間企業で働いたことがない。つまり――正規であれ、非正規であれ――企業に従業員として雇用され、給与を受け取ったことが一度もない。大雑把に言うなら、会社員であったことがないのである。これは、現在の日

 会社員というのは、社会における圧倒的なマジョリティであり、彼らにとり、自分たちの普通が全体の普通であることを疑う機会は滅多にない。酔っ払いばかりが乗っているエレベーターの中では、誰一人として自分の酒臭さに気づかないのと同じである。しかし、会社員であったことが一度もない私の目には、会社員の生態は、かなり奇妙なものと映る。上の記事において、私は、このようなことを書いた。実際、私にとり、会社員は、つねに一種の謎である。特に、その「読書」の傾向を眺めるとき、私の心には大きな疑問符が浮かぶ。

 現在の日本の人口構成において、会社員がマジョリティであることは事実である。したがって、現在の日本人全体の知的水準に大きな影響を与えるのは、会社員の知的水準であることになる。

 もちろん、会社員に共通するのは、「会社」という組織に属しているという事実だけであるから、一人ひとりの知的水準はまったく異なるはずである。毎日たくさんの本を読み、勉強に多くの時間を費やす会社員がいるとともに、1年間に1冊も本を読まず、「飯を食う無知蒙昧」と表現することができるような会社員もまたどこかにいるに違いない。

 それでも、21世紀初めの現在、東京のオフィス街にある書店に行き、売り場を見渡すことにより、会社員の平均的な知的水準がどの程度のものであるかは、容易に確認することができる。すなわち、売り場の多くを占領しているのは、、そして、多くの客が集まっているのは、新刊書、特に、「ビジネス書」と呼ばれるジャンルの新刊書である。ビジネス書およびこれに関連する書物のレベルが会社員の平均的な知的水準を反映していることがわかるのである。しばらく前、丸善の丸の内本店の新刊書の売り場を訪れたとき、私には完全に未知の著者たちによる、派手な表紙のビジネス書で棚が埋め尽くされているのを見て、いくらか気味悪く感じたことをハッキリと覚えている。

 ビジネス書というのは、私が理解することのできる範囲では、「会社員生活に最適化された自己啓発書」である。私自身は、自分が購入した書物が「ビジネス書」に分類されるものであることをあとから知ることは稀にあるけれども、「ビジネス書」をビジネス書として手に取ったことは一度もない。

 事務作業の効率化の方法、商談を成功させる方法、収入を増やす方法などについての書物にどうしてこれほど需要があるのか、私にはよくわからない。私なら、このような本を手に取ることに対し、若干の恥ずかしさを覚える。私の体面がこのような本を安易に手に取ることを許さないのである。しかし、どうやら、会社員というのは、このような見栄とは縁がない存在のようである。このような点に見栄をはらないことが「デキる」ことの証であると信じられているのかも知れない。しかし、これは、人間の人間らしさをみずから捨て、一種の動物になることを意味するように私には見える。そして、羞恥心のこのような欠落は、読書という行動に「動物臭」を与えることにより、日本人の平均的な知的水準に対し否定的な影響を与えないわけには行かないはずである。

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Sputnik, mi amor

読んでいることを他人には報告できない本がある

 何を読んでいるのか、あるいは、何を読んだのかと他人から問われて、返答に窮することがある。

 SNS上では、自分が読んだ本を喜々として公表している人がいるけれども、私にはとても真似することができない。(1)大抵の場合、複数の本を並行して読んでおり、しかも、(2)実際に手に取る本のうち、最初から最後まで通読する本は必ずしも多くはないからである。

 私は、朝から夕方まで、本を読んでいたら片づけることができない仕事がないかぎり、何らかの仕方でずっと本と格闘しているけれども、「読む」ということが「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」ことを意味するなら、おそらく、私は、本をほとんど何も読んではいないことになる。

 そもそも、「最初から最後まで文脈を追いながら続けて読む」という読書態度は、私の雑な歴史認識に間違いがなければ、少なくとも西洋では、18世紀後半以降、小説の受容とともに支配的になったものである。トルストイの『戦争と平和』のような超長篇小説を最初から最後まで読み通すというのは、決して普通のことではないように思われるのである(と言いながら、集中力が続かない自分自身を慰めている)。

 しかし、それ以上に大切な理由は、たとえ通読していても、「読んでいる」「読んだ」などと恥ずかしくてとても公言することができない「下等」な本を読むのに、それなりの時間が費やされているからである。

下等な本の方が知的な刺戟に満ちていたりする

 しかも、厄介なことに、このような下等な本を読んでいるときの方が脳が活発に働くせいか、知的な刺戟を与えられることが多いのである。食事になぞらえるなら、読んでいることを他人に報告することができるようなものは、野菜をたくさん使った健康的な料理であり、これに対し、読んでいることを他人には知られたくないような下等な本は、健康を害することが明らかな酒の肴やジャンクフードに当たる。

 だから、著書や論文のネタが最初にひらめくのは、大抵の場合、下等な本を読んでいるときであり、誰でもタイトルを知っているような古典的な著作を読んでいるときに心に浮かんだ思いつきが知的生産の直接のトリガーになることは滅多にない。もちろん、それは、私が下等だからなのかも知れないが……。

本は、隠れて読まないと面白くないのか

 とはいえ、他人に隠れて読む本の方が、白昼堂々と読む本よりも断然面白く感じられることは事実である。

 締め切り間近の仕事を片づけなければならないとき、これを放擲してこっそり読む本は、途方もなく面白く感じられるのに、同じ本を時間に余裕があるときに読み返しても、どこが面白いのかよくわからないことが少なくない。中学生のころ、中間試験や期末試験の直前、本当は真面目に勉強していなければいけないとき、自宅の机の引き出しに忍ばせておいた司馬遼太郎の歴史小説を隠れて読んでいた。小学校6年生の冬には、中学受験の直前だというのに、机の引き出しに――今となってはどこに面白さを感じたのかわからないが――井伏鱒二や志賀直哉の小説を放り込んでおき、これを読んでいたのを覚えている。

 本は隠れて読むことで初めて――場合によっては実力以上に――面白いものとなるという主張が妥当なものであるなら、「読むことが格好よい本」とか「読むことが望ましい本」というのは、決して面白くないことになる。少なくとも、誰かから「読め」と命令された本など、面白く読めるはずがないのである。

 この意味では、恥ずかしくて他人にタイトルを告げることができないような本ほど面白く、読書にふさわしいものであり、読むことを禁じられた書物がない現代の日本では、このような下等な本を読むときにこそ、読書の本来の可能性が拓かれると言うことができないわけではないように思われる。

 以前、次の記事を投稿した。


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、


 この記事において、私は、読書が本質的に密室で遂行されるべきものであり、「読書会」「ソーシャル・リーディング」などの試みが読書の本質と相容れないものであることを強調した。

 しかし、「読書は密室で遂行されるべきものである」という表現は、正確ではないかも知れない。むしろ、密室においてのみ、読書は本来の意味において遂行されるのである。たしかに、書物に関する情報の共有は、それ自体としては好ましいことである。しかし、これを超えて、他人とともに、他人の視線にさらされながら、あるいは、他人に命令されて本を手に取り、文字を目で追いかけることは、もはや「読書」ではない。書物を媒介として誰かと「つながる」など、書物に対する侮辱に当たるのではないかと私はひそかに考えている。

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Tsutaya Books, Dankanyama, Tokyo

 今日、次のような記事を見つけた。

ツタヤ図書館、ダミー本3万5千冊に巨額税金...CCC経営のカフェ&新刊書店入居 - ビジネスジャーナル/Business Journal | ビジネスの本音に迫る

 山口県周南市は、新たに開設される図書館の運営をCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)に委託したところ、CCCは、本の表紙に似せた段ボール製の「ダミー本」3万5千冊分を配架しようとしたというのが上の記事の内容である。

いわゆる「ツタヤ図書館」の図書館にふさわしくない運営の問題点については、すでにいくつかの情報がネット上で流通している。これらの情報の大半がネットニュースのビジネスジャーナルの記事に依拠するものであり、このかぎりにおいて、信憑性に関し若干の疑念がつきまとうけれども、今はこれを度外視するなら、たしかに、ツタヤ図書館の現実は、図書館の理想なるものから遠く離れたところにあると言ってよい。

 日本図書館協会が綱領として定める「図書館の自由に関する宣言」第1条には、次のように記されている。

日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。

 すなわち、図書館、特に公共図書館は、国民が、民主主義社会にふさわしい仕方で「知る権利」と「表現の自由」を行使しうるよう国民を育成する施設であり、社会に対し教化的な役割を担うものなのである。好ましくない仕方で報道されている「ツタヤ図書館」の現状を公共図書館のこのような使命の実現への努力の成果として受け止めることは困難であろう。実際、ネット上、特にSNS上には、「ツタヤ図書館」を非難する大量の書き込みが散見する。

 たしかに、納税者として見るなら、たとえば、利用価値のない古本を大量に購入したり、図書を十進法とは異なる順序で排列したり、上の記事にあるように、ダミー本で書架を埋めたりすることは、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。

 ただ、少し冷静に考えるなら、「ツタヤ図書館」を偉そうに非難する資格を持つ者は、決して多くはないように思われる。というのも、「ツタヤ図書館」が「成功」していることは、疑いの余地のない事実だからである。

 地方公共団体による公共図書館への予算の配分は、入館者数と貸出冊数の増減のみによって決まるのが普通である。つまり、現在では、たとえば、図書館がある分野の資料に関し貴重なコレクションを所蔵しているとしても、このような事実が、図書館の資料をさらに充実させるため予算が増額されるようなことはない。つまり、入館者数が増え、貸出冊数が増えさえすれば、それは、図書館の運営の「成功」を意味するのである。そして、これらの数値のみを指標とするかぎり、「ツタヤ図書館」の試みは、大成功として評価することができるものである。

 2000年、書誌学者の林望氏は、「図書館は無料貸本屋か」(「文藝春秋」2000年12月号)を発表し、新刊のベストセラーを大量に購入して入館者数や貸出冊数を底上げする公共図書館を批判した。けれども、その後、事態が改善されることがなかったばかりではなく、むしろ、公共図書館の理想と現実のあいだの距離は大きくなったように見える。「ツタヤ図書館」は、入館者数至上主義、貸出冊数至上主義の帰結以外の何ものでもないのである。

 「ツタヤ図書館」が入館者数と貸出冊数を増加させたとするなら、それは、その戦略が平均的な日本人の要求に応えるものだったからであると考えるのが自然である。国民は、図書館に対し教化的な役割など求めてはいない。国民は、民主主義社会の担い手にふさわしくみずからを形成する努力など望んではいない。国民は、自治体の単なる「お客」になり下がり、図書館に求めるものは、政治的主体としての自己形成の支援などではなく、罪のない娯楽、気晴らし、暇つぶしにすぎないのである。CCCは、この現実を正しく理解し、誰も信じていない図書館の崇高な使命を切り捨てたのであり、これまで中途半端な仕方で追求されてきた入館者数と貸出冊数の増加を効率のよい仕方で実現したにすぎないのである。

 以前、次のような記事を書いた。


何も印刷されていない本が売られる時代が来るのか : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。【本なんて、もはやインテリア】複合書店は、出版界の救世主になれるか。(五百田達成) - Yahoo!ニュース昨年から、本とそれ以外の商品を並べる「複合書店」の動きが加速しています。  上記の記事は、新刊書店が雑貨屋、カフェ、家電量

 「ツタヤ図書館」は、現在の平均的な日本人が図書館に期待するもの――それは、図書館の理念や使命からは完全に乖離している――の反映である。たとえ全国の公共図書館がすべて「ツタヤ図書館」になるとしても、国民の90%には何の不都合もないであろう。それとともに、このことは、わが国の民主主義を支えているのが、「ツタヤ図書館」に不都合を覚えるわずか10%の国民であることを意味しているに違いない。

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「おすすめの本を教えて」という漠然とした求めには応じない

 職業柄、「どのような本を読めばよいのか」「おすすめの本を教えてください」などという質問や要求に出会うことが少なくない。

 「○○の分野に興味があるから、適当な文献を紹介してほしい」とか「△△関係で××を読んでみたがよくわからなかったから、もっとわかりやすい入門書を」とか、このような具体的な話には応えることにしているけれども、ただ漫然と「面白そうな本」や「おすすめの本」を挙げるよう求められても、これには基本的に応じないことにしている。

 そもそも、以前に投稿した次の記事で述べたように、私は、読書というのが基本的に私的なもの、密室でひそかに営まれるべきものであると考えている。自分が好きな本をむやみに公開するのは、自分が身につけている下着を繁華街の路上で披露するのとあまり変わらないことであるように思われるのである。(私は、露出狂ではない(つもりだ)から、当然、そのようなことはしない。)


私だけの書物、私だけの読書 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

カスタマーレビューの罪 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、

面白い本は試行錯誤しながら自分で見つけるものであって、誰かに教えてもらうものではない

 しかし、それ以上に重要なのは、次のような理由である。

 そもそも、面白い本というのは、試行錯誤によってみずから見つけ出すべきものである。これは、ある程度以上の読書経験がある者にとっては自明の真理であるに違いない。あるいは、この自明の真理を感得することが、「読書経験」の証であると言うことも可能である。

 さらに、それなりにたくさんの本を読んできた人なら誰でもわかるように、万人にとって面白い本などというものはない。本を手に取るときに読み手が背負っている人生経験に応じて、一冊の本は、異なる面白さ(あるいは、つまらなさ)を読み手に示す。当然、同じ一冊の本から得られる面白さは、読み手が位置を占める人生行路の地点が異なれば、これに応じて変化することになる。

 たとえば、私が太宰治の『人間失格』を初めて読んだのは、小学校6年生のときであった。私は、これを、ある意味において「面白い」作品として受け止めた。私が次に『人間失格』を手に取ったのは、大学院生のころである。このときにも、私は、この作品に面白さを認めた。しかし、当然、その面白さは、小学生の私にとっての面白さとは性質を異にするものであった。さらに、一昨年、私は、『人間失格』をもう一度読んだ。もちろん、私は、これを面白いと感じたけれども、それは、さらに新しいレベルの面白さであった。読書とは、このようなものであると私は考えている。

 したがって、ただ漫然と「面白い本を挙げろ」と言われても、それは、そもそも無理な相談なのである。

本をすすめることが相手にとって害になることもある

 もちろん、「おすすめの本を教えてください」という要求に出会うとき、私が挙げることを求められているのは、万人にとって面白い本ではなく、「おすすめの本を教えてください」と私に語りかけている当の誰かが「今、ここ」で読んで面白いと思えるような本であるのかも知れないが、相手の経験をそのまま引き受けることができない以上、この求めに応じるのが不可能であることもまた明らかであろう。

 それどころか、私は、このような要求に応えることが決して相手のためにならない場合が少なくないと考えている。そもそも、「おすすめの本を教えてください」などと私に無邪気に求めるような人間は、読書経験がまったくないか、あるいは、ゼロに限りなく近く、そのため、「つまらない本」に対する「耐性」がないからである。

 本を読むことにある程度以上の経験があるなら、つまらない本に出会っても、これに懲りることなく、気持ちを切り替え、次の1冊に手をのばすことが可能である。本の面白さについて自分なりの基準があり、また、この基準を満たす本に過去に実際に出会った経験があるからである。

 これに対し、本を読むことに慣れていない者の場合、つまらない本に遭遇すると、本を読むこと自体への意欲が失われてしまう可能性がある。つまり、次の1冊を試そうとはせず、そのまま読書に背を向けてしまう危険があるのである。私がすすめる本が相手にとって面白いという確信があるなら、話は別であろうが、このような確信がないかぎり――実際、あるはずはない――本をすすめることは、相手を不幸にするおそれがある。人間に許された物理的な経験の量は、時間的、空間的に非常に狭い範囲にとどまる。読書は、経験を他人から買い、みずからの経験を拡張する作業であり、したがって、人間に固有の、人間にふさわしい経験を形作る作業であると言うことができる。しかし、それだけに、私がすすめた本が原因で読書に背を向ける者が現われるようなことは、当人のためにならなないばかりではなく、人類にとってもまた損失であるように思われるのである。

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My Grandfather's Basement - Day 300

寄贈のすべてがありがたいわけではない

 昨日、次の記事を読んだ。

高梁市教委への寄贈本10年放置 1.6万冊、遺族要請を受け返還

 記事によれば、藤森賢一氏の没後、遺族が藤森氏の蔵書を郷里の高梁市に寄贈した。しかし、蔵書は、市の体育館に10年間放置されたままであり、最終的に、一部を除いて廃棄されることになった。そのため、遺族が市に返還を求め、そして、蔵書は実際に返還されたようである。

 この記事は、高梁市の対応に批判的であるように見える。たしかに、寄贈された書籍や資料を10年間も放置したことは、それ自体としては決して好ましいことではない。すべての本は、誰かに利用されて初めて存在意義を獲得するものだからである。

 とはいえ、本をめぐる現実を冷静に考えるなら、高梁市の措置にはやむをえない点があることもまた事実である。

 そもぞも、本や資料に限らず、何かを寄贈される側にとって、寄贈は、ありがたいことであるとはかぎらない。というのも、寄贈されたものは、これを維持し管理するコストを必要とするからである。今回のように本が問題であるなら、保管するスペースを用意し、分類、整理しなければならない。補修したり修復したりしなければならないものが含まれている可能性もある。寄贈されたものを市の財産として活用するには、手間と時間とカネがかかるのである。

本の資産価値はほぼゼロ

 とはいえ、寄贈されたものが、たとえば金塊や歴史的な価値のある絵画などであるなら、放置されることはなかったであろう。というのも、換金性が高いものなら、これを売却し現金化して利益を得ることが可能だからである。高梁市の場合にはよくわからないけれども、東京や大阪のように地価の高いところであるなら、土地は希少であるから、自治体が寄贈を受けた土地は、売却されるか、公共施設の建設用地として活用される。

 ところが、厄介なことに、本の場合、よほど珍しいものを除き、売却して現金化することは不可能である。というのも、本には資産価値が認められていないからである。10年前に高梁市に寄贈された本は、相続にあたり、大して高くは評価されていなかったはずである。一般に、相続される財産に本が含まれるときには、購入したときの価格に関係なく、1冊あたり100円を超える価値が認められることはない。1億円以上をかけて集められた1万冊の蔵書でも、相続財産としての価値は100万円以下である。本というのは、所有者や家族にとってどれほど大切なものであるとしても、客観的にはタダ同然なのである。

 本に財産としての価値がほとんど認められないのは、古本市場での本の実勢価格が悲しいほど安いからである。いや、ただ安いばかりではなく、そもそも、よほど珍しいものでないかぎり、古本屋に引き取ってもらうことすら容易ではない。珍しい本や資料が含まれている場合、古くから付き合いのある古本屋に頼めば、蔵書の全体を――値段がつかず、したがって、廃棄せざるをえない本を含め――何百万円かで買い取ってもらうことは可能であろう。(もちろん、この数百万円というのは、蔵書をすべて引き取ったあと、売れない本を廃棄する費用を控除した金額である。)普通の古本屋なら、高値で売れる本だけを選別して買い取り、残されたものは、遺族が自分の費用で廃棄しなければならないことになるに違いない。

 今日、ネットで次のような記事を見つけた。

藤森賢一先生の蔵書のことなど

 この記事は、寄贈した蔵書の返却を求めた遺族について、「僭越」という言葉を使って批判しているけれども、私自身は、蔵書がしかるべき仕方で扱われていないことに対する不満はそれ自体としては不当ではないと考えている。ただ、それとともに、私がこれまで書いてきたような事情、あるいは、この記事で述べられているような本に関する現実を冷静に受け止め、その上で本をどのように処分するか決めることもまた、必要であるように思われるのである。

本は資産ではなく負債と考えるべき

 本を現金化することの困難を考慮するなら、高梁市には、寄贈された本を売却する可能性は最初からなかった。市にとり、これは、税金を財源とするメインテナンスを必要とするものであり、この意味において、蔵書の寄贈を受け、これを「有効に活用する」ことは、負債を肩代わりするのと同じだったわけである。この負債から逃れるためには、寄贈されたものを放置するか、特に珍しいものを除き、すべてを――売却することができない以上――ゴミとして廃棄するかのいずれかしか道はなかった。(書架と人員に余裕がないかぎり、大学図書館でも、事情は同じである。)

 もちろん、放置したり廃棄したりするくらいなら、最初から寄贈を受けなければよかったと考えることは不可能ではないし、おそらく、そのとおりなのであろう。ただ、市が引き受けなければ、遺族がみずからの手間と時間とカネを使って本の行き先を決めなければならないことになる。若干のものは高値で買い取られるであろうが、大半のものについては、行き先が決まらぬま空間を占領し続け、そして、時間だけがむなしく過ぎて行くことになるはずである。

 本が資産であるのは、これが使われるかぎりにおいてのみである。物体としての本は、資産であるというよりも、むしろ、本質的に負債と見なされねばならない。借金を残したまま世を去ることが遺族にとって迷惑になるのと同じように、今後は、世を去るまでに、自分の蔵書をすべて始末し、遺族に本を残さないことにより、私たち一人ひとりが死後に受けるかも知れぬ評価を肯定的なものにしてくれるかも知れない。

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