AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

カテゴリ:文化と読書 > 書物のある生活

My Grandfather's Basement - Day 300

寄贈のすべてがありがたいわけではない

 昨日、次の記事を読んだ。

高梁市教委への寄贈本10年放置 1.6万冊、遺族要請を受け返還

 記事によれば、藤森賢一氏の没後、遺族が藤森氏の蔵書を郷里の高梁市に寄贈した。しかし、蔵書は、市の体育館に10年間放置されたままであり、最終的に、一部を除いて廃棄されることになった。そのため、遺族が市に返還を求め、そして、蔵書は実際に返還されたようである。

 この記事は、高梁市の対応に批判的であるように見える。たしかに、寄贈された書籍や資料を10年間も放置したことは、それ自体としては決して好ましいことではない。すべての本は、誰かに利用されて初めて存在意義を獲得するものだからである。

 とはいえ、本をめぐる現実を冷静に考えるなら、高梁市の措置にはやむをえない点があることもまた事実である。

 そもぞも、本や資料に限らず、何かを寄贈される側にとって、寄贈は、ありがたいことであるとはかぎらない。というのも、寄贈されたものは、これを維持し管理するコストを必要とするからである。今回のように本が問題であるなら、保管するスペースを用意し、分類、整理しなければならない。補修したり修復したりしなければならないものが含まれている可能性もある。寄贈されたものを市の財産として活用するには、手間と時間とカネがかかるのである。

本の資産価値はほぼゼロ

 とはいえ、寄贈されたものが、たとえば金塊や歴史的な価値のある絵画などであるなら、放置されることはなかったであろう。というのも、換金性が高いものなら、これを売却し現金化して利益を得ることが可能だからである。高梁市の場合にはよくわからないけれども、東京や大阪のように地価の高いところであるなら、土地は希少であるから、自治体が寄贈を受けた土地は、売却されるか、公共施設の建設用地として活用される。

 ところが、厄介なことに、本の場合、よほど珍しいものを除き、売却して現金化することは不可能である。というのも、本には資産価値が認められていないからである。10年前に高梁市に寄贈された本は、相続にあたり、大して高くは評価されていなかったはずである。一般に、相続される財産に本が含まれるときには、購入したときの価格に関係なく、1冊あたり100円を超える価値が認められることはない。1億円以上をかけて集められた1万冊の蔵書でも、相続財産としての価値は100万円以下である。本というのは、所有者や家族にとってどれほど大切なものであるとしても、客観的にはタダ同然なのである。

 本に財産としての価値がほとんど認められないのは、古本市場での本の実勢価格が悲しいほど安いからである。いや、ただ安いばかりではなく、そもそも、よほど珍しいものでないかぎり、古本屋に引き取ってもらうことすら容易ではない。珍しい本や資料が含まれている場合、古くから付き合いのある古本屋に頼めば、蔵書の全体を――値段がつかず、したがって、廃棄せざるをえない本を含め――何百万円かで買い取ってもらうことは可能であろう。(もちろん、この数百万円というのは、蔵書をすべて引き取ったあと、売れない本を廃棄する費用を控除した金額である。)普通の古本屋なら、高値で売れる本だけを選別して買い取り、残されたものは、遺族が自分の費用で廃棄しなければならないことになるに違いない。

 今日、ネットで次のような記事を見つけた。

藤森賢一先生の蔵書のことなど

 この記事は、寄贈した蔵書の返却を求めた遺族について、「僭越」という言葉を使って批判しているけれども、私自身は、蔵書がしかるべき仕方で扱われていないことに対する不満はそれ自体としては不当ではないと考えている。ただ、それとともに、私がこれまで書いてきたような事情、あるいは、この記事で述べられているような本に関する現実を冷静に受け止め、その上で本をどのように処分するか決めることもまた、必要であるように思われるのである。

本は資産ではなく負債と考えるべき

 本を現金化することの困難を考慮するなら、高梁市には、寄贈された本を売却する可能性は最初からなかった。市にとり、これは、税金を財源とするメインテナンスを必要とするものであり、この意味において、蔵書の寄贈を受け、これを「有効に活用する」ことは、負債を肩代わりするのと同じだったわけである。この負債から逃れるためには、寄贈されたものを放置するか、特に珍しいものを除き、すべてを――売却することができない以上――ゴミとして廃棄するかのいずれかしか道はなかった。(書架と人員に余裕がないかぎり、大学図書館でも、事情は同じである。)

 もちろん、放置したり廃棄したりするくらいなら、最初から寄贈を受けなければよかったと考えることは不可能ではないし、おそらく、そのとおりなのであろう。ただ、市が引き受けなければ、遺族がみずからの手間と時間とカネを使って本の行き先を決めなければならないことになる。若干のものは高値で買い取られるであろうが、大半のものについては、行き先が決まらぬま空間を占領し続け、そして、時間だけがむなしく過ぎて行くことになるはずである。

 本が資産であるのは、これが使われるかぎりにおいてのみである。物体としての本は、資産であるというよりも、むしろ、本質的に負債と見なされねばならない。借金を残したまま世を去ることが遺族にとって迷惑になるのと同じように、今後は、世を去るまでに、自分の蔵書をすべて始末し、遺族に本を残さないことにより、私たち一人ひとりが死後に受けるかも知れぬ評価を肯定的なものにしてくれるかも知れない。

Sunday afternoon reading

 日本の多くの新聞、そして、多くの雑誌には、「書評」が掲載されている。さらに、「週刊読書人」や「図書新聞」のような週刊の書評専門誌も刊行されている。だから、日常生活において書評を目にする機会は少なくないに違いない。

 書評というものは、本来は、1冊あるいは複数の本を取り上げ、これが読むに値するものであるかどうか、読者が事前に判断する材料を提供するためのものである。しかし、わが国の場合、新聞や雑誌で実際に私たちの目に触れる書評をこの観点から眺めるなら、これらが本来の役割を果たしていないことがわかる。というのも、新聞や雑誌の書評は、大抵の場合、本が読むに値するものであるかどうかを明らかにするものではなく、本を褒めることを目的とする提灯記事であり、このかぎりでは、広告と同じだからである。(ある新聞記者が「書評とは、新聞社の負担で掲載される本の広告のこと」「書評とは、どの本が読むに値するかを教えるためにあるのではなく、すべての本が読むに値するかのように新聞の購読者に錯覚させるためにある」と語っていたという話を耳にしたことがあるが、たしかに、現実はそのとおりであろう。)これは、映画評についてもまったく同じである。

 書評専門誌の状況は、さらに嘆かわしいものとなっている。大抵の場合、書評を執筆する者、つまり評者は、取り上げられた本の著者の知り合いである。当然、書評の内容は、「お友だち」のあいだでの褒め合いになる。だから、著者のことも評者のことも知らず、(学術書や文学作品では、)当該の分野に詳しいわけでもない人間が書評を読んでも、本の内容も価値もわからないことになる。

 昔から、研究者たちは、小さなサークルを作り、部外者にはよく理解できないネタを取り上げ、内輪で「盛り上がっている」ことが多い。人文科学や社会科学のごく新しい分野、しかも、地域や出身校や年代によって研究者の分布が偏っている分野の場合、同じ属性の者たちが集団を作るこの傾向は特に明瞭である。このようなサークルを作る研究者たちは、自分たちの研究の意義を外部に向かって積極的に説明しないから、研究業績の生産と消費がサークルの内部で完結する状態、いわば「自給自足」の状態に陥ることが多く、この場合、外部の人間には、彼ら/彼女らの研究に何の意義があるのかますますわからなくなる。書評というのは、内輪のまなざしを共有しない門外漢がこのような「タコツボ」から生れた業績を判定し評価する機会であるはずであった。しかし、現実の書評は、研究者の狭いサークルのあいだの「つながり」や「絆」を強めるのに役に立つばかりであり、知的公衆の刺戟となることもなく、文化の発展を促すこともないように見える。

 もちろん、欧米、特に英語圏では、事情が異なる。New York Timesを始めとして、多くの一般の新聞が週に1度は掲載する書評は、取り上げる本が読むに値するものであるかどうか、立ち入って吟味するのが普通である。

Book Review

 したがって、ある本を「読むに値しない」と判定する否定的な書評が掲載されることもある。(映画評についても同じである。)

 さらに、イギリスの高級紙Timesの別冊として刊行が始まった週刊の書評誌Times Literary Supplement (TLS) や、

Home Page - The TLS

アメリカでもっとも影響力のある週刊の書評誌The New York Review of Books (NYRB) (政治や社会問題に関する記事が多いことでも有名である)

Home

などの場合、書評1篇あたりの長さは、もっとも短いものでも、日本の書評誌に掲載されるもっとも長いものの2倍以上である。(1冊の本のレビューにタブロイド判で最低1ページ全面が当てられる。多い場合には、タブロイド判の見開き2面分になることもある。)そこでは、取り上げる本の著者のこれまでの活動、本が取り上げるテーマの解説、同じテーマを扱った他の本との比較などにより、評者なりの作品の解釈が試みられているのが普通である。

 書評は、単なる表面的な紹介ではなく、仲間うちの褒め合いでもない。一般的な関心を持つ知的公衆――これがフィクションにすぎないとしても――のまなざしを代理し、このままざしのもとで本の内容を吟味することに書評の意義はあるように思われるのだが……。

The Book Club Weekly Meeting

カスタマーレビューの罪

 本をどこでどのように買うかは、人によってまちまちであろうが、現在の日本では、アマゾンをまったく使わない人は少数であろう。私自身は、この何年か、購入する本の半分弱をアマゾンで手に入れている。

 もっとも、アマゾンで本を手に入れる場合、ある危険を避けることができない。というのも、アマゾンの個別の商品のページには、「カスタマーレビュー」を書き込むことができるからであり、このレビューをウッカリ読んでしまうことがあるからである。私は、カスタマーレビューは、できるかぎり読まないことにしている。(同じ理由によって、ブクログや読書メーターに掲載されている書評も読まない。)何と言っても、少なくとも私の場合、ある本を手にとって読むときに必要なのは、その本が私のためだけに書かれたものであり、私が読むのを待っていると信じ込むことができることだからである。

 「この本は私のためにここにある。」「私が読まなくて誰がこの本を読むのだ。」「この本の本当のメッセージがわかるのは私だけ。」齢のせいなのかどうかわからないが、最近は、このように思い込むことができなければ、書物、特に新刊書を最後まで読み通すことができなくなっている。そして、(同じ本が何万分も印刷されているという事実を忘れ、)このような妄想を身にまとうことが読書の不可欠の前提であるかぎり、アマゾンのカスタマーレビューなど、邪魔者以外の何ものでもない。おおぜいの他人によってすでに読まれた本など、買う気にすらならないことが多い。

 当然、私は、他人から読むようにすすめられた本は、原則として読まない。私に本をすすめてくれる人は、その本が、誰にとっても読むに値する者であると信じているのであろうが、それはやはり、ある観点から価値を認められた本にすぎず、この観点は、私自身のものと完全に一致するはずはない。

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 どれほど有名な古典的な作品であっても、私は、原則としてひとりで読む。読むに値するかどうかは、私がひとりで判断する。有名だから、古典だから、よく読まれてきたから……、このような事実をすべて忘れるとき、私は初めて自分が作った読書空間の王となり、著者が私に向かって一対一で語りかけてくれるように思われるのである。

 このようにして獲得された読書の経験は、自己形成の手段であり、このようにして形作られた経験は、私の心を皮膚のように覆うことで私自身を形作る。それは、ながい年月をかけて、少しずつ形成されてきたかけがえのない皮膚なのである。

ソーシャル・リーディングの怪

 この観点から眺めると、読書会、あるいは、サイバースペースを活用した読書会としての「ソーシャル・リーディング」というのは、私にとっては謎でしかない。というのも、これは、自分の皮膚を他人と共有するようなものだからである。

 たしかに、私が読んだ本について、別の読み方が可能であることを知ることは、それ自体としては有益である場合がないわけではない。しかし、読書会によって明らかになるのが他人の意見にすぎないことは事実である。

 むしろ、読書会は、読書の経験のかけがえのなさを剥奪し、私のことを幾重にも覆っていた皮膚を剥ぎ取り、そして、私自身の弱弱しい存在を多くの人の目にさらすことにしかならない。読書の目指すところが本来の私へと向かう自己形成であるなら、読書会の目指すところは、自分を何者でもない存在、退屈な「匿名の読者」へと作り上げることに他ならないように思われるのである。

With reverence

 本には、他の商品には特殊な性質がある。それは、何のために役に立つのか、どのくらい役に立つのかという点に関し、予測することが困難であるという性質である。

 たとえば「まな板」や「ボールペン」や「Tシャツ」などについては、これを買う計画が心に浮かんだときにはすでに、これを何に使うのか、これを使えば生活のどこがどのように改善するか予測が可能であり、着地点が見えているはずである。(もちろん、予測が外れることはある。)

 たしかに、私たちは、使う具体的な予定がなくても購入することがないわけではない。それでも、使用することによる生活の質の改善や向上が予測不可能であるということはない。むしろ、このような予測は、何かを購入する場合には絶対に必要である。実際、私たちは、新しいボールペンに対し、書く作業に関する何らかの品質の改善を期待するであろうし、まな板を買うときにも、料理の効率の改善を何らかの意味において期待するであろう。

 もちろん、本を買うときにもまた、私たちは、読書により生活が何らかの意味において好ましい方向へ変化することを「予測」してはいる。しかし、その予測というのは、まな板やボールペンが収まるはずの位置に関する的確な想定(「このTシャツを着ると冬を温かく過ごせる」)と比較すると精度の低いもの、荒っぽいものであり、予測というよりも単なる「期待」にすぎないのが普通である。特定の効用への期待が購入の前提となる本というのは、料理本や日曜大工のマニュアルやガイドブックや会社四季報のような実用書や資料集の類であり、これは、例外に属する。実際、たとえば小説やエッセーや漫画や歴史書の購入が具体的な効用の的確な予想を前提とすることは滅多にないはずである。(本への支出が家計のすべての項目のなかで優先順位がもっとも低く、したがって、最初に削られるのは、効用の予測が困難だからである。)

 なぜ本のそれぞれに関し具体的な効用を予測することが困難であるのか、しかし、その答えは、比較的明瞭であるように思われる。すなわち、上に挙げたような実用書を例外として、私たちが本に対し漠然と期待しているのは、効用を正確に予測しうることではなく、むしろ――読むことによって生活が何らかの意味において好ましいものとなることはつねに期待されているとしても――読書が私たちをどこに導くのか、実際に読んでみるまでわからないことである。読書により、新しい経験を手に入れ、新しいものの見方を手に入れること、つまり、本を読んだあと、私たちが言葉の本来の意味において「新しい」存在へと変身すること、未知の自分に出会うことが読書の意義なのである。

 したがって。まだ読んだことのない1冊の本を初めて手に取ったとき、この本を読むことが私たちをどこに連れて行くのかがすでに分かっている、などということはありえない。到達点があらかじめ分かっているのなら、私たちは、本を読む前にすでにその到達点に身を置いていることになってしまうからであり、「まだ読んでいない本をすでに読んでしまっている」ことになるからである。これが自己矛盾であることは明らかである。

 本を読むことで自分たちがどこに着地するのか、読んだあと、どのような「新しい」私に出会うのか、予測することはできないし、予測することができないからこそ、私たちは本を読むのである。そして、これが読書というものの、教育というものの、つまり、自己形成――新カント主義の教育論を俟つまでもなく、すべての教育は本質的に自己教育である――というものの本来の意味であるに違いない。


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Medieval Crime Museum

古典とは文化的再生産の規範として繰り返し参照されるべき作品のこと

 書物の中には、「古典」に分類されるものがある。「古典」という言葉を目にすると、ただちに「文学」を連想するのが自然であり、それにはそれなりの理由があるが、古典に分類される作品は文学ばかりではない。音楽にも、落語にも、漫画にも、映画にも古典に分類される作品がある。(高校では、いわゆる「古文」で書かれた文学作品が単に「古典」と呼ばれてきた。そのせいで、日本人のあいだでは、「古典」と「文学」のあいだ一種の観念連合が成立しているのかも知れない。ただ、この事実は、「古典」と「文学」という2つの観念のあいだに認められる強い結びつきの主な理由ではないが、この点は、ここでは話題にしない。)

 ただ、以下では、話を簡単にするため、文学の読書に範囲を限定する。

 古典というのは、大抵の場合、それなりに古い時代に成立し、その後、時間の荒波に抗して現代まで読まれ続けてきたもののことを指す。本来は、古代に成立し、文化的再生産の規範となりうる文学作品だけが「古典」と呼ばれていたけれども、その範囲は少しずつ広がり、現在では、近代に成立した作品の中にも古典と呼ばれるものが少なくない。

 どのジャンルにおいても、古典というのは、それぞれのジャンルの歴史的奥行きを示すとともに、作品の生産において繰り返し参照されるべき規範となるようなものである。だから、文学は、その歴史が複雑で豊かであるのに応じ多くの基準から選ばれた多くの古典を持っているけれども、たとえば「アニメ」や「自己啓発」の場合、古典の名に値する作品は少なく、また、新しい。「アニメ」や「自己啓発」が大した歴史を持たないジャンルだからである。

 つまり、古典に認められてきた価値というのは、さしあたり、文化を再生産する者たち、「クリエイター」にとっての価値であり、読者にとっての価値ではないことになる。

古典は「読むべき本」ではなく「読みたくなるはずの本」である

 それでは、直接に文化的な再生産に直接には携わらない者にとり、古典の受容がどのような意味を持つのか。(もちろん、読書は、決して情報の受動的な吸収ではなく、むしろ、能動的に作品を解釈しこれをみずからのものとして引き受ける行為であるから、単なる読者であっても、読書を通じて文化的再生産のサイクルに間接的に参入してはいる。)

 古典を読むことが望ましいと考えられているのには、いろいろな理由がある。たとえば、「規範となる作品に優先的に触れることにより、読書を正しい方向へと導くことができるようになるから」「豊かな人生を送るための智慧がそこに見出されるから」などの教育的な理由は、誰もがすぐに思いつくものであろう。実際、これらが全面的に間違いというわけではない。

 ただ、古典にどれほど価値があるとしても、たとえば現在の平均的な高校生や大学生にとり、『源氏物語』や『カラマーゾフの兄弟』が面白い作品であるはずはなく、このような作品を無理に読ませようとすれば、「古典=退屈」という不幸な観念連合が成立し、永遠に修正することができなくなるおそれがある。

 むしろ、古典については、これが読書の入口で読むべきものではなく、終着点に位置を占めるものであり、古典が面白いと感じられるようになったら、それは、本格的な読書家であることの証拠であると考えるのが自然であり、気楽でもあるように思われる。

 好きな本、読みたい本、面白そうな本を片っ端から読んでいると、読んだの本の量に比例して、手に取る本のレベルが自然な仕方で少しずつ上がって行く。つまり、面白いと感じられる本のレベルが少しずつ変化するのである。(必ずそうなる。)面白さの感覚に忠実な仕方で読書を続けていると、やがて、それなりの読書経験がないとついて行けないような本に面白さを感じられるようになる。そして、最終的には、「面白そうである」という理由で古典に手が伸びるようになる。(その意味で、古典というのは「珍味」によく似ている。)

 古典に分類される作品に与えられるべきであるのは、「万人が読むべき」という位置ではなく、「読書を続けることで、いずれ自然に読みたくなるはずの本」という位置である。古典が古典であるとは、その面白さが作品が成立した時代や環境に依存しないことを意味する。だから、古典的な作品は、異なる時代背景や社会的環境のもとでも読者を獲得してきたのであり、同じ読者が人生の異なる時期に古典を再読し、新しい面白さをそこに見出すことも可能なのである。しかし、このような「文脈に依存しない面白さ」や「多面的な面白さ」を享受するには、それなりの人生経験と読書経験が必要であり、子ども、あるいは、読書経験に乏しい大人には味わうことはできないものなのであろう。


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